犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ヤンキー回帰としてのポニョ

 
ジブリの森とポニョの海』を立ち読みしていたら、ロバート・ホワイティングとの対談で「ポニョは笑えるような映画じゃありませんから」と断言していた。*1「ええっ!? そうなの?」と驚いてしまった。少なくとも、劇場で観ていると何度か観客がドッと笑う場面がある。とりあえず日テレの戦略と鈴木Pの演出により、観客がポニョに期待するものは「家族揃って観賞できる、微笑ましくも感動の物語」といったところだろう。しかし、そもそもその前提が間違っているということだ。作った本人はそんなことを考えていない。
 
さらに、ポニョ評で散見される意見として「宮崎駿は、あんなのを理想の家族と思っているのか? 時代錯誤もはなはだしい左翼野郎め!」みたいなのがある。そもそも「ジブリは人畜無害なファミリー・エンターテイメント」という偏見に縛られているのは、こういう自称アナーキーな映画評論家たちだったりする。
 
思わず購入してしまった『折り返し点 1997〜2008』のポニョを製作するにあたっての「久石譲さんへの音楽メモ」にこんな記述がある。
 

 海は女性原理をあらわし、陸は男性原理をあらわしています。そのため小さな港町は衰退しています。
 海を、男どもの船や漁船はさわがしく行き来していますが、この世界ではもう尊敬さえされていません。しかし、女性もまたおとろえています。海辺でおむかえを待っている老女達、快活であっても船乗りの夫を待って何かやり場のない怒りをかかえている宗介の母。
 それでもおだやかに一見安定していたこの世界を、ポニョの出現がかきまぜます。

 
宗介の一家は、「理想の家族像」などという役割を与えられてはいない。明らかに「衰退して」いるのだ。さらに、
 

 ポニョは女性原理の生粋の存在。抑えるすべてのものに反撥し、後先考えずにただちに行動し、ほしいものを手に入れるためにつき進みます。食べること、抱きしめること、追いかけることに何の迷いも配慮もありません。多産系で猥雑で、恋ならいくらでもしちゃうキャラクターですが、この映画では幼児のままで、出会う男性によってどんな女性に成長していくか決まるのでしょう。

 
これをいいかえれば、ポニョは性的に奔放な淫乱女であると言っているようなもので、『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』(http://www.tbsradio.jp/utamaru/2008/07/post_296.html)で宇多丸町山智浩両氏が語っている「宮崎駿・作のポルノ映画が観たい」という願望はすでにポニョでかなえられているということになる。この二人の意見は実に微妙で、本質に迫りつつも瀬戸際のところで真逆の解釈をしてしまっている。宗介の家庭は理想のほのぼの家族ではないし、ポニョは淫乱だし、この映画はアンモラルなのだ。「ジブリ=家族団らん」という偏見があるから、すべて歪んで見えてしまう。二人ともジブリ作品に「大衆的理想像」を求めすぎているのだ。いやむしろ、大衆が求めているであろう「理想像」を勝手に低く見積もりすぎなのかも知れない。
 
むしろこの映画を素直に受け取っているのは劇場前でカメラに向かってインタビューに応える頭の悪そうな若者たちなのだ。「ポニョみたいに素直に好きって言えるのは素晴らしい」みたいな意見である。ポニョに登場するキャラクターの多くは欲求に素直で、情緒不安定で、感情的な存在なのだ。だから若者は「もっと欲求に素直に生きていいんだ!」的なメッセージ性を受け取ってしまう。だからなんだか『恋空』とかに感涙するティーンズに共通するものを感じる。そして文化系の思考回路にはむしろ理解がしにくい。*2
 
繰り返しになるがポイントは「欲求に素直で、情緒不安定で、感情的」であること。そして「ポニョ、可愛い〜」だ。これは80年代的なヤンキー文化への回帰なのではないかとすら思えてくる。だから宮崎駿に対する「むしろおまえが病気で神経症だろ!」といった意見は半分、正しい。
 

(フジモトは)弱い父親の代表であり、信念も行動も彼をゆたかにはしてくれません。理想を追えば追うほど孤独になり、裏切られる宿命を背負っています。フジモトは現代の父親像ノカリカチュアにならざるを得ません。

