scanning every ATOM on the earth

三上さんbookscannerさんの、グーグルの書籍の電子化・インデックス化に関するやりとりに、横浜逍遙亭のid:taknakayamaさんが、興味深いコメントをつけられている。

繰り返しになるが、アトムのビット化を巻き込むかたちでサービスを拡大していくことは、同社の理念を推し進めると同時に競争的立場をより強固にする。固定費を増大させれば、費用の埋没性が高まることを恐れる他社にとって参入リスクは高まる。

「アトムのビット化」は、ニコラス・ネグロポンテを踏まえた表現だと思うが、私も、「本の電子化」は単独で論じるべきものではなく、世界中の全てのものをデジタル情報にしてデータセンターに集めるという、グーグルの長期目標の一環としてとらえるべきだと思う。

私なりのスローガンにすれば、 "scanning every ATOM on the earth" ということだ。

グーグルという会社は、"scanning every ATOM on the earth" への貢献度を、唯一の評価基準、唯一の原理として運営されているのではないかと思う。

たとえば、グーグル「740億ドルテレビ広告市場征服」の野望 - CNET Japanという記事にある、音声データによる視聴番組の判定(とマッチングした広告の提示)は、テレビ視聴というアトム的行為のビット化である。もちろんこれがビジネスモデルとしてどれだけ利益を産むのかということは、この計画における重要な要素だろう。しかし、それは採算性がある方が、「アトムのビット化」という第一目標を促進する上で効果的であるから、その一点においてのみ重視されているのではないだろうか。

つまり、ビジネスモデルとして劣悪であっても、より多くの「アトムのビット化」を継続的に行なえるようなプランがあったら、グーグルという会社の中では良いプランとして評価されるのではないだろうか。もちろん、実際には、採算性が全く無いものは、多くの情報が集まるほど費用負担が比例して増えていくので、スケーラビリティに問題がある。いくらグーグルでも、無限の資金があるわけではないから、単純に費用がかかるだけのプランは支えきれない。あるいは、そこに資金をつぎこむことが、他の「アトムのビット化」プロジェクトを阻害することになる。

多くのユーザを自発的に引きつけるだけのメリットを提供し、情報が集まるのと比例してある程度は利益を産むようなプランでないと、「アトムのビット化」という第一目標を無事に遂行していくことはできない。逆に、情報量の比例してユーザにメリットを与えつつ利益を産むようにしておけば、地球人口全てがネットを使うようになってもユーザ全員を「アトムのビット化」計画に参加させることができる。

だから、 "scanning every ATOM on the earth" は、結果として、利益の極大化を目的にした普通の企業のやることによく似ている。でも、それはたまたま二つの原理が行動として同じ結果を産むというだけのことだ。外部から観察できる行動にはそれほど違いは見えなくても、組織を駆動する原理は全然違うものかもしれない。

強いてグーグルの行動原理をビジネスモデルとして表現するならば、「ドクターファーム」と「ビット化されたアトム」の相互作用によって利益を得るということだろう。

「ドクターファーム」は私の造語で、以下のエントリーでイメージ的に使った言葉だ。

大量の「ビット化されたアトム」は、特定のタイプの人間を引きつける。その人たちは、ビット群からこれまで知られてない何かの意味を発見する。基本的には彼らは自発的に集まり、自発的に働く。だから、無理な動機づけはいらない。 "scanning every ATOM on the earth" をすすめ、ドクターのランニングコストだけ負担すれば、ほぼ自動的にそこから意味が汲み出されていくのだ。ドクターたちの内発的な動機に依存して、栽培するように「意味」を収穫していくので、私は「ファーム」という言葉が合っているように思える。

発見されたその「意味」は、一定の確率で利益を産む。それは、 "scanning every ATOM on the earth" が遂行されている場所以外で発見されることはあり得ないので、その発見は常にグーグルという企業の利益となる。

"scanning every ATOM on the earth" → ドクターファーム → ビット化されたアトムの中での新発見 → 利益 → さらなる "scanning every ATOM on the earth" というフィードバックループを独占することが、グーグルのビジネスモデルである。

「変な人ではありません。ソニーのとてもえらい人です」にワラタ

「新規ユーザを開拓しているのは任天堂でなくソニーだ」というソニー重役の発言に対して、「変な人ではありません。ソニーのとてもえらい人です」という注をつけていたのに笑ってしまった。

さらには、Joystiqというゲーム専門姉妹サイトのコメントとして、

「Trettonは現実と向き合う必要がないのだろう」。「SCEAの広報は重役用にもう少しましな現実味のある話を用意してやるべき」。

などと言いたい放題。

データ的にどっちが正しいかと言う前に、「ゲーム業界は新しいユーザ層を開拓すべきだ」という任天堂岩田社長の問題設定を受け入れた時点で、負け確定だと思います。

「双方向」ということの痛みがわかってる識者もいる

ネットは、あらゆるジャンルで専門家を脅威にさらすような構造改革を起こしているわけですが、どのジャンルでも、反論と言うより「否認」という言葉がふさわしいような、今ここで目の前で起こっていることに目をつぶる系の言説をよく目にします。

