創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(422)「フィリス・ロビンソン夫人とのインタビュー」7月26日まで夏休み(5ヶ日目)

1週間の夏休みをいただいて、手持ちのデータを仕込み中です。
有用な、ありものを、まとめて再録してみました---




フィリス・ロビンソン夫人とのインタビュー


フィリス・ロビンソン夫人の名をDDBの人たちは、尊敬の念をこめて、どれほど口にしたことか、数えきりないくらいです。
ぼくの中でも、夫人はやや偶像化されかかった存在であったといえます(ユダヤ教が偶像を認めないことを承知でこの用語を使っています)。
夫人とのインタヴューが成功したのは、僥倖というより、肩の荷が一つおりたというのが実感でした。

バーンバックさんにひかれてグレイに入った


chuukyuuバーンバックさんに初めてお会いになったのは、グレイ広告代理店でですか?」


ロビンソン夫人「はい、あの人がグレイのクリエイティブ・ディレクターとして、斬新で趣向をこらした広告をつくっていた時でした。
でも、私がグレイに入ったのは、バーンバックさんといっしょに仕事をするためではなく、セールス・プロモーション関係の仕事をするためだったのですよ。
私は、ある店の全国広告をするために必要な資料を作成していたのですが、バーンバックさんが私の仕事を知ったのがきっかけとなり、あの人の下で働くようになったのです」


chuukyuuバーンバックさんより、先にグレイに入っていたんですか?」


ロビンソン夫人「いいえ、あの人のほうが先輩です。1年か2年・・・。本当のことをいうと、グレイに魅力を感じたのは、あの人がそこにいたからなんですよ」




ロビンソンさんがグレイ社にいたころというのは、1947〜49年といえます。
そのころ彼女は、週130ドルだったと別のところで発言しています。
ついでだから、彼女がグレイ社へ入るまでの経歴をザッと紹介しておくと、少女時代、商店の広告に影響されて、小学校の先生には、大人になったらコピーライターになりたいといったといいます。
小学生の時に、広告の世界に入りたいときめた人物に、ぼくは初めてお目にかかりましたね。
しかし、少女期、思春期に起こったヨーロッパでのいろいろなこと(たとえばソ連の成立<1922>、英国のゼネスト<1927>、ジュネーブ軍縮会議<1927>、世界恐慌<1929>、スペイン内乱<1935>、などの一連の事件と推測)によって、政治的、社会的な問題に興味を持つようになり、広告よりも何かもっと意義のあることをしなければ・・・と考えて、バーナード大学では社会学を専攻しました。
大学時代、またぞろ広告への関心が高まり、「私は大学新聞の広告マネジャーをしていて、地域の小売店にスペースを売り、その取引きの一部としてその店の広告を書いてやっていました」と、彼女自身が告白しています。
大学を出ると、政府関係の公共住宅の仕事につき、結婚後は、ご主人について各地の軍事郵便局をまわります。ナッシュビルのメソジスト出版会館ではコピーを書き始めます。
ご主人は、バーナード大学から学徒動員されていたので、彼女もそのあとを追ったわけ。
メソジスト出版会館での仕事は、牧師たちに送るダイレクト・メールと子ども向けの聖書の広告などだったといいます。
その後、ある服飾新聞に、マイアミで流行しかかっていたファッションについて報告する仕事、次いであるファッション誌の主筆になり、そのあと、ボストンの広告代理店でファッションのコピーを書き、そしてグレイです。



