盛山和夫『社会調査法入門』有斐閣


河合幹雄安全神話崩壊のパラドックス岩波書店 とともに、週末にようやく生協から届く。
関大生協は、ちょっと発注から入荷までが遅いぞ(苦情)。
新刊が店頭に並ぶのも遅いし、並ばないのもけっこうあるし。
ジュンク堂かどっかでとっとと買ってしまえばいいのだが、1割引はやはり魅力だからなあ。
河合氏の本はまだぱらぱらめくってみた段階だが、イイ感じ。
3部1章「人間関係の変容と防犯」あたりは自分の研究にも直接参考になりそう。
早くちゃんと読みたいが、ここしばらくはあまり時間の余裕がない(泣)


さて、盛山氏の本だが、氏らしいとてもオーソドックスな入門書。
学部学生が自習本として読むにはとっつきにくいかもしれないが(文章もそっけないし)、授業のテキストで使うにはいいだろうな。

「社会調査とは解釈である」
こう言ったら、冗談だと思う人がいるかもしれない。極端なことを言うおかしな教科書だという印象をもつ人もいるだろう。
一般的には社会調査解釈とは対立する営みのようにしばしば思われている。社会調査は、数学的で、客観的で確実だけれども、融通がきかず、浅く、面白くない。それに対して解釈は、文学的で、主観的で曖昧だけれども、柔軟で、深く、面白い、とみられている。そして、このような神話をまじめに信じてそのまま語っている社会学者は少なくない。
しかし端的にいって、このステレオタイプは間違いである。デマとさえいってもいいだろう。
困ったことにこのステレオタイプ的区分は、かなり常識化して研究者や学生のあいだに広まっている。もっとも、それだけにとどめればまだいいのだが、問題なのは、この神話のせいで社会学における社会調査とその解釈学的アプローチの両方ともに混乱が生じていることだ。

(p.1)

すでに…述べたように、量的ないし統計的研究については、それが「客観的な方法」で「法則を定立」することをめざすものだという理解(誤解だが)が、それに賛同する論者にも反対する論者にもかなり広く抱かれている。この場合、「客観的に存在している法則的な構造」にこそ、研究がめざすべき探求のリアリティがあるとみなされているのである。本書は、第1章および第2章で、統計的研究をそのように考えることは間違いであり、統計的研究もまた「解釈」であるということを強調した。……。社会調査で得られるデータは、表面的には数量化されているとはいえ、もともとは人々の振る舞いだったり発話であったり思念であったりするものに関するデータなのである。

(p.263-4)


ああ、言われちまった。
私なぞが言うより、盛山先生のような大御所にこう言っておいていただけると、今後、助かるところは大きいのだが。

社会調査の暴力性


私たちは、日常生活のなかでも、他者のふるまいや発話を「解釈」して生きている。
他者のふるまいや発話が何を意味しているか、そのありうべき可能性(選択肢)は、あまりに多岐にわたり、複雑にすぎる。
その複雑性を「解釈」によって縮減し、上手にごまかしごまかし生きている、といってもいいか。
社会調査の「解釈」も、そうした日常的な「解釈」と、基本的なところではそれほど変わるものではない。
人間の情報処理能力には限度がある。
社会調査にしても、実はその情報処理能力をエンハンスするものではない。
情報処理(認識)の対象となる範囲を広げる――たとえば何千、何万というオーダーの人々のふるまいや意識を対象範囲と化す――代わりに、個々のふるまいや意識については単純化をほどこす。
そのようにして、限られた情報処理能力のリソースを、認識対象範囲の拡張のほうにあてる方法が、社会調査法というものだ、と私はおおよそのところ考える。


それに伴う「単純化」は、ある種の(暴)力の行使である、という批判に対して、私は同意する。
しかし、日常生活のなかでも、私たちはそれと基本的に同型の(暴)力を行使しあって生きているのだ。
ステレオタイプ研究の意義は、ステレオタイプの負の側面だけでなく、私たちが何かしらのステレオタイプなしには社会・生活を営みえないことを明らかにしたことにある。
初めて会った人に対しても、その外見や属性からステレオタイプ(カテゴリー化)を割り当てることで、相手の出方を予測し、どうすればいいのかわからない状態に陥ることを回避する。
(暴)力を伴う複雑性の縮減なくして、私たちは社会的存在たりえない。
社会調査の場合(だけではないが)、問題は、そこに(暴)力の行使が伴うことではなく、調査者と被調査者のあいだに(暴)力の非対称性が生じ(う)ることだ。
そして、いわゆる「質的」と言われる調査法でも、(暴)力の行使は伴うし、その非対称性だって生じうる。
だから、私は、量的調査に(暴)力の行使を読みとって、それを批判するだけの(あるいはそれをもって質的調査を称揚するだけの)人々を信じない。


かつて私は、調査票を送った先の方が知的障害をおもちだったため(住民基本台帳などをもとにしたランダムサンプリングの場合は、往々にしてこうしたことが起こる)、そのご父兄から次のようなお手紙をいただいたことがある。

[調査対象に]お選びいただいたことは大変光栄なことと存じますが、如何せん本人が、アンケートにお答えいたしますことは不可能です。……。
私どもではこの子を家族全員で介護し、支援し、数々の困難を乗り越えて大切に育ててまいりました。
学校や地域、病院の方々にも強力なバックアップ体制をいただいております。
しかし、自らの力で自らをアピールする力が弱いので、世間的には“こういう子もいるのだな”などという見本みたいに扱われることもしばしばです。
そんな中でくじ引き[無作為抽出のこと]とはいえ、この子の名をお選びいただいたことは少なからず嬉しく存じております。
ただし、……、きちんとした大学の助教授であらせられるとのことです…が、何の前ぶれもなくこのような事をされますと、やはり不快でございます。
しかし、それより、ご希望のアンケートができませんことも悲しいことです。意味のないことをいたしましても何ですので、お送りいただいた書類等をそのまま返送させていただきます。
ご期待に添えず申し訳ありません。


この手紙をいただいたとき、私は自身の調査者としての傲慢さを思い知らされ、しばらく文字どおり身動きができなかった。
手紙に住所は書き添えられておらず、サンプリングに用いた住所リストは、もちろん個人情報保護のため破棄していたので、いまだにこの方にはお詫びも何もできていない。
せめて私にできるのは、折にふれ、この手紙を読み返すことくらいだ。


暴力の非対称的な行使とは、たとえばこうしたかたちで顕在化する。
それに対する畏れをもたないすべての人々を、私は信じない。
しかしまた、研究者という道を選びとったかぎりは、この畏れのもとに立ちすくむこともまた許されないのではないか、と私は思う。
研究において応答責任をはたしていくこと。
このような書簡をここに紹介すること自体が、またある種の暴力の行使にほかならないだろうが、それでもなお応答していくこと。
なぜ私は研究者でありつづけようとするのか、と自問しつつも、今の私にはとりあえずそうするしかない。