批評家のポジション

みなさん、ご意見ありがとうございます。
でも、それでもと僕は思ってしまいます。
(仕事場に働く力、信頼関係について、書きたします)。


五十嵐さんのいわば「個人の力を出しきって、チームのものにされてしまうのがいやならば、独立するまで力を温存すれば良かった」っていう理屈。そうすると、チームの力は、ひとりでやるより、当然低くなっちゃうはず。
なんでアトリエがうまく動いているかというと、必死にがんばって、もてる力全部ださないと、代表落ちだよ、って無言のプレッシャーがあるからなんじゃないのかな。


「いやなら力を出さなければいいのに」っていう理屈はやはり、たとえば、会社にきちんとした身なりの恰好で来た社員に社長がちょっかいだして、社員がいやがって訴えたら、「いやだったら、きみはなんで、そんな魅力的な恰好をしてくるんだ」、っていってるみたいに感じてしまいます。そして「社員の行動や身なりは上司の責任になってしまうんだよ、入社するときに服装等は会社の方針にしたがうことって書いてあっただろう!」なんて、組織でセクハラを肯定するようなへ理屈を言っているような気がしてしまう。それが組織なんだよ、それが嫌だったら来なければいい。他の人はみんな、それを承知でやっているんだから、っていうのが事なかれ主義。
つまりほころびを、組織の通例として正当化する理屈。


組織に属する人(属していた人)はえてして、こういう事をいうのだろうけれど、組織に属していない批評家であるはずの五十嵐太郎さんが書いているので、なぜ、っていう感じがしてしまうのです。(それとも、五十嵐さんって組織に属している人だったの?)
 
ともかくchocopieは「きみが嫌がるなんて思ってなかったよ、いやだったらそんな魅力を見せないでよ。」と似て聞こえるだけでも、こういう理屈をいうのはちょっとね、と感じます。

建築評論家・五十嵐太郎

先日書いたアルマジロ問題について、建築評論家・五十嵐太郎氏が自身のブログでコメントを書いています。なんか変な含みがあるように感じて、すっきりしない読後感です。何がいいたいのかな? みなさんも読んでみてください。


建築評論家・五十嵐太郎氏のブログ 50’s THUNDERSTORM
http://www.cybermetric.org/50/


みなさんはどう受け止めたでしょうか。
僕は次のように思いました。



◎まず最初に、五十嵐氏が小野弘人氏の設計した住宅について述べた以下のコメント

____新築なのに、すでにリノベーションされたかのような技巧的なデザインに、青木事務所出身らしさを強く感じましたが、この作品は青木さんが審査員長の東京建築士会の住宅建築賞の金賞も獲得しています。(中略)なんでこんな展開にならないといけないのかと残念です。_____

について。

このコメントって、どうしても「小野氏の作品に青木事務所出身らしい技巧を感じた→小野氏は師匠の青木氏から影響を受けている。さらに青木氏は賞まで与えている。お互いさまでお世話になってるでしょ。これくらい我慢しなさい。騒ぐなんて世間知らずじゃない」といっているように感じてしまうのです。


  つまり事なかれ主義っていうか。


そうでなければ、なんで青木事務所らしさを感じたなんてところから書く必要があるのかな。

小野弘人さんの、この荒々しい素材(アスファルト・ルーフ)で覆われた住宅↓
http://pds.exblog.jp/pds/1/200606/15/31/d0074831_1418294.jpg

青木淳さんの作品の、おおらか、あっけらかんとした大あじを特徴としている(とよく言われています)建築↓

http://www.aokijun.com/ja/works/013

とがどう似ているのか、僕にはよくわかりません。みなさんはわかるのかな。
批評家なのに論証なしに、いきなり感じたと書いて、影響があるみたいに書くのは、意図的すぎる感じがしちゃいます。



◎次のコメント、

___後で訴えるくらい愛着のある個人の分身としてのキャラであれば、独立するまで温存すれば良かったようにも思います。___

これは大学の先生が公言するようなセリフでしょうか。だって『カツアゲされたくないくらい大事なものなんだったらさ、そんなもの持って歩くなよ。持ってたほうが悪いんだよ』というアンチャンの台詞みたいに聞こえてしまうよね。


そのあとに五十嵐さんは青木さん側もクレジットを書けば良かったのかもしれないけれど、と書いてから、

「絵本というメディアの形式が影響したのかもしれません。」なんて同情というか、変な弁護をはじめる始末。そして

____実際、これまでに出ている建築家の絵本シリーズをもう一度見ましたが、特定の住宅が扱われていても、担当スタッフの名前は書いていない。やはり担当者の名前を入れないほうが絵本らしいからでしょう。だから、今回の事件は、「絵本」と「建築」が出会うときに起きたズレが一気に噴出したような印象を受ける。____

えー? これって「建築」と「絵本」という異なるジャンルが交差したズレの問題だったの?さっぱりわからない。
念のため本屋に行ってしらべてみたら、同じ絵本シリーズの妹島さんや伊東さんの あとがき には、恊働者やスタッフの名前も謝辞もちゃんと書いてあるじゃない。書いてない青木さんの絵本のほうが例外なんじゃない!
なんで五十嵐さんは、上のような嘘を書いちゃうんでしょう。書かないほうが絵本らしいって、五十嵐さんの絵本らしさってなんなんでしょう。今回の事件は絵本と建築が出会うときに起きたズレなんだって、これももっと説明してほしいな。本をいっぱい出版している五十嵐さんだからこそ、教えてほしいのに。



◎結局いいたいことは、どういうことなんだろ?