バーンバックさんとはウマがあったから・・・


chuukyuu「当時のグレイには、何人くらいコピーライターがいましたか?」


ロビンソン夫人「よく覚えてはいないけど、12人から15人ぐらいでした」


chuukyuu「グレイで、オーバックス(衣料品専門のマンハッタンの百貨店)のコピーを書いてましたか?」


ロビンソン夫人「うーん、もしかしたら、すこしくらいは書いてたかも。もし、そうだったとしても、お話しするほどのことではなかったと思います。いいえ、と答えておくほうが無難のようです。
とにかく、グレイでは、ボブ・ゲイジさんといっしょによく仕事をしましたよ。彼がバーンバックさんと組んでオーバックスをやっていたのですが・・・たぶん、DDBにくるまで、オーバックスはやっていなかったように思います」


chuukyuu「なぜ、あなたがコピーライターとしてグレイからDDBへ引き抜かれたのですか?」


ロビンソン夫人「うまく答えられないのですが・・・とにかく、バーンバックさんは、グレイ時代の私の仕事をたいへん買っていたらしいのです。個人的にも、広告に対する考え方でも、ウマが合う2人だったのです」




バーンバックさんがグレイをやめてDDBを創業した時、グレイの多くの人が連れてってほしいと希望したそうだが、バーンバックさんはゲイジ氏とロビンソン夫人の2人だけを選んだ・・・というエピソードは有名です。
その理由が、いま、初めて明らかになったわけです。
すなわち「個人的にも、広告に対する考え方も、ウマがあった」と。
バーンバックさんの広告に対する考え方については、その代表的なセリフがよく知られています。


「広告は、つまるところ、説得である。説得は科学ではなくて、アートである」
しかし、バーンバックさんは、もう一つの発言をしています。「広告は正直でなければいけない」


これはぼくの推測ですが、ロビンソン夫人とバーンバックさんの考え方が一致したのは、むしろ、後者の見解に対してではなかったかと思います。というのは、ロビンソン夫人の広告の社会に対するかかわりあい観から、そう判断するのです。
それについては、のちほど紹介するとして、一つの集団が結成される場合の人材相互の吸着力といったものを、この発言から強く感じとります。


別のインタヴュー(1968年7月15日のアド・製品を知ることが、コピーライターの必須条件エイジ誌)によると、彼女は、こう、答えています。




DDB設立の件を、バーンバックさんから相談されたのですか?」


「(略)新会社を設立するつもりだが……と打ちあけられ、『ついてきてくれるかい?』といわれました。なにかすごくエキサイティングに聞こえましたし、それに失うほどのキャリアはなかったので……まだまだ初心者でしたから……ですから、あの人が私に期待をかけていてくれるなら、それにこたえるべきだし、きっと面白かろうって考えたのです」


いたずらっ子のように飛び出してDDBに参加した


chuukyuuバーンバックさんがDDBを設立したころはいかがでしたか? 小さな代理店だったと思いますが…」


ロビンソン夫人「確かに小さな代理店でした。電話の交換手を入れても12人しかいなかったのですから。
当時のクリエイティブ部門を構成していたのは、ヘッドのバーンバックさんと、ヘッド・アートディレクターのボブ・ゲイジさん、コピーチーフの私の3人でした。私にはアシスタントなどいませんでしたが、ボブ・ゲイジさんには仕事の性質上、数人のアシスタントがついていました。
とっても活気があったんですよ。もちろん、偉大なパイオニア精神を意識していたからではありません。あるいは、いま振り返ってみると、そんなところもあったかもしれませんが…。
むしろ、授業をエスケープしたいたずらっ子のように、飛び出そうという気持ちが強かったんです。自由を満喫していたのです。


イオニア精神を意識していたからではないと先ほどいったのは、この言葉はすこし気取った言い方だからです。少なくとも、私たちは気取ってはいませんでしたから。
とにかく、私たちは、まるで足かせを解かれた人のように自由を喜び合ったのです。自由に、自分の思うとおりに仕事ができる…」
DDBのクリエイティブ部門がもっている[自由]については、すでに多くのことが語られていますし、ぼく自身も拙著『想像と環境』(ブレーン・ブックス 1969.5.30)で詳しく発表しているので、ここでの再説はやめましょう。
(注:ロビンソン夫人へのこのインタヴュー記録は、拙著『劇的なコピーライター』(誠文堂新光社 1971.3.10)へ掲載したものの再録なので、上の説明は、いささかの混乱を招きそうですね)。




