2012-02-10 ぼくはお金を使わずに生きることにした
■[本]ぼくはお金を使わずに生きることにした ☆☆☆

- 作者: マーク ボイル,吉田 奈緒子
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2011/11/26
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 75回
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内容紹介
この実験で証明したいのは、お金がなくても「生き延びられること」ではなく「豊かに暮らせること」だ――
1年間お金を使わずに生活する実験をした29歳の若者の記事がイギリスのテレビや新聞で紹介されるや、世界中から取材が殺到し、大きな反響を呼んだ。著者は、不用品交換で入手したトレーラーハウスに太陽光発電パネルをとりつけて暮らし、半自給自足の生活を営む。手作りのロケットストーブで調理し、歯磨き粉や石鹸などの生活用品は、イカの甲を乾燥させたものや植物、廃材などから手作りする。衣類は不要品交換会を主催し、移動手段は自転車。本書は、彼の1年間の金なし生活をユーモラスな筆致で綴った体験記である。貨幣経済を根源から問い直し、真の「幸福」とは「自由」とは何かを問いかけてくる、現代の『森の生活』。
世界の10の言語に翻訳され、14か国で刊行。
紀伊国屋で見つけて購入。
「お金を使わない生活」ということで、僕がイメージしていたのは、「無人島での自給自足生活」だったのですが、著者は、そんな「原始的サバイバル生活」を行ってはいません。
「物やサービスを得るための媒介として、お金を使用しない」というのがルールで、ソーラーパネルを使っての発電でパソコンや電話を動かして自分のサイトで「カネなし生活」の報告をしたり、近所のレストランや食料品店で、「賞味期限切れの食べ物を頂戴してくる」こともやっています。
「それって、なんか違うんじゃない?」僕はそう考えずにはいられませんでした。
それでも、「お金を一切使わない生活」というのは、そんなに甘いものではありません。
そこそこやりくりすれば、年間5000ポンドで生活するのはきわめて簡単だった。家賃を差し引いても、だ。ところが、お金を一切使えないとなったとたん、さまざまな問題が生じてくる。普通ならちょっとした買い物ですむことが、気の遠くなるような大仕事になってしまう。週50ポンドの薄給で暮らしているとして、ペンが書けなくなったとしよう。ペンなんて買えば安いものだ。誰だって、近くの店に駆けこんで25ペンス出せば新しいのを買える。しかし、お金を使えないとなると話は別だ。ペンが信じられないほど安くたって、5ペンスに値引きされたって、この際関係なし。お金がなければ買えないだけだ。国内の最低賃金換算で2分間の労賃に等しい額を支払う代わりに、一日の4分の3の時間を費やしてキノコから新しいペンを作らなければならない。これが、倹約生活とカネなし生活のちがいである。この現実にはすっかり肝をつぶしてしまった。
この本、僕には正直読むのがつらい一冊だったんですよね。あまりにも自分との接点が見出せなくて。
読んでいて、かえって「ああ、お金を使う生活のほうがラクだなあ」と。
お金を使わないと、「生きるための行為にかかる時間」があまりに大きくなりすぎる。
著者は、「お金を使わなくても、それぞれの人が、自分の特技を持ち寄って助け合えれば、十分『豊かな生活』ができる」と考えています。
そして、この本を読んでいるかぎりでは、「カネなし生活」は、「時間の余裕」を奪ってしまう一方で、「心の余裕」を著者に与えているようにもみえるのです。
実験中、お前がお金を使わずに生活できるのは皆がお金を使っているからだ、と何度も言われた。「お金が存在しなくて、私が税金を払っていなかったら、自転車を走らせる道路はどうやって作るのだ」。無理もない意見だが、その前提には「物を創りだすにはお金が必要」という考えがある。ぼくが思うに、この前提がそもそもまちがっているのだ。
何かするときにお金を利用するのは一つのやり方にすぎない。最近、ますますそう実感している。お金は、道路を作るのに貢献した人に報酬を分配する一つの方法にすぎない。最近、ますますそう実感している。お金は、道路を作るのに貢献した人に報酬を分配する一つの方法ではあっても、道路の建設自体にはまったく必要ない。お金を使えば遠隔地の労働力を利用できるようになり、道路のアスファルトは、まず例外なくどこか遠くの人びとによって作られることになるだろう。お金を使わずに生活していたら、必要な材料は地域内で調達せざるをえない。地域社会のニーズにこたえる責任が生じるし、おのずと自分たちが使う物に対する認識が深まる。また、近隣の脳動力を利用せざるをえなくなる点も、ピークオイルや気候変動などの深刻な問題の解決にはきわめて重要だ。自分たちが必要とする道を地域住民が作れないわけがない。意思決定を地域社会にゆだねれば、住人どうしが協力して自分たちに必要な物を作るのを妨げる障害はなくなる。ちょっと見方を変えるだけのことだ。
