日々常套句

2003年からホソボソと「退屈に関する思索」を亀の歩みで行う退屈研究ブログ(自称)です

Zガンダムに見る世代論


唐突な書き出しですが、Zガンダムは、三つの世代の相克関係を描いているようにも読み取れます。まず、ジャミトフ、バスクブレックス等の酸いも甘いも消化しきった老獪なオールドタイプ中心世代、次に0079で新興勢力となったシャア、アムロ等のニュータイプ萌芽世代、そしてカミーユハマーン等のニュータイプ第2世代という構図です。
これら三世代の隙間に、私の大好きなライラ姉さんや、真面目なキャリア指向のエマさん、癒しを求めて彷徨うレコアさん、古風なマウアー姉さん、自分に正直が売りのベルトーチカ姉さん等のお姉さん方が配置され、それら三世代を攪拌して物語が進んで行くのです*1
そして、この物語は「現実認識」がテーマであると、富野監督が『富野語録*2』という本で語っていましたが、そのことは、以下の「二つの台詞」と梅田望夫氏のブログの言葉を並べてみると、非常に鮮明になります。

『ひとりの人間、ひとつの世代、それぞれの時代には、きっとひとつの意識の段階が定められているんだ。努力して意識の範囲を広げることはできるとしても、一段上の意識に登ることはできないことになっているらしい』

『砂丘が動くように』 日野啓三講談社文芸文庫
 
『そうか、 私は今、あの子が只者じゃないと言った、 この分かり方が無意識のうちに反感になる。 これがオールドタイプということなのか・・・』

ライラ・ミラ・ライラ from Zガンダム第7話「サイド1の脱出」
 
僕がシリコンバレーに惹かれるのは、身の回りで常に新しい「力の芽」が生まれ続けているからだ。でも、シリコンバレーに生活拠点を移してまもない頃に気づいた。自分が一つ前の世代の原理原則で動く仕事において「失うものが大きくなっていく」と、それに比例して新しい「力の芽」を面白がることができなくなり、それらを過小評価し最後には否定するようになる、ということに気づいたのである。それで結局、勤めていた大きな会社を辞めた。その会社に勤めたままシリコンバレーに居ても、この地の本当の面白さは実感できないと確信したからだ。

My Life Between Silicon Valley and Japan - 次の10年はどういう時代か(3)
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050513/p1


新しい何かが萌芽する時は、古い何かへのアンチテーゼから始まりますが*3、アンチとされる側は自己の現実認識、問題認識の前提である「常識」や「共通意識」への安住・懐疑を行わない、否自分の安定した精神状況・既得権益を手放したくないが故に、そのアンチテーゼを反射的に拒絶します。相克される側にしてみれば「ようやく青臭い自分探し」みたいなものから逃げ出して、今の安定を手に入れたのに、また今更にまるで思春期のような「産みの苦しみのドロドロ」に身を於くのは、そりゃもう堪らんでしょうし、こうした立ち振る舞いは「生きるための知恵」みたいなもので、近代以前はキリスト教等の世俗化した宗教が安定した「意味」を人々に供給し、自己懐疑の苦しみから人々を解放してきた歴史があることを忘れてはいけません。

でも、そうやって全てが「安定した所与の前提」に支えられて生きていると、最後はどうなるかは、惨めなものだと僕は思います。少なくとも、自分の意識というか、自分の中の「所与の前提」に対して常に懐疑を持ち、いざとなればそれを捨て去り不安定・混沌に身を投じることを厭わない心意気がなければ、簡単に淘汰され、安定から一転して、価値・評価の逆転などにより惨めな状況に陥ることでしょう*4。どちらがよい生き方かなんて、そんなのは個人の問題なので、別にどうでもいいですが、少なくとも僕は常に混沌の中に身を置いていたいなぁ、とそう思うわけです。

とはいうものの、いくら絶え間ない自己懐疑を繰り返したとして、超えられない壁がそこにはあるのです。僕は渋谷系世代な69年生まれなのですが、今新しい物事を創出している76年世代と比べると、自分の価値感形成の前提となった環境が両者で大きく違うことに起因し、それに伴う認識・理解の前提レベルが大きく異なっていることを痛感します。例えば、当方の世代的には「渋谷系」的な音楽との接し方は、自分で過剰な自意識の元に切り開いて行くべきものだったのですが、76年世代では当たり前のように汎ジャンルで多様な音楽が現前していたり、という違い。或いは、インターネットに関しても、Webという新しい道具を前に何をすれば面白いのか試行錯誤しながら、これまた過剰な自意識でe-ZINEだとか何だとかを模索してきた渋谷系世代と、既にそうした利用方法が所与の状況で、さらにインフラが拡充・低コスト化し、よりスケールの大きいことが手軽に試行錯誤ができる76年世代、という違い。そういう意味で、先の日野啓三氏の小説の言葉は、非情なリアリティを持って迫ってくるのです。


ちなみに、Zガンダムにおける各世代の現実認識における立ち振る舞いを見ると、自分の価値観・現実認識に拘泥し時代に取り残されたジャミトフ、バスクは惨めな最後を遂げました。シャアやアムロは変わり行く現実とそれについて行けなくなっている自分との葛藤で悩みまくって、状況を単純化できない気の迷いからストレートに自分の本来的な能力を発揮できなくなっています*5 *6。そして、カミーユは現実を全て正面からダイレクトに、生真面目に受け止めようとして精神崩壊してしまい、対するハマーンは老獪の方向にシフトして賢く自分を守ります。あぁ、本当に救いがない物語ですね、Zガンダムは・・・
 

*1:この辺りのお姉さんキャラの活躍ぶりは → http://noir.exblog.jp/1873584/

*2:この本は非常に示唆に富む内容で、若手登用とかディレクションに関するノウハウの宝庫なのです 富野語録―富野由悠季インタビュー集 (ラポートデラックス)

*3:というかこれを前提としてしまうことこそが、オールドタイプ的なのかも。始まりは「アンチ」ではなく、「自然な流れ」なのかもしれないし

*4:大橋巨泉のように隠居して安穏と暮らせるだけの充分な財産を有していれば別ですが

*5:アムロはただのパイロットに身をやつすことで自分を守りますが、おそらくそういう自分に気付き悩んでいたことでしょう

*6:シャアはその後「逆襲のシャア」で、地球に隕石を落としオールドタイプ一掃という、道化覚悟で自分と世界を単純化することで迷いを封じ込めようとします