 
フジモトもまた、わかりやすく言えば駄目な父親の代表なのだ。二つの親子が登場しながら、どちらもダメなのだ。この辺りに、僕がこの映画のテーマはまるで「できちゃった婚」のようだと感じた原因がありそうな気がする。駄目な親子に育てられた、駄目な子供という、駄目の連鎖だ。
 

 宗介の背負う課題は何でしょう。ポニョを無条件に受け入れること、スキになること、守ると誓った約束を守りきることです。人の心のうつろいやすさを現代人はよく知っていますから、宗介の約束を多くの観客は、その場かぎりのすぐ忘れ去られるものと受けとるかも知れません。

 
ちょっと観客の先回りしすぎだろと呆れてしまうが、実際、観客達は監督の手のひらで「あーでもない、こーでもない」とうろついているに過ぎない。
 

この約束を守りとおせるか、ポイとすててしまうかで、宗介の今後は定まるのです。フジモト(インテリ)になってしまうか、逃げ出す耕一になってしまうのか、簡単な現代の男の生き方です。

 
フジモトを頭でっかちなインテリ、宗介の父を現実や女性から逃げ出しがちな弱い男であると断じている。そして、なぜ宗介が主人公であるのかという説明に対しては、こうだ。
 

才能のかけらも今はまだ見せていませんが、ポニョを受け止め、リサの心を理解し、フジモトにも心を配り、普通の子なら分裂し、トラウマやら心理学上の分類の対象者になるところを突破し、かわいい人面魚のポニョも、凶悪な半漁人のポニョも、わがままな女の子のポニョも全部受け入れていきます。

 
やはり宗介は、アダルトチルドレンと化した『クレヨンしんちゃん』だったわけだ。
そして最後に……
 

不安定で、先がおもいやられる状態で映画はおわりますが、それは二十一世紀以降の人類の運命であって、いっぺんの映画で決着をつけるべき課題ではありません。

 
いやはや、単行本にしてたった3ページちょっとの短い文章の中で、あまりにネタばらししすぎなので驚いてしまった。
 
まさにポニョで描かれているのは「可愛さ」というオブラートにくるまれた「ヤンキー的感性」なのだ。ヤンキー、あるいはDQNと呼ばれる人たちは可愛いモノが大好きで、欲求に素直で、情緒不安定で、感情的だ。それにプラスすれば、やはりグロテスクで悪趣味なモノも大好きだったりする。さらにさらに言えば、ブランド物も大好きだ。ジブリが「ファミリー・エンターテイメント」としてブランド化せざるを得なかった理由、あるいは突出した理由がそこにありそうだ。
 
「理屈は要らない、感じればいい!」とはまた違った視点で、そのまんま偏見を持たずベタに観賞すれば、意外と素直に理解できる作品なのかも知れない。これはちょっと、2回目の観賞が楽しみになってきた。
 
◆本当は怖いポニョの都市伝説
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080803/
 
◆本当はあまり怖くないポニョの都市伝説
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080805/
 
 
 
■追記2008.08.28
 
http://www.tfm.co.jp/asemamire/index.php?catid=173
→参照:■【Podcast】2008/07/02 ポニョ、完成!
 
ポニョを制作するきっかけになるエピソードがポッドキャストの中で語られる。
ジブリに入社して間もない若者が、宮崎駿のお気に入りのスタッフに手を出し、妊娠させてしまう。それ以前からジブリ社内は結婚ブームだったが、みんな「今の生活を楽しみたいから子供は作らない」といった風潮があった。しかし、ほとんど「できちゃった婚」に近いカタチで結ばれてしまった一組のカップルの出現で、社内に出産ラッシュが巻き起こる。これがNHKスペシャルにも登場したジブリ・スタッフ用の幼稚園を建設したきっかけらしい。
 
