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2015-07-29 【読書感想】ナチスと精神分析官

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内容紹介

ナチスの心は本当に病んでいたのか? ニュルンベルク裁判に先立ちゲーリングなど最高幹部を診断した米軍医が見た「悪の正体」とは? 戦後70年間埋もれていた記録を発掘した迫真のノンフィクション! 映画化決定


 この本を最初に手にとったとき、僕は「精神分析によって、ナチスの最高幹部たちの『特異な性格』が明らかにされていた!」というノンフィクションなのかな、と思っていたのです。

 実際に読んでみると、この本は、ゲーリングやヘスという、ニュルンベルクで裁かれたナチスの最高幹部たちの素顔と同じくらい、あるいはそれ以上に、収監先での自由な行動を許され、彼らと身近に接した「精神科医」の物語だったのです。

 

 ケリーはナチのあとを追ってニュルンベルク刑務所へ赴いた。新しい任務は、これから始まる裁判で裁きを受ける、ナチの高官二十二人の精神的健康状態を評価することだった。モンドルフでナチと、とくにゲーリングと過ごしたことで、さまざまな思いが公務としての関心を超えて高まっていた。この捕虜たちには共通する精神的欠陥があるのか? 全員が同じ精神疾患を共有していて、そのせいで第三帝国の非道な行為に関与したのか? ドイツ人たちを相手に仕事をして、自分の心を占める、差し迫った疑問に答えられるのかどうか考えずにはいられなかった。この男たちの心を科学的に研究することで、将来、ナチのような政権の台頭を防ぐのに役立つ、有力な要因を特定できるかもしれない。

 なんとしてもそれを見つけだしたかった。正式許可のないまま、ケリーは捕らわれの身となったナチ指導者たちの脳の奥底を心理学的な面から探究する計画を立てていた。


 アメリカ軍に捕縛された際には、薬物依存で、情緒不安定となり、体重も130圓砲覆辰討い拭屮淵船垢離淵鵐弌璽帖次廛悒襯泪鵝ゲーリング

 彼は、拘束されたあと、周囲の人間の努力の甲斐もあって(罰するために心身を健康に保たせる、というのも、ある意味矛盾ではあると思うのですが、それも政治というものなのでしょう)、かつてのナチスの高官としての威厳を取り戻していきます。


 僕が驚いたのは、彼らを分析する側だった、アメリカ軍の優秀な精神科医、ダグラス・ケリー少佐もまた、外側からみれば、ゲーリングと同じようなキャラクターの人物だった、ということでした。

 彼は、仕事中毒で、自分が興味を持ったことに対しては、妥協を許さなかった。

 その一方で、他者の心の痛み、みたいなものについての共感能力が乏しい、エゴイスティックな面を持っていた。

 ナチスの最高幹部たちというのは、精神分析官にとっては、「垂涎の的となる研究対象」でもありました。

 

 ハンナ・アーレントは、ニュルンベルクで裁かれたナチスの高官たちを「命令されたことに従っただけの、凡庸な悪」だと評しました。

 僕も、個人的には、「もし自分が同じ立場だったら、きっと命令には逆らえないだろう」と思うのです。

 しかし、そんな「凡庸なだけの人間」が、はたして、戦争の時代に、名を上げ、出世を遂げて、他者に影響を及ぼすことができる存在になりうるのだろうか?


 何度か話をするうちに、ゲーリングは動物への愛着について語った。多くのハンター同様、彼は自分の獲物を愛していて、ナチス・ドイツの狩猟法や自然保護法を書きなおし、じゅうぶんな理解に基づいて動物を扱うよう求めた。さらに、驚くほど情け深く進歩的な動物実験反対法を提出した。違反者は強制収容所に送られることになった。医師としてのケリーは公衆衛生を守り、命を救うワクチンを開発するという観点から、ドイツの生体解剖反対法の効果を認めなかった。「ドイツは2.5センチ四方あたりのジフテリア菌が世界のどの国よりも多い」と彼は述べた。「ヘルマン・ゲーリングジフテリア菌に対する抗毒素の製造を禁止したおかげで」

 ケリーはゲーリングがほかの種には感情移入するのに、同じ人間である大勢の人には無慈悲だったという事実になかなか折り合いをつけられなかった。この男は捨て犬や捨て猫を守るための法律制定には役割をじゅうぶんに果たしたのに、政敵に対する血みどろの粛清を指揮し、適正な手続きなしに敵を処刑する権利を宣言し、1940年にナチがオランダへ侵攻した際には、ドイツ空軍の司令官としてロッテルダム中心地での一般市民への空爆を許可し、急襲をかけ、非戦闘員を1000人殺し、8万5000人から住居を奪った。「彼は……自分の友だちや、家族のためなら、どんなことでもする。その輪の外にいる、ほかの生き物に対する関心はほとんどないに等しい」と精神科医は診断した。


