『ゲノムと聖書』批判(4)

なんだか批判ばかりしていて恵まれないので、今回でこの本の検証は最後にしようと思う。
最後は、この本の中で、聖書・特に創世記のはじめの部分についてどう解釈しているか、また、それに対する検証をする。


「創世記は本当は何を語っているのか」というサブタイトルにはじまる箇所から(p145〜)。

(創世記1章と2章の内容を簡単に紹介した後)・・もし文字通りであるなら、なぜ完全に一致しない二通りの話があるのか。これは詩的で寓話的な記述なのか、それとも文字通りに記された歴史なのだろうか。(146)



このように語り、その解釈を判定するために、啓蒙思想に影響されていない時代の解釈を、ということで、アウグスティヌスの創世記注解を紹介する。
(「寓話的」というのは、おそらくアレゴリーの訳だろう。比喩的、象徴的で歴史の事実とは関係がないということ)
私も昔解釈学の授業の中でレポートとして取り上げて、予想以上に悪くないことを覚えているが、創世記を釈義するのに紀元400年前後のアウグスティヌスだけ、というのはいくらなんでもあり得ない。


。。そして、アウグスティヌスのことばを引用して、結論している。

最終的に、アウグスティヌスは「ここで言及されている『日』とはどういう日なのか、それを理解することは非常に難しく、恐らく我々には不可能なのだろう」と書いている。また、創世記の妥当な解釈は、恐らく何通りもあるだろうとも認めている。(147,8)

彼が言いたいことは、創世記の解釈は絶対的なものはない、ということ、だから、そのような確かでない聖書の一つの解釈ではなく、それよりも確かな科学の主張を受け入れるべきだ、ということ。

25世紀にもわたる論争にもかかわらず、創世記の1章と2章がどういう意味で書き記されたのか、その意味を正確に知る人はいないと言って差し支えないだろう。

私がこの本に、最も問題と感じる部分はこのところ。
人間理性・神を必要としない人の知恵によって、神のことばを無にしているところだ。この本全体は、この基調で貫かれている。


神に反逆する霊−サタンは、「神は、ほんとうに言われたのですか」(創世記3:1)と人に対して今も語りかけ、神のことばは絶対ではない、とそそのかしている。神のことばでなく、他の、真実らしいものに、目をそらせようとする。


この「創世記は本当は何を語っているのか」というサブタイトルの著者の結論は、「よくわからない」「今後もわからない」ということ。。




。。長くなったので、次回に創世記1,2章が明確に語っていることについて書こうと思う。