小人閑居

2018-08-01

子狐

そのころは、毎日がどうしようもなく過ごしにくかった。手袋の薬指のところに小指も一緒に入れてしまったような、靴下のかかとが足首の前に来てしまったような、自分のサイズに合ったものを身に着けているはずなのに、何かがあっていない。Inadequateという単語を額に彫りこまれ、手袋の中で指を直そうともがき、靴下の向きを変えようと靴の中でつま先を動かし、ごそごそしていると、落ち着きがなくてやっぱりだめだと…。

苦しくて苦しくて、苦しさを訴えようとしても言葉がうまく出なくて涙ばかりが出て、感情的と言われ、そんなinadequateな人はここ以外のどこでも絶対だめだと言われ。

あれが、ダブルバインドってやつだと今だとわかる。まったくね。

そんなころ。冬の夜、時々そっと庭に逃げていた。空に雲がなく、町からも遠い空には天の川がきれいに見えていて、静かに草木が凍っていく夜。じっと座っていた。しばらくすると、なにかが視界の端で動いてそっととなりに座った。そのころ飼っていたクロちゃんにしては、ちょっと大きい。うん、ちょっと大きい…。あれ?と思ってみたら、その動物も同じタイミングでわたしを見て、しっかりと視線があった。

子狐。

ちょっと見つめ合ったあと、子狐はいなくなってしまった。






突然思い出した、冬の夜のこと。メモ代わりに。

Kにも出会っていない、おかめもまだ生まれていなかった、そんなころ。

2018-07-12

太文字

Kがやけにモフモフとした大きい八割れ猫をひょいと差し出しつつ、

「この猫、肉球の裏に怪我してて、その怪我がちょうど太文字と同じ幅だから、太文字って名前だよ」

と言った。

ぐるぐると黄色い瞳を回しながら、太文字は「ぬー」と鳴いた。毛がくるくるとカールしていて、髭もくるくるで、コーニッシュレックスなのかな、しかしその割には体がふとましく手足が太い。

居間のど真ん中に水道の蛇口を設置したKは、太文字を居間の真ん中でごしごしと洗い出した。太文字は、ぬーと鳴きながら洗われるままに洗われている。洗うと猫は細くなるものだが、太文字の毛はカールがよりくるくるして濡れれば濡れるほどもっふりしていく。

本棚には木くずが詰め込まれて、天竺鼠が固まりになっている。

床の上には、綿埃がそこここで丸くなっている。また猫毛掃除の日々が始まるのか…とちょっとうんざりしつつ、Kは動物のいる日々が好きなのかな、とカーテンの上にとまって踊り狂っているおかめインコを捕まえながら考えていた。

おかめインコは「ぴるるんぴるるん」「ぶーぶーぶー」とうるさく泣き続ける。どうやったら止まるのかな、と手に持ったおかめインコをしみじみと見ると、それは自分のスマホの目覚ましが鳴っていた、という。



猫がいないと綿埃とかほんと少ない。あの小さい体であんなにたくさんの埃を製造していたとは。おかめ、すごいな。

そして、夢の中なれど、ふとましい八割れ猫に太文字と名付けるとは、Kのセンス、侮りがたし。

2018-07-03

生まれ変わり

仕事からの帰り道にジムがある。たまにはちゃんと運動をしなければ、と思って行くことにした。

1時間、クロスランプでガシガシ走り、汗だくになる。柔軟体操をすると、背中やふくらはぎが固くなっていたことが分かる。足先から上半身、首と上へ伸ばしていき、上から下へもう一度伸ばしていく。

シャワーで汗を流し、さてドライヤーでも。と思って気が付いた。

化粧水やブラシや綿棒などなどすべて忘れてきていた。

もう、なんというか人間としてだめだ、と思った。

もしかしたら、気が付かないうちにおかめの生まれ変わりになってたのかな。そうしたら、最近まで猫だったんだから仕方ないよね。

と、ありもしないことを妄想しながら、ぐちゃぐちゃの髪をゴムで適当にまとめて帰宅した。


Kにわたしがおかめの生まれ変わりになった疑惑を話すと、「あの猫はもっときちんとした猫だった」と、猫よりダメ認定されてしまった。うん、まあ、そうだわな。

2018-06-14

梅雨の梅

4月に転職して、休みが不定期になった。土日休みはそれなりにいいけど、5連勤は結構つらい。通勤も自転車になったので、最近とても時間に余裕ができたような気がしている。気がしているだけで、よく考えれば仕事とは別に参加をしているプロジェクトが2つあり、自分のプロジェクトが1つある。仕事も元々やりたかった分野により近くなったのはとても楽しいけど、その分、論文読んだり道具の作成をしたりしないといけないし、実は結構大変だな。とか言いつつ、論文を書く機会にも恵まれて、本当にやりたかったことに近づいていて、かなり楽しい。

そんなこんなで、猫がいない生活はそれなりに続いていく。

時間に余裕ができたと感じているので、今年は梅干を漬けることにした。とりあえず2キロ。仕事から帰ってきたら、タイミングよく梅干用の梅が届いた。よく熟していて箱を開ける前から馥郁と梅の香りがする。梅の香りを楽しみながら久しぶりの梅仕事。梅干は塩分は20%と決めているので、400gのマラドンソルトを量る。梅の実の薄緑から紅色のグラデーションと真っ白な塩。見るからにおいしそうな色の取り合わせだけど、この状態では食べることができないんだよな、と考えるのは毎回のこと。

最後に梅を漬けたのはもう7年以上前。そのころは、まだおかめも割と元気だった。よく日向ぼっこもしていた。梅干に猫の毛が入ってしまって困ったりもしていた。

梅の香りは今も昔も変わらない。梅雨の湿度で部屋の中にたぷたぷと広がっていく。

そうだ、今年の梅はおかめにささげよう。論文もおかめにささげよう。

どっちもいらんわ、肉よこせ、って声が聞こえた。

2018-06-01

時間薬

時間薬ってよく言われるが、確かに時間でしかよくならないものがあると思う。

おかめが他界してもう2か月以上がたった。まだ、そのことについてうまく話せない。でも、忘れたくないことがいくつかある。Kと一緒に夜遅くまで帰れなかったわたしを待っているかのようだった最後。膝の上のおかめがとても軽くなっていたこと。最後まで膝の上に抱いていてもらえるように猫は死に際に体重を捨てていくのだろうか。翌日が春分の日で、すごく寒くて雪がしんしんと降り続いていたこと。雪を見ながらKと一日中泣いたこと。翌日が休日の夜に他界するなんて、最後までいい猫だった。おかめの野辺送りに行ったとき、火葬場から見た夕暮れの空がとても広かったこと。おかめのご自慢の長くてまっすぐなしっぽは骨の一つもダメージがなくきれいなままだったこと。あんなに何度も修羅場をくぐってきていたのに。

そろそろおかめのことが書けるかもと思っていたのに、書こうとすると馬鹿みたいにぼろぼろと泣けてくる自分に、まだ時間が必要なんだとびっくりしている。心の中でそこだけゆっくり時間が流れている。日々の生活は忙しく過ぎているのに。

おかめのことを心配してくださっていた方々、ご報告が遅れてしまいました。ありがとうございました。