 この本のなかでも、ゲーリングの愛妻家、子煩悩ぶりには何度も触れられており、家族からも愛されていたようです。

 ここまでくれば、たしかに、「命の重みに対する価値判断が異常」だと僕も思います。

 ただ、「自分の身内と赤の他人の命の重さを、同じように考える人」というのも、それはそれで、「普通じゃない」のですよね……

 じゃあ、どのくらいが「普通」とか「正常」なのか?というのは、案外難しい。

 みんな、自分が「正常」だと信じてはいるけれど。


 ケリーが見たところ、ゲーリングナチズムを受け入れることで、自分の人生を設計し、出世欲を満たそうとしていた。党への忠誠心はヒトラーのためでも、ドイツのためでも、ましてやいわゆるアーリア人の種を保存すするためでもなかった。彼の目的はヘルマン・ゲーリングの格を上げることにあり、ナチ党に入ったのも日の出の勢いの党の幹部になるためだった。彼の利己心はほかのナルシストと比較しても傑出していた。ゲーリングはケリーがこれまで出会った中でも群を抜いて自己中心的な人物だった。

 ケリーは、ナチの元高官らが前例のない規模の残虐行為をなし、戦争犯罪を犯したのはわかっていた。ドイツ人指導者たち自身も、自分たちが何をして、どういうことんあったのかを知り、驚いていたほどだ。だが人格が正常の範囲内にある人間がナチの暴力を引き起こしたということは、つまりまたあるかもしれない。それがケリーの懸念だった。「ライ博士を例外として、彼らの誰も正気を失っていなかった」と、ケリーは《ニューヨーカー》の記者に語った。ナチの指導者たちは「特別なタイプではなかった」彼はそうも書いている。「彼らの人格パターンが示したのは、社会的に望ましい人間ではなかったかもしれないが、アメリカ[でもどこでも]似たような人間はいるということだ」ということは、心理学的に似た人間によってホロコーストや人類に対する罪が繰りかえされるおそれもある。彼の懸念は、1961年にイスラエルで行われたアドルフ・アイヒマンの裁判のリポートで”悪の陳腐さ”を指摘したハンナ・アーレントの懸念とは違った。アーレントの主張は、ナチの高官らは上からの命令に従い、そうした命令を型通りの仕事だととらえて、みずからの行動を普通のことだと考えていたというものだ。だがケリーが調査したナチ高官らは、自分たちの政権とその中でのみずからの役割を、人類の進化の道筋によって優遇された特別なものだと見ていた。そうした考えによって、ゲーリングは愛情深い家庭生活を営んでいたにもかかわらず、みずからの権力を満喫するために元同僚を殺し、残忍な命令を下した。


 僕も、「ナチスの最高幹部たちには、ある種の『共通点』があるのだろうか?」という疑問を持っているのですが、実際にナチスの最高幹部たちと接し、インタビューをし、心理テストまで行った2人の精神分析官でさえ、異なる見解を示しているのです。精神科医のダグラス・ケリーは、「彼らは『特別なところ』はなかった」と結論づけ、心理学者のグルタフ・マーク・ギルバートは、「ナチ高官の多くは、罪悪感を感じる能力が限られ、他者を大切にしたり、政治的または道徳的行動基準を大切にしたりできない精神病質者だ」と述べています。

 ただ、そういう人は、いつの時代にもいるのですよね、たぶん。

 そして、「正常」と「異常」の線引きも、簡単なものではない。


 彼らを分析した優秀な精神科医ダグラス・ケリーもまた、ある意味「病んで」いたのです。

 (ケリーの)息子のダグは、病院の新生児室を退院したときからずっと、精神の発達を促す積極的なテクニックを試す実験動物だったのかもしれない。息子はゲーリング、ヘス、ローゼンベルクの代わりに父の実験対象になった。ダグは家ではつねに教育や情報を与えられ、脳発達のための訓練を繰りかえしやらされた。それは彼の息子への課題として行われた。いまだに彼は、ケリーの観察ゲームのプレッシャーと苦痛を覚えている。居間に座っていると、ケリーはダグに周囲をよく見て、できるだけ詳しく覚えるようにと指示する。息子にいったん部屋を出るように命じると、彼は物の位置を少しだけ変える――ときには、コーヒーテーブルの上のペンを少しだけずらすだけということもあった。「どこが違う?」部屋に戻ってきた息子に、ケリーは質問した。このゲームはダグに恐怖とパニック、そしてうまく違いを見つけたときには興奮と満足をもたらした。奇妙な組み合わせの感情だった。