chuukyuuDDBは、今でもおっしゃったような自由な雰囲気に包まれているのですか?」


ロビンソン夫人DDBは、社の方針として、それを大切にしています。しかし、12人しかいなかった当時と、2,000人以上もの人が働いている今の環境とをまったく同じにしておくことは不可能です。
ただし、大切なことは自由であることです。いかに突飛なアイデアであっても快く迎えること、いいかえれば、クリエイティブの自由を尊重するという点では、今も当時も変わりません。
実際、自由で創造性豊かなアイデアの追求はやむところを知りません。また、私たちには、お互いにあとくされなく批評し合える雰囲気があります。気心を知り合った者同士だけに許されるインフォーマルな雰囲気です。あなたがこの様子をご覧になつたら、きっとそれを米国人気質と解釈なさるでしょう、でも、違うのです。この業界の米国人ですら、この雰囲気には感心するのですから。


かつて、イアンタヴューの申し込みをよくうけました。そして、記者の人たちに手がすくまで待ってもらったことがあったのです。彼らは、その間に感じたDDBの印象を、こう、私に話したものです。
『ここがとっても気に入りました。みんな楽しそうで、だれとでも気軽に話をしているです』って。
DDBには、どの代理店よりも、1対1で話し合えるチャンスがあると思います。
昔はよく、堅苦しい組織を重んずる代理店の人びとが、この雰囲気に驚いていたものです。


このように自由な環境の中で、人びとが手に手をとって仕事をすれば、当然、アイデアも豊富になるとおもいます。自由にアイデアの出せるところなのですから、それに、とっても家庭的な雰囲気があるんです」


創造的な雰囲気をこわさないために……


chuukyuu「この雰囲気をこわさないために、どんな努力を払いましたか?」


ロビンソン夫人「いつもこの雰囲気の中にいる自分を意識していました。そして、この雰囲気をこわさないでおくための努力を惜しみませんでした。
この雰囲気をこわさないでおくことができたのは、私たちが注意深くやったことも、その理由に数えられると思います。
ここをとても尊いところと考え、決してこわしてはならいと思っていました。そして、築きあげたものをこわしてしまうひとりよがりや自己満足や気まぐれは、絶対にいけない…といましめてきたのです。


もちろん、私たちを軽蔑のまなこで見る外部の人びともいましたし、私たちの失敗を夢見る人たちもいました。彼らは、往々にして、自分はとても賢いと考える預言者気取りの人びとで、こんなことも言ったんですよ。
『とてもいい雰囲気には違いないだろうけど、会社が小さいからできることでね。
大きくなってもこわさないでおけるかな?』 その上、扱い高が、500万ドル、1,000万ドル、2,000万ドル、5,000万ドルになるまで、待ってやるよ…って。


そういうわけですから、私たちはよけいに慎重な行動をとらざるをえなかったのです。これも、この環境を保っていくための努力を払わせた理由になっています。


バーンバックさんの努力も忘れてはいけません。あの人は、若い人たちを鼓舞する福音者であり、激励演説をするコーチであり、すごくタフで優秀なディレクターであり、先生でもありました。


あの人は、ひとりよがりを決して許しませんでした。


DDBが成功したのも、もとを質(ただ)せば、あの人ひとりによるところが大きいのですが、そのための彼の努力は、口ではとても言い表わすことができないくらいです」


コピーライターの能力をチェックするには……  


huukyuu「DDBが大きくなるにつれて、だんだんとコピーライターを採用されていったと思いますが…」


ロビンソン夫人「私はDDBができて13年間、コピー・チーフをやっていたのです。ところが、主人も私も子どもがほしくなり、そのポストを降りて、パート**製品を知ることが、コピーライターの必須条件タイムでコピーの仕事をすることにしたのです。そうすれば子どものめんどうも見られるでしよう。


