秋山好古の晩年の生き方


以前、衛星第二で、「拝啓 秋山校長殿 〜日本騎兵の父 秋山好古の晩年〜」という番組があっていた。
四国ローカルの放送だった番組をアンコールで放映していたようで、晩年の秋山好古にスポットを当てていた。
とても良い番組だった。
http://www.nhk.or.jp/matsuyama/sakanoue/event/event_013.html

秋山好古は、日露戦争後、陸軍大将となり、本当は元帥にもなれるはずだったそうだ。
ところが、郷里松山の知り合いから、名前だけでも貸して欲しいと、ある校長が空席になっている中学の校長になることを依頼された。

秋山好古はそれを快く受け入れる。
しかも、名前だけ貸して実が伴わないのは良くないとし、東京を去り、元帥にもなるべきはずだったのにそれもやめて、故郷の松山に帰った。
そして、その北予中学という地方の普通の一中学の校長になり、質素な暮らしをひとりでしながら、生徒たちを慈しみ教育することにその晩年の人生を捧げたそうである。

秋山好古は、「生徒は兵隊ではない」と言って、昭和初期に軍事教練が全国の学校に義務づけられたのちも、軍事教練を最低限にとどめて、落ちついて学問をできる環境を整えることに努力したそうである。

当時の秋山を知る人々の思い出話や、最近発見された資料により、秋山の中学校長時代のエピソードが番組ではわかりやすく紹介されていたけれど、どれも意外なほど、優しくてリベラルな秋山の様子を伝えるものばかりだった。

秋山好古は、早朝から校門に立ち、生徒ひとりひとりにあいさつしたという。

また、ある時、軍人時代の勲章の数を尋ねる人がいると、そんな昔のことを聞いて何になる、私は今は中学の校長だ、ということを答えたらしい。
軍服姿の秋山の写真を生徒に販売しようとする動きがあると、それもやめさせたらしい。

重度の糖尿病で歩行が困難だったにもかかわらず、毎朝学校まで歩いて通ったそうだ。
学校に通う途中の道で市民たちからあいさつされると、必ずひとりひとりに会釈したとのこと。

よく生徒を誉め、誉めるのと同時に字をきれいに書きなさい、といったことなどを丁寧に言ったそうである。

日露戦争においても、いかなる弾丸の中も平然としていたそうであるが、同時に部下をとても大事にしたそうである。
部下を慈しみ、決してむやみな突撃など命じたりすることはなかったそうだ。
なるべく部下が死なぬように工夫していたそうである。
それでも日露戦争で大勢の部下が戦死したことを、生涯悼み続け、多くの追悼碑に揮毫し、ひとつは戦死した部下への思いもあって松山で質素な独居生活をしていたとのこと。

関東大震災での日本人による朝鮮人の虐殺事件に心を痛め、当時は珍しかった朝鮮への修学旅行を北予中学では実施することにし、生徒たちの異文化への理解や敬意を育むことに努めたそうである。

また、昭和初期の大恐慌の頃に、秋山は国際協調の観念を涵養することを生徒たちに説き、さらに、デンマークがもともとは貧しい国だったが国民の農地改良によって幸福な国民になったエピソードを紹介し、日本も国民の勤労さえあればきっと大丈夫であることを説き続けたそうだ。
そのエピソードから察するに、秋山は海外への侵略膨張ではなく、自国領土内部での土地改良や勤労努力によって、十分に日本はやっていけるし生きていけると考えていたようで、昭和に跋扈したある種の陸軍の軍人達とずいぶん考えが違ったようである。

番組の最後の方で、秋山好古の以下の言葉が紹介されていた。

「日が暮れたら、天を見なさい。
絶えず動かない北極星は旅の道しるべになります。
世を渡る場合には、誠の心が道に迷わぬ為の磁石になります。
曲がった道に入ったと不安になった時は、自分の誠の心に問うてみなさい。
天が与えた良心はいつもあなたたちを導き守ってくれるでしょう。」

本当に胸を打たれた。

一身独立・一国独立を目指し、若い頃から刻苦勉励し、黙々と自らの職務に励んだ秋山好古の、日露戦争以後の生涯も、かくもさわやかで立派だったとは。
この番組を見るまで知らなかった。

良い番組だった
世の中、本当に立派な人もいるものだ。
人は秋山好古のようにありたいものであるとその番組を見て思った。