「いつもIQテストをやらされた」と、ダグは言う。


 ケリーは、犯罪心理学や精神分析の仕事で高い評価を受けていた一方で、子どもに対して、突然キレるなど、家族に対して厳しくあたってもいたのです。

 まるで、彼が身近に接したゲーリングの何かが乗り移ったかのごとく、同じ死に方をしてしまいます。

 「仕事で、常軌を逸した成功を収める人には、その仕事の正邪にかかわらず、一定の『特質』みたいなものがあるのかもしれないな」

 僕には、そんな気がしました。

 生まれた時代、場所が入れ替わっていたら、ケリーとゲーリングは、逆の立場で出会っていたかもしれません。


 広島や長崎で、市民を原爆で無差別に大量虐殺したのは、ナチスのホロコーストとそんなに違わないのではないか、と僕は思うのですが、それを指示し、実行した人たちが、裁かれることはありませんでした。

 むしろ、彼らは「英雄」とされています。

 もちろん、本人たちの内心には「罪の意識」はあったのかもしれませんが。


 でも、そういうのは、すべて仮定や想像の話でしかないのもまた、事実なんですよね。

 「ミイラ取りがミイラになる」というのがありますが、あれから70年が経っても、「人には、人のことがよくわからない」のです。

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2015-07-28 【読書感想】ネット私刑(リンチ)

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ネット私刑(リンチ) (扶桑社新書)

ネット私刑(リンチ) (扶桑社新書)

内容紹介

インターネットで事件の加害者の名前をさらし、その家族の個人情報までも、 その真偽に関係なく拡散していく――。これを今、「ネット私刑(リンチ)」と呼んでいます。

このネット私刑(リンチ)は、ここ最近、どんどん過激になっていて、顕著な例が「川崎の中1殺害事件」である。 同事件では事件発覚の数日後には、容疑者の名前が暴露され、被疑者の家族や恋人の個人情報までも、その真偽に関係なくさらされています。

ネットでさらす人のほとんどは、「正義」を大義名分にしています。しかし、それは「正義」をはき違えている感があります。

本書は「在特会」をはじめ、ネット右翼に関しての取材を行っている気鋭のジャーナリストで、第46回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した安田浩一氏が、 さらす人、さらされる人の実態に迫りました。

安田氏が川崎の事件だけでなく、大津市で起きたいじめ自殺の現場を徹底取材。さらには、あの「ドローン少年」の親にも直撃しました。 最終章にはネットで殺人事件の犯人にされた「誤爆」被害者のスマイリーキクチのインタビューも収録しています。

今、ネットで起きている「闇の実態」が明らかになります!


 この新書では、「あいつが犯人だ」としてネット上で個人情報を拡散された側が受けた「被害」について、『川崎中1殺害事件』などの事例をもとに、検証されています。

 これを読むと「正義」というものについて、考えずにはいられません。

 あの川崎の事件で、中1の被害者が、「イスラム国人質事件」になぞらえるように、からかい半分のようにみえる殺されかたをしたことには、僕も強い憤りを感じました。

 犯人たちの「個人情報」をネットでばらまこうとした人たちは、犯人たちがあんなことをしていながら、「少年法」で守られ、名前も顔写真も公開されないことに怒りを感じていたのです。

 それは、わかる、すごくよくわかる。

 

 ただ、その憤りのあまり、過った情報を鵜呑みにして拡散し、無関係な人に大きなダメージを与えていたことが、この新書では紹介されています。

 ある女子中学生は「犯人の一味」とされ、実名と一緒に顔写真が掲載された。別の女子中学生は「犯人の彼女」とされ、やはり顔写真から家族構成までもが2ちゃんねるに書き込まれた。