こういう考え方に触れ、著者たちが「お金を使わないで生きていくことを指向する人々のグループ」を運営し、この「カネなし生活」でも多くの人と協力して「無料パーティ」を企画し、実行していたのを読んでいると、お金を使わないで生きていくには、「圧倒的なコミュニケーション能力」が必要とされるのだな、と考えずにはいられませんでした。
少なくとも、僕にとっては、「人と助け合う」っていうのは、そんなに簡単じゃない。
「必要なときに、必要な人と助け合う」ことが難しいからこそ、人はお金をつくったし、それが便利なものとして使い続けられているのだと思うのです。
「仲間とのコミュニケーションこそ幸福」だという信念を抱けない僕にとっては、「生活の不便」よりも、「濃密すぎる人間関係」のほうが不安なんですよね。
率直に言うと、「カネなし社会では、コミュニケーション能力が通貨になるのか……」と、怖くなってしまいました。
著者はまだ若くて体力もあるし、いまはこういう「カネなし生活」そのものに宣伝効果があるので協力してくれる人も多いだろうけれど、多くの人がこんな生活をするようになれば、市場だって、そう簡単に「余った野菜をわけてくれる」ことはないでしょう。
それでも、現在のままの「大量消費社会」がずっと続けられるとも思えないし、「節約社会への転換」を考える意味では、得るところが大きいと思います。
みんなが「カネなし生活」をおくることは無理でも、こういう発想ほんのちょっとを取り入れていくだけで、地球は少し、長生きできる。
「こんなこと、実際にできるわけないよ」「夢物語だ」と無視してしまうのは簡単だけれども、こういう「できそうもないこと」の中に、大きなヒントが隠されているのかもしれません。
そして、「できそうもないこと」の多くは、「できないと思い込んでいるだけ」ですし。
著者は、あるテレビでのインタビューで、司会者とこんなやりとりをしたそうです。
「『銀行に千ポンドの預金がある人は、エリトリアで飢えて死ぬ一人の子に対する責任を逃れることができない』と発言なさっていますが、ボイルさんもお金をかせいで、それを発展途上国の支援団体に寄付すべきではありませんか」。口元に微笑が浮かんでいる。「人びとを貧困状態に押しとどめておいて、あとで利益の一部をひもつき援助だの世界銀行やIMFの融資だのの形で供与するような、そんなシステムの中でお金をかせぎ、そのしくみを支えるなんて、まったくバカげていますよ。シェルとかエッソがグリーンピースや地球の友(ともに国際的な環境保護団体)に1万ポンド寄付して、自分たち企業がしでかしている破壊のあと始末を支援するようなものです。そうするくらいなら最初から破壊しないほうがいいですよね」。そう答えてから、急いでつけくわえる。「いや、もちろん、どうしてもお金をかせいで、国をあげて恵まれない人たちを踏み台にしようというのであれば、できるだけ多くの額を支援団体に寄付づべきだと思いますが」
ボイルさんカッコいい!という場面ではありますが、実はこれ、ずっと意見が分かれていることなのです。
「貧しい人もやる気がない人も、みんなで平等に努力をして、豊かになる道を目指す」べきか、それとも、「貧しい人や、やる気のない人のモチベーションを上げようとするより、効率よく運用できる国や有能な人が、よりいっそう多くの仕事をして、その『分け前』を分配した方が『効率的』なのではないか」
みんながボイルさんみたいに「やる気がある人」なら、前者のほうが「正しい」とは思うのですが……
2012-02-09 蜩(ひぐらし)ノ記
■[本]蜩ノ記 ☆☆☆☆

- 作者: 葉室麟
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2011/10/26
- メディア: 単行本
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内容紹介
鳴く声は、命の燃える音に似て―― 命を区切られたとき、人は何を思い、いかに生きるのか? 豊後・羽根藩の奥祐筆・檀野庄三郎は、城内で刃傷沙汰に及んだ末、からくも切腹を免れ、家老により向山村に幽閉中の元郡奉行・戸田秋谷の元へ遣わされる。秋谷は七年前、前藩主の側室と不義密通を犯した廉で、家譜編纂と十年後の切腹を命じられていた。庄三郎には編纂補助と監視、七年前の事件の真相探求の命が課される。だが、向山村に入った庄三郎は秋谷の清廉さに触れ、その無実を信じるようになり……。命を区切られた男の気高く凄絶な覚悟を穏やかな山間の風景の中に謳い上げる、感涙の時代小説!
