Web2.0的な民主主義的な何か

 前のエントリでそれって話ズレてくねぽいので、補足というか。ま切り出しは、Web2.0的民主主義とか。
 で、これが民主主義とはまるでといっていいと思うが関係ないのは、前提として「正しさ」と人々との関わりが含み込まれているためだろうと思う。一番違うのは国家が議論されてない点だがそんな話はつまらないし目下の課題ではない、と。
 松永=佐々木系のと仮にまとめると、衆人から真理は生まれない、生まれるわけないじゃんか論となるだろうか。読み違っているかもしれないが、仮にそうモデルしておく。
 で、問題設定が曖昧なのだが、経緯的には。
 ⇒404 Blog Not Found:選民思想2.0または少衆主義
 ⇒finalventの日記 - ちとまいったかな
 ⇒404 Blog Not Found:民主主義とかけてWeb2.0ととく
 というところで、民主主義談義は抜きとして。Danさんの、この。

率直に告白しよう。私は民主主義をわかっていない。
Web 2.0もわかっていない。
Perlもわかっていない。JavaScriptもわかっていない。
自分自身すらわかっていない。
わかっていないものと私はどうつきあっているのか?
つついて反応を見るのだ。

 というとき、ある何かをブラックボックスモデルとしている、というか関数モデルというか。
 で、ここに無意識的に文脈をコントロールしているのは、ルール主義なのである。あるいは、ユーザ関数は定義できるよラムダ式みたいな感覚。だから、「Web 2.0もわかっていない。」に「Perlもわかっていない。JavaScriptもわかっていない。」がくる。
 民主主義というのは欧米人的には丸山眞男的に作為の契機として捉えられるのだが、では、PerlJavaScriptというのがこの文脈で出るというのはどういう無意識的な世界観があるかというと、作為の契機よりも、ルールは創出できるし、やってみたら価値がわかる。やってみると最善のルールができるかもしれない確信というもので、この確信にはルール主義がある。
 たぶん、はてな的なもの、あるいは、Web2.0的なもので、真理論や民主主義を引き寄せているのは、このプログラミング言語的なルール主義のエートスともいうべきものだろう。
 ぶくまに顕著だと私には見えるのは、たとえばまああまり突くとなんだけどべたな左翼っぽいあの方とかあの方とかあの方とかがcontroversialというかわざとらに文化戦争的な議論を私などにふっかけるというか、まあ、そういう左翼つるし上げだぜ的な議論のフレームワークにあるとき、そこで問われているのは、教条=ドクトリンでありそこにある心情的な倫理と脅迫を伴っている。
 だが、ぶくまだとそうしたcontroversyというのが発展しない。いろんな意味があるだろうしべたな左翼的な観点からは、おまえら馬鹿だろとしか見えないのだろうと思うが、このはてぶはとんと無関心の背景にあるのは、ルール主義、なのだろう。int宣言の変数にfloatを入れたらエラーでしょ。議論の余地なしでしょ。みたいな。で、終わってしまう。
 ちょっと違うのかもしれないけど、今の若い世代はコミュニケーション能力欠落論みたいのがうじゃうじゃしているが、これはコミュニケーションがルールで最適化されているということで、いわゆるアラブ商人とか華僑印僑的なコミュニケーションとか、女を落とす会話とかそういうことではなくて、ルールを機能かさせたらいいんでないの、それが最善のコミュニケーションでしょ、というのがエートスになっている。ルールが妥当なら機能するのだし、機能するなら前提にコミュニケーションはグッドなはず、ということ。
 IPプロトコルにしてもHTMLにしてもルールがあれば通じるコミュニケーションできる。ではそのためにルールはどうあるべきかということで、ululunさんの議論とかなにを議論しているのかとある側面から見えるかもしれないけど、ルール論なんですよ。「Perlもわかっていない。JavaScriptもわかっていない」でわかるためにはどうしましょという議論をやってしまう。
 2ちゃんとかだと、ま、概括はできないにせよ、ウエットな感性が感性を引きつけるかたちで、しかもその連帯の行動に出てネットイナゴ化したりするけど、はてな村の住人にしてみると、ま、そのあたりが現状最適なルールでしょ、あるいはルール変更でしょ、で、そのあたり、ちょっとやってみましょ、的に、お・わ・る。みんなのルールというとき、みんなが前提化しない。みんなのルールの妥当性や実効性はルールと実装でみんなの利益として結果的にわかるからそれでいいじゃん、的。
 「問題」がドクトリン=教義=偽装倫理、みたいな関係からもっとプラクティカルに緩いベータなルールの関係で捉えられ、それは基本的にコミュニケーションの結果で評価(evluate)される。
 「Perlもわかっていない。JavaScriptもわかっていない」で、わかるというのは、多少わかったらみんなハッピーでないのという落とし所に向かってしまう。正しさというのはだからルールの適用の正当性に還元してしまう。
 こうした世界になにが欠落しているかというと、ルールを規定する原理みたいなもののべたな暴力的正義なんだろうと思うが、まあ、そんなもの欠落していていいんではないの、お・わ・り的になってしまう。
 まあ、そういうエートスがなにをもたらすのかよくわからんことがあるが、Web2.0とか真理とか民主主義とかで暗喩されているぼわんとしたのは、こうしたベータ・ルール的なエートスなんだろうと思う。