 ある男子高校生は、やはり実名とともに「凶暴」「凶悪」と指摘され、上村さん殺害に加わっていたかのように書かれた。

 これらの者たちはまったく事件とは関係ないにもかかわらず、永遠にネットへその名前を刻まれてしまったことにある。

 事件とは無関係であるにもかかわらずネット上で「犯人」だとされてしまった、ある少年の家を訪ねたときのことである。

 少年の母親は今でも脅えていた。

「思い出すのも嫌なんです!」

 大声で私を怒鳴りつけた。

「もう騒がれたくありません。帰ってください!」

 ネットの無責任な情報が、どれほどこの一家を苦しめることになったのか、悲鳴にも近い母親の声から、それは十分に理解できた。

 名前を書き込まれた女子中学生のひとりは、今でも脅えて家の中に閉じこもっていることが多いという。

 何の救済措置もとられることなく、被害の回復が図られることもなく、彼ら彼女らは一方的に叩かれた。

 つまりネットは、処罰感情とゲーム感覚の「犯人捜し」によって、亡くなった上村さん以外にも、多くの「被害者」を生み出すことになったのだ。


 また、大津市いじめ自殺事件で、「いじめた生徒の母親」だとされた女性は、無関係にもかかわらず、ネット上で叩かれ続けているのです。

 そして、世の中には「火のない処に煙は立たない」というような考え方をする人も、けっして少なくありません。

 今度は女性が自ら電話を取った。

 電話の主は年配の男性のようだった。

「○○はいるか?」

――はい、私です。

「おまえの息子は人殺しだ」

――それは大津の事件のことですか?

「そうや」

――私、いくつだと思いますか? 65歳です。中学生の子どもなどいません。

「本当か?」

――私の子どもはすべて成人していますし、住んでいる地域も違います。ネットに出ていることはすべて間違いです。

 電話の主の男性も、確信があって電話したわけではなさそうだった。

「そうかあ、ネットの情報は嘘なのか」

 それだけ言うと電話は切れた。

 受話器を戻し、深呼吸した.気持ちを落ち着かせようとしたが、それでも呼吸の乱れが止まらない。膝が小刻みに震えている。

「たまたま納得してもらえたものの、本当は怖くて仕方なかった。それに、こうした電話が相次いでいることで、もう、とんでもない事態になっていることを知り、そのまま逃げ出したくなりました」


 正直、実際にいじめをやっていた犯人たちであれば、「社会的制裁」を受けるのは、ある程度やむをえないのではないか、とも思うのです。

 でも、この女性は本当に無関係なのに、ネット上の嘘の書き込みで「電話で突撃」してくる人に、対応しなければならなくなってしまった。

 これは「災難」だとしか言いようがなくて、こうしてうまく説得できたとしても、ようやく「ゼロ」に戻るだけです。いや、怖い思いをしたり、時間をとられたりすることも考えれば、「どこまで行っても、マイナスにしかならない、徒労」が続くのです。

 そして、被害者に比べて、「突撃」してくる側の意識は、あまりにも軽い。

 相手を嘘の情報に基づいて恫喝しておきながら、謝罪すらせずに、「ネットの情報は嘘なのか」と自己完結して、電話を切っただけ。

 この新書を読んでいると、ネット私刑というのは、被害を受ける側の傷の深さに比べて、加害側の精神的な負担や社会的信用喪失のリスクが、あまりにも軽いことに愕然とします。

 「正義のためなのだから、人違いくらい大目に見ろ」と「加害側」は思っているのかもしれない。

 あるいは、「自分は悪くない。ネットに嘘の情報を書き込んだヤツが悪い。むしろ自分も被害者だ」という意識なのかもしれない。

 それって、不公平だし、歪んでいると僕は感じます。

 自分だって、「被害を受ける側」になるかもしれないのに。

 他人を「殺人者だ」と指さす人間には、それなりの「根拠」と「覚悟」が必要なのではなかろうか。

 ところが、ネットでは、軽い気持ちや、自分の憂さ晴らしで、それができてしまう。

 

 また、仮にその「犯人情報」が正確だったとしても、それを拡散して「私刑」を誘発することが、正しいのかどうか。

 この新書では、実際にこの『ネット私刑』で、殺人事件の犯人よばわりされ、長年苦しめられてきた、スマイリーキクチさんへのインタビューも掲載されています。

 スマイリーさんは、川崎の事件についても、ブログで、加害者情報の拡散に対して、自制を促すエントリを書いておられます。

 僕が指摘したのは『誤爆』の怖さだけではありません。

 たとえ名前をさらされた人物が真犯人であったにせよ、今後、少年審判が開かれたとき、容疑者が氏名をさらされた”被害”を訴えれば、罪が減刑される可能性もなくはないと思うのです。

 もうひとつは、住所や家族構成、家族の氏名、職業などの個人情報をネットにさらしたことに対して、民事訴訟を起こされる可能性もある。たとえば、犯人の家族が自宅を売却して、被害者への賠償に充てようとしたとき、その家をいったい誰が買うでしょうか。ネット上に住所が出たことで、事故物件のような扱いになってしまう。ネットに上がった情報は、永遠に消えません。10年後だろうが20年後だろうが、その家に買い手はつかないのではないか。

 自宅が売却できないうえに、家族の氏名、職業をさらしたことで、実際、主犯格の少年の親は仕事を辞めざるをえなかったといいます。ますます賠償からは遠ざかるでしょう。

 こうしたことまで考えずに、ほとんどの人がネットで容疑者やその家族を叩いているけれど、追い詰めれば追い詰めるほど逆効果なのです。そしてこの結果、事件の被害者やその家族の人権をもないがしろにしてしまうことにつながる。

 このスマイリーさんの言葉に関して、僕には違和感があります。

 それでは、「犯人が暮らしていた家」を、その事実を隠して、誰かに売りつけるのか?