オープンソースやブログやグーグルなんていうのは、ビジネスの常識を根本から覆すものです。実績のある人にとっては、そういう動きを認めることが、自分の足場を崩すことに直結しているわけで、やはり、これをしっかり受け止めるというのは、本当に難しいことだと思います。権威の側が追いこまれる前に自発的に大政奉還を認めるというのは、肩に何もしょってない私のような人間が想像するより、ずっと難しいことかもしれません。

そういう点で、面白いなあ、すごいなあと思えるPodcastが二つあったので、紹介します。

一つ目は、経済アナリストでテレビでもおなじみの伊藤洋一氏の番組です。

伊藤洋一のビジネストレンド」という番組の一周年を記念して、ポッドキャスティングについて語るという回なんですが、実に興味深いお話がありました。

  • テレビ経由の反響は内容が薄い、Podcasting経由は反論もあって有用なものが多い
  • 他のPodcasterが「伊藤はこう言うけど自分がこう思う」というpodcastを公開するような広がりがあったら面白い
  • 自分の意見を明確に断言するようにしたい(どうせみんな様々な意見を比較しながら聞いているから)

特に鋭いと思ったのが、「自分一人で全体像を俯瞰する」ということより、「ユーザ側がマッシュアップする為の素材を提供する」という視点をはっきりお持ちであるということ。特に、ブログで人のブログを引用して自分の意見を述べるというスタイルが、Podcastingでも一般的になるのではないか、という見通しは、技術に先行したビジョンであると思います。

もうひとつは、日経ビジネスの番組です。

9/22の「グーグルはなぜタダなのか地球を覆うネット民主主義 」というタイトルに惹かれて聞いてみました。これは、本誌と連動した企画で、本誌の特集は読んでないのですが、Casual Thoughts - 日経ビジネスのGoogle特集が半歩遅れながらもまともな件という記事で、id:ktdiskさんがこれについて言及しています。

その特集と連動した本題の所も、歴史的な視点があったりして面白いのですが、私が注目したのは「往復書簡2.0」というリスナーからのメールを紹介するコーナー。

ここで、異様に鋭いメールが紹介されていました。そのメールは、前回の本誌の特集に異議を唱えるものでした。前回の特集とは「40万円カー」というキーワードで中国の小型車生産に注目するものですが、「中国政府は見栄の為に小型車を規制していたが最近その規制を解除した。これはエネルギー資源の重要性に対する認識が変化したからではないか」「中国の小型車は開発途上国から資源を獲得する為の政策的な武器である」という視点が抜けているという趣旨でした。

力を入れて編集した特集記事に対して、「肝心な所が抜けている」という指摘で、しかも、それがかなり当たっているという話。

これに対する編集長のコメントが良かった。まず「新しい雑誌のあり方だね」で始まり、「我々もこれに恥じずに堂々とやっていきましょう」で終わるもので、一切、言い訳はしてません。また、逆にその指摘に対して無理に反論してカッコつけたり相対化しようとすることもない。「こっちが間違っている」とはっきり認めた上で、その意義をしっかり認識しているわけで、これをライブのトークの中でできるというのは、この人もやっぱり凄いと思います。

「双方向」とお題目で言うのは簡単ですが、本物の双方向はこのように痛みをともなうもので、その痛みの中に価値がある。

日経ビジネスの井上編集長も伊藤洋一氏も、ビジネス全体をターゲットとする専門家ですから、インターネットに関する知識は、広く浅いという印象は否めません。しかし、数少ない自分の体験から、見事に一般論やビジョンを抽出している所はさすがです。「識者」という言葉は、こういう人たちの為にあると思いました。

組織には厳しく人には優しい「垣根の無い世界」

「フラット化」の周辺で微妙に関連しているエントリーで気になるものがいくつかたまったので、若干未整理だけど全部吐き出してしまおうと思う。

最初は、「お手本になる30代の先輩が見つからない」という切実な嘆き。

その会社でのキャリアを考えるときに、バリバリ働いてる(だろう)30代―いわば中堅―をまず見ると思う。5〜10年すると大体こんな感じになるのか、というモデルケースとして30代の中堅社員は見られると思う。

今、メンタルヘルスの対象になっている30代が急増しているらしいのだが、その一因となっているのは終身雇用の事実的な崩壊かもしれんね。逃げ切りたい部長クラスのお荷物が30代の足を引っ張っている気がする。

