今日の大手紙社説

 終戦記念日の話が多い。私としてはもうこの話はほぼ終了。
 ⇒極東ブログ: [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)
 で、ユダヤ教ラビ、ローレンス・クシュナーはこう語る。

― 哲学者アヴィシャイ・マルガリートは著書『記憶の倫理』の中で、ユダヤ教の伝統において、許すことと忘れることをどう区別するかについて書いています。また、エレミア書にある神の言葉、「私は彼らの咎を許し、彼の罪を忘れるであろう」を引用します。そしてマルガリートは、神が許したことを神が忘れることはあるかもしれないが、われわれは許すことはあっても、忘れることはないと言っています。
K その言葉は好きだけど、嫌いでもありますね。ユダヤ人はこの概念に固執しています。これはアマレクに関する命令にまで遡るわけですが、人びとがあなたに対してやったことを思い出さなければならない、でないと人びとは同じことを繰り返す、という考え方です。でも、たとえば、虐待されてきた人がすべてを忘れるためには、何が必要なのかも考え合わせなければなりません。なぜなら、覚え続けていると、それがその人を虐待し続けるからです。残念なことに、今日多くのユダヤ人の中にその傾向が見られます。私個人は、ワシントンのホロコースト博物館への特別招待を何度もお断りしました。思い出したくないからです。また、私のことを犠牲者として思い出すなんて、世間の人にとっては時間の無駄だと思います。私がその恐ろしさを覚えておきたいのは、あのようなことが私にも、他の誰にも、二度と起こらないようにするためだけです。

明らかにユダヤ人は、ホロコーストによって、狂気に駆られた技術主義国家の強大な力の犠牲になることの意味について、恐ろしい教訓を得ました。しかし、現在同じ状況で苦しんでいる他の人びとをどのように助けるかを忘れてしまったように思われます。そのことを問題にしたい。
 以前所属していた教会で、「大量虐殺に反対するユダヤ人」をスローガンに掲げるグループを作るのに私は手を貸しましたが、そのグループの名前は「われわれでなければ、誰が?」でした。そのようなやり方で、私はホロコーストの記憶に応えようと思います。私はガス室の写真を見たいとは思いません。ですが、大量虐殺が現在行われているルワンダやその他の地域の写真は、関心をもって見ています。私はそのことをひとりのユダヤ人としては心の底から知っています。ですから、そのことが私なりの社会的責任を負わせているのです。そのことは忘れたくありません。

 ⇒極東ブログ: [書評]破綻した神キリスト(バート・D・アーマン)

 どこかの国の(たとえ戦略的価値のない国だとしても)政府が自国の民を虐殺しているのを、われわれはただ座して眺めている必要はないのだ。多くの人がホロコーストの話を読み、「二度と繰り返してはならない」と言う。彼らはカンボジアのキリング・フィールドで大量虐殺が起きていた最中も、ただ「二度と繰り返してはならない」と言っただけだ。ボスニアでの大虐殺の時も「二度と繰り返してはならない」。ルワンダの大虐殺の時も「二度と繰り返してはならない」。そして今、ダルフールで強姦と略奪と虐殺の嵐が荒れ狂っているというのに、ただ「二度と繰り返してはならない」と言うだけだ。だが、そんなことが起きなければならない必然性などさらさらないのだ。これはリベラルの申し立てでも、あるは保守派の申し立てでもない---人間の申し立てなのだ。

 今の世界の平和に寄与できなければ日本の終戦とその後の平和国家に意味なんかない。
 ⇒極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風

【第6文】
We desire to occupy an honored place in an international society striving for
 私たちは、以下の努力によって、国際社会で名誉ある位置にいたいと願う、
 
the preservation of peace,
 (努力の目的は)平和の維持であり、
 
and the banishment of tyranny and slavery,
 (努力の目的は)独裁制度と奴隷制度を払拭することである、
 
oppression and intolerance
 また払拭する対象は圧政と異説を受け入れない態度だ、
 
for all time from the earth.
 こうしたことを常時この地上から払拭されるように努力する。

 日本国民がこの憲法で社会契約したのは、世界が平和であることによって自国の存亡を賭けるということだった。であれば、世界の平和に向けて、世界に出て、どれだけ奮迅したかだけが問われる。