で、コピー・チーフを降りたころは、コピーライターが35人いたのですが、今の人数はちょっと覚えてしません」




ロビンソン夫人がコピー・チーフをしていた時期というのは、1949年から62年までです。VWのアカウントが入り、そのシリーズによって全米中の注目を集めていたのが1959年から1960年ですから、DDBが急成長をはじめた時期といえます。有能な人材が続々と集まり、ロビンソン夫人は安んじて非常勤にまわれたのでしょう。




chuukyuu「あなたは、どういう基準でコピーライターの能力をチェックし、採否をお決めになっていますか?」


ロビンソン夫人「創立当初しばらくは、能力を見て判断することばむずかしかったのです。というのは、たとえ才能のあるコピーライターでも、その能力を実際に広告で発揮してみせるチャンスがほとんどなかったからです。今とは違っていましたから。


今は、創造性を追及し、尊重する代理店がたくさんあります。ですから、エキサイティングな広告をつくりうるコピーライターなら、すぐに職を見つけることも可能です。


当時、私が採否を決めるに当たってしなければならなかったことは、言外の意味を読み取るということでした。
つまり、書かれているものを文字どおり受け取るだけではダメで、そこからコピーライターの能力や技術を読み取らなければならなかったのです。


私が望んだのは、のびのびした創造性、響きのよい文章を書く能力、シンプルでカラフルで、しかも力強く、わずか数行で人に買う気を起こさせる文章でした。


さらに私は、ビジュアルなセンスを持っているコピーライターを望みました。このビジュアルな感覚は、コピーライターの広告やデザインを通して、はたして彼(彼女)の自己満足だけのものなのかそうではないかのを知ることができましたし、また、言葉づかいから察することもできました。さらに、彼(彼女)の持つ想像性イメージからも」




コピーライターを育てるには……


chuukyuu「コピーライターの教育はどうなさいましたか?」


ロビンソン夫人「まず、練習させることを第一としました。できるだけたくさん書かせました。きびしく教育しました。


私たちの効果的なアイデアは、もちろん、アートディレクターとペアで仕事をさせることでした。こうすれば、2人の間でアイデアの交換が行われからです。


この代理店ができたばかりのころ、かなりきびしくスーパバイザー・プログラムを組んでいましたので、彼(彼女)らは早く一人前になり、できるだけたくさん書けるようになりなさいと励まされましたが、常に注意深く見つめられていたのです。


そして、もはや私が指導しなくても立派にやっていけるほどに成長した時、より未熟なライターのめんどうを見るサブ・スーパバイザーになってもらいました。


私が用いた養成の仕方で良かったと思うのは、みんなに、自分のイディオム(語法)を自分流の考え方を持つように厳しくいったことです。


私は『こんなやり方はダメ、こうしなくては…』と教えたことは一度もありませんでした。それをやったら、私のスタイルを押し売りすることになるからです。


『こうすると面白くなるわよ』とか、『ここがポイントなのよ』とか、『これでは全然通じないわ』とかが、私のやり方です。


また、こうもいいました。『もう一度、しっかり核心をつかんでいらっしゃい』、『もっとカラフルなアイデアが出せると思うけど』、『ちゃんと調べた?』つまり誘導尋問を発し、進むべき道を切り開いていくのですが、これは決して私の考えを他人に押しつけるというのではなく、その人の立場に立って出発しようとするものです。


こういったやり方が、さらに私たち自身をも創造的にしていったのではないかと思います。
今、ともに働く優秀な人びとを育てあげるかわりに、流れ作業のように小バーンバックを育ててもしょうがありませんでしょう」


DDBスタイルは求めなかった


別のインタヴュー(前出のアド・エイジ誌)で、ロビンソン夫人はこんなふうにも答えています。


「DDBのコピー・チーフだったころ、スタイルとか訓練について、どんなふうに感じていらっしゃいましたか? 特別のDDBらしさといつたものを求めましたか?


