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精神分析と映画をめぐる読書案内

エイジーの夜:『いまこそ名高き人たちをたたえよう』




 承前。

 ジェームズ・エイジーと写真家のコラボレーションといえば、いうまでもなく『いまこそ名高き人たちをたたえよう』(Let Us Now Praise Famous Men : Theree Tenant Famillies, 1941年)に遡る。

 かのライオネル・トリリングが「われわれのアメリカの世代のもっともリアルでもっとも重要な精神的試み(moral effort)」と形容する本書は、(広義の)アメリカン・アートの金字塔のひとつとして知られている。

 1936年、ニューディールのPRのため、Fortune 誌によって友人のウォーカー・エヴァンズ(エイジーをヘレン・レヴィットにひきあわせたのはかれである)とともにアラバマ州の綿花栽培地帯に派遣されたエイジーは、ルポルタージュ執筆のために地元の三つの家庭に「スパイ」として潜り込む。

 巻頭にエヴァンズの60葉あまりの写真が並べられ、それに400頁ほどのエイジーのテクストがつづくという構成はあるいみで A Way of Seeing とぎゃくである。

 A Way of Seeing のエッセーがレヴィットの写真に寄り添い、いわばそのキャプションの役割を果たしているのにたいし、『……たたえよう』ではエヴァンズの写真とエイジーのテクストとがせつぜんと切り離され、互いを参照しあうことがない。

 エヴァンズの写真に写っているもろもろの人物や建物がエイジーのテクストに登場するそれらと同一なのかどうかさえ読者には正確にはわからない。

 それゆえ、さきに写真家との「コラボレーション」と述べたのは、厳密にいえば正確さを欠いている。

 テキストのすくなからぬ部分を、エイジーバルザックフローベール(むしろロブ=グリエクロード・シモンというべきかもしれない)をおもわせる徹底した細密描写によって建物のつくりや部屋のようすや家族らの服装を逐一ことばに写し取ることについやしている。

 ここでエイジーはいわば言葉によってエヴァンスの写真にその“等価物”を対置しようとしている。もしくはそれにとって代わろうとしている。

 エイジーと親交を結んだジョン・ヒューストンはその自伝に書いている。

 「ジェイムズ・エイジーは真実を追究する詩人だった。外見はほったらかし、大切なのは誠実さだった。この誠実さを自分の生命以上に貴重なものとして彼は守りきった。真実への愛は妄執に近いところまでいっていた。『いまこそ名高き人たちをたたえよう』のなかに部屋のなかの細々したものを描写する箇所があるが、そこはこれが真実だと言わんばかりの精緻のきわみになっている。永遠のなかの一瞬、これらの物体は外接空間にたまたまこのような配列で存在している、というのが真実の実体であった。真実とは人に語りかける価値のあるものなのであった」(宮本高晴訳『王になろうとした男』)。

 ヒューストンの描き出すポートレイトによれば、エイジーは身なりにかまわぬ巨漢で、前歯が何本か欠けており、およそ「詩人」らしくみえなかったという(おもしろいことにエイジーもまたヒューストンのカバーストーリーにおいて、このボクサーあがりの監督の前歯が欠けていることを印象的に叙述している)。

 ここでいう「生命」とは「生活」といったいみあいであろうか? ジャック・ランシエールがいみじくも書いているように(Aisthesis : scène du régime esthétique de l'art, 2011)、エイジーの描写は雇い主が望んだお誂え向きの「貧困」、「悲哀」のイメージを見事に逸脱し、裏切る「美」に輝いている。おはらい箱になることを覚悟でエイジーは極貧地帯に生きる者たちの人間としての尊厳を同国人たちに伝えようとしたのである。本書の真の政治性はこのようなヒューマニズムにこそある。

 ヒューストンがいいあてたように、エイジーのとらえようとした「真実」は自然主義的ないみあいにおけるそれではなく、むしろ「詩」(もしくは哲学?)の範疇にあるなにかである。

 本書のなかでエイジーは「リアリズム」という言葉に留保を置いている。客観的な真実をキャメラは映し出すことができるかもしれないが、言葉は書き手の主観というフィルターによってその真実を歪めざるを得ない。

 そのかぎりで「ジャーナリズムの血となり精液となるのは壮大にして見事な嘘というフォルムである。法螺を吹くこのフォルムをジャーナリズムから取り去ってしまえば、すでにそこにジャーナリズムなどないのだ」。

 これはジャーナリズムの宿命であるが、欠点ではない。真実を伝える能力において言葉が写真よりも劣っているといういみではいささかもない。エイジーじしんのたとえていうごとく、いくら馬になりたいと願ったところで牛は牛のままなのだ。かくて『……たたえよう』におけるエイジーはジャーナリストとしての宿命に殉じようとした。ダイレクトな真実の提示はエヴァンスに委ね、じぶんは「嘘」をつきとおすことによってそれとは別種の真実を伝えようとしたのである。

 写真映像の伝える真実については、そのご、A Way of Seeing においてつぎのようにのべられている。

 「写真いがいのあらゆるアートがちょくせつアクチュアルな世界を利用するとき、アクチュアルなものはアーティストの創造的な知性によって変容を被ってあらたな別種のリアリティとなる。これを審美的なリアリティと呼ぼう。われわれがこの場で問題にしているような写真においては、アクチュアルなものはまったく変容を被らない。アクチュアルなものはキャメラに可能なかぎりでの正確さを保ったまま反映され、記録される。アーティストの義務は眼に見えている世界を審美的なリアリティに変えることではなく、アクチュアルな世界のさなかに審美的なリアリティを知覚することであり、創造のこのような運動がもっとも表現力にとむ結晶化をなしとげる瞬間の、生のままで(undisturbed)忠実な記録を残すことである。かくしてアーティストはかれの眼とかれのカメラをとおしてその素材に影響をおよぼすのだ。その素材は唯一無二の生存であり、それまでアーティストにとってかくもダイレクトでかくも純粋なかたちでたちあらわれることのたえてなかった宇宙を開示してくれ、ほかのあらゆる芸術的な創造行為においてひつようとされるのとおなじくらいほりさげられた(deep)創造的な知性ならびにスキル、知覚、訓練を要求するものなのだ。もっともその制約と豊かさの度合いはほかのアートにおけるのとは別様ではあるが」。


 Night was his time. ... The first passage of A Country Letter (page 34) is particularly night-permeated. ...

 エイジー死後の1960年に付された序文「1936年のジェームズ・エイジー」のなかで、ウォーカー・エヴァンズはエイジーの文章のなかに「夜」の匂いをかぎとっている。名うての nighthawk であったという事実にとどまらないエイジーの言語世界の本質を言い当てて見事である。

 写真や映画は光によって真実を照らし出す。ことばをなりわいとする者はひとり夜道を行く。『いまこそ名高き人たちをたたえよう』でわかれわかれの道を歩んだみちづれゆえの明察だろう。

 本書で南部の人や建物や家具に向けられたそのおなじ眼差しを、まもなくエイジーはスクリーンの世界に向けることになるだろう。