NO.11原尻の滝

新聞の日曜版で「風景考」という連載を始めるに当って、1回目の候補地探しで大分県豊後大野市緒方町にある江戸時代に作られたと言う用水路を見に出かけた。見事な水路で猶も現役だったが、1回目に取り上げるにはパンチ不足だった。役場でほかにいい所はないかと聞くと「田んぼの真ん中に滝があり、東洋のナイアガラと言われています」と紹介された。滝と言えば山や崖にあるのが普通だが、田んぼの中にあると聞いて、これは珍しいと食指が湧いた。町外れの広々とした田んぼの中を流れる緒方川が突然落ち込み、高さ20㍍、幅120㍍の滝があった。ごうごうと水が落ち、無数の糸を引いて、時にカーテンとなり見事な虹もかかっていた。滝のすぐ上、川の真ん中には鳥居が立ち、祭りの日には裸の男たちが対岸のお宮まで神輿を担ぎ上げると言う。阿蘇の大噴火で生れた滝で、今は滝を中心に年間様々な行事が開かれ、緒方川の臍であると共に、町の臍であるかもしれない。地方へ行くと、まだまだ新たな発見があるのがうれしい。映画の寅さんシリーズもそんな残したい風景がふんだんに出てくる。

春麗 田んぼの中の ナイアガラ

NO.12「通潤橋」

水のある風景を続ける。阿蘇外輪山の南西側すそ野、熊本県山都町矢部には城郭のように聳えるアーチ型の水路橋「通潤橋」がある。石橋の多い九州でも異彩を放っている。台地の水田に水を送る水道橋で高さ21㍍、長さ80㍍、3本の石の通水管が1日1万8千㌧の水を送っている。放水は水路の目詰まりを防ぐため、堆積物を水圧で流すために行われる。そのために今も管理人がいる。放水栓を抜くと、凄い勢いで水が噴出した。唐の詩人・韓愉は「水声は激激として風は衣を吹く」と詠ったが、こんな光景か。水煙の周りに虹も立った。橋はペリー来航騒ぎの最中、安政元年(1854年)、惣庄屋が企画、住民の献金と労力奉仕で8ヶ月で完成した。石工頭は二重橋日本橋も手がけた橋本勘五郎。地震対策も行われ、通水管の間には松丸太をくり抜いた木管が緩衝材として入れられており、先人の知恵には感心するばかりだ。
通潤橋は当初「吹上台眼鑑橋」と呼ばれていたが、肥後藩の藩校「時習館」の教導師であった真野源之助が『澤在山下其気上通潤及草木百物(サワハサンカニアリ ソノキウエニツウズ ウルオイハ ソウモクヒャクブツニオヨブ)』(易損卦程伝)という文章から採択して、命名したという。
水は水田灌漑用のため、田植えや水不足の時期は放水は中止され、土日祝日の正午、15分間だけ定期的に放水されている。地元の小学生たちは毎年水路を探検学習し、水の節約に努めているが、水の学習が郷土の歴史、先人の知恵を学ぶ橋渡しになっている。

ほとばしる 水に学ぶや 田植前