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ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会

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涜書:ニクラス・ルーマン『社会的システムたち』

昼食。納涼トッシキ祭り。

社会システム理論〈下〉

社会システム理論〈下〉

第9章「矛盾とコンフリクト」


『社会的システムたち』の主要部以外の章(1-2、11-12)は、それぞれ次のような位置価を持っている。
1章は用語リスト。2章は現象学的分析を「システム論」に導入するための前置き。
12章(認識論への諸帰結)は、著作全体に対する補説。

この著作は、「〈システムがある〉ということから出発しよう」という方針表明から始まっている。このテーゼが述べているのは、消極的には、
  • 認識論的(or 方法論的)懐疑や反省から出発するのはやめよう。
ということであり、もっと積極的に定式化すれば、
  • コミュニケーションの記述から出発しよう。
ということである。さらにもう少しだけ敷衍するとこれは、
経験的な学である(ことを標榜する)社会学が「認識論的な反省」から出発する必要はなく、反省は──もしもそれが必要なのであれば/その限りで──、記述の経験を積んだあとで・その成果を以て、やればいい
という方針表明なのであった*。
この方針は、
〈存在/非在〉というバイナリーコードを「遮断」し、意味(の妥当)──のオペレーション──の記述からはじめよ、といっているのだから、その点で
現象学者のいう──精確にフッサールとはいえないかもしれないが、少なくともシュッツ的な意味での──「エポケー」を受け継いだものだといえるはず。
こういう方針でもって議論が開始されたからこそ、著作の最後に、「認識論に対する諸帰結」という章が──しかもこのタイトルでもって──置かれることになるのである。つまり、この章タイトルは、「著作の主要部で獲得された成果-の-旧来の認識論的トピック-に対する-諸帰結」を意味している。
ちなみに、著作の主要部のなかで時々「認識論的」な話題に触れている箇所があるが、それは上記の方針を裏切っているのではなくて──実際に読めばわかることだが──むしろそこでこそ、上記の方針が確認できる。(つまり、通りすがりに、その場の話題に必要な限りで触れられているものとして読めるようにデザインされていることが確認できる。)
* 事情がこのようであるのに、この方針──〈システムがある〉──を、あろうことか〈システムが実在する〉と訳しちゃってくれちゃったチーム東北大の責任はかなり激しく重い。この方針は──贅言になるが──、「システムを記述する前に、あらかじめ前もって〈システムは実在するのか否か〉といった懐疑的・反省的な考察から始めるようなやりかたはやめよう」と謂っているというのに!
「es gibt 〜」は、記述対象の事実性──実存──をマークするために選択された表現であるというのに!

これら各章の位置価が比較的明確なのに対して、11章(3つの自己言及と合理性)の位置は、残念ながらいまのところ 微妙に謎。

「合理性」というトピックのほうは、やはり補説的な位置にあるとは思う。問題は「3つの自己準拠」のほう。
 著作主要部ですでに──ろくな解説も無いままに──使いまくっているのに、それを改めて──著作も終わりかけた──この場所でなぜ、まとめて議論しなければならないのか。
 現時点で思いつく ありうる解釈のひとつは、この著作の記述対象である「自己言及的システム」の、そのメルクマールである「自己言及」について、まずは──やはり──記述を優先させたうえで・その成果をもとに議論をまとめ、それによって議論を 補説=最終章につなげた、というもの。
 ちなみに「合理性」というトピックは、「3つの自己言及」すべてに関わっているわけではなく、「反省」の水準における1トピックとして議論のうちに登場し、それがこの章後半〜次章の話題へとつながっていく。その意味では、著作のこの位置は、確かに すわりがいい。
だとすると、「合理性」が まさにこの位置で扱われるのは、(「制御」の文脈でであれ「学問論」の文脈でであれ(以下略))「合理性」(と「反省」)は、「自己言及」の問題系の中で──ということはつまり、「基底的自己言及=DQA」と切り離さずに──論じられるべきだ、という提案だと考えることができるはず。 ‥‥ならばこの議論は、“システムを「合理性」(や「反省」)のほうから捉えようとするのではなく、「合理性」(や「反省」)を システム(の作動)に差し戻して捉えよ”という方向で行われていることになり、──おなじみの──「システム論の格律」の構図にすっきりと収まっていることになる。

それはそれとして。


これに対して「主要部」は、次のような章立てになっている:

  • 第3章 ダブル・コンティンジェンシー
  • 第4章 コミュニケーションと行為
  • 第5章 システムと環境
  • 第6章 相互浸透
  • 第7章 心理システムの個体性
  • 第8章 構造と時間
  • 第9章 矛盾とコンフリクト
  • 第10章 社会と相互作用


