現実


ここ数年毎冬大雪に見舞われる札幌、少なくとも私の住む界隈では、このような殺伐とした科白の立て札が目につくようになって、見る度に私は悲しい気持ちになる。たしかに、こんな口調の科白を書きたくなるようなマナーを欠いた雪捨てや雪寄せが日常化してしまったという背景があるのだが、結局はいたちごっこが続く。そうなってしまったもっと深い背景を言い出すと、日本人は、日本は、という話にまでなって、絶望的にもなる。ペットの糞をちゃんと処理しない大人たちや、自宅の前を必要以上にきれいに除雪し、その大量の雪を公共の道路や公園や余所の土地に無断で捨てる大人たちに業を煮やした大人たちとの間で冷たい戦争が年中続いていて、そんな険悪な空気の中で育つ子供たちの心も荒んでいかないわけがないと思ったりもする。しかし、そのような現実から被写体として切り取られた立て札自体はどこか滑稽な、ユーモラスな感じがする。

残った骨組みが、フレームのように感じられた。

我が家の雪かき七つ道具ならぬ五つ道具。先端が見えないのは「鶴嘴(ツルハシ)」。一旦解けた雪が凍って広範囲に厚い氷の層を作り危険な場合や通行に支障がある場合には、ツルハシで「えい、やー」と細かく割ってから捨てる。

検索はお百度:「百度」(Baidu、バイドゥ)の由来

知ってる人も多いと思うが、

インターネットのサービスの中で中国で最大、世界で第4位(Alexaのデータによる)の訪問者数を誇る「百度」(Baidu、バイドゥ)が、2007年に日本語版サービスを開始するという。
CNET Japan2006/12/06「日本進出が決まった中国最大の検索サービス「百度」の実態」
http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20337724,00.htm?tag=nl

私がこのインタビュー記事で非常に興味深かった、しばらくあれこれ連想してしまったのは、インタビューに答えるバイドゥの会長兼CEOであるロビン・リー(Robin Li)さんが、「百度」(Baidu、バイドゥ)という命名の由来について語った部分だった。

バイドゥは、中国語の漢字で「百度」と書きます。それは100回という意味で、中国古来の詩に由来します。大切なものを探すときに、100回ぐらいいろいろな場所を探しますが、意外な場所から発見をするということだそうです。

中国の人たちは「大切なものを探すときに、100回ぐらいいろいろな場所を探し」、しかも「意外な場所から発見をする」という貴重な経験則を現代にまでちゃんと継承しているのかなと感心したと同時に、そういう意味のこもった「百度」を検索エンジンの名前にしたところに、私は「検索」に関する非常に深い認識すら感じた。そして刹那に「百度参り」、「お百度」を連想した。何かを感じて、グーグルで検索してみたら、面白い記述を二つ見つけた。面白いと感じたのは、まるで「検索」について語っているように思えたからである。

百度参りは、願いを叶えてもらおうとする仏さまや神さまに、100回お参りして祈願することです。同じ願い事で、100回を1セットとして何回も繰り返す場合もあります。平安時代の末頃から始まったと言われています。回数を重ねることで仏さまと顔なじみになり、信仰心の篤さと願いの切実さを訴えてご加護を得る、という考え方です。これから発展して、交渉事などでも「お百度参り」とか「お百度を踏む」という表現が使われます。

しかし、回数を重ねることは、本来別のところに意味があります。まず、回を重ねることによって、無駄がなくなり洗練されます。お参りは雑念を持たずに、一心に祈ることが大切です。回を重ねればすぐに精神統一することが上手になるでしょう。また、回を重ねることで今まで気づかなかったことに気づきます。お百度は修行の一形態なのです。したがって、単に回数をこなせば良いのではなく、一回を大切に参拝しなければなりません。
「お百度参り・百度石」http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/newmon/kigan/hyakudo.html

この説明を、「検索は、検索エンジン(Google、Yahoo、Baidu)さまに、100回入力して祈願することです」のように私は読んでいた。自分が何を探しているのかをはっきりさせることからはじまり、お目当ての情報にたどりつくことまで、「検索」の幅は非常に広いが、どんな検索も「あちら側」にいて姿の見えない神様(検索エンジン)頼み、一種の祈願のようなところがあるから。

また、回を重ねることは、ひとつには、「無駄」がなくなり「洗練され」る、つまり「精神統一」力の向上につながり、もうひとつには、「今まで気づかなかったことに気づ」けるようになるという箇所では、検索という未だにお手軽な機械的な操作としかみられていない節のある行為が持つ本当の意義について書かれているような気がした。だから、私は思わず、検索とは精神修行の一形態であり、単に回数をこなせば良いのではなく、一回を大切にしなければならない。しかしながら、やはり百度は入力する覚悟で臨まなければ、願いは叶わない、などと読み替えていた。

また、次のWikipediaの「百度参り」の記述では、検索に関するより高度なアナロジーに誘われて、笑ってしまった。

百度参りの方法は、社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す。俗にこれを「お百度を踏む」という。社寺の入口近くに、その目標となる「百度石」という石柱が立てられていることがある。回数を間違えないように、小石やこより、竹串などを百個用意しておいて参拝のたびに拝殿・本堂に1個ずつ置いたり、百度石に備えつけられているそろばん状のもので数を数えたりする。

百度参りは人に見られないように行うとか、裸足で行った方がより効果があるなどとも言われる。

検索エンジンを作ることは、現代の神様か仏様を作ることにも等しいのだと再認識した。久しぶりに、中国から神様か仏様がやってくる。しかし、検索エンジンという現代の神様か仏様の本当の姿はまだちゃんと見えない。


現在の「百度」のインターフェース。グーグルに似ている。「MP3」検索ができるのが目立つけど、著作権処理大丈夫かと思った。日本語版では修正されるのかな。

画像の検索?

