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2008年12月23日

「考える」とはどういうことか?

| 15:31 | 「考える」とはどういうことか?を含むブックマーク 「考える」とはどういうことか?のブックマークコメント


噛みしめることを大切にしよう - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Being between Neuroscience and Marketingを読んで、色々と思うことがあったので。


私は昔から細かいことにこだわってしまう人間です。

たとえば中学生のとき。マイナス×マイナスがなぜプラスになるのかがずっと分からず、混乱して2×(−3)=5とか書いたりしていました。

今でもよく分かりません。

高校の時に複素数の授業で「マイナス×マイナスがプラスになるのは、複素数平面上でマイナスをかける=180度回転するという意味だから(虚数iをかけることは90度回転)」と教えてもらったときにははっとなりましたが、そうすると今度はなんでマイナスをかけると180度回転するということになるの?ということになるのです。


数学に限らず、どんなことでもいえることですが、ある事柄についてどこまでも「なぜ?」を繰り返すと、最後は「そういうこと(定義)になってるから」「そういうものだから」という答えに行き着きます。

頭がよく、要領のいい人はさらっと流してとっとと次の段階へ行くのですが、いつまでも私は同じ場所にとどまってしまうのです。


この最たる例が、私が学部時代に書いた論文です。書こうと思ったきっかけは、廊下に張ってあった懸賞論文のテーマを見たから。その懸賞論文のテーマは「契約の拘束力」というものでした。そのテーマを見た瞬間から「なぜ契約するとそれに拘束されなければならないのか?」という疑問が私の頭から離れなかったのです。

別に論文を書いても単位をもらえるわけでもなく、誰かに勧められたわけでもなかったのですが、その日から資料を集め始め、後期の単位をすべて犠牲にして何とか書き上げました。

資料を読み込んで分かったことのひとつは、法律学者が契約の拘束力について論じるときは「契約は守られねばならぬ」という規範から出発していることでした。すなわち、上に書いたように契約の拘束力の根拠を突き詰めると、「契約は守るものだから」というところから始まるのです。

確かにせっかく契約したのに相手が守らないとなると、こっちは困ります。契約に拘束力を認めなければおよそ市民社会の秩序というものは崩壊してしまうでしょう。

しかし拘束力を認めるにしても、その根拠が「契約は守るものだから」では、トートロジーです。「契約は守るものだから契約に拘束される」といったところで、「なぜ契約に拘束されるのか」という点については何も説明できていません。

そこで「契約は守られねばならぬ」という規範から離れて、契約の拘束力は契約自体から生じる*1と結論づけたのが、私の論文です。


まあほとんど自己満足で、契約になぜ拘束されるかなんて学者にとっても実務家にとってもどうでもいいし、何よりこれまで数世紀にわたってなされてきた議論をちゃぶ台返ししてしまうものですから、佳作どまりでしたが(笑)


さて、ずいぶん前置きが長くなってしまいましたのでそろそろ本題に入ろうと思います。


「考える」とはどういうことか?


上記のエントリーで私の印象に残った点をまとめると、


・自分の頭で考えろ

・そのために一次情報を大切にしろ

・表面的なロジックで分かった気になるな



「自分の頭で考えることが大切」ということはよく言われることです。

では「自分の頭で考える」とはどうすることをいうのか?


これが、私にはずっと分かりませんでした。「考えろ!」といわれても、「考える」ってどうしたらいいの?どうしたら「考えた」ことになるの?という疑問を常に抱いていたのです。


少し前ですが、ようやく自分なりの結論を出せたので、一応メモとして書いておこうと思います。



Q:「考える」とはどういうことか。


物事の本質を追求すること。


Q:「考える」とはどうすることか。


1.ある物事についての仮説(定義)を立てる。

2.日常の中で得られるすべての情報を基に、常にその定義(仮説)が正しいかを検証する。

3.自ら積極的にその定義(仮説)を覆してくれるような新しい情報源に触れにいく。


考えるということは、仮説を立て、「それはどういうことなのか?」「なぜそうなるのか?」「それですべて説明できるか?」という疑問をぶつけていき、疑問に答えられなかったらその仮説は捨て、また新しい仮説を立てる。そして「それ」とは「こういうこと」という「答えらしきもの=本質」を見つけに行く。

こういうことなんだろうと思います。


しかし、実際に頭の中でどういうことをしているかを言葉に表すのは、なかなか難しいことです。「考えるテクニック」というものは教えることができても、「思考の流れ」のような根本的なところは、言葉で表せる次元とは少し違うところで働いている気がします。

実際にこれを教えようと思ったら、ずっと一緒にそばにいて質問責めにし、どのように考えるかを具体的に示す、ということをしなければなりません。

会社の社員さんと話していると、たまに「それは違うんだけどな・・・」と思うけれど何がどう違うのかを説明するとものすごい根本的なところまで遡らないといけないし、さらに仮にそこまで遡ったとしてもおそらく伝わらないだろう、という無力感にさいなまれることがあります。



感受性について


少し話題からそれた話をします。

よく、子どもは感受性が豊かで、大人は感受性が鈍いといわれます。それはなぜか?


子どもは分からないことは分からない、と素直に言えます。

しかし大人は分からないことに出会ったときに

・分からないことは恥ずかしい

・確かに分からないけれど世間ではそういうものとされてる

・プライド

といった様々な思考が「分からない」ことを遮ります。するとどうなるか。

「自分が分かっていない」ことも分からなくなるか、「分からない」と感じても無意識のうちにその思考を遮断するようになります。

その結果、大人達は無意識のうちに自分で自分の思考を制限していきます。つまり、考えなくなるのです。


これが「感受性が鈍い」ということの意味です。


「考える」ことによる深み


上述のエントリーでも「深み」とか「表面的」という言葉がよく出てきますが、「自分の頭で考える」となぜ「深み」が出るのか。


それは、「考える」という過程において試行錯誤と取捨選択が行われるからです。試行錯誤とは、とりあえずいろいろなことをやってみて、それが正しいかを検証すること。検証の際にいくつかは切り捨てる、すなわち取捨選択が行われます。その結果「これはこうであってこうではない」の「こうではない」の部分が積み重なると、それが深みになるのではないでしょうか。

いきなり出したAという結論と、BからZまでのすべての可能性を排斥した上でのAという結論では重みが違う。

そういうことだと思います。

ちなみに「捨てられた選択肢にも意味がある」という考え方は、上述の「契約の拘束力」の論考の中でも使われています。

ここから私の思考は「効率的」という概念に飛ぶのですが、それは今回はやめておきます。



色々と書きましたが、以上に書いたものはすべて「仮説」です。

これまでも色々と書きましたが、それらもすべて「仮説」です。

この仮説は明日にもひっくり返されるかもしれません。

でも、ひっくり返されると「こうではない」がまた増えることになります。


それでいいんだと思います。


【参考エントリー】

努力と成功の関係

優しいとはどういうことか?

「自己責任」論〜「自己責任」とは何か〜

「自己責任」論(2)〜「自己責任」に隠された意味〜

「幸せとは何か?」について考えてみる。

「サービスとは何か?」について考えてみる。

〜Sって何?Mって何?〜

*1:ここでは細かい説明は省きます。