第146回直木賞受賞作。
「十年後に切腹するまでに、家譜の編纂を終えることを義務付けられた男」と、その家族、そして、その「見届け役」を命じられた男の物語。
読み終えて、ちょっと涙が出そうになりました。
ああ、戸田秋谷、立派だなあ、カッコいいなあ。人間っていうのは、こんなふうにありたいものだなあ。
でも、その「感動」の一方で、この小説て、あまりに「みんながそれなりにいい人で、丸く収まりすぎてしまっている」ようにも思いました。
とくに敵役が、あんなことまでされても、「あいつにはかなわん」みたいに納得してしまうのであれば、もっと最初から物わかりがよくてもよさそうな気がしましたし。
檀野庄三郎にしても、もうちょっと葛藤があってもよさそうな……
いや、読む側としては、このくらい「キレイな話」のほうが、心地好いことはまちがいありません。
これが「ハッピーエンド」とも言い難いのだけれども、それなりに「すっきりする結末」です。
この小説のなかでの「秋谷の生きざま」は、まちがいなくカッコいい。
ただ、「小説」としては、秋谷が切腹を命じられる原因となった「秘密」に何の意外性もなく、「謎解き」も、偶然そこに行くことになった人が調べてくれるというのは、ちょっと物足りない印象でした。
もちろん、当時の感覚では「どえらいこと」だったのでしょうけど。
「起きてしまえば、一揆に後戻りはない。止めようとする者は殺されるだろう」
「まことでございますか」
近著した面持ちで庄三郎は身を乗り出した。一揆を止める者が殺されるなど信じられなかった。
「一揆を首謀いたす者は、百姓をまとめるため、まず同意せぬ者を弱百姓として責めたて、家をつぶす。場合によっては打ち殺すこともある。そうでもいたさねば、誰も命がけの一揆になど加わりはせぬであろう。さようなことになれば、この家にも百姓たちが押しかけてこよう。弱百姓に対して行うのと同じことをいたすかもしれぬ」
「謎解きがどうのとか、ご都合主義だとか考えずに、秋谷の『淡々としているようで、地に足がついている武士としての生きかた』を追っていくための小説」なのでしょうし、そうして読むのが、いちばん良いのではないかと思います。
その一方で、「じゃあ、秋谷の力で、何が変わったのか?何かが良くなったのか?」とか考えてしまうのも事実。
でも、変えることができなくても、なんとかいまの状態を維持し、破たんを防ぐというのも、状況によっては大事な「仕事」なのです。
設定から展開まで、「ありきたり」ではありますが、それが「ありきたりな流れ」だからこそ浸ってしまいたくなる。優れた時代小説でした。
2012-02-08 この世でいちばん大事な「水」の話
■[社会]この世でいちばん大事な「水」の話

外資の水源地買収抑止へ、事前届け出制…埼玉(YOMIURI ONLINE)
水源地周辺の土地が中国など外国資本に買収されるケースが全国で相次いでいることから、埼玉県は近く、土地取引の事前届け出制を柱とする水源地域保全条例案を県議会に提出する。
成立すれば、都道府県としては全国初となる。外資による水源地域の買収事例が相次いで発覚した北海道も、同様の条例策定に向けて動いている。
国土交通省と林野庁によると、中国など外資による森林買収は全国に広がりつつあり、2010年までの5年間で、北海道や長野県など5道県で計40件、約620ヘクタールの取引が確認された。
埼玉県内では、外資による買収は確認されていないものの、東京都内で水道水として利用される荒川などの源流が森林地帯に多く存在する。秩父市などでは7事業者がミネラルウオーターを生産しているほか、寄居町などの山あいには全国的に名高い湧水もあり、県は、外資が土地買収を進める可能性があるとみて警戒してきた。
これをYahoo!ニュースのトップに見つけて、僕はちょっと安心しました。
これだけ読むと、なんだかすごく地味なニュースなのですが、ようやく日本でも、埼玉県が「対策」をとり、それをYahoo!のスタッフが、こうして大きく採り上げてくれたということに。
先日、椎名誠さんの『水惑星の旅』という本を読んで、僕はこの「外資による水源地買収問題」に衝撃を受けました。
「島国で、多くの河川を有する」日本という国には、自然災害が多いという問題がある一方で、「水」に関しては、非常に恵まれた国なのです。
世界各国の多くの国を通って海にそそぐ大河川では、「その水はどこの国のものなのか?」が、大きな問題となります。
上流にある国が河川を汚染したり、大きなダムをつくったりすれば、下流にある国はその影響を免れることができません。
でも、「この水は、うちの国を流れている川から得たものだ」と言われると、下流にある国としては、なかなか主張しにくい面もあります。
最近まで、日本は、そういう「水戦争」とは無縁でいられたのですが、椎名さんは、「日本の山林の水源地を買っていく外国資本」のことを、『水惑星の旅』で、採り上げておられます。
