ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

初期JAPANと今年のデヴィッド・シルヴィアン

果てしなき反抗
ボーナス・トラックやPV映像(CDエクストラ)を加えて、初期JAPANの3枚が最近、再発売された。これまで、なぜかアナログから買い換えていないままだったデビュー作《果てしなき反抗》を、ようやくCDで購入。初期の美点を再確認した。
グラム・ロック的にグリッターなファンク・ロック。シルヴィアンの金切り声といいギターのトーンといい、デビュー作には周囲からハード・ロック視されるような、いかにも若々しいエネルギッシュさがあった。それがこの時期ならではのカッコよさだったわけだけど、シルヴィアン本人はデビュー作をえらく嫌っている。次の次《クワイエット・ライフ》以降は、洗練を目指した欧風趣味へ、アート志向のソロ活動へと推移していった。そのことで、いくつかの傑作(JAPAN《孤独な影》、ソロ《シークレッツ・オブ・ザ・ビーハイヴ》など)を生みもしたが、「若年寄」化、「生き仙人」化はあまりに早すぎた。デビュー作を嫌いすぎたことが、シルヴィアンのその後の音楽活動の可能性の幅を狭めたのは否めない。もっと肉体的な音を鳴らせるはずなのに、観念に流れがちの傾向になってしまった。
シルヴィアンがJAPANのお手本にしたロキシー・ミュージックと比べてみよう。ブライアン・フェリーが金切り声をやめ、音域を狭めて落ち着いた歌いかたになり、声を音響の一要素として使う手法を確立したのは、《フレッシュ・アンド・ブラッド》からだ(その前作《マニフェスト》は移行期)。それに伴って、ギター・アレンジからも、ハード・ロック的でヒステリックなトーンは抑制されるようになった。でも、ロキシーの場合、そんな洗練されたサウンドに脱皮する以前に、6枚もスタジオ・アルバムを制作していた(バンド以外にフェリーのソロも5枚)。いってみれば、自分たちの「若々しさ」をしっかり消費しきったうえで「生き仙人」になったのだ、ロキシーは。
なのにJAPANは、たった3枚目の《クワイエット・ライフ》で、もう「生き仙人」路線に移った。つまり、頭のなかだけで「若々しさ」を消費したつもりになっていたわけで、その歪みが、シルヴィアンのソロ活動に後遺症として残ったように思う。彼はサウンド・クリエイターとしては、イーノ的な環境音楽へと傾斜した。しかし、イーノの実験が音による観念や論理として自律しているのに比べると、シルヴィアンの場合は観念に徹しきれない「雰囲気」勝負に聞こえる弱さがある。枯れきれていない「若さ」「幼さ」が、「雰囲気」になって滲み出すとでもいおうか。


シルヴィアンの今年4月の来日公演は、NHK BS2でも放映された。ベスト盤リリースにあわせた前回の来日公演(01年)は、こじんまりとしたバンド編成で、派手ではないものの確かな躍動感を伝えてくれた。歌い崩しの多さに不満な人もいたようだったけど、僕はシルヴィアンの音楽の全体像を「聞けた」というよい感想を持った。ところが今年の来日は、シルヴィアンとスティーヴ・ジャンセンの二人で音を担当し、そこに映像をからめるというもの。新曲中心の構成だが、メロディにあまり起伏のない歌、エレクトロニカサウンド、スクリーンの映像は、相互に刺激しあうことなく「雰囲気」に流されてもたれあう印象だった。新作《ブレミッシュ》はデレク・ベイリー、フェネスという鬼才2人の参加が異常な空気を作っていたが、彼ら抜きのステージは、残念ながら兄弟による趣味的空間にとどまっていた。
ちなみに今回の来日では、シルヴィアン/フリップの佳曲〈ジーン・ザ・バードマン〉がテンポを落として演奏され、まるでフォーク・ブルースみたいな地味な代物に化けていた。この曲はシルヴィアンがソロになって以降では、5本の指に入るグッド・ポップ・ソングなのに、それをこんな風にするのは納得できない。
ファンとしては、もっとヴォーカリストであることに集中したシルヴィアンが聞きたい。いくら音響に拘泥しても、ただの「うた歌い」であり続けたフェリーみたいに、ヴォーカリストの業を感じさせて欲しい(と思わせてもう何年たつんだろう?)。