チベット滞在記

チベット滞在記 (講談社学術文庫)

チベット滞在記 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

1913年から10年の長きにわたってチベットに滞在し、ラサのセラ寺で修行を重ねた著者が、チベット潜入にはじまって、13世ダライ・ラマとの交流、僧院生活、チベットの仏教、巡礼の旅などを語る―著者唯一の遺稿。

 戦前にチベットに10年間滞在して、その地で寺院に入り修行をして、またダライ・ラマ13世と交流を深め、ダライ・ラマから直接具足戒も受けた僧侶の話。
 「チベット旅行記」の河口慧海よりも、多田等観の方が長くチベットに滞在していて親しくチベット人と交流があったということで、この本のほうがチベット人に対する親しみがあっていいな。というか、あちらは侵入者で多田は本願寺法主大谷光瑞から以前に直接ダライ・ラマに誰か留学させたいといって了承され、それで派遣されてダライ・ラマ13世に直接保護されて学業を積んだという違いもあるから、あちらはどうしても警戒というか、一歩引いてみてしまうということもあったのかもしれないがちょっと良くも悪くも客観的な観察といった感じを受ける文書だったが、それよりもこの本のように非常に自然にチベットの人物や文化になじんでいることが伝わってくる文章のほうが好感を持てる。ただ、河口は昔の人が文章を書いたのに対して、多田は聞き書きを整理したものという違いもあるから、そうした違いはもしかしたらしょうがないものなのかもしれないけど。
 チベットと著者との関係は中等学校を卒業して直ぐに、来日したチベット人の高僧の世話係を一年間しながら、彼らからチベット語を覚えていた。その時、彼らに好かれた。彼らがチベットへと帰るときに彼らに請われて同行して、その時にインドでダライ・ラマ13世と対面して、その時に以前北京で大谷光瑞から留学生の交換を提案され、それを承諾したという経緯があったこともあり、その約束を守ろうと、多田に後日チベット来るように言った、そしてそれからほどなく大谷光瑞からもチベットへ入って勉強するようにという指示が来たので、チベットへ赴く。しかしイギリスの監視が厳しかったのでチベットに入るのに色々と苦労をして、またチベットに入ってからもダライ・ラマから与えられているチベット入国許可証があっても、それまでに目立たないようにわざと顔などを汚したり、靴を捨てたりしていたのでなかなか便宜を図ってもらえず大変だったようだがなんとかラサまで到着した。
 チベットの屋根は平らで、当時のチベットでは旅人は、昼はそれなりにもてなしてくれていても、泥棒にならないかという警戒から夜は家の中に要れずに家の中でなく屋根の上に寝かされた。
 チベットでは木版版ばかりだったので、専門の仏教書は版を持っている寺に直接頼んで新しく刷ってもらう必要があった。
 そうした書籍を買うにしても、なんにしてもチベット政府から出る金や学院や寮からもらう布施があっても自費を使わなければならない場面も多く、日本から送金が車で借金したりすることもあったようだ。大谷光瑞から直接に指示されていったのに、彼からの送金少なかったのか、もうちょっときちんと支援してやれよなんて読んでいる最中は思っていたのだが、先ほどググって多田等観のwikiを見ると、大谷光瑞は多田がチベットに滞在している最中に失脚してしまっていて、そのために日本からの支援が薄くなったのね。
 チベットでは宗教と国家がいくら密接なつながりをしているといっても、国税の大半が宗教的な用途に使われているということには驚く。
 イギリスから銃を購入する際に、その購入代金をどうしようかとチベット政府が思案していたときに、多田は相談を受けて人頭税を提案したが、それが動物からも人の倍の税をとったり汚職が横行した原因となったという結果が起こったようなので、なんかやってしまったなあ(苦笑)。それに、その提案にはチベットの人口を推察するという目論見もあったようだが、その目的も果たせなかったようだし。
 チベットでは教科書を用いず、授業前に教科書代わりとなる一定の経典を暗記して、授業では討論をするという形式で学業をする。そして勉強する内容は最初に論理、次に因果、それから中論(空)、そして戒律の研究、最後に倶舎論と段階ごとにそれぞれ何年もそれだけを勉強して、それ以外のことには触れないという勉強方法をするそうだ。それにただでさえ一つのことを勉強する期間が長いのに、卒業できる定員が決まっているので、ゲシェーという最高位になるまでは三十年かかることが普通だという。
 そんな中多田は、日本からチベットに来て、チベットの仏法を世界に広める人だということで、特別にゲシェーの次の位のチュンゼトいう位を数年で貰ったそうだ。
 しかし土地柄あまり穀物が取れないのか知らないけど、チベットでは僧侶でも普通にヤギ肉とか肉まんとかを食べているようなことにはちょっと驚いた。
 春秋2回と試験前に、自分が研究しているものの教本を50枚というすさまじい分量を暗記しておかなければならないというのは恐ろしい。
 ダライ・ラマは鼻や動物が非常に好きで、多田から日本の草花を取り寄せて蒔いたが、思うように育たなかった。そんなことをいわれて、多田は肥料の関係かもしれないから、油粕を肥料に加えるよう進言したら、その肥料が熱を持って大変なことになったから、多田を呼ぶために飛脚をよこしたというエピソードには思わず笑ってしまう。
 絵、特に仏画が上手かったダライ・ラマ13世に、買えば高価になるということもあって、仏画を一枚描いてくれないかと頼んだというエピソードや、多田の日本への帰国前にダライ・ラマの宮殿で枕を並べて名残惜しんで話しながら寝についたというエピソードを見ると、本当に多田はダライ・ラマと相当に親しかったのだということがよくわかる。ダライ・ラマと多田は師弟関係のようだったが、こうした弟子は師匠を敬愛していて、師匠は弟子を慈しみ、また弟子がちょっと甘えられるような親しみがあるというような師弟関係は好きだな。
 現在のダライ・ラマ14世と後に(1961年に)面会したそうだが、そのときのエピソードがなんかあったら知りたいな。
 チベットの茶は緑茶をレンガくらいの大きさに圧搾市亜ものを、砕いて水の中に入れて石灰を少量入れて煎じ、3時間くらい煮詰めてどろどろの濃い液体にして水がめに入れる。飲むときには、湯を沸かしてそれにその煎じ汁を混ぜて、更にバターと塩を入れる。水がめにためておくとはちょっと独特だな。
 チベットには日本やモンゴルのように、テニヲハのような言葉を用いるため日本人には比較的覚えやすい(少なくともそうしたものを用いない印欧語圏の人よりも)というのは意外。
 チベットに居た当時日本から持ってきていた売薬の類が、不思議とやたらに効果があったらしく、そうした薬をくれないかとよく言われていたというエピソードはなんかほほえましい。まあ、効力については遠い外国から来た薬だというプラシーボ効果の面も大きそうだけど。
 霊を移す儀式をした後は、死体はモノとなるため、その後は非常に雑な扱いをした。そして死体は鳥葬される。鳥葬される理由には、火葬する燃料がない土地柄ということや、地の下は悪魔が多くいると信じている(そのため、土葬されるのは罪人だけ)ということがあげられる。
 解説には、多田が来る以前の亡命続きだったころからチベットへ戻る前ぐらいまでのダライ・ラマ13世の政治的動きについてが書かれていて、当時のダライ・ラマの孤独感もあって、多田が非常に可愛がられたようだ。