今、日本各地の山(森)がかつてないほどの規模で売れている。林業がふるわなくなったいま、日本の山はその持ち主にとっては「巨大なやっかいもの」になりつつある。そういう山を買い取る動きが活発化しているのだ。相手はダミー会社を使っているので明確にはわからないが、背後に外国の企業が存在しているケースが多いという(『奪われる日本の森』平野秀樹、安田喜憲著、新潮社)。
この本に書かれている内容は衝撃的だった。山林を買っていく企業の狙いはさまざなで、そこから伐採される木材もそのひとつだが、究極の目的は「水脈」というのだ。日本にはいたるところに「名水」がある。本章の冒頭書いたように山間部にはたくさんの川の源流があり、梅雨や台風が定期的にやってきて、水源が枯渇するということはまずない。質のいい水が安定供給されている「宝の山」に外資が目をつけているのだ。硬水が多いヨーロッパ各国にとって、「軟水」だらけの日本の水は文字通り「宝の源」であり、ウォータービジネスの最高の狙い目だ。国家的な水不足に悩んでいる中国はアジアの大河の源流がほとんど集まっているチベットから巨大な水路を作って中国の川に導き入れる工事を急ピッチで進めるいっぽう、日本の山の水脈にも手をのばしている。
ところが、これまでの日本には、「外国からの水資源収奪を防ぐ法律が存在しなかった」のです。
もちろん、コストの問題などもあり、「日本の川の水が、すべて外国人のものとなる」というのは、いまのところ現実的ではないと思われますが、本当に世界の水が枯渇していけば、「日本人が、日本国内を流れている綺麗な水を口にするのが難しい時代」がやってくる可能性もあるんですよね。
「水なんて、タダ同然で使えるのが当然」だと考えている人は、世界のなかでは、「少数派」なのです。
そんな日本人が、こぞってエビアンなどの外国のミネラルウォーターを買って飲んでいるというのも、諸外国からすれば、不思議な話かもしれません。
「水道から、タダ同然で普通に飲める水が出るのに」と。
いまは、原発の問題などで、「水の安全性」にも警鐘が鳴らされ、「日本にとっての最大の資源」への安心も揺らぎつつあるのですが……
「水」は、生命にとって必要不可欠なものであるのですが、あまりに身近すぎて、その重要性は(とくに日本人には)軽視されがちです。
「水」を他国や企業に支配されてしまったら、どうなるのか?
『松嶋×町山 未公開映画を観る本』で、『フロウ〜水が大企業に独占される!〜』という映画が紹介されています。
町山智浩:日本にいると飲み水には苦労しないですよね。でも、世界を見ると、そんな国は決して多くないんです。世界中で11億人もがきれいな飲料水がないことに困っていて、毎年200万人が水不足や汚い水による感染で死んでいる。そのほとんどが5歳以下の子供。
松嶋尚美:かわいそうやね。何とかならんの? 水道つくってあげるとか。
町山:ところが逆に、水不足につけ込んで商売する連中がいるんです。フランスのスエズ、ヴェオリア、ドイツのRWEなどのタコ国籍企業なんですが、彼らは「水男爵」って呼ばれています。
松嶋:男爵、かっこいいやん。
町山:名前だけはね。何もしなくてもお金が儲かるから、貴族みたいだってことです。
松嶋:ある意味、ええとこに目つけたな。男爵たち。
町山:そう。彼ら、わずか5、6社の大企業が、全世界の水を独占しつつある。
(中略)
町山:ボリビアではもともと日本と同じように水道局が水を管理してたんですけど、アメリカのベクテルという会社が水道事業を完全に独占しちゃった。
松嶋:えー、でもそれ、アメリカの会社でしょ。
町山:そう。儲かるのは外国の会社。しかも、企業が水源を押さえたために、井戸からも水が出なく、川も上流で押さえて、下流に行かないようにする。そこで、水が欲しければ我々の会社から買え!って、すごい高い金額で売りつけた。1か月の水道代が3000円くらいになっちゃった。ボリビアは貧しい国で、年収2万円くらいで暮らしている人が多いの。
松嶋:水飲めないやん!
町山:貧乏な人たちはしょうがないから汚い水を飲んで、子供が死んで、悲惨なことになったんです。
松嶋:”人間の体は70%が水でできています”って、いうよね。そこを押さえられたら、生きることに困るやんか。水、大事やのに。
町山:だから空気と同じだから、絶対に営利団体の商売の道具にさせちゃいけないの。
松嶋:じゃあ、なんでボリビアは水道をアメリカの会社に任せたの?
町山:ボリビアは貧乏だから、世界銀行からお金を借りてるの。世界銀行というのは、貧乏な国に水道とか道路をつくるための資金を援助というか貸してあげるわけ。ところが、世界銀行はボリビアに、水道を民間企業に任せなければ金を貸さないぞと言ったんです。
松嶋:何それ?