一方で。

  • 冒頭に登場する「ダブルコンティンジェンシー」(3)についていえば、それは、まずコミュニケーションの触媒として位置づけられた上で、中間部にある「相互浸透」(6)の章と最終部にある「〈社会/相互作用〉-区別(10)の章とに議論が引き継がれている。なので、これはよい。
    これ↑こそが この著作のメインストーリーであり、であるからには、この著作の主導的トピックは〈社会/相互作用〉だと謂ってよいのではないか、というのが現時点での見解。ちなみに7章は、このメインストーリー──のうちの特に6章──に対する補説となっていると考えられる。
  • 〈システム/環境〉(5)の章がなぜこの位置にあるのかは、この章立てをみただけでは わからないが、これが4章に対する補章となっている、と考えれば納得がいく。

〈コミュニケーション/行為〉という区別は、特に80年代にはいってルーマンの主要トピックとなり、この著作(84年)で大々的に展開された。以上を踏まえると──あくまで暫定的な見解ではあるが──、この著作は、〈コミュニケーション/行為〉というトピック-を-メインストーリーで挟んだ、このような↓構成になっている、と考えられそうだ:

      • ダブル・コンティンジェンシー
  • コミュニケーションと行為(+補説:システムと環境)
      • 相互浸透(+補説:心的システム)
      • 社会と相互作用
  • 問題は、〈構造/出来事〉(8)と「矛盾&コンフリクト」(9)である。これらは、なぜこの位置にあるのだろうか。これが長い間、私には腑に落ちなかった。
    ルーマン先生自身が、「書くべき内容については迷いは無かったが、章の配置については丸一年悩んだ」(大意)とか わざわざどこかで──序章だったかな?──書いているのだから、これにはなんらかの意味があるはずなのだが....


他方で。

涜書:ニクラス・ルーマン『社会的システムたち』

前フリを書いたら長くなりすぎてしまったw。
第9章「矛盾とコンフリクト」。社会システム理論〈下〉


  • §2[660] 矛盾と〈観察/作動〉:「矛盾」をめぐるコミュニケーションは、〈作動/観察〉の差異が際立つ一例。
    『社会の芸術』2章「脱構築と二次の観察」──特にp.162 周辺の記述──は、この節における議論のサブトピック/ヴァリエーション。
  • §2[661] 進化は観察できない。
  • note 5 「〈システムの未規定性/作動の未規定性〉の差異」-と-「基底的自己言及-と-出来事としての要素」
    参照指示→8章3節&11章3節
  • note 6 システム論における「条件づけ」は、現象学(的社会学)における「レリヴァンス」に相当する。

本日のルーマン節

第9章「矛盾とコンフリクト」

[‥] 矛盾は、痛みと同様に、矛盾それ自体に対する反応を強いているし、少なくともそうした反応をおおいにうながしている。接続しうるためには、おなじみのことがらと矛盾しているものが何であるのかを知るには及ばない。言い換えると、そのように矛盾していることがらがそもそも何であるのかを見極めようと努力する必要はない。それどころか、矛盾していることが、それ自体の固有の権利において正当に評価されるには及ばない。矛盾は、何が矛盾なのかを認知することなしに反応することを許容させている形式の一つである。

何かが矛盾というゼマンティークによって矛盾として表象されることになるという点に、矛盾の十分な特徴づけが存している。まさにそうであるがゆえに、免疫システムを取り上げて、矛盾に関する理論を免疫学の一部門とみなすことが可能なのである。というのは、免疫システムは、矛盾を認知することなしに、環境を知ることなしに、撹乱要因を分析することなしに、それらのいずれにも属さない、純然たる識別に基づいて、作動しているからである。



 [DQAの継続的な進行に──「矛盾をめぐるコミュニケーション」によって──問題が生じる際に励起されるシステムを「免疫システム」と呼ぶことにすると、この]免疫システムの まさしくこのように簡略化された作動様式が、社会学にとってかねてから不快の種であった。たとえば、社会学は、(法律上の犯罪事実の構成要件を吟味する必要がないばあいでも)何がゆえに犯罪者はその犯罪を犯したのか、何がゆえに無能な人は役に立たないのか、あるいは、何がゆえに異議を申し立てる人が異存があるのかを見極めるように努力することを求めている。そうすることによって、社会学は、社会の免疫システムに認知の要求──奇妙な非一貫性──を潜り込ませており、その結果として、社会学はそれ自体として、そうした要求に対する矛盾として社会を経験しており、そのことに基づいて、社会を十分に認知することなしに──この矛盾に依存してのみ──そっけなく取り扱ってしまっている。社会学ユートピアは、社会学それ自体の免疫システムに依存して成り立っているのだが、この社会学の免疫システムは、社会の免疫システムと両立できないのである。そのようにして、社会学は、社会の病気になり、社会は社会学の病気になる ──このように両者が両立しえないということが、理論的に点検されないばあいには。[p.678-9]