病気は救いであり魔物である
『不登校・ひきこもり・ニート』に関係する人たちにとって、場合によっては“病気が救いになる”ということが少なくありません。
曰く「わたしがダメなのは、●●病のせいである」
曰く「わたしの子どもが、働けないのは、●●障害だからである」
これは、ときに正しく、ときに【?】と思えることがあります。
ときに
「病気のせい」
「社会のせい」
「学校のせい」
「親のせい」
「政治のせい」
は、自分の責めがちな人にとって、責任転換をするのに好都合です。
そういう場合は、有効であり救いになる。
しかし、場合によっては、自己反省や自己改革の邪魔になる魔物になってしまうこともあります。
傍からその人を見た場合、「●●のせいじゃないでしょう」と、思えてしまうことも少なからずあります。
もちろん、真実は誰にもわかりませんし、不用意なきめつけは禁物でありましょう。
ある障害を持つ人たちの集まりにいったときのこと。
その中の多くの人たちが「わたしが(家族が)こうなったのは病気のせい」ということを語り合っていたのですが、どうも聞いていると、病気もせいもあるでしょうが、どうもそれ以外にも、家族間のトラブルや、本人の問題も少なからずあるように思えると、感じざるを得ないことがありました。
わたしはいつも思うのですが、何ごとにおいても、100%「●●のせい」で決め付けないほうがいいのではないかと。
「全部自分が悪い」ということも、「全部●●が悪い」ということも、ないのではないかと思うのです。
そう思ってしまうときは、少し脳内を整理し、冷静に考えてみれば、そこからより良くなる方法が、より効果的に思いつくのではないかと思うのです。
『FHN放送局』代表
巨椋修(おぐらおさむ)