ある種の検索に関してmmpoloさんが教訓に満ちた報告をなさっている。
『mmpoloの日記』「画像検索」http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20061205/1165266256

mmpoloさんが語る写真だけがたよりの植物の同定の難しさは、私も「シラタマノキ」で散々経験したことだが、その自分の経験をちゃんと整理できていなかった。mmpoloさんの報告を読んで、自分の経験を少し整理できそうな気がした。

初めて見るものの正体を知りたいとき、人はまずその名前を知ろうとする。名前(言葉)が分からなければ、そのものの正体、つまり知識(言葉)に到達できないからである。ものの正体とは、名前をインデックスとした知識の塊であり、言葉つながりなのである。

名前を知るために、そのものの姿形を言葉(記述)にするか、イラストを描くか、写真を撮るかして、それらを手がかりに、知っている人を探す。mmpoloさんの場合はmixiで、私の場合はblogで、「誰か教えて」と助けを求めた。

すると、おそらく多くの場合、誰かが「これじゃないか」と「候補の名前」を知らせてくれる。たいてい写真も付けてくれる。mmpoloさんの場合も私の場合もそうだった。

「候補の名前」が分かった時点で、検索エンジンが使える。

(写真を直接入力できる「ホンモノの画像検索」は、現在のところ、以前紹介したLike.comのようにカテゴリーが一部の商品等に限られている。)

しかし、ここから始まる検索は、対象となるものに関する知識の体系との格闘の様相を帯びる。知らされた「候補の名前」から数多くの画像の比較検討を経て「正しい名前」に到達する道のりは険しかったりする。とりわけ生物の場合には、mmpoloさんの場合も私の場合も植物だったが、その気の遠くなるような多種多様性に見合った知識の世界、分類の世界に分け入らなければならない。

mmpoloさんの場合には運良く得た「候補の名前」は「アルスロロキアグランディフロラ」だった。

Googleでこの「アルスロロキアグランディフロラ」を検索したら、「グランディフロラ」がヒットした。
grandifloraというスペルで、学名の種小名のようだ。
学名はラテン語、リンネの考案した2命名法の属名+種小名で成り立っている。
grandifloraは種小名で、大きな花の意。
どうやらアルスロロキアが属名らしい。
これを検索するとヒットしない。

この検索第一段階で、すでに生物分類学の知識が駆使されている。それによって「アルスロロキアグランディフロラ」という一続きの呪文のような名前は「アルスロロキア/グランディフロラ」に分節化された。「グランディフロラ」のラテン語の種小名と知識は突き止められた。が、「アルスロロキア」はそのまま検索してもヒットしない。

そこでmmpoloさんは「アルスロロキア」をさらに分節化して試みた。が、やはりヒットしない。

はた、と考えたmmpoloさんは、この時点で最も有効な手がかりである「グランディフロラ」のラテン語の種小名に命運を託した。「grandiflora」をイメージ検索にかけたのである。

改めてgrandifloraでGoogleのイメージ検索にかけると、似た花がヒットした。
名前がアリストロキア・グランディフロラという。
スペルはAristolochia grandifloraだった。
ウマノスズクサウマノスズクサ属の植物。

ここで、画像レベルで「似た花」を探し当てることができて、しかも「アリストロキア」がラテン語の属名「Aristolochia」であることも分かり、ついに「Aristolochia」を検索した。

これ(「Aristolochia」)を検索にかけるとアリストロキア属の植物の画像が出た。
A. grandifloraよりもA. elegansの方が似ている。
アリストロキア・エレガンスは日本名パイプカズラといい、園芸植物として栽培されている。

ようやく同定できたようだ。画像検索は難しい。

こうして、「Aristolochia」属という似た仲間の植物の画像の中で「A. elegans」と呼ばれるものが、mmpoloさんが銀座一丁目で遭遇した初見の花に間違いないことがほぼ確かめられた。めでたし、めでたし。しかも、名前が「エレガンス」。mmpoloさんの探究、検索の姿勢、過程も「エレガント」だ。

蛇足ながら、私の「シラタマノキ」騒動でも同様だったが、未知の植物の名前を知るためにたどるステップは基本的に四段階である。

1 イメージ(写真)を手がかりに、知っている人を探す。
2 「候補の名前」をテキスト検索、イメージ検索にかける。
3 ヒットした画像を比較検討し、「似たもの」を探す。
4 「似たもの」の画像に付された名前が「正しい名前」であると判断する。

このような探究では、そもそも「正しい名前の付いた画像」が存在することを前提にしている。そして、無視できない重要なポイントは、検索エンジンを使った文字通りの「イメージ検索」自体は、mmpoloさんも私も嘆く「画像検索」の一部をなすにすぎない点である。つまり、画像に写っているものどうしが「似ていること」を判断するのは、mmpoloさんや私なのであって、検索エンジンが返してくれる画像には、「似ていること」に関する情報は付けられていない。