町山:世界銀行は、水道に関しては、世界水会議の方針に従ってる。それは、世界各国が集まって世界の水不足対策を協議する「水の国連」ですけど、その水会議の役員は、さっき言った水男爵たちによって占められてるんです。
松嶋:グルやー。
町山:グルですよ。世界銀行で日本やアメリカから集めた大金は、貧しい国が水道をつくるために貸し出されるけど、その水道をやってるのは先進国の水男爵。お金は彼らのところに入るだけ。
もちろん、日本がすぐにボリビアのようになるとは考え難いし、日本だけがよければそれでいいのか?とも思います。
それでも、ボリビアのように「水攻め」にされる未来を、子孫に残すわけにはいきません。
「水なんて、あるのがあたりまえ」なのは、日本でも、そんなに長い期間ではないのです。
玉川上水ができるまでの苦労を、教科書で読んだ人も少なくないはず。
どうか、この「死活問題」を、ひとりでも多くの人が知ってくれますように。
- 作者: 椎名誠
- 出版社/メーカー: 新潮社
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- 作者: 町山智浩,松嶋尚美
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フロウ ?水が大企業に独占させる!? : 松嶋×町山 未公開映画を観るTV [DVD]
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2012-02-07 映画『J・エドガー』感想
■[映画]J・エドガー ☆☆☆☆

ストーリー(あらすじ)
FBI(アメリカ連邦捜査局)の初代長官を務めたジョン・エドガー・フーバー(J・エドガー)の半生を、クリント・イーストウッド監督とレオナルド・ディカプリオの初タッグで描くドラマ。1924年、FBIの前身である捜査局BOIの長官に任命され、35年にFBIへと改名した後も、72年に他界するまで長官として在任したJ・エドガーは、カルビン・クーリッジからリチャード・ニクソンまで8人の大統領に仕え、FBIを犯罪撲滅のための巨大組織へと発展させていった。しかし、多くの功績を残した一方で、時に強引な手腕が物議をかもし、その私生活は謎に包まれていた……。脚本は「ミルク」でアカデミー賞を受賞したダスティン・ランス・ブラック。共演にナオミ・ワッツ、「ソーシャル・ネットワーク」のアーミー・ハマーら。
2012年4本目の劇場鑑賞作品。
豪雨のなか、月曜日のレイトショーにやってきた観客は、10人足らずでした。
実はこの『J・エドガー』、九州では福岡県と沖縄県にしか上映館がなく(沖縄は1館のみ)、仕事を終えて車を運転し、なんとかレイトショーに間に合いました。
イーストウッド監督、ディカプリオ主演で、この冷遇のされっぷりは……よっぽどつまらない映画なのか?と不安だったのですが、僕はこの映画、面白かったです。
しかしながら、アメリカの近現代史に対する予備知識が最低限はないと、話についていくのが大変でしょうし(「リンドバーグ」という名前を聞いて、『今すぐKISS ME』しか思い浮かばない人は、この映画を観に行くのはやめておいたほうが無難です)、イーストウッドらしい、「すっきりしない映画」ではあるんですけどね。
この映画、けっこう足早に、そして、時代を行きつ戻りつしながら、フーバー長官の人生をたどっていきます。
ちなみに、映画のなかでは、多くの親しい登場人物は「エドガー」と呼び、それ以外の人たちは「ミスター・フーバー」と呼んでいますが、日本の歴史の教科書では「フーバー長官」と呼ばれることがほとんどだと思います。
イーストウッドが、あえて、『ジョン・エドガー』というタイトルにしたのは、彼のプライベートな部分や内面にまで踏み込んでいく、という決意のあらわれなのでしょう。
僕は、冒頭のシーンで、思わず、「『スナッチャー』かよ!」と、往年のゲームファンにしかわからないようなツッコミを心に抱いてしまいました。
でも、このシーンはすごく大切なんですよね。
テロリストにとっては、「勇気ある行動」、直接関係のない他者にとっては「怖いわね」「かわいそうだね」という「爆弾テロ」は、その攻撃にさらされる側にとっては、どんな権力者にとっても、「子供の泣き叫ぶ声」や「家族の生命の危機」という「恐怖の体験そのもの」なのです。
僕たちは、ついつい、そういうテレビ画面の向こうにある「事件」を俯瞰してしまうけれど、それは、当事者にとっては、「いま、そこにある危機」。
フーバー長官は、若いころ、上司がテロで危うく命を取り留めた現場にいき、「このままでは、(自分も含め)多くの一般市民が共産主義者たちにやられてしまう」と考えるようになりました。
しかし、それを防ぎ、テロリストを根絶して社会を安定させるためには、こちら側にも「力」が必要です。
それも、「圧倒的かつ絶対的な力」が。
僕はこの映画をみていて、フーバー長官の「権力欲」と「相手を屈服させるためなら、なんでもやる」ことに驚かされましたし、その一方で、「テロリストと戦ったり、凶悪犯を捕まえるためには、『ワイルド7』みたいな連中じゃないとダメなのかな……」とも考えさせられました。
この物語の終盤で、フーバー長官は、「あなたは、何が真実なのか、自分でもわからなくなってしまっている」と指摘されます。
「権力欲を満たすための権力」なのか、それとも、「国や国民、そして身近な人を守るための権力」なのか?
