巡礼、音と狂気:奄美自由大学体験記3

奄美自由大学には不動産としての建物や設備はない。したがって「教室」もない。逆に言えば、いつでもどこでもが「教室」になりうるし、だれもが先生にも生徒にもなりうる。そんなある意味で極めて厳しい「自由」を標榜する「大学」にふさわしい「教室」は「巡礼」という旅のひとつの原型に習って選択されている。巡礼の途上で「教室」に見立てられる場所は、基本的に「異界」、「常世」に接するゾーンである。それは文字通り「墓」、それも太古の風が逆巻くようなノロの墓であったり、日本が切り捨て忘却した過去の記憶の生き証人のような人たちの生活の場であったり、あるいは生命の根源を震わせ続ける海と陸の狭間、汀(なぎさ、みぎわ)であったりする。
そのようなスポットを経巡りながら、巡礼者となった参加者たちはごく自然に相手を入れ替えては歩調を合わせ、お互いのイメージと言葉のなかに映し出される己の歪んだ姿とこわばった心を垣間みながら、少しずつ少しずつ歪みを正し、こわばりを解きほぐしてゆくことになる。心と身体の深いチューニングのレッスン。それを可能にするのは、「奄美」という特異な世界、今福龍太さんの言葉を借りれば、大陸的世界ではない、「群島的世界」の硬質の多様性である。

私は奄美空港に降り立ったときから、なぜか島の花や木、植物たちや昆虫、動物たち、土、石、そしてもちろん珊瑚、珊瑚礁、海、空、雲に挨拶しなければならないと思い込んでいたふしがあった。盲滅法にデジタルカメラのシャッターを切り続けたと書いたが、何かに押されるようにして、挨拶代わりに、それらの写真を撮っていたような気もする。現に、約1000枚の写真のほとんどには人間は写っていない。むしろ、人間たちを支え、包囲し、時に脅かす物たちの写真がほとんどなのだった。それから、古い家、道、川。

奄美大島にいる間中、私の聴覚は半ば異常だった。絶え間なく、波の音、風の音、蝉の声が入れ替わり、あるいは混じり合って四方から聴こえてくる中で、録音機をやっぱり持ってくるべきだったとひどく後悔したのだった。一番怖かったのは、最終日、名瀬市内の「おがみ山」に登ったときの圧倒的な蝉の合唱だった。数種類の蝉の声が途方も無いオーケストラの大音響のように私の耳を襲った。「狂気」という言葉が浮かんだほどだった。

1000枚の写真のスライドショーを作った時に、偶然、無意識に選んだBGMはピアノが極度に禁欲的に響き、その隙を窺うようにして限りなくノイズに近い自然の音のようにも聞こえる電子音が侵入するAlva NotoRyuichi SakamotoのInsenとVrioonだった。どう見ても「南国」の映像に、北極圏を彷彿とさせる音響が、奄美滞在中の私の感情にこれ以上ふさわしい音はない、と確信するくらいフィットしていて驚いた。

Insen

Insen

奄美への道連れ:奄美自由大学体験記2

奄美自由大学には、迷った挙げ句、次のものを道連れにした。

アーキペラゴ―群島としての世界へ

アーキペラゴ―群島としての世界へ

機―ともに震える言葉 (りぶるどるしおる)

機―ともに震える言葉 (りぶるどるしおる)

そして、

これは今年1月から「すばる」に連載中の今福龍太さんの「群島-世界論」10回分のA3に拡大したコピー。その一番上には、たしか6月号に掲載された今福龍太さんによって奄美に誘われたル・クレジオの貴重な奄美体験記が読める「特集」を重ね、KOSACこと奄美在住の人柄もとても素敵な凄い写真家濱田康作さんによる、白波たつ冬の奄美の海を眺めるル・クレジオの後ろ姿が斜交いに撮られた写真を「表紙」に見立てて、大きなクリップで挟んだ。その大きくかさばるコピーの束は厚さ2センチ弱になり、荷物の出し入れの大きな支障になったが、連れて行かないわけにはいかなかった。結局、そのコピーの束を捲ることはなかった。しかし、鞄を開けるたびに眼に入る表紙の写真にKOSACの視線とル・クレジオの視線がガジュマルの古木のように絡まり合った複雑な印象を受け、それを一瞥することは、私にとって今回の奄美探究のこの上ない指針になったのだった。

今回奄美往復で利用した空の便はすべてJALだった。奄美は後に書くことになるかもしれない複雑な理由から国内の主要な観光スポットから微妙にはずれていることもあり、もう少しでマイレージが使えるANAは利用できなかった。しかしそのおかげで、久しぶりにJALの機内誌「SKYWARD」に目を通すことができた。そしてそのなかで小説家吉田修一さんの旅行記ポルトガルの空、最果ての岬に。」が非常に印象に残った。吉田さんは自身行ったことのないリスボンを舞台にした小説「7月24日通り」(映画「7月24日通りのクリスマス」が11月公開予定)を書いている。リスボンの市街地図を「見る」ことの中に立ち上がってくる「想像」だけを頼りに書かれた、それは小説だという。そのこと自体が非常に興味深いことだが、ともあれ、吉田さんはそんな小説を書いたことも一つの契機となり、現実のリスボン、そしてポルトガル最西端、ということはユーラシア大陸最西端の岬「ロカ岬」に導かれたのだった。吉田さんにとっては小説「7月24日通り」の執筆においても、そしてポルトガルへの旅においても、あの詩人フェルナンド・ペソアの「わたしたちはどんなことでも想像できる。なにも知らないことについては」という言葉が「強い味方」になったという。私はそのペソアの言葉は陳腐だと思った。というのは、むしろより良く、より多く知ることによって、安易な想像から解放され、もっと厳しい本物の「想像」とでも言えるものの秘密に迫りたいと思っていたからである。吉田さんもまた旅の最後には、ロカ岬の突端に立ったときの言語を絶する体験について、ペソアの言葉を超える吉田さん独自の言葉に到達していた。「この恐ろしいほどの空白を前に、人は想像することができる。想像することで、この目の前に広がる空白との攻防に勝利できるかもしれない」。「恐ろしいほどの空白を前に」した「想像」の正体は何か。それは「想像」という言葉に寄りかかっていたのでは見えて来ないものだろう。そんなわけで、私は「恐ろしいほどの空白を前にした想像」の正体を見極めるという興味深いテーマをJALの機内誌の吉田さんの文章から拾い上げて、奄美へのもうひとつの道連れにしたのだった。