 賠償のために、加害者の遺族を「普通に仕事ができるように、守ってあげる」べきなのか?

 被害者側からしたら、「そんな金よりも、加害者一家を打ちのめしたい」のではなかろうか。

 まあでも、そんなふうに「第三者が、被害者側の気持ちを自分で勝手に想像して、代わりに『復讐』しようとする」ことが、「正義の暴走」や「関係ない人への風評被害」を生んでもいるわけで。

 

 これを読んでいると、「警察やマスコミまかせだった犯罪者への処罰が、ネットによって、民衆の手に帰ってきた」という面もあるような気がしました。

 「正義の暴走」だけではなく、「自衛」という意識も、そこには存在しているのです。

 ただ、警察やマスメディアがこうして発展してきたのは「加害者に対して、私刑が行われるのは、事実誤認や報復の連鎖というリスクがあるし、自分の手を汚すのはつらい、と考える人も多いから」ではあるのですよね。

 

 この新書に「ネット私刑」の怖くなる事例はたくさん収められているのですが、「では、ネット私刑を避けるためには、どうすれば良いのか」は、書かれていません。

 というか、個々のネットユーザーが自制心を持つ以外の方法は、思いつかないのです。

 そして、それがすごく難しいというのも、よくわかります。

 誰でも、常に「ネットで誰かを責める側」にいられるとは、限らないのだけれど。


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2015-07-27 【読書感想】飛行機事故はなぜなくならないのか

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Kindle版もあります。

内容紹介

飛行機事故による死者は、全世界で年間500人程度である。飛行機による重大事故の発生率は年々減る傾向にあるが、事故はゼロになっていないし、今後ゼロになることもあり得ない。一方で、事故をゼロに近づけようという努力は常に続けられてきている。本書では、過去の飛行機事故の事例を分析し、事故はなぜ起きたかを検証したうえで、事故を減らすために機材や安全装置がどのように進歩してきたかを解説する。(ブルーバックス・2015年4月刊)


 飛行機、好きですか?

 僕は正直、ちょっと苦手なんですよね。

 昔はもっとダメで、「あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて!」と思っていたし、ふとした瞬間に、「ああ、この機内から一歩外に出たら、もう絶対死ぬんだな……」なんて考えはじめたら、怖くてきりがなくなってしまっていました。

 最近は、少し慣れてもきましたし、飛行機の中というのは、他にやることもないので、本を読むにはなかなか都合の良い空間でもありますよね。

 隣がものすごく話し好きの人だったりすると、困惑してしまいますけど。


 この新書には、数々の飛行機事故を紹介・分析し、「どのような理由で飛行機事故が起こってきたのか?」そして、「事故を予防するために、どのような取り組みがなされてきたのか」が書かれています。


 飛行機というのは、基本的には、「すごく安全性が高い乗り物」なんですよね。

 しかも、その事故率は、年々低下してきているのです。

 第2章で、国際航空運送協会(IATA)がまとめた2013年の安全レポートを取り上げるが、その中で、西側性ジェット旅客機の全損事故(その飛行機が修理不可能、使用不能となる事故)件数は、飛行100万回で0.41件だったとされている。百分率で言えば0.000041%で、日常生活ではゼロと見なしても構わないような値に思える。しかし表現を変えると、1000万分の4.1であり、ジャンボ宝くじの1等当選確率の4倍もの数値ともいえる。宝くじの当選者が実際にいることもあって、こちらの方が遭遇しそうな数字に思えてしまう。