なるほど、ポニョが「できちゃった婚」の話に見えた原因はこれだったのか。
つまり、宮崎駿という人は「本能のままに愛し合い、子供を作ってしまう」というあぶなっかしいけど盲目的にポジティブで活力に溢れる若者に未来を託したいと思ったのだろう。それは「何を今さら」という価値観かも知れないが、この価値観がポニョのヒットを支えているのかも知れない。少なくとも、未来に不安を抱く恋人たちの背中を押す切っ掛けになっている。だからこの映画は、「共感」という意味合いだけで見たら、結婚願望のあるカップルか、子供ができたばかりで不安いっぱいの夫婦にしか届かない、非常に客層の狭い映画になっているのかも知れない。
 
将来のことをほとんど考えずに結婚して子供を作ってしまうような若者は、たいていの場合、不幸になる。彼らを祝福し、さらにその生まれた子供が幸せになるには周囲のバックアップが必要なのだ。宮崎駿という人は、頼りない子供を育てた頼りない両親たちに代わり、自分がそのバックアップを勝って出ようというのだろう。社内という狭いコミュニティ限定ではあるけれど……
 
つまり家族というものはすでに崩壊してるんだから、家族関係を越えた括りの中で助け合おうという結論だろう。自分の目の届く範囲でみんなに幸せになって欲しい。地球とか世界とか、日本経済とか関係ない。目の前にいるやつに幸せになって欲しい。ものすごく歪んでいるし、利己的な価値観だが、結局、どうせエコロジーとか景気回復とか人類救済なんてデカいことは不可能なんだからという達観かも知れない。
 
これは家父長的温情主義と呼べるのかも知れないが、もはや父権を信用していない宮崎駿という人にとってはまた別なにかなのかも知れない。母性による温情でもなく、ただ漠然とした人類愛とも違う。裏を返せば、自分の手近にいる人間しか救わないということでもある。
 
ウォルト・ディズニーもよく家父長的温情主義と呼ばれる。社員に対して厳しく、よくストライキが起こったことでも知られるディズニー社だが、ウォルトの場合は社員をよくクビにする代わりに、2,3日経てばまた再雇用してやったという。すると、再雇用された側は以前よりも言うことを聞くようになる。
このエピソードは酷い話だと感じるかも知れないが、今の世の中を見まわすと、弱者をバッサリ切り捨てる側と、なんとか誰かに甘えておんぶに抱っこみたいな願望を胸に右往左往する弱者という両極端な人種ばかり目立つような気がする。厳しいけれど最終的な面倒は見てくれる、そんな存在こそ人生のリハビリテーションには必要かも知れない。
そして現代人は、意外と家父長的温情主義を求めているのかも知れないとも思う。しかし、その「責任」を終えるような「家父長的役割」を引き受ける人間が足りない。
 
「自己責任」という言葉の押しつけは、転じて言えば自分が負うべき他者への責任から逃げ出す言葉だ。自分の意思で「まあ、オレもバカだったよな」と反省するのが自己責任であって、「お前が悪い。自己責任だろ」と押しつけられるのは自己責任と呼ぶべきではない。
 
最初から誰かに甘えよう、すがろうと虎視眈々と狙っている人間ではなく、後先考えず突っ走る若者を富と権力のある老人が趣味的に支援する、それがジブリ的温情主義なのかも知れない。無欲な人間同士による、善意の交換――こんな聖人君子みたいなやりとりは、私利私欲にまみれた一般人にはとうてい不可能だろうなという気はする。だからこそ、銀幕の中にしか再現できない。
 
そしてジブリは現代人にとって泡沫の夢であり、この世のものではない。

*1:話の流れとしては、絵コンテを切りながら自分で笑っちゃうようなことはないかと訊かれ、笑うこともあると応え、それならばポニョでもそういったシーンがあったかとさらに訊かれて応えている。

*2:実際には、欲求に素直に生きることの不安定さ、あやうさすら「肯定」するところにこの映画の本質がある。決して「欲求に素直になればいい」というメッセージではない。さらに言えば、欲望に忠実で、ファスト風土的な物を求めてしまうヤンキー的感性が、今の不安定な世の中を作ってきた。それに対して「人類なんて滅びてしまった方が地球のためだ」という考えがある。しかし、『風の谷のナウシカ』からすでに、そうした「有害な人類」が生きる術を模索しているのが宮崎駿なのだと思う。決して「有害」なままでいいわけではないが、それでも「生きざるを得ないじゃないか」といったところか。