次は、「逃げ切りたい部長クラス」のひとつの事例。「住みたいところに住める俺」さんのシリーズ物である。

こういう人間を大勢抱えても利益を出さなければならない日本企業って大変だ。 いつまで続くやら。

原文では「こういう人間」は「こういう人間(含む私)」になっているのだけど、これだけバイタリティーと観察力と英語力がある人が力を発揮できないのは、組織の方の問題である。

それはともかく、そもそも組織とはそういうものではないかという意見もある。

人生経験豊富な社長は、「誰もが能力があるわけではないどころか、能力のある社員のほうがまれだ。それでもやっていけるのが会社だ」と、世の中を知らない若者に教えてくれようとしたわけだが、こうした論理にしたがえば、10人のなかの1人は、ほかの9人の分まで働いているわけだ。待遇が同じならば、ばかばかしくなって転職してしまいそうだ。しかし、つねにそうともかぎらない。逆に、自分が頑張らなければ、と思うこともある。そして、その1人がいなくなると、こんどは別の誰かが頑張りだしたりする。

 小さな会社だから、それですむという面はあるかもしれないが、大きな会社でも、ひとつひとつの部署の人数は少ない。少し前までの日本の会社は、程度の差はあれ、こうした感覚だったのではないか。みんながみんな報酬相応の仕事をしているわけではないが、社員全体で見あっているならば、会社はそれでよしとする。できる人の報酬をできない人に分けていることになるが、社員も、そんな細かいこと(?)を気にする人はそれほどいなかったように思う。会社とはそういうものだ、と多くの人が(意識するしないはともかく)思っていたのではないか。

歌田さんは、この発想と逆の成果主義について各種アンケート調査等をもとに考察し、総論賛成でも各論反対となりがちで、「勝ち組」も含めて不満や不安を増すことになると結論している。

「成果に見あわない年功序列の報酬で満足すべきだ」などといまさら主張しても、賛同する人はおそらくあまりいないだろう。しかし、成果主義的な発想を大幅に取り入れた企業社会が、「成熟した安定社会」とは正反対の方向に向かっていることは確かなのではないか。

冒頭の、id:kagamihogeさんも、正しい評価システムを欠いた成果主義は、何も状況を改善しないだろうと言う。

内側から見た富士通成果主義のくだりみたく、しょっぱい成果が山のように積みあがるか、無視されるか、形骸化されるだけだろう。そんな状況じゃどうせロクな評価もせずに「この前はAさんに+評価上げたから次はBさんかな」とかんなる。

しかし、「フラット化」の波は、成果主義の問題点の改善が終わるのを待ってくれない。

「フラット化」という言葉を「結果の平等が実現する社会」と解釈している人がいたという話には驚いた。

今特定のサイトを挙げることはできない(忘れちゃった)のであくまで印象レベルだが、いろいろなところで、「でも格差は残ってるじゃん、ヒエラルヒーがあるじゃん、フラットじゃないじゃん」みたいなことを言う人がいるように思う。(中略)

平たい言い方でいえば、「チャンスの平等」があっても「結果の平等」が確保されるとは限らない、ということになろうか。結果の差は、さまざまな原因で発生するが、「過去にあった差」が原因となる部分が少なくなった、というのがフラット化ということだ。いってみれば、「目の位置」が同じ高さになったのではなく、立っている床の高さが平らになった、ということに相当するだろう。

これは、英語をそのままカタカナにして翻訳したことで原語のニュアンスが失なわれてしまったという、単なる術語の選択の問題かもしれない。そうだとしたら「垣根の無い世界」という訳語がいいのではないかと思う。

でも、それ以上に「結果の平等」に対する日本人の無意識的な執着を表しているのかもしれない。

堤防が壊れて洪水が起きる、と言うと何だか恐ろしい気もするけど、例えばナイル川は毎年定期的に氾濫したからこそ、エジプトに測量術やピラミッドみたいな高度な文明が栄え、農地も肥沃になったわけなので、徒に怖がるよりも、「堤防が壊れたらどうなるのか」シミュレーションして、良い方向に持って行くという道、もあるのではないかと思うのです。

「死んでしまったら私のことなんか誰も話さない」のTomomiさんは、私の、堤防と洪水という喩えを受けて、このように言っている。

確かに、戦後60年以上氾濫がなかった日本は、土地が痩せてしまっていると思う。「お手本になる30代の先輩が見つからない」というのは、その一つの表れだろう。

そもそも、「評価基準に全員が不満なく合意できて、全員が納得したら成果主義に移行しましょう」なんていうのは、成果主義ではない。それぞれ手前勝手な評価基準を持つ組織が乱立し、評価基準が成果のみで評価され、成果を出せず評価基準を変えられない組織はすぐに消滅するのが成果主義だ。

その評価基準が人に厳しいものである必然はない。人に厳しいものか人に優しいものかはどっちでもよくて、要するにその組織がその評価基準を通して成果を出せばよいのだ。

「垣根の無い世界」は「組織には厳しく人には優しい世界」になると思う。そうすべきだと思う。