「仕事がフレッシュで、きっかりしていて、ポイントを突いていて、それで売れるということ以外に、私はDDBスタイルなんてものは求めませんでしたよ。
考えてみれば、私自身のスタイルは、すごく会話的だというだけで、これだってほかの人から学んだものかもしれませんし、私が自慢できたといえば、ほかの人からいちばん良いものを抽き出すことができた、ということでしょう。
私たちのコピーをそっくり真似させようなんて、思いませんでした。こうしてはいれない……とか、わたしのようにしなさい、なんて命令するのは致命的ですものね。
しかし、ある人には、これこれの理由で、これは正しくないと思うわ、もう一度自分の席へ持ち帰ってよく考えてごらんなさい。そして答えを見つけなさいっていうのは、その人を成長させ、よりよい仕事をする方向に導くわね。
彼(彼女)自身で、回答をさがし出せるように助けてあげる…このやり方で、彼(彼女)らを伸ばし、彼(彼女)自身で回答をさがし出すように助けてあげる……このやり方で、彼(彼女)らを伸ばし、彼(彼女)らのスタイルが生まれるのです」


「あなたはタフなコピー・チーフでしたか?」


「タフでしたよ。そうね、たとえていえば、ピロードの手袋をはめた鉄拳…ってとこかしら。私は、つねにコピーライターとおだやかな関係を保つように心がけ、またそうできたのですが、
タフでしたよ。ほんとうに正しいコピーだと思わなければOKを出しませんでしたし、20回も書き直しを命じました」


このインタヴューからわかることは、DDBは、ただ単に自由放任主義をとっているのではなく、質の悪いものは決して外に出さないだけのきびしい規律を守っているということです。
そして、この教育法は、日本の伝統芸術の師弟関係に見られるきびしさ、自発性すらうかがえます。もちろん、日本のそれは、相手の個性を伸ばすことよりも、一定の方を守らせることを実施しすぎたきらいはありましたが。


2人の人から影響を受けた


chuukyuuバーンバックさんがあなたに言った言葉の中で、もっとも印象に残っている言葉は?」


ロビンソン夫人「『コピーを短く!』です。そもそもバーンバックさんといっしょに仕事を始めた頃はまったくの新人でした。その頃、あの人はいろんなことを私に教えてくれました。

時には、私が書いたコピーをじっとながめてから、『すごくいいね。でも。ここから始めたほうがいいんじゃない? 出だしのパラグラフを2つ取り除いてごらん」などといいながら協力してくれました。


私も若いライターと同じように、ついつい自分の言葉に陶酔し、長すぎるコピーを書いてしまって手も足も出なくなったことがしばしばありました。バーンバックさんが助けてくれた理由は、どうやらこの辺にあるらしすいのです」


DDBのほかの人がバーンバックさんから与えられた助言に比べて、ロビンソン夫人の場合はあまりにコピーにつきすぎているようですが、前に引用した別のインタヴューでも、彼女は同じような答えをしています。


「あなたがかけ出しのころに強く影響を受けたコピー・チーフかスーパバイザーは?」


「2人います。1人は、それとなく教えてくれた人ですが、すごくいい人でした。もうずっと会っていませんが、無料配布の『パーク・イースト』という雑誌を発行していた人で、その雑誌はと当世ふうじゃなく、浮世ばなれしていました。そう、ボブ・アルトシュラーって名前だったわね。私、まだ学生だったんですが、自分で売り込みに行ってコラムをつくってもらいました。それは、せんさく好きな電話の交換手か何かのような娘を想定して、その娘に詩を書かす…といったコラムでした」


この件に関してロビンソン夫人は別のところで、「(大学)2年生の夏、ある上流社会のニュース誌に、週15ドルの仕事を私流のやり方でやるように説得しました。私がしたうちのもっとも創造的な仕事といえば、その仕事そのものをつくり出したことです」(拙著『日本のコピーライター』ブレーン・ブックス)。


「アルトシュラーさんが忠告してくれたのは、そのままには覚えてはいませんが、『このタワゴトをみんな削りなさい』といったような言葉だったと思います。彼がいわんとしていることは、よくわかりました。


