じじぃの「人の死にざま_1727_大山・倍達(極真空手)」

空手バカ一代 大山倍達の生涯 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tMPKTTH4v4I
大山倍達

大山倍達総裁 紹介 |極真会館
国際空手道連盟極真会館創始者。1923年6月4日生まれ。
幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。その後、拓殖大学早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。
1964年、国際空手道連盟 極真会館設立。1969年には『直接打撃制(フルコンタクト)』を提唱し、第1回全日本空手道選手権大会を開催。1975年には通称『カラテオリンピック』と呼ばれる第1回全世界空手道選手権大会を開催して、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。世界120ヵ国に公認道場を持ち、1200万人の門弟の総裁として、その生涯を極真空手に捧げた。1994年4月26日、肺がんのため急逝。享年70歳。
http://www.kyokushinkaikan.org/ja/about/originator/
週刊新潮別冊』 2016年8月23日号
20世紀最後の真実 伝説となった「偉人」「怪人」列伝 妻子を残して山籠もり 「大山倍達」が倒した牛と伝統空手 (一部抜粋しています)
梶原一騎原作の「空手バカ一代」は昭和46年(1971)に「週刊少年マガジン」誌で連載が開始されるや、未曽有の空手ブームを巻き起こした伝説の作品である。この漫画のモデルとなり、一躍、時代の寵児となったのが「ゴッドハンド」の異名を持つ大山倍達(ますたつ)。牛をも倒す格闘家が率いる極真会館は、世界123ヵ国に門弟1200万人を数えるまでに成長した。
だが、その道のりはむろん平坦ではない。大山もまた戦後のドサクサから立ち上がろうともがいていた。平成6年(1994)に肺がんで70年の生涯を閉じた大山は、大正12年(1923)、日本統治下の朝鮮半島で生まれた。戦前、日本に渡航し、山梨県にあった山梨航空技術学校(現・日本航空高校)に入学。拓殖大学を経て早稲田大学に入学するも中退し、22歳の時、日本で終戦を迎えた。拓殖大学在学中に空手と出会っていた彼は、池袋や銀座、新橋など闇市が栄えた場所、用心棒稼業で糊口を凌いでいた。
進駐軍の前になすすべもなく、日本人がおどおどしている光景にかなり衝撃を受けたようでした」
と、大山の三女、喜久子さんは明かす。
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大山は道場を開くに先立ち、空手家としての脱皮を目指して、千葉・安房郡の清澄山に修行に入る。昭和23年、甘い余韻が醒めやらぬ結婚直後に、妻を残し、山に籠ってしまう。妻・智弥子はやむなく、清澄山から遠くない、房総の海岸で生計を始める。
智弥子さんは晩年の母から当時の様子を聞かされた。
「板1枚の掘立小屋のようなところに放っておかれて、しかも、母はすでに長女を身籠っていたんですけど、父はそれを知らずにやかに入ってしまった。ある時、山から下りてきたら、子供が生まれていて、そして、その次に山から下りてきたら、言葉が話せるようになっていた長女が、”ママー、知らないおじちゃんが来ましたよー”と出迎えたというのです」
赤子を抱いて食料を求めて歩く智弥子の姿に、地元の人々は、慈悲とも好奇ともつかない視線を投げかけ、こう囁いた。
「旦那さんがいないのね」
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修行を重ねた大山が世界に目を向けるきっかけとなったのが、アメリカでの武者修行だった。終戦から7年後、昭和27年のことである。
当時のアメリカはプロレス全盛期。東洋系レスラーとして知られたグレート東郷に付き添っての米国巡業だったが、次第に大山は耐え難くなった。
「父が負ける約束だったのに、いざ試合が始まると我慢ができなくなってきて、逆に相手を倒してしまって。そのうちに、自分たちで興行しようという気持ちになったようです」
ついにはラスベガスなどでの自主興行を含め、全米32ヵ所で空手演武を披露し、7回に及ぶ真剣勝負で勝利する。
米国で成功した「マス・オオヤマ」は、”逆輸入”されるや、敗戦の記憶なお濃い日本の民衆のなかに強い共感を呼んでいく。