たしかに晩年は、フーバー長官自身にも、「よくわからなくなってしまった」のだろうなあ。
以前、アメリカ人の英会話の先生と、同時多発テロ、そして、イラク戦争の話になりました。
「アメリカは同時多発テロを受けて、多くの人を失った。でも、アメリカ軍の攻撃で、イラクでは一般市民の命がもっとたくさん失われている。こんなに国力が違う国を攻撃するなんて、アメリカには自制心がないのか?」
その問いに、先生は、こう答えてくれました。
「いや、アメリカ人はみんな、今度は自分がテロで死ぬかもしれない、飛行機が突っ込んできたり、炭疽菌を入りの手紙を受け取ったりするかもしれないと不安だし、怖いんだ。『国力が違うのに』というけれど、テロを起こされれば、誰が死ぬかなんてわからない。自分や家族や友人が死ぬかもしれない。よそからみたら、大きな力の差があるのに、と思うのかもしれないけれど、アメリカに住んでいる人間は、『やらなければやられるんじゃないか』と考えずにはいられないんだよ」
人間同士でも国と国でも、一度相手を疑い、信じられなくなったら、相手を「支配」する以外には、「関係」を築けない場合がある。
それをはじめてしまったら、もう、「自分が敗れ去るまで」後戻りはできない。
フーバー長官は、8人の大統領に、48年間にわたって仕えてきたのですが、それだけ長期にわたって権力を維持できたのには、高官たちの秘密を調べた「極秘ファイル」の存在が大きかったといわれています。
みんな、自分のスキャンダルが流出するのをおそれて、フーバー長官に手を出せなかった。
しかしながら、フーバー長官というのは、「権力者が権力を握るために必要な汚れ仕事」(諜報や反対派の弾圧など)を、自らの意思で、一手に引き受けてくれた人でもありました。
大統領たちにとっては、「敵にまわしたくはないけれど、とりあえずやりたいようにやらせておけば、自分の手を汚さずに『やりにくい、やりたくない仕事』をやってくれる便利な人物」でもあったのではないかと思うのです。
ちなみに、フーバー長官って、「科学捜査をとりいれた功労者」でもあったんですね。
「自分たちを傷つける連中をなんとかして排除し、安心して暮らしたい」
「そのためには、あいつらに対抗できるような武器と権力を持った組織が必要だ」
「でも、その組織の力が強くなりすぎると、今度は自分たちが弾圧されるんじゃないか?」
どのあたりを「落としどころ」にするかは、本当に難しい。
「ルールを守らなければ、国家は成り立たない」
「ルールを遵守することにばかりこだわっていては、国は守れない」
フーバー長官がいなかったら、アメリカはどうなっていたのでしょうか?
混沌が長く続くことになったのか、もう少し優しい国になったのか?
歴史好き、イーストウッド好きの僕にとっては、大満足の映画でした。
ディカプリオの老けメイク、最初はちょっと「かくし芸大会」っぽくて、観るたびに笑いそうになってしまったのですが、最後のほうではすっかりなじんでいましたし。
観る人を選ぶ映画であることは、間違いありません。
アメリカ史に対する予備知識がないと置いていかれるので、「日本人向け」とも言い難い。
それでも、ここまで読んできて、「面白そうだ」と思えるのなら、観て損はないはずですよ。
2012-02-06 日本を捨てた男たち
■[本]日本を捨てた男たち ☆☆☆☆

- 作者: 水谷竹秀
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2011/11/25
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【梗概】
居場所を失った祖国日本を捨て、彼らはフィリピンへ飛んだ。だが、待っていたのは無一文のホームレス生活。海外で困窮状態に陥った日本人を俗に「困窮邦人」と呼ぶ。現在も在フィリピン日本大使館にはこの困窮邦人が次々と駆け込み、援助を求めている。家族に送金を頼み込むも拒否され、帰りの航空運賃や査証不備による不法滞在の罰金を工面できず、異国の地で路頭に迷う日々に。中には命を落としてしまう人もいる。
日本の外務省によると、在外公館に駆け込む困窮邦人数が最も多い国はフィリピンである。2001年から直近の統計がある09年まで年間100〜200人の間を推移し、9年連続最多を記録している。フィリピンから見れば「金持ち」の国、日本から来た人がホームレスに陥る皮肉な現実。日刊マニラ新聞で働き始めて5年、私はある老人と出会ったことをきっかけに、困窮邦人の取材を始めた。入国管理局の収容施設で見た、老人の図太く生きる姿。同じ日本人として、異国の地でまったく異なる環境に生きるその姿に、正直驚いた。