もったいぶった文章を書くな。ポイントを突け……というような意味でした。ほかの人から自分の文章について注意されたので、初めはショックでしたがすごく身につきました。だって、それ以前には、だれも私の文章を批評してくれなかったんですもの。
また別のところで彼女は、「私にはよい編集者がついていて、私の書くものからアカデミックな重苦しさを叩き出してくれました」とも告白しています。
どちらの回答も、ロビンソン夫人(結婚前ですから、彼女のほうが正しい表記かも)の文学少女趣味とペダンチシズムを取り去るのに『パーク・イースト』誌のアルトシュラー氏がどんなふうに助言したかをよく伝えています。


「もっと影響を受けたのは、バーンバックさんで、グレイで直属の部下として働いていた頃に、しょっちゅう、コピーを引きしめることと、より生き生きさせることの2つを教えられました」(前出アド・エイジ誌)。


こうして、2人の文章家から指導を受けたロビンソン夫人が、「私は作文コースを受講しなくて……」と残念がっているのは、ちょっと不思議です。
「作文コースでは、毎日作文を書かされる」からよい訓練になるという理由をあげていますが……。

娘の協力でできたポラロイドのCM[動物園]


chuukyuu「この数年間のうちになさった仕事のうちで、もっともお気に入りのものを2点あげてください。そして、その理由と、それを作った時のエピソードを話してください」


ロビンソン夫人「ポラロイドかしら、気に入っているものの一つは。[動物園]というタイトルのTVコマーシャルです。ニューヨーク近代美術館のフィルム・ライブラリーに収蔵されています。


私たちが作った数多いコマーシャルの中でも初期の作品です。しかし、それまで作られていたコマーシャルから脱皮した、新しくてしかも成功したものなので、自分自身、興味深く思っています。


このコマーシャルは、父親が小さな娘をセントラル・パークの動物園に連れて行き、楽しい時を過ごし、たくさんの写真を撮り、最後には馬車に揺られながら眠ってしまった娘の横で、父親が写真に見入るというものです。


私は思うのですが、どうしてみんな、自分の人生上の個人的な出来事を仕事に生かさないのかしら。その点、私たちは、自分たちの個人的な経験をフルに仕事に生かしているんですよ。
このコマーシャルを作った時、とくにそのことを強く感じました。


このコマーシャルは、ボブ・ゲイジさんといっしょに作ったのですが、出演した私の娘が、私の知らない面を見せてくれたのです。
初めは、コマーシャルの主題としては感傷的すぎるように思えたのですが、主人と娘との暖かい結びつきを見ることで、結果にすっかり満足しました。
そこに真実を見たような気がしたのです。
暖かい味わいのあるものに仕上がったので、効果的なコマーシャルになったと思います。


私には、コピーライターの多くが、人間的な暖かみに触れることを恐れているのではないかと思われて仕方がないのです。
(もちろん、ユーモアがコマーシャルの中では大きな位置を占めているのは、確かです。印刷広告でも、同じですが、コマーシャルではとくにそうです)。
コピーライターは、微妙で純粋な人間の感情を取り入れることを極端に避けているような気がするのです。これは細心の注意をもって扱わなければならないものです」


ロバート・ゲイジ氏の名前がでたついでなので、2人のコンビについて紹介しておきます。
2人のコンビは20年間つづいているもので、すでに100点以上ものキャンペーンをつくってきました。
ロビンソン夫人が語ります。


「ボブと私は、お互いにたいへん長い間、親しく仕事をしてきたので、2人だけに通用する言葉を持つようになったほどです。どちらかが片方の眉をあげれば、口でいわれなくてもその意味は十分に理解できます。
今日では、ボブはあまりにたくさんのアカウントに従事していますから、つかまえるのがたいへんなことがよくあります。でも、2人が寄れば、ブンブンと、やにわに景気づきます」


「ボブといっしょに働くことでいちばん刺激になるのは、彼がいつも変化を求めているということです。
彼は決まって、私たちが仕上げてしまった作品には満足していません。ゲイジの典型的な言葉は『あれはもうやりあげた。何か変わったことをやろう!』です。(CA誌 1966年Vol.2)