五十嵐さんの最後の言葉の中で気になったのは

____「所員から積極的に新しいアイデアをひきだす事務所」があって、現在、うまく機能しているのはこのタイプ____

なんだって 書いてあること。

つまり、せっかくこの方法でうまくいってんだから、この流れに逆行しないでほしかった といいたいのかな。

よくわからない。でも、これって建築界の今の常識なんだし、暗黙の前提だったんだけど、こんどの事件で、やっていけなくなるってことが以下の結論なのはわかる。

____うまく機能している後者のタイプは、今後、映画やアニメの集団制作のような細かい権利規定を所員と結ばないとまずい状況になるのでは。_____

 

でも実際にルールを破ったのはどちらだったんだろ。

少なくとも、五十嵐さんは青木さんがルールを破ったのだとは思ってなくて、ルールが書いてなかったから今度の事件が起こったのだと思っているみたい。

で、五十嵐さんの暗黙の前提は、

「事務所が所員から積極的に新しいアイデアをひきだすー取り出す」ことってことかな。


「ともかく、こうしてせっかくうまくいっていた建築業界に波風がたって残念です。」
という五十嵐さんの事なかれ主義的ななげきを強く感じる文章でした。

僕には、建築評論家である人の文章がなんで、こんな展開にならないといけないのかと残念です。

建築家・青木淳

chocopie2006-06-12



建築家・青木淳


いまや建築界においてこの名前を知らない人はいないくらいのスターだ。

          
この「建築家・青木淳」が出版した一冊の絵本
『家の?』(http://www.amazon.co.jp/gp/product/475730370X/)を巡って、ある議論が起こっているのをご存知でしょうか。


その経緯と内容を簡単に説明すると、

1、建築家・青木淳氏が絵本『家の?』において、元所員である小野弘人氏が青木事務所在籍時に作ったキャラクター「アルマジロ人間」を小野氏に無許可で使用。

2、元所員であった小野弘人氏がこの無断使用について問い合わせると、青木氏は所員が作ったものは「法人著作物」として青木事務所に使用権利があると反論。

3、しかし絵本『家の?』には「法人著作物」であるという記述が一切なく、本の表紙には「建築家・青木淳」と書いてあり、さらに本のあとがきには、この絵本が青木氏個人の私的な思いによって出来たと表現。


このような青木氏の言い分に矛盾があるのは明らかではないでしょうか。だって「法人著作=青木事務所(今回の場合は青木淳+小野弘人)」であるはずが暴力的に「法人著作=建築家・青木淳」になっているのだから!


僕はこの青木淳氏の態度は、各人の信頼で成り立つはずの建築設計事務所、そしてその制作物である法人著作物に対する暴力だと思う。耐震偽装問題などで改めて「建築家」の信頼性が試されているこの時期に上記のようなことを平気で行えるのはなかなか度胸のいることなのでは。


もしこのような実態が建築家の職能の一つなのだとしたら、今「建築家」を名乗ることは「私は詐欺師です」と言っているのと同じだよね。ましてや絵本の表紙にわざわざ「建築家」なんて載せるなんて。



「建築家」なんてもう信じない。さよなら。



■参考資料
・YAHOO
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060608-00000261-kyodo-soci

中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/flash/2006060801004045.html

スポニチ
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2006/06/09/08.html

ZAKZAK
http://www.zakzak.co.jp/gei/2006_06/g2006060906.html

ルーヴル新館・ランス

chocopie2005-11-30

 久しぶりに本屋に行ったら、先日ルーヴル美術館・新館のコンペを取ったSANAA (妹島和世西沢立衛)の作品集が出ていたので立ち読みした。
ランスに建てられるルーヴル新館のプラン(http://www.nordpasdecalais.fr/louvrelens/intro.htm#)は、広大な敷地に長方形の建物が緩やかにカーブしながら連なって配置されているだけというとてもシンプルなもの。説明文に書かれていたSANAAのコンセプトは以下のようなものだった。


・ ランスの都市の建物や遺構のスケールに合わせた形態
・ 美術館に入る人でなくても自由に行き来することができる、都市に開かれた美術館
・ 反射率の高いアルミをファサードに使い、建物に景観を映らせることによる周囲の環境との融合


 これらのコンセプトに共通するのは建築と都市との一体化という問題設定だけど、これに対するSANAAの解答は、建築のスケールを間延びさせ、フワフワと無重力なものとし、その存在感をぎりぎりまで薄めることによって都市と建築との一体化を目指すというものだ。


 はたして都市はSANAAのプランのように、いくつかのフレームをドテッと並べ、その中をこまごまと区切ったような単純明快な構造なのかな? そんなことないよね。 だって今住んでいる家の周りを見渡しただけでも数えきれないくらいの事物がそれぞれの役割を持ち共存しているのだから。


 建築と都市との一体化ということを考えた場合、このような雑然とした既存の都市をいったん与件として受け止め、それをきちんと整理し、さらに建築をつくることでそれを再構成することが大事なのではないかな? こういうふうに建築をつくることで既存の都市の構造を新たに組み換えることが、かえって建築と都市の一体化を実現できると思うんだけどな。


 SANAAのプランは一見都市の文脈に融合しているように見えるけど、さっきの議論から考えると、都市の複雑な構造を引き受けることを拒絶して開き直っているふうにも見えるよね。だからランスの土地にかみ合っているように見えない。まるでフワフワと当ても無く彷徨う幽霊みたい。