この社会現象の発端は、80年代から日本各地でフィリピンクラブが一世を風靡したことにある。独身、派遣労働、安月給、借金地獄……。うだつの上がらない人生を送り続けた男性が、偶然入った一軒の店。目の前に現れた陽気で若い女性たちの虜になり、その日からとりつかれたように店に通う。そして女性を追い掛けてフィリピンへ。だが、所持金をすべて使い果たしてしまい、女性一家からも見捨てられた。挙げ句の果てには教会や路上で寝泊まり生活を続け、近隣のフィリピン人住民に食事を分けてもらい、生き延びている。
面白いノンフィクションでした。
面白がってはいけない話ではあるのでしょうけど……
午前4時半、早朝を告げるコーランがバクララン教会の周辺から聞こえてくる。教会の前を通るロハス大通りの向かいに建つ、寂れたモスクからだろうか。
吉田(仮名)1日は、教会内にある公衆トイレの場所を確保することから始まる。コーランが流れてしばらくした後、毎朝5時半ごろにトイレが開くのを並んで待つ。順番が遅くなると、吉田と同じ路上生活者の痰や小便で床などが汚れてしまうため、前夜に掃除が終了し、夜風で床が乾いた後のきれいな状態で使いたいのだという。長引く教会生活で自然に身に付けた知恵なのだろう。
「パチンコ屋の開店の時と同じでトイレの前は行列になる。個室に入ると、ひでえ奴は上からのぞいてくる。だからきょろきょろしながらやる。トイレットペーパーなんてここに来て1回も使ったことない」
用を足して6時ぐらいになると、教会から歩いて5分ほどのところにある民家へ向かう。ベニヤ板で作った掘っ立て小屋がひしめく細い路地を通過すると、薄緑色に塗られたコンクリート造りの民家に着く。吉田が「お母さん」と慕う小太りのフィリピン人の中年女性はそこに住んでいた。彼女は教会の前で、野菜やゆで卵の揚げ物、ソフトドリンクなどを販売する露店の経営者。体格のせいか、堂々と構えているように見え、たれ目の顔は少し漫画キャラクターを思わせる風貌だ。民家の前にはハエが飛び交い、壁際にはゴキブリが潜むという、貧困地区のありふれた光景が広がっていた。
私がその民家を訪れたある朝、吉田はほうきを手に黙々と路上を掃いていた。周辺に建つ1軒の民家からはポップミュージックが大音量で流れてくる。掃除が終わると、商売用の台車をデッキブラシと洗濯石けんを使って丁寧に洗い、腰を曲げたまま黙って手を動かす。実に真面目によく働いていた。
前日売れ残ったゆで卵の揚げ物は、衣をはがしてもう一度使う。揚げ物用の野菜を包丁で刻んだりするのも吉田の仕事だった。こうして毎日、正午ごろまで働き、台車をバクララン教会前の所定の場所まで運んできたところで1日の仕事が終了する。朝と昼は彼女の自宅で食べさせてもらい、日当20ペソ(約40円)ほどを受け取る。その日の朝食は、焼き魚と目玉焼き、それに炊きたての白いご飯。鍋からご飯をよそった吉田は、女性の家族に囲まれてテーブルに座り、手づかみで食べ始めた。
「ご飯食べさせてもらったあげく、全部面倒見てもらうのはいかん。至れり尽くせりはまずいなあ。遠慮して、教会で寝泊まりするほうが気を遣わんでいい。ホントいつも助けてくれるでね。お母さんは神様みたいな人。おかげでこうやってやっとれるでね。最低限の生活、たばこ、仕事も手伝わせてもらえるでありがたい。
仕事が終わって午後になると、教会周辺を散歩するなどして時間を過ごし、夜になると教会の長椅子に戻って眠りにつく。最低限かもしれないが、生き延びることはできていた。だが、日本行きの航空券を購入する現金を持っていないために、帰国はできない。おまけにビザの延長手続きも金銭的にできなかったため、半年近くも不法滞在状態に置かれていた。
僕はこの「困窮邦人」の問題については全く知らなかったのですが、この本を読んでいると、「なぜその問題がマスコミで大きく採りあげられないのか」もわかるような気がしました。
「困窮邦人」が最も多い国が、「日本よりも貧しく、女性が水商売で出稼ぎに来ている国」であるフィリピンだったというのは意外だったんですよね。
日本外務省の海外法人援護統計によると、2010年に在外公館に駆け込んで援助を求めた困窮邦人の総数は768人。中でもフィリピンが332人と最も多く、2位のタイ92人を3倍以上引き離して独走状態にあり、2001年から10年連続で最多を記録している。数だけで言えば、フィリピンだけで全体の約43%と半数近くも占めていることになる。
ちなみに、3位はアメリカ、4位中国、5位が韓国なのだそうです。
なんで、フィリピンがこんなに「独走」しているのだろう?
