働くこととは。

人は働く。
よく働く人はとても良く働く。

1月に数日の休みで、朝から晩まで働くとして、その労働自体が苦役だった場合、人はなぜ働くのか。
生きていくために働く、というが、その、「生きる」という動詞の、その時間の、その意味の大半を働くことに費やすのならば、生きることや働くことの意味がわからなくなる。
時間に置き換えると「6時間寝て、10時間職場にいるか通勤して、2時間雑用して、4時間自由に使えて」を%に直すと「25%寝て、42%働いて、8%雑用で、17%自由に使えて」となる
そもそも寝るのなんて人生の時間に含まれないのだから、これを省くと、55%働き、11%雑用(風呂や飯など)、22%自由なのである。
これは僕には、往復5時間の小さいバスに乗り、1時間道の駅の土産物屋によって、2時間目的地観光の観光ツアーと同じようにみえる。

そんな人生無意味だろう。

「働くのが嫌だ」という意見に対して、「労働は義務だ」とか「生きていくためには仕方のない事だ」という反論があり、
これは労働が苦役であることを前提にしていると思う。
しかしながら、前述のツアーパッケージに好んで参加する人などいないだろう。そのような議論の行末は死である。合理的な死である。

確かに、苦役であることを、また、苦役が生に必然であることを、前提のようにした労働環境もあるが、そういう環境に人間を置くと、人は死ぬ。事実死んでいる。

だから、労働は苦役であることを前提にした労働や労働者は、その考え方を改めるべきだと思う。
労働を通じて成長するとか、自己実現するとか、労働が楽しいとか、そういう労働を作っていくべきだし、労働者もそう考えるべきだ。
全てが楽しい必要はない。パーセンテージの問題なのだ。

働く日。生きるとは。

結局のところある人がよく考えない場合、単純な理屈のみで動く場合、その人の思考はその人の感情に大きく左右される。
感情とはとても原始的で、その波は、思考とは呼べないかもしれないが、非明示的なだけで、意識できないだけで、感情は感情の論理で動いている。
そして、その感情は、つまり感情の存在や、無意識下で動く感情のプログラムは、生物あるいは動物の生存確率を上げるためにあり、もし、その生存確率を著しく下げるようなプログラムが採用された種は、とっくの昔に滅びただろうから、いまは生存確率を上げる感情プログラムしか残っていないのではないか。
結局のところ、人間の社会がある程度高度化しても、感情で動いておけばあまり間違う事のないように思える。
というのも、社会も幾多の感情を礎に成り立っているのだから、感情で動くことをそう否定しそうにもない。

ある人がよく考える場合も、この感情の波が思考を揺さぶるので、結構感情に左右される。
この場合、無意識下の感情プログラムが出した結論を、意識化の長い文章で導き出す程度のことなのかもしれない。

ある人がよくよく考えた場合にのみ、思考は感情から自由になるかもしれない。
しかし世の中の議論のうちほとんどを占め、かつ現実的に意味の有りそうな議論というのは、正誤の判別などできないものが多いのだ。現実世界と完全に独立した体系である数学などとは違うのだ。

問題は、感情の社会から逸脱した存在である。その存在は感情の社会を

愛 こころ めちゃくちゃ 真実という言葉は僕を混乱させる

ずっとココには書いてなかったけど、twitterFacebookも器が小さすぎるから、そういう時のインスピレーションはココで発散したい。
といっても書くことなんてそんなにないんだけど。
でも深夜にそんなテンションでわけわかめな事書きたいけど、見られたくない奴が多すぎる。
みんなをgoogle+にさそうってのはどうだろうか?

ぼくたちのせいこうのいちぺーじめ。

大学に4年間行かなかったことで、いよいよ人生がドンづまって来てて、ちょっと面白くなってる。
春に、俺と同じように精神的な問題とかいろいろで大学行ったり辞めたりいろいろで、今年大学受験する奴が関東に来る。
というかそいつは国立大医学部を狙ってるやつだから、もしかしたら関東にすら来ないかもしれないんだけど、もしかすると俺と同じ学科に来てくれるかもしれないんだ。
もしそいつが同じ学科に来てくれたら、俺としてはこれ程嬉しいことはない。多分大学も楽しく通えるだろうし、だとしたら確実に卒業できるだろうし。
もし東京に来てくれたらルームシェアして一緒に暮らす。
筋トレとかやって、朝からランニングとか一緒に勉強とかやって、家事とかもきちんとやって。
そんで、クリエイティブなことをしたい。ビジネスでもいいし、アートとかでもいいんだけど。二人とも考え方も環境も似通ってるから面白いものができると思う。
がんばるぞ!

寒い昼と暑い夜、

ライミング回路が弱ってきている…う〜ん。。。

好きな子には好きな子がいるし、連絡も取り方わかんないし、大学には行けてないし、愚痴こぼすほどの日常もないし。

あ〜あ。どうやったら楽しく笑って過ごせるんだろう。何が僕の足をひっぱっているのだろう。

誰かと一緒に暮らしたい。「こうやって人生を、生活を、一日を、時間を捉えてるんだ。」ってわかりたい。結局のところ、僕が今まで他人に、本当の意味で無関心だったからじゃないだろうか。

わからない。。。

いや、わかってるんです。
原因は。

入学当初、僕は大学生活にものすごい期待をもっていました。可愛い女の子と、ファンキーな友達と、って思ってました。でもどちらとも大学外部にしかいなくて、それどころか、大学の同級生とは全然馴染めませんでした。変なやつばっかで、僕が全然つるめないような相手が、同級生のアベレージだったのです。

あと、大学デビュー組の妙な生き急いでる感も、僕には不快でした。と入ってもデビューしてるほうが幾分かマシでしたが。大学外で遊ぶことはまずありませんでした。

しかも、上記のことが表に出る前に、僕は病気がすごく悪くなって、大学にあまりいけない日々が続きました。もともと不登校×学校が合わない×病気っていう三重苦だったんです。

その時一人暮らししてたアパートは、掃除を全然しなかったためにすぐに汚くなりました。最近はある程度豆に環境保全に努めるようになったのでわかりますが、あの散らかし様は病気でしょう。

そのアパートにはちょくちょく友達も来ていたのですが、夏が終わってからお姉ちゃんが3ヶ月ほどうちに居候することになって、それから友達も来なくなりました。サークルで一緒だった人たちだったのですが、飲み会が多いのと、先輩で一人すごくうざい人がいて、その人におべっかを使わないといけないのが嫌でサークルとも距離が離れました。

一年生の夏は結構大騒動で、病気が明らかになったのもこの時、彼女ができたのもこの時、初weedもたしかこの時でした。

Welcome To Jamrockの歌詞をひらがなで書きました。

なのでみなさん歌って下さい。

うぇうかんとぅじゃんろ!
きゃんうぇでとせんきゃんぱ!とぅぽー!なうぃでなばんば!
ぃでぃなよあんばっ!やなっさ!き、でぃなよぱんぱ!いすめらきやがーるふれんかんたく!
さむわいののーてぃす!ぁもれかまろんらいとーりす!あんだびーちうぃたふゅーかっぷそーでぃす!べったいむすとうりず!あぽーずらいだまねーむちゃっくのーりす!
あどんのだりらーこー!
かさんだざのばっくー!いとっくすでめどぅうぇでむがっとぅー!
あうぉおてぃんとぅわいすとぅしゃっつー!
どんめいでむすぱっつー。あ、れすきゃりごんざらっつー。
あでぃうこふきんこまー。
うぇんとれんちとーまんすたふらふぁらぐらふちゃひ!

ここまでできた!