じゃあ、お前はできるのか
今の民主党代表選とは直接関係がないが、色々政治家に対する批判を聞いてて思うのは、「じゃあ、お前はできるのか」ということを、もう少し反省してもいいのではないか、ということである。
もちろん、政治家は批判されるのも仕事の一つではあろうが、批判する側にも「じゃあ、お前はできるのか」と突っ込まれる可能性がある、という緊張感を少しは持ってほしいものだと思う。とくに首相の「経済音痴」をつかまえて小馬鹿にしている人が少なくないが、批判の中身はその通りかもしれないとしても、聞いていて非常に不愉快になる。それはほとんど、サッカーの監督の采配を外野から「あんな監督だったら俺が采配したほうがマシ」と、無責任に批判しているのと同じ調子である。
経済政策を重視している人のなかには、「政治と金」の問題なんかどうでもいい、「政策の中身」のほうが重要だ、などともっともらしいことを言う人もいる。しかし税制改革でも金融政策でも、「政策の中身」なんて素人勉強で理解できるようなものではない。むしろ、「政治と金」の問題のほうが、その良しあしは素人でも判断可能である。逆に、素人が年金や税制などの専門的な話題について、テレビなどで仕入れた(往々にして学会の中心にいる専門家から見れば的外れなことが多い)中途半端な知識で有権者が「政策」を判断し、政治家の「無知」を小馬鹿にして批判している現状のほうが、はるかに問題であるように思う。
政治を批判する際には、自分に同じ役割を与えられた時に同じことができるのか、という反省が絶対に必要である。つまらないことを言うようだが、良くも悪くも民主主義というのは、そういう社会であるべきなのである。もしそうでなければ、「政策通」のエリートが国民世論の批判や抵抗をすべて無視し、独断で全てを決める政治にするしかない*1。
(追記)
とにかく、「采配批判」を無邪気にできる人を見ると、本当に不愉快になってくる。そういう、他人を粘り強く説得するための努力を放棄し*2、「経済音痴」を一方的に小馬鹿にして溜飲を下げているような人たちの多さを見ると、今の政治と経済政策の混迷もうべなるかな、と思わずにはいられない。素人が経済学を勉強するのも結構だが、それはどこまで言っても「教養」の域を出るものではなく*3、それによって一方的に政治の良し悪しが判断できると思ったら大きな誤りである。
(さらに追記)
政治家の「経済音痴」を小馬鹿にするのも大概にしたほうがいい。社会科学は、「なぜそういうことが起こるのか」の分析のために使うべきであって、政治家をあほだ馬鹿だとこきおろして溜飲を下げる(社会学系にもこの手の連中がいるが)ためのものではない。彼らが現政権が「間違った経済政策」を取り続けている理由を、一行も説明しようとしていないのが不思議である。批判をするのはもちろんいいが、仲間同士で内輪で悪口を言い合っている感じで、どうも不愉快になる*4。