「困窮邦人」には、「フィリピンパブで知り合った女性を追いかけてきてフィリピンにやってきたものの、所持金が尽きて日本にも帰れなくなってしまった人」や「犯罪や借金で日本から脱出してきた人」がたくさんいるときいて、「そういうことか……」と合点がいったのです。
そういえば、最近では小向美奈子さんが「フィリピンに行っていた」という話もありましたね。
そういう背景を知ると、これはさすがに「自己責任」だろう……というのと、「とはいえ、ここまで他国で困窮している日本人を、そのままにしておいていいのだろうか……」というのと、その両方の気持ちが浮かんできます。
「対象に対して、感情移入しにくい」ために、この問題はあまり大きく報じられないのかもしれません。
だって、「フィリピンクラブで出会った若い女を追いかけてフィリピンにやってきて、いいところを見せようと援助しまくっていたらお金がなくなり、相手にも捨てられた」なんて人が「困ったから助けてくれ」と日本大使館に駆け込んできたとしても、「税金でそんな連中を助けるのか!」って言いたくもなりますよね。
実際、日本大使館もこの問題には苦慮していて、そう簡単には日本に帰らせてはくれないようです(犯罪や借金などで「帰れない」人もいるのですが)。
基本的には、日本の家族や知人に連絡をとって、援助してくれないか頼むのが大使館のやりかたで、よほど特殊な事情がなければ、日本への飛行機代を貸してもくれません。
フィリピンで生活していると、日本行の飛行機代を稼ぐのは大変なことですし、そもそも、それで日本に帰ったとしても、そこから先の展望が何もない。
ちなみに、日本の親族に連絡をとっても「いままでさんざん迷惑をかけられてきた」「自分たちも余裕がない」「むしろ帰ってきてほしくない」などと、断られる場合が多いとのことです。
最初のほうで引用した「吉田さん」の生活ぶりをみると、僕はつい、「日本で、いまのフィリピンの生活と同じくらい『生きるための労働』に立ち向かっていたら……」とか、考えてしまうのですけど。
「フィリピンクラブでハマって……」というような話を聞くと、「バッカじゃねえの?」と言いたくなるのですが、そこに至るまでの彼らの人生を知ってみると、むしろ、「そんなに特別じゃない」ような気もするのです。
「不器用で真面目な人生をおくってきた『遊び慣れしていない人間』が、一度フィリピンの人たちの『底なしの(ように見える)陽気さ』に触れてしまうと、人生観がガラリと変わってしまう」
そして、いまの日本では、「貧しくても、周囲の人たちと助け合って、気楽に生きる」というのが、なかなか難しくなってしまっている。
でもまあ、そういう「濃厚な人間関係」=「理想的」ではないと僕は思うし、「やっぱりお金が必要」だから、フィリピンの人も、日本に「出稼ぎ」に来なければならない、というのも事実です。
メリンダさんは続けた。
「私たちのような貧しい人は、自分たちがつらい経験をしたら、同じ経験をさせたくないと思います。金持ちには、貧しい人の状況を理解することはできない。わたしたちは、同じ状況の人々をよく理解している。困った人に手をさしのべるのは私たちの国民性。だから、彼にはテーブルにある物は食べてもらっていいし、石けんやシャンプー、たばこぐらいはあげてもいい」
「貧困層は食べ物を分け合う」「手を差し伸べるのは私たちの文化」。おそらく2人のこの発言はフィリピン国民、特に貧困層に当てはまる共通の価値観なのだろう。
フィリピンで生活している私自身も、住んでいるアパートの警備員や近所の住民が食事をしているところに出くわすと、必ずと言っていいほど「一緒に食べよう」「ご飯食べた?」と声を掛けられる。
彼らはみんなで食べる。1人で食べるのではない。たとえ小さなパンでもみんなで分け合って食べる。その心が困った人々には温かく感じられるのだろう。
しかし、まだまだ世界のなかでも「豊かな国」である日本から「自己責任」でやってきて、困窮している人たちを、何の縁もゆかりもないフィリピン人たちが「援助」しているというのも、なんだか不思議な話ですね。
この本を読むと、フィリピン人の側にも「キリスト教に信仰に基づく善意」とともに、「外国人だから、そして、豊かな国から来た人なのに、こんなになって……という特別視」はあるようです。
皮肉な言い方をすれば、「困っている日本人を援助する」というのは、フィリピンの人にとっては、自国の困窮している人たちを援助するよりも「優越感」を抱きやすいという面もある。
「日本人は冷たすぎるね。その人が悪い、じゃあ、その後はどうしますか? 自分で悪い分かってるよ。それで終わりですか。その後(どうするか)の問題ですね」
つたない日本語で話す女性は、夫が日本人で、自分も東京で数年間生活した経験があるため、日本語はある程度理解できた。さらに英語で話を続けた。
「フィリピン人は家族のことになると温かい。何が起きようとも、家族は助け合う。でも日本人の場合は、自立心を求められるが故に周囲に助けを求められない。助けるのは何も金銭面だけじゃなく、話に耳を傾けることが大事よ」
この本では、著者が、取材者の「ウソ」をきちんと確認しているのが印象的でした。
この本に出てくる「困窮者」たちの多くは、いままでの自分の人生や学歴などで、ウソばかりついている。
そして、取材者に対しても、すぐに「カネかして」「ご飯食べさせて」と依存してくる。
日本国内にも、「援助すべき人」がたくさんいるなかで、彼らへの援助の優先順位が低くなるのは致し方ない気はします。
でも、「フィリピンの人たちの善意に任せている状態」が健全であるとも思えないし、本当に難しい。
「感動のノンフィクション」じゃなくて、取材者自身も取材しながら、取材対象の「どうしようもなさ」に困惑しているのが伝わってきて、すごくリアリティのある本です。
「かわいそうとは思えないのだけれど、このままでは、どうしようもなくなってしまっている人たち」に対して、人は、政治は、どう対応していけばいいのか……

