ダグラス・サーク「わが望みのすべて」/ OST「8 Femmes」

BGM : OST「8人の女たち」

フランソワ・オゾン監督の「8人の女たち」のサントラをBGMにしてみました。ひねりも何もありません。ダグラス・サークですから。個人的にはエマニュエル・ベアールの、映画の予告編でもかなりフィーチャーされていた曲がかなり好きです。上手いか下手かではなく、ファン意識かも(笑)。タイトルが「Pile ou face」、表か裏か、という意味だそうです。みな、出演した女優が歌っているはずなのに、結構充実したアルバムになっているのですよね、これ。

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ちょっと前なのですが、ダグラス・サーク「わが望みのすべて」(All I Desire 1953)を見直す機会がありました。

10年前、夫と3人の子供を置いて、女優の夢をかなえるためニューヨークに出奔したナオミ(バーバラ・スタンウィック)は、三流女優として夢破れて生きていました。そんなある日、次女リリーから送られてきた高校の演劇部の舞台に立つので見てほしい、という切々とした手紙に心動かされ、町に帰ることを決めます。そして大女優として成功したことにして、町へと向かうのです。しかし、10年ぶりにあう教師の夫ヘンリーは、同僚のサラと関係を築きつつあり、すでに婚約者もいる長女ジョイスは、ナオミを受け入れようとはしません。次女リリーは彼女の帰還を歓待しますが、長男のテッドは、彼女が出て行ったときにはまだ幼く、顔も覚えていない有様です。しかも、テッドは、銃や釣りを教えてくれる銃器店店主ダッチと親しくしているのですが、ダッチは以前、ナオミと密通していた男なのでした。

と、こうした関係の中でこの映画は進むのですけれど、シナリオとして、またそれを演出に生かす段で、端正に練り上げられているのは、メロドラマとして視線劇が演出の中心になる、そこにおいて、視線がいくつもの場面で正しく対象を捉えていなかったり、絶えず分裂してしまったりする複雑さなのです。それが物語としてはメロドラマに過ぎないものに、映画としての奥行きを与えるのでした。

たとえば、次女リリーから見た母親は、大女優であり、憧れの人ですが、それは虚像に過ぎません。テッドは、学校教師のまじめな父親とは別に、ダッチに父性を感じ、憧れを抱いており、それは母親ナオミが夫ヘンリーに足りないと思った情熱をダッチに見出したのと共通しているでしょう。他方でヘンリーは、同僚の女教師サラに求めるような穏やかさだけではなく、やはりナオミを求めてもいます。ナオミの娘二人は、ナオミの自己像が二つに分裂したような形だともいえます。夫を貞淑に愛したい思いと、舞台を望む強い気持ち。また、才能あるリリーの舞台を見るナオミは、自分の過去の姿と過去の夢を、その舞台に見てもいたでしょう。そのように、久しぶりの帰還、そこでかわされる視線の交錯と愛情の回復の物語は、複雑な複数性を帯びた視線によって、物語の単線性とは別種の複雑さを帯びているのです。

いや、一見単線的に見えるというだけで、この物語を本質的におしすすめるのは、そうした複数性だったのかもしれません。たとえば長女ジェーンは、身持ちの固いまじめな娘なのですが、やや軽薄な大女優として喧騒を振りまく母親と婚約者が仲良くするのを見て、積極的に婚約者にアプローチし始めるのでした。そこでは演じられた母親像が、その演技によって本当に娘に作用するという奇妙なことが起こるのです。

演出として、そうした複雑な視線劇をさらに豊にするのは、個人的なスペースである二階または中二階と、全員が集う一階の居間をつなげる階段の踊り場で、ここからは見下ろすようにして居間の様子が見えるのでした。すると、居間のスペースでにぎやかにはしゃぐ人々を、上から冷ややかに見つめるといった視線が新たに発生し、一つの出来事がさらに複雑に多層的な様相を見せ始めるのです。

ダグラス・サークを見る喜びは、こうした映画の装置に触れていくことだと思います。複雑に分裂し、交錯していたものが、一つの小さな家の中に、嘘のように納まっていくラストまでの豊かさと鮮やかさですね。映画が映画であること。奇妙な言い方かもしれませんが、サークの映画を見ると、映画が映画であることにおいて、目が洗われるような思いになるのです。重要なのは、そこにおいて、映画的知性として前面に現れた装置は、一切隠匿されていないということだと思います。すべてそこに映っている。ただ、映っていてなお、その豊かさは映画が映画であるという以外、言語化不能でもある。こうしたものに触れていくと、むしろ私たちは政治的になっていくのかもしれません。知的で透明で美しいもの。その追求。たとえば、そうしたものが絶えず目前にあれば、醜悪なものに対して敏感にもなるでしょうし。いや、これは多少軽率な言い方かもしれませんが。

あるいは、謙虚になっていくのかもしれません。というよりも、謙虚になるべきなのだと思います。おそらく。