◇◇
 どこか遠くで汽笛が鳴る音が聞こえた。薄っすらと意識が戻って来るにつれ、それも夢の一部に違いないと苦笑いが込み上げてきた。新幹線が汽笛を鳴らす筈がない。耳に意識を集中すると、それは場内放送の声だった。
「次は終点ながのとなりますー。お忘れ物ございませんようご注意・・・・」
途端に現実に引き戻された。短い眠りの後、特有のはっきりしない眼を擦り車窓に目を向けた。そこには真っ暗な夜が広がっていた。
 ところどころ点々と光が見えた。どうやら五里ヶ峯トンネルを通過したらしい。光は屋代辺りの家々のものだろう。その辺りは田畑が中心で家屋は疎らに立っているのだ。
 駅弁を食べた時、飲み残したお茶を一口含んだ。一斉に身体中の血液が動き始めた気がした。血流は意識を鮮明にさせ、思い出したくないことまで思い出させた。自分が会社からリストラされたこと。あと数日しか席が無いのに、そこに荷物の全てを預けて来たこと。なぜなら、自分は妻と娘に見捨てられた為だ。見捨てられたというより、もっと分かりやすく「逃げられた」と言うべきか?心の中でそう呟くと、自然と自虐的な笑みが零れて来た。その陰鬱な笑みを他人に見られまいと右手で額を押さえた。その時突然、頭痛が襲った。それは痛みというより小さな稲妻が走った感覚だった。同時に頭の中に、少年時代の記憶の一部がパノラマ写真のように現れ、消えた。消えた後を追いかけようとしたが、それはまるで煙のように消え失せてしまった。たった今、見たばかりだというのに、僕の脳はそれをまったく思い出せなかった。ただ一つ間違いないのは、それがたった今まで見ていた夢の一部だということだ。
 新幹線が上野駅を発車したのとほぼ同時に、眠りに付いてしまった気がする。それすらよく思い出せないが、ここ数日疲れていたのだから、きっとそうなのだろう。しかし弁当が食べてあるということは、それを食べる時間くらいはあったようだ。憶えているのは、眠りについてすぐ少年時代の夢を見たことだ。そして、ずっとその夢を見ていたのだ。
 小学生時代まで過ごした郷里に帰るのは30年ぶりだった。長い歳月を経た帰省が、そんな夢を見せたのかもしれない。わたしが郷里に帰るには、きっと思い出すべきことが沢山あり過ぎるのだ。記憶は古いスライド写真のように、わたしの頭の中を次々と通過していった気がする。それは昨日までの喧騒の日々の中では必要の無いものだった。しかし具体的に何を見たかというと、何一つ思い出せなかった。しかし夢の記憶なんてその程度のものかもしれない。日頃見る夢も、目覚めてから数分後には記憶の彼方に消え去ってしまう。ただ、淳司、健太、真人、裕二・・・彼らの顔ははっきりと思い出せる。夢の中に彼らが登場していたのは間違いなかった。そして父と母、母は私にとって継母だったが、実の母以上に愛しい存在だった。それから由紀。彼女は今、どうしているのだろう。小学校の6年間を同い年の兄妹として過ごした。男の子のように元気が良くて、活発な彼女はいつもクラスのリーダー役だった。放課後、わたしを連れ回す癖に当時は辟易としたものだが、今となっては楽しい思い出だ。いや、美しい記憶と言っても良かった。彼女と行った山裾の神社は今もあるだろうか?団地開発が途中で放置された為に生き残った神社だった。だが、あれからも開発は進まなかっただろうか?そして今もあの鳥居は立っているのだろうか?そこは由紀とわたしの最後の思い出の場所だったのだ。それ以来、僕らは離れ離れになった。
 ”僕”という言葉が自然と出てきた時、再び頭痛が走った。すると先ほどと同じように頭の片隅に隠れていた記憶の断片が垣間見えた気がした。しかしそれはまたすぐにどこかへ消えてしまった。慌てて頭の中を穿り返すように探ってみた。それが何かとても重要な記憶だった気がしたのだ。
「ながのー、ながのー。終点、ながのですー・・・・」
長野駅に着いたことを知らせる場内アナウンスが響いた。一瞬、アナウンスに気を取られた為に、記憶を探る作業も中断してしまった。バッグ一つの荷物を棚から降ろし、それからもう一度思い出してみた。しかし一度脳の狭間の陰に隠れてしまった小さな記憶は、もはや陰も形も消え去ってしまった。


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