21世紀から見た『狭き門』

『狭き門』という小説を本当に久しぶりにに読見返した。
20世紀初頭の,フランス文学の名作らしい。フランス文学史のことは良く分からないので,とりあえず当時の若者の生き方を描いた資料としてみると大変興味深い。
作品を乱暴に要約すると... 主人公ジェロームは年上の従姉アリッサのことを幼い頃から慕っている。二人はともに信仰心が強く,文学的そように恵まれ,相思相愛なのだが,アリッサの妹ジュリエットがジェロームのことに首ったけのことを知ったアリッサはジェロームとの婚約を先延ばしにする。一方,ジュリットはある実業家と婚約,結婚し子供をもうけ,幸せな家庭を築く。ジュリエットは彼女なりに,アリッサのためにジェロームへの思いを犠牲にしたとも言える。
ジェロームとアリッサは,ジュリエットに気づかい,再会の機会を先延ばしにし,その間,頻繁に文通を交わす。ただ,彼らの文通は恋人同士の文通にしてはあまりに純粋というか精神的だ。再会しても,二人の気持ちはすれ違う。アリッサがあえてジェロームの想いをいなすような態度を取り続けるのだ。再開後も,アリッサは信仰から得られる幸福を,ジェロームとの結婚から得られる幸福よりも優先する。結局二人は別れ,アリッサは孤独のうちに死んで行く,アリッサの死後,ジェロームはアリッサが残した日記から彼女の彼への想い,葛藤を改めて発見する...
この作品を,当時の一般読者はどのように受け取ったのだろうか。発表されたのが1909年とのこと。1909年というと,フランス社会の脱キリスト教化の歩みが決定的になった時期と考えてよい。カトリック教会がフランス社会へおよぼす影響力は小さくなり,その傾向はもう挽回不可能な状況であった。そういう状況化で,なぜこうしたストーリーの作品を書き上げたのだろうか?単なる三角関係ではなく,アリッサのようなキリスト教的<聖性>に憑かれた女性をヒロインにするにすることによって,キリスト教的な価値を揶揄したり,批判することにそれほど大きな価値が意義があったとは思えないのだが。逆にこれが1860年1880年だったら,とても前衛的な作品に見えただろう。
発表の時点で既に<古くさい>感じがして,それがセールス・ポイントになる作品も歴史には結構あるものだ(バッハとか)。『狭き門』1909年の時点で,ある種の懐古的な趣を持った作品として受容されと考えられるのだが...どうなのだろう。