 また、国際航空運送協会(IATA)の2008年から2012年までの1年あたりの平均値も示されています。

 ジェット旅客機事故件数:54件

 ターボプロップ機事故件数:38件

 ジェット旅客機全身事故率:0.54 

 死者の出た事故件数:120件 

 死者数:575人


 ちなみに、日本の航空会社によるジェット旅客機の全損事故の割合は約3.5年に1件で、過去3年半(以上)日本の航空会社は全損事故を1件も起こしていません。

「日本の航空会社は世界的にみても安全といえる」とのことです。

 この本のなかでは、地域別の事故率なども紹介されていて、「アフリカ」「中東・北アフリカ」の事故率が、他の地域と比較してかなり高くなっています。

 また、「離陸・着陸時には事故が多い」理由も、実際のデータを用いて解説しています。


 世界的に格安航空会社の便数が増加していることもあり、飛行機の便数は増加しつづけています

 にもかかわらず、事故の全体数はあまり変わっていない。

 ということは、飛行機輸送の安全性は、どんどん高まってきているのです。

「あんな鉄の塊」は、そう簡単に落ちるもんじゃない。

 とはいえ、自分が乗った飛行機が墜落していく、という状況は、想像するだけであまりにも怖い。

 

 この新書に書かれていることは「飛行機はかなり安全性が高い乗り物で、しかも、さらにその安全性を高めるための研究と工夫が続けられている」ということなんですよ。

 ボーイング787のコックピットの写真を見ると、昔の機体よりも計器が少なくて、ディスプレイもわかりやすくなっており、まるでテレビゲーム『エースコンバット』みたいだなあ、なんてことを思いました。

 

 しかし、こうして55件もの事故の話をひたすら読み続け、事故前のパイロットの交信記録をみていくと、怖くなってしまうのも事実で、やっぱり、「それでも事故は起こるものなのだ」とも痛感します。


カナディアン・パシフィック航空爆破事件

 乗客の自殺ではないが、保険金目当てに航空機を爆破した事件もある。

 1949年9月9日に起きたカナディアン・パシフィック航空のダグラスC-47-DL(DC-3, CF-CUA, 製造番号4518)爆破事件は、別の女性と結婚したい男が、妻に1万ドルの保険をかけるとともにその搭乗機を爆破して、妻を殺し保険金を手にして、結婚も果たすことを目論んだものであった。この男は時限爆弾を貨物に載せ、妻の搭乗した飛行機を爆破した。

 この身勝手は犯行により、この機に乗っていた乗員4人と乗客19人(もちろん妻も含む)の計23人全員が死亡した。ちなみにこの男はその後逮捕されて、死刑になっている。また結婚相手の女も、共犯者として死刑判決が下されて執行された。


 テロやハイジャックに巻き込まれることだってあるし、こんな身勝手な犯罪に居合わせてしまう可能性だって、ゼロではありません。

 保険金殺人だけでも酷いけれど、無関係な人たちをこんなに巻き添えにするなよ……

 

 NY同時多発テロの教訓で、機長室のドアは外部からは開けられないようになったのですが、先日起こった飛行機事故では、操縦士が機内に立てこもってしまい、外部からは手をこまねいてみているしかなかった、と言われています。

 ひとつの可能性に対して「安全性を高める」ために行ったことが、別のケースにおいては、リスクを高める場合もあるのです。

 人間にはヒューマンエラーがあり、機械にだって故障がある。

 

 それでも、僕は飛行機に乗るとは思うんですけどね。

 というか、乗らざるをえない。

 

 リスクマネージメントの参考にもなる新書だと思います。

 飛行機のなかでは、読まないほうが良いでしょうけど。

 

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2015-07-26 映画『ターミネーター:新起動/ジェニシス』感想

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あらすじ

2029年、ロサンゼルスでは人類抵抗軍が人工知能による機械軍との戦いに終止符を打とうとしていた。1997年、機械軍による核ミサイルで30億人もの命が奪われた“審判の日”以来の悲願がかなうときが目前に迫る。一方機械軍は、抵抗軍のリーダーであり、驚異的な力を持つ予言者ことジョン・コナー(ジェイソン・クラーク)を生んだ母サラ・コナーを亡き者にすべく、1984年にターミネーターを送り込み……。

参考リンク:『ターミネーター:新起動/ジェニシス』公式サイト


 2015年18作目。

 金曜日のレイトショーで観賞しました。

 観客は10人。僕と同じくらいの世代(40代くらい)がほとんどでした。


 おお、やっぱり、ターミネーターシュワルツェネッガーじゃないとねえ!  

 ダダン、ダン、ダダン! ダダン、ダン、ダダン!

 懐かしのテーマ曲が!

