ひとりのアーティストが20年をかけてたどったけっして平坦ではない、むしろ茨の径(みち)を想像した。以前その特異な文体に惹かれた次の内藤礼の言葉*1はハイデガーを想起させるような「数えられるものの思想」と「無限」へと放擲された「私」を感じさせた。
いつも隔たりの上に魂をおいて、揺すぶられながら、世界をわたしにはまだ知られていないものとして見つめようとすること。世界がそれだけではないと差し出しているかもしれないひとつひとつを拾い、何度もきょうの空にむかって告げるまでがひとつの出来事だとしても、それをひとのなす尊いことではないとどうしていえるだろう。
わたしのなかにわたしに沈黙する。けっしてわたしの対象にならないものがあることを願う。その数えられないものを数えられないまま、あなたと呼んでみたい。あなたが無関心だとしても、ほかにわたしの根拠は見あたらないのだ。
放られる。そこにはいられないところに。それを頼りに放る。そこにはいられないところに。
これが書かれた20年以上前の体験について同じひとは次のような記録を残していた。古本で入手した『世界によってみられた夢』の最終章の後半*2である。この本は大半が作品*3の写真の頁で、作品に均衡するわずかなテキストの頁が活字ではなく手書き文字である。そして装幀が私がもっとも尊敬するデザイナーの一人杉浦康平さんだった。
写っている異物は乾涸びたエゾノコリンゴ。
- 作者: 内藤礼
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1999/12
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4年前のこと
あまりにも くたびれ
疲れすぎて 眠れなくなったとき
なにもすることがなかったので
ベランダに出て シャボン玉を飛ばしたシャボン玉には 色がない
輪郭がない
そして完璧な正円無数のシャボン玉が
暗闇を切り取って空に浮かんでいたはっとした
突然 シャボン玉に虹が宿っていた
しかも 無数のシャボン玉がすべて同時にあたりは漆黒から濃紺へと変わっていた
そのとき
わたしはいま祝福されている
と思ったそのことがずっと気にかかっている
はじめてテントの内に入ったとき
あのときと同じきもちになった曖昧さをたよりにして
近くへ行くことにした
世界が差しだしている無限によって祝福されている、という感受性…。