ヒミズ

15歳の少年、住田祐一(染谷将太)。彼の願いは「普通」の大人になることだった。
そして自宅の貸しボート屋に集う震災で家をなくした夜野(渡辺哲)、圭太(吹越満)らと日常を送っていた。

住田のクラスメイトの茶沢(二階堂ふみ)。住田へ猛烈な恋心を抱く彼女は、病的なまでのアタックをかける。住田に疎まれながらも2人の距離は徐々に縮まっていくのだった。

借金を作り蒸発していた住田の父。金をせびりながら殴りつける父親の暴力に耐える住田。ほどなく母親も中年男と駆け落ちしてしまい、住田は天涯孤独となる。そして住田は「普通」の未来を失う…

観賞日

2012年1月16日


【78点】



結論から言うと、この映画は評価が真っ二つに分かれている。しかも批評家も一般も真っ二つに分かれている。
普通映画は、「両方が好き」「批評家が好き」「一般が好き」「両方が嫌い」の4パターンが基本。


だがこの映画は、稀な例で、どちらの意見でも真っ二つに意見が分かれる。
しかも相当良いとする方と相当悪いとする方に。

その点からしてすでにこの映画は”面白い”。



















原作は「行け!稲中卓球部」の古谷実。そして監督は、3時間を超える大作『愛のむきだし』や昨年『冷たい熱帯魚』・『恋の罪』で一躍奇才の呼び声が高くなった園子温

この組み合わせでとんでもないものにならないわけがない。













ただ3.11によって園監督は大きく進路変更を強いられたようだ。(パンフレットより参照)

それもその筈。原作が書かれた2001年頃は「終わりなき日常」の世界だったのに対し、3.11以降の子供たちが生きる世界は一度「破壊」が行われた「終わりなき非日常」の世界。
3.11による変化が起きなければ、園監督もそこまで原作から変えることはなかっただろう。しかし、完全に状況は変わってしまった。







今メディアを取り巻く状況(TV番組など)では一見いろいろなものが元に戻ったかのように感じるが、そうではない。
一度壊れたものは2度と同じにはならない。原発問題や今後起きるであろう大震災など、物語のように「ハイ終わり!」という区切りがあるわけではなくこれからもグラグラとしている状態は続いていく。

もはや2001年の頃の「世界」ではない。それ故にこの作品が震災を背景としているのは当然だ。
個人的には、震災を背景とした点が素晴らしかったと思う。それは、あまりのショックに多くの表現者が一時期無力さを噛み締めた中で、園監督が表現者として震災に向き合っているからだ。
(正面から向き合ったがゆえに賛否両論になったのだろうけれども)


















原作から大きく変わっている点として、中学の友人の役回りだった夜野が、震災ですべてを失いホームレスとなった元社長のおじさんになっている、作品全体において震災のことが常によぎるように作られている点があげられる。





しかし原作未読の私にとって、夜野が変更されていることはパンフレットを読むまで全く気付かなかった。むしろ映画の夜野のような行動を中学生がしているほうがリアリティがないのではないかとさえも思ってしまった。要は、それだけカッチリハマっていたわけだ。











作中では震災のことを考えざるを得ないようにされている。意図的に、定期的に。

被災地の映像が何度も何度も使われる。さらに被災で家をなくした人々の存在、TVで常に流される原発事故関連のニュース…
そしてボート小屋の家から見える、池(?)に沈みかかっている小さな小屋。

特に最後の小屋はことあるごとに見える。舞台となるのがボート小屋だけに見えるのは当たり前だが、明らかに意識的にカメラから見えるように映してるでしょ。
(あまりにも定期的なので、しつこい気もしたが…くどすぎる点はマイナスポイントかも)

















この映画を語る上で触れなければならない点で、まず「震災」があげられるだろうが、もう一つ触れなければならないのは、「2人の新鋭俳優」についてだろう。

すでにヴェネチア国際映画祭で新人俳優賞をW受賞している、染谷将太二階堂ふみ









染谷将太は昨年の『アントキノイノチ』で端役ながら素晴らしくキレた演技をしていたが、今作でも迫力は十分だった。



自分に線引きをしてここまでは大丈夫と高をくくった青い若者、住田。彼はどうもまわりの世界が見えていない印象がある。いわゆる反抗期。そしてその線がなくなってしまうと心はたちまち瓦解する…
大なり小なり若者が経験するであろう心の葛藤を全身全霊で演じきった印象がある。


「普通」でいたい少年、それでも状況は彼を「普通」から遠ざける。「普通」でない状況に負けそうになる中で彼が見出していくものは、単なる物語の進行によるものだけではない。震災という状況に負けそうになる中で、見出してほしいものがこの映画で提示される。

染谷将太の演技は、見出してほしいものを背負う役目を担っている。その役目に十分足る演技だった。










二階堂ふみの演技も鳥肌モノ。

彼女が演じた茶沢は「未来日記」のヒロイン・由乃を想起させるほどの狂いっぷり(住田の言葉を大きい紙に書いて部屋に沢山張り付けてある等々)だが、この映画が進んでいくうちに単なる狂いではなくそこには愛情を求める純粋さと成長しようとしている少女が垣間見える。

ただ単に感情が炸裂しているのではない点は注目。


















ラストの言葉は、被災地に、日本に向けられたものでもある。

この言葉の繰り返しには正直やられた。終盤はちょっと被災地映像くどすぎだろと不満もあったが、若く熱く迸る2人の演技によるこの言葉の繰り返しでそれも吹き飛ぶ。アーティストたちが立ち上がり、作った歌を聴いたときと同様の鳥肌。


青春映画であり、絶望の中にたった一筋でも光があるという映画。
このラストが、この映画をそう表している。

















監督がこの映画を最近の監督作品と同様に18禁仕様にせずにPG-12としたのは、18歳未満にも観て欲しいからではないのか?

見ている限り、もっとグロくしたりエロくしたりできる所はいくつかあった。
それでも抑えた表現にしたのは、この映画が単に少年少女が主人公だからではなく、「これから」の世界を生きる少年少女にも伝えたかったからではないか?







達観視や客観視に徹すればもっとこき下ろすこともできるかもしれないが、まずは感情のままに観て欲しい映画。







予告編はこちら↓
http://www.youtube.com/watch?v=1npnMM2-6p8