 いやーほんと、『ターミネーター2』を、大学時代に部活仲間と観に行って、「映画って面白いねえ!」と興奮したことを思い出しましたよ。


 えっ、ああ、この『新起動』の話ですね。

 えーっと、寝不足で観に行った僕にも責任はあるのですが、派手なアクション映画のはずなのに、後半はかなり眠くなってしまって、何度か意識を失ってしまいました

 CGは『1』や『2』の時代とは比べ物にならないほど進化しているし、オープニングのスカイネット軍団との戦いも、スケールが大きくて面白い。

 いっそのこと、オープニング部分を1本の映画にしてしまったほうが、良かったのではないか……と、田中芳樹さんが『銀河のチェス・ゲーム』という小説の序章から『銀河英雄伝説』を書いたことを思い出してしまいました。要するに、本編はイマイチだった、ということです。


 いやほんと、映像はすごいのだろうと思うのだけれど、ストーリーはなんだかわけがわからないどころか、観客に「予想外」だと思わせるために、この作品の根本的な世界観にかかわる部分にまで手をつけてしまっています。

いやちょっと待て、それをやってしまうと、いままでの『ターミネーター』はいったいなんだったんだ?って思うよ。

 もうすでに『3』で落胆し、『4』で呆れている人ばかりだとは思うけれど。

 そもそも「過去を変えることで、未来を変える」を、何度もできたり、どの時代にも行けたりする、という設定にしてしまえば、もう収拾がつかなくなることは目に見えているのです。

 ものすごく強い「ターミネーター」と、迫力のある追いかけっこができて、シュワルツェネッガーが出ていれば、それは『ターミネーター』なのだ、という意見もあると思うし、僕も、この映画は、シュワルツェネッガーが、ターミネーターをやっているのが、唯一にて最大の「救われるところ」だと感じました。

 でもさ、これって、ひとり『エクスペンダブルズ』みたいなものですよね。


「古いが、ポンコツではない」


 そうシュワルツェネッガーが言うたびに、「ああ、観客が『老いたな』ってツッコミを入れること前提で、この映画をやっているんだよなあ」と、ちょっと悲しくなるのです。

 『エクスペンダブルズ』って、老いたスーパーヒーローたちが、その「老いてもくたばっていない」ところをオールドファンにみせて、喝采をあびる、藤波辰爾の昭和プロレスみたいなものです。

 ところが、この『ターミネーター/新起動』は、なんか複雑なストーリーをつくって、その辻褄をあわせようとしてしまったがために、かえって、「シリアスなドラマのなかで、オールドファンにアピールしているシュワルツェネッガーが浮いてしまっている」のですよね。

 真面目に「世界」を構築したいのか、それとも「シュワルツェネッガー復活公演」をぶち上げたかったのか?

 サラ・コナーとか、前はもっと存在感のある女優さんだったのに、なんか地味になってしまって……

 アクションシーンも、比べてみれば、前よりもずっと「映像的にすごくなっている」はずなんですよ。

 でも、同じようなアクションや格闘、銃の撃ち合いが続くので、「こんなに大音量で銃撃戦や殴り合いをやっているのに、観客席で眠くなってしまう映画」になってしまった。


 今回の『ターミネーター』を観て痛感したのは、「ターミネーター」シリーズというのは、シリーズだと思われているけれど、ジェイムズ・キャメロン監督の『1』『2』、とくに『2』だけが特異的によくできていただけではないか、ということです。

カリオストロの城』が面白かったという経験をもとに、「『ルパン三世』の映画は、みんなカリオストロみたいな内容でなけれなばらない」と思いこんでいるようなものだったのかもしれません。


 こんなもんなんだよね、ターミネーター

『2』の幻影を、追いかけすぎた。

 次回作は、DVDレンタルで良いかな、と。


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2015-07-25 【読書感想】素直に生きる100の講義

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素直に生きる100の講義

素直に生きる100の講義


Kindle版もあります。

素直に生きる100の講義

素直に生きる100の講義

内容紹介

■ 圧倒的人気を誇るミステリィ作家からの、 自分に素直になるための100のアドバイス!


Q.「どうしたら上手くできるんだろう?」

⇒上手くいかなくてもいいし、自分の思った通りでなくても良いから、

いちおう完成させてみてはいかがか。


Q.「孤独になるのがたまらなく嫌だ」

⇒寂しくて泣けてくるならば、涙を流せばいい。

それは、綺麗な涙だと僕は思う。


Q.「自分の好きなことを始めるには、もう遅すぎる」

⇒時間を戻すことは無理でも、本人が強く望めばできないというものはない。


合理的ながらも、時にドキッとする言葉で、時になによりもあたたかい言葉で、

心の中に秘めた疑問や不安を、拭ってくれる人生論!