(デジカメが登場する前、ポラロイドの製品コンセプトは、1分間写真。したがって、広告コンセプトは、手軽な1分間写真の楽しみを売ること)。
(映写時間2分)。




幕切れのアナウンス「人生には記録しておきたい瞬間がありますね」


日本ではスポットの時間が15秒とこまぎれになったため、せわしないだけのCMの花ざかりとなってしまった。まあ、その短い時間でも感動的なコマーシャルをつくるのがクリエイターの腕かも。


もう一つのお気に入り、「プスッー」


ロビンソン夫人「もう一つ気に入っているのはクレアロールです。
数年前から私が担当していたアカウントでの、『プスッー』というインスタント・シャンプーです。
気に入っているわけは、クライアントが私たちに与えた製品アイデアをもとに、最初から最後までやってのけた作品だからです。ネーミングも私がやりました。
アートディクターといっしょにバッケージのアイデアを検討したり、さらにこうしたら売りやすくなるのではないかとクライアントを説得したり、いろいろと苦労が多かったのです。


これは、現代のコマーシャルの要素を生かしてはいましたが、どちらかというと、シンプルでフレッシュで明るい感じのものでした。
また、自分でも納得できる曲を作ったんですよ。たくさんの曲をつくるときに協力してくれるミッチー・リーが、その曲の楽譜も書いてくれました。リーとはたくさんのジングルを作りました」


ロビンソン夫人はテレビ・コマーシャルを2本あげましたが、彼女の仕事には印刷広告のものにも傑作が多いのです。
しかし、1人のコピーライターが両方をやる主義の彼女は、「印刷広告やテレビのキャンペーンを作る時には、あなたはそれに感情的な投資をするはずです。


つまり、あなたがそれを他のメディアに移入した時に感じる、一種の著作者の誇りといったようなものです。
もし、他の人が移入したら、その人はあなたのように感情的に熱中はできません。
一級の印刷広告のコピーライターとアートディレクターなら、一級のテレビ・コマーシャルをも作ることは、だれでも学べるはずです。


テレビはドラマ性と動き、そしてショー的なある種のフィーリングが必要だということを除けば、要求されることはまったく同じだといっていいはずです」といっています。
(注釈を加えます。40年も前のコマーシャル論議です。あのころ、米国では、テレビ・コマーシャルを映画畑くずれの人たちにまかせることが多く、広告畑の一流のクリエイターたちが、それを自分たちの手にとることを声高に叫んでいた時期でもありました)。


【画面説明】
カメラのレンズを鏡に見立てた女性が、髪にシャンプーを吹きつけ、ブラッシングし、服を着替えてまでをほとんどノー・カットで写す。
アナ「クレアロールから、インスタント・シャンプー『プスッー』のお知らせです。
『プスッー』は今までのシャンプーとはまるで異なります。
水も石けんもタオルもカーラーもクリップもドライヤーもなんにもいらないのです。
また、つけにくく、落としにくいアルコール系のシャンプーとも違います。
『プスッー』はインスタント・シャンプーです。吹きつけ、プラッシングし、それでおしまい。
『プスッー』ほ吹き付けたら3分待って、ブラッシングしてください。オイル、古いヘアスプレーを落とします。あなたの神はすっかりきれいになります。よい香りをただよわせます。セットもとれません。クレアロールの『プスッー』です」


DDB創業時からのコピー・チーフだったロビンソン夫人は、手がけたかずかずのキャンペーン、育てた数多くの有能なコピーライターの功績で、『コピーライター名誉の殿堂』入りに選ばれた。過去の例では、広告代理店のトップが選ばれるつづけてきていたが……。

女性コピーライターは昔もいた


chuukyuu「DDBにいらっしゃったこの20年間で、もっとも印象的だったことは?」


ロビンソン夫人「むずかしいご質問ですね。とても興奮して楽しかった日もたくさんありましたし、たいへんだった日もたくさんありました。
私自身が興奮したのは、1968年春、『コピーライター名誉の殿堂』入りに選ばれた時です。でも、これはDDBでの出来事ではありませんね」


chuukyuu「現在、DDBには女性コピーライターがたくさんいますね。1949年当時の広告代理店業界でもそうだったんでしたか? 米国で、女性が広告業界で良い地位をしめられるようになったのはいつごろからでしょう?」


