「ロング・グッドバイ」

ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ



映画や小説に登場するアンチヒーローの造形は、すべてここに辿り着くんじゃないかと思っています。ハードボイルドの原点とも言うべきこの作品、すごく面白かったです。


数々の名台詞を残しているフィリップ・マーロウですが、今回久しぶりに読んでやっぱり台詞の言い回しがすごく素敵でした。訳者の村上春樹さんの本は一冊も読んだ事がないんですが(ベストセラー作家なのにねえ)、独特の言い回しや遠回しの表現を丁寧に訳していながら、物語そのものの勢いや流れを止めないようにしている部分はさすが作家さんだなあと思いました。チャンドラーの小説って読みにくいんですよね。あの独特の、直接的な言い方を避けて、文脈に意味を留めておく含みのある言い回し。例えば、

「あなたはこれまで、私にまるで仕掛けてこなかった。(中略)きれいさっぱり何もしなかった。あなたはタフで、シニカルで、ひねくれて、冷酷な人だと思っていた」
「希にそうなることがあるかもしれない」
「私は今ここにいる。(中略)そしてあなたは、そこそこの量のシャンパンを飲んだあとで私にいどみかかかり、ベッドに押し倒そうとしている、違うかしら?」
「率直に言って」と私は言った。「頭の隅っこで、そういうささやかな考えがちらりと浮かんだかもしれない」
(ロング・グッドバイ

いわゆる大人の会話ってやつなんですけど、この歳になってようやく、この会話の味わいを理解できる感じがしました。欲望を素直に認める強かさと、それを歪曲に表現する洗練された駆け引き。もうマーロウかっこ良すぎる。押し倒して下さい。


ハードボイルドが面白いのはどうしてなのかを考えてみると、登場人物が個人的な理由を頑なに貫こうとしているからなんだと思います。そしてそんな個人的な理由に、どこかで共感してしまうんでしょうね。

そのようにして私立探偵の一日が過ぎていった。(中略)どうしてこんな商売を続けているのか、自分でもよくわからない。(中略)こんなことを続けていたら、とても長生きはできないだろう。二ヶ月に一度くらいは、こんな商売から足を洗おうとする。まだ頭をしっかり立てて歩けるうちに、もう少し気の利いた仕事を見つけようと。ところがそのときドアのブザーが鳴る。待合室とのあいだのドアを開けると、見知らぬ誰かがそこに立っている。その誰かは新手の問題を抱え、新手の悲しみを背負い、ささやかな金を手にしている。
ロング・グッドバイ

やっぱり心の隅では、不合理だと気づいてはいるんです。「割に合わないな」って思ってるけど、止めることができない。それは彼が誰かの問題を解決するという仕事に対して、自分だけにしか通用しない理由を持っているからなんですよね。その理由に従うことでしか、自分らしく生きていけないということも分かっている。だから止めない。その不器用さが、日々あくせくと自分らしく生きようとする私に呼応するのだと思います。まあ私はこれよりもっと志の低いことを一日二回くらいは考えてますけど(笑)


翻訳ものではよくあることですが、物語はなんとなく分かるんだけど、時代背景がうまく掴めなくて混乱するような部分も、あとがきで村上さん本人が触れていたように、英語よりも日本語の意味に近い方に合わせて訳しているので、それほど大きな混乱はありませんでした。あ、でも一カ所「はんちく」っていうのがよくわからなかったな。小説の中では侮蔑語として使われてたんですよね。「この、はんちくが!」みたいな。初めて聞いた(読んだ)言葉だったので、その語感がなんだかかわいいなと全然関係ないことを考えてました。はんちく。