どこから読んでも、あなたを変える言葉が待っている。


 森博嗣先生の言葉は、読んでいてすごく面白いし、この100個の短いエッセイを読んでいると「なるほど」と思うところがたくさんありました。

 でも、これを読んでいるうちに、なんだか、自分のダメさを思い知らされるというか、なんというか。

 これを読んでいるときは、僕は森先生側にいるような気分になって、世間の矛盾を身も蓋もなくぶった切っているのですが、考えてみれば、僕のほうこそ、森先生にぶった切られる側なんじゃないかなあ。

 

「講義」とあるけれど、「雑談」だ。それだけは、ぶれずに保証できる。

 うん、確かにこれは「雑談」なんですよ。

 でも、「雑談」にしては、厳しすぎるかもしれない。


 まあ、書かれていることの8割くらいは「でもさ、僕は所詮、森博嗣じゃないから……」としか言いようがないのですが、残り2割くらい、痛いところを突かれまくるんですよね。

 小説を書きたい、工作をしたい、といったメールをもらう。「どうしたら、上手くできるようになりますか?」と尋ねる人が多い。たぶん、スポーツとか、仕事などでも同様だろう。たまたまスポーツとか仕事では、僕にアドバイスを求めないだけだ。

 なんでも同じだが、どうして「上手くできません」と言うのだろう。何を作ったの? 何を書いたの? できたものを見せて、と言うと、たいてい、なにもできていない。ようするに、「上手くできない」のではなく、「できない」のである。

 できないことの言い訳として、「上手くいかない」と言う。「自分が思ったとおりにできないから」なんて言う人もいるが、これも「できた」わけではない。ほんの少し「やりかけた」程度なのだ。

 つまり、作品などを最後まで完成させていない。それでは話にならない。上手くいかなくても良いし、自分の思ったとおりにできなくても良いから、いちおう完成させてみてはいかがか、というアドバイスしかできない。

 何故なら、たとえその道のプロや、あるいは天才の類であっても、「上手くできた」なんて思わないし、「自分の思ったとおり」にはならないと常々感じているのである。ただ、しかたなくそれでも作り続け、それを世に出しているだけなのだ。

 こういうのは、本当に「その通りですよね……」としか言いようがなく。

 とりあえず形にしてみないと、評価のしようもないのに「上手くできない」ことを「できない」理由にしてしまうのです。

 やる人っていうのは、上手下手以前に、まず「やってみる」のですよね。


 まったく知らない人のブログを読んだりするのが僕の趣味の一つだ。そこで、見つけた法則だが、日頃から次々と面白いことをしている人は、年末に一年の総まとめとかをしない。あっても、「今年はなかなか調子が良かった」の一言くらいで済ませている。それは、次の年に何をするのか、という方向へ既に目が向いているからだろう。

 一方では、あまりこれといって人にアピールするようなことをしていない人は、丹念に一年を振り返っている。今年読んだ本、今年見た映画などなど、具体的にリストにしてまとめているのをよく見かける。


 ああ、もう読んでいて、「穴があったら、入りたい」としか……

 こういうのも、単なる印象で批判しているのなら、「ああ、お嫌いなんですね」で済むのですが、森先生の場合は、ちゃんとその「根拠」も提示されているのです。

 ようするに、まとめというものは、列挙しただけでは読む気になれない。よく新書などでも、章の最後に、本文で書かれたことを繰り返しているけれど(森博嗣もときどきやっているが)、僕は、だいたいそういう部分は読み飛ばしてしまう。「諄(くど)いな」と感じるだけだ。できれば、もっと違う表現で、可能なかぎり抽象化してまとめてほしいものだと思う。

 結局、そういう抽象力のある人間は、「今年はなかなか調子が良かった」と端的にまとめることができるし、この能力があるから、次々に面白いことができるのだろう。ここに気づいてほしい。抽象化できないから、リストをそのまま挙げてまとめてしまう。そういう人は、同じ作業を繰り返すことはできても、自分が置かれている状況を客観できていない場合が多く、それゆえに、次の新たなステージへ進めないのだ。


 これは厳しい……でも、たしかにそうなんだろうなあ……

 ただ、新書の章の最後に「まとめ」が置かれていたりするのは、そういうふうにまとめられていたほうが読みやすい、わかったような気分になれる、というニーズがある、ということだとも思うのです。

 読み手がみんな、森博嗣なわけじゃない。

 というか、森先生のような読者のほうが「少数派」なんだろうと思います。

 でも、森先生に共感する人も少なからずいて、彼らは、「過保護さ」「諄さ」にうんざりしているのです。

 森先生は、そういう人たち、あるいは、そうふるまいたい人たちの「受け皿」になっているのだよなあ。


「感動を与えたいって、何様のつもりか。」なんていうタイトルだけでも、「ああ、森博嗣節健在!」という感じの一冊です。

 僕は半分くらいから、「もう勘弁してください。これ以上落ち込みたくないよ……」って思いながら読んでいました。

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