ロビンソン夫人「ご質問を2つに分けてお答えしましょう。

私たちはDDBを1949年に開店しました。
その時、私は、たった1人のコピーライターで、私が最初に採用したコピーライターも女性でした。
それは、私がコピー・チーフとしても、スーパパイザーとしても不慣れでしたし、初めは女性と始めるのがもっとも安全と思ったからです。
最初は、男の人を指導するということに、少々臆病だったと思います。
後になって、それは非常にやさしいことで、問題ではないことがわかりました。
そしてスタッフが大きなものになってきますと、男性と女性は、ほぼ、半数ずつになりました。
もちろん、この分野には女性がいましたし、成功した女性もいました。
私がいま考えているのは、私がまだ小さな子どもだったときに、メーシー(百貨店)の広告責任者だったマーガレット・フィッシュです。彼女はのちになって、しばらくの間、当社で働きました。
これは興味あることです。彼女はすばらしい女性ですもの。
それに、もちろん、ギンベル(百貨店)の広告責任者だったフィッツギボンもいましたよ。彼女はあの店のイメージをつくりあげ、たくさん商品を売るというすばらしい仕事をしました。けれども、そういう人が代理店業界に少数しかいないからといって、女性が成功したのは小売店分野のみではありません。ジェーン・リンドローブもその中のひとりです。
それがもっと最近になると、一つの大きな違いが出てきたように思います。以前は女性はファッションとか、家具とかリネン類などのホーム・デコレーションを重要とする店で使われていました。


代理店業においてさえも、赤ん坊のものとか食物といった仕事に使われていました。それは女性が家庭や台所の専門家だと考えられていたからです。
実際、私もファッションや化粧品の仕事から入りました。でも、私はそれらの仕事がとても好きでしたし、いまでもそうです。


私はクレアロールの仕事を楽しんでやっています。
けれども、私は、新しいものに取り組んでみたいと思っていましたので、これが自分にできるすべてだという考え方を、すぐに捨てました。DDBではそういうことについて何の規定もありません。
もっとも、女性はファッション分野のものにたいして感じるもの大であるといえますから、自然にそういう仕事をさせてしまう傾向がありますが、でも、他の製品についての広告だって問題はありません。ですから、最近では女性にとっての分野はどんどん広くなっているといえます」

製品を知ることが、コピーライターの必須条件


chuukyuu「良い広告をつくるためには、いくつかの『しなければならない』ことがありますね。広告人が配慮しなければならないことを…」


ロビンソン夫人「第一に『しなければならない』ことは、自分が担当している製品を知ることです。表面的に知ったとしても、実際を知らなかったら、その興奮を書き、あるいは伝えることは不可能です。自らそれについての興奮を得ることがないと、他の人にそれについて話すことはできないはずです。


そう、あなたが実際には行かなかったすばらしいパーティのことを誰かに話すようなものね。


担当した製品やサービスについて、実際に知らなければなりません。それも、よく知ること。これが第一。


第ニは、担当した製品について興奮を生み出すことができなければいけないということ。コピーがいっぱいの感嘆符でうまるとか、10歳の女の子のように興奮しなければならないとか、そんなことを言っているのではありませんよ。


コピーは退屈なものであってはならないし、誰も目をとめないようなものであってはならないのです。


第三は、今や、米国のほとんどすべての代理店が注目している明らかなことです、強烈な、視覚に訴える興味を引くものがなければならないということですが、これは必ずしも、絵を意味するものではありません。印象的で刺激的な形の配列です。


以上申し上げた、三つのことが重要なことです」


関連コンテンツ

「コピーライター栄誉の殿堂」入りを、コピーチーフで1968年に初めて受賞したときの一問一答。
「世界中の女性コピーライターへ」クリック"Advertising Age" 1968年7月15日号  インタビュアー:John Revett


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