2013-06-19 映画『華麗なるギャツビー』感想
■[映画]華麗なるギャツビー ☆☆☆☆

あらすじ: ニック(トビー・マグワイア)が暮らす家の隣に建つ、ぜいを凝らした宮殿のような豪邸。ニックは、そこで毎晩のように盛大なパーティーを開く若き大富豪ジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)と言葉を交わす仲になる。どこからやって来たのか、いかにしてばく大な富を得たのか、なぜパーティーを開催し続けるのか、日を追うごとに彼への疑問を大きく膨らませていくニック。やがて、名家の出身ながらも身寄りがないこと、戦争でさまざまな勲章を受けたことなどを明かされるが、ニックはこの話に疑念を持つ。
2013年17本目。
2D版を鑑賞しました。
月曜日のレイトショーで、観客は僕を含めて5人。
まあ月曜日だから……というのと、公開4日目としては厳しいかな、というのと。
『華麗なるギャツビー』、通算5回目の映画化なのだそうですが、僕は映画で観るのははじめてでした。
小説版は、中学校の頃に1回、村上春樹さんの新訳版も読みました。
村上さんの新訳のタイトルは『グレート・ギャツビー』になっているのですが、この映画の邦題は、日本人の耳に馴染んでいる『華麗なるギャツビー』。
この映画、ネットでの評判は賛否両論で、「眠い」「退屈」「後味が悪い」という人もいれば「素晴らしかった」「時間が経つのを忘れる」という人もいたのです。
で、僕自身の観終えての感想としては「すごくよかった」。
ただ、この映画の魅力って、何なんだろうな、とは思うのです。
観ていていちばん印象的だったのが、1920年代のギャツビーの豪邸で行われていたパーティーの場面。
『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマン監督ですから、もしかしたら、このパーティを撮りたくて、映画をつくったのではないか、と勘ぐりたくなるような、華やかで、騒々しくて、猥雑で、それでいて、刹那的な悲哀が感じられる(というのは、観客である僕が「このあとのアメリカが、世界がどうなっていくかをすでに知っているから」ではあるのですが)シーンでした。
観ていて、「本当に1920年代に、こんなことをやっていたのか?」とも思うのですが。
歴史検証映画じゃないから、史実にどのくらい忠実かもわからないですし。
ただ、まったくのフィクションではなく、こういう世界が、当時のアメリカにはあったのでしょうね。
小説の『華麗なるギャツビー』を読んでも、「毎晩繰り広げられるパーティ」の映像って、僕には全然浮かんでこなかったから、「ああ、こういう感じだったのか」という「知識欲」を満たしてくれるところもありました。
そして、レオナルド・ディカプリオのギャツビーの登場シーンもなかなかよかった。
さんざんじらしたあげくみせる、ギャツビーの「最高の笑顔」。
ディカプリオさんのインタビューによると、「あの場面は、本当に苦労したし、何度も議論した」そうです。
小説では「最高の笑顔だった」と書けば、読者はそれぞれの「最高の笑顔」を自分で思い浮かべてくれるけれど、それを映像にするっていうのは、かなり難しい。
でも、僕にとっては、まさに「最高の笑顔」に見えました。
いやほんと、最近のディカプリオさんは地味な映画にばかり出ているような印象があるけれど、素晴らしい役者さんだし、良質の作品を選んで出ているんだなあ、と感じます。
しかし、この『華麗なるギャツビー』、って、僕にとっては、「なぜこれがアメリカの国民的な作品として、ずっと愛され続けているのか?」がわからないところもあるのです。
ギャツビーが愛車で無謀運転をしまくるシーンが、すでにもう不愉快で。
大学時代、免許とりたてのころ、僕の車を運転していた友人がスピードは出すは危ない運転はするわで、すごく嫌だったのを思いだしました。
お前、他人の車で、しかも持ち主を乗せて、よく平然とこんな運転できるな、って。
ギャツビーの富の源泉もロクなもんじゃなさそうだし。
ただ、ニックがギャツビーの「デイジーをお茶に誘いたい」という懇願を受け入れたとき、さまざまな「見返り」を提示して、「いや、何もいらない。僕からの『好意』だから」とニックに言われたときに、「好意?」と怪訝な表情をするシーンは、すごくせつなくなりました。
世の中には「好意」で何かをしてあげるという人間が存在することを、信じられない人がいる。
それは、いまの世の中でも、たぶんそうなんだと思う。
その一方で、「好意」とか「善意」ほど、曖昧で、翻りやすいものもない。
だって、それは「契約」ではないのだから。
なんというか、登場人物は、ロクでもない人ばかりなんですよ。
裏稼業で金を稼ぐ「純愛不倫パーティ男」と「友情という名のもとに他人の家庭をムチャクチャにしているのに、傍観者を決め込む男」「美人でバカはお前じゃないか女」「やり手傲慢差別主義男」「何でそこにいるのかよくわからない女」
こんなのばっかりです。
ある意味、これほど登場人物に感情移入できない作品も珍しい。
ギャツビーが贅沢をするたびに「お前のその豪遊の陰で、何人の人が泣いているんだ?」とか、つい考えてしまうんですよね。
この作品は、アメリカ人にとっては「100年後でも、それぞれ自分自身とつながる部分を見いだした人々が、登場人物が自分にとって何者であるかを語り合える作品」なのだそうです(レオナルド・ディカプリオのインタビューより)。
ああ、でも、それはそれでわかるような気もします。
僕はギャツビーみたいに金持ちではないけれど、「過去は変えられるのではないか」と信じたくなるときがあるし、ニックみたいに「友情」の名のもとに、モラルに反するようなことをしてしまったこともある。デイジーみたいにいざという時には優柔不断だし、トムのように支配欲が強くて、内心では差別をしているかもしれない。
この映画には、アメリカという新興国家のなかでの「階層」みたいなものが描かれていて、ギャツビーという人は、ある意味「上流階級への挑戦者」でもあるんですよね。
その彼が「良家の子女」であるデイジーに、幻想を抱きすぎて破滅していく。
「彼女がいるだけで、その場が明るくなる」
豊臣秀吉とかも、そんな気分だったのだろうか……
第一次世界大戦後のアメリカの文化、風俗とか、『華麗なるギャツビー』という作品そのもの、あるいはレオナルド・ディカプリオという役者さんに興味がない人にとっては、「退屈で、後味の悪い、パーティでばか騒ぎしているだけの映画」なのかもしれません。
でも、僕にとっては、「なんか出てくるやつらは、どいつもこいつも嫌いなんだけど、人間って、こういうもんだよな」と考えてしまう映画でした。
ところで、小説で頻繁に出てくる、ギャツビーの口癖「オールド・スポート」をどう訳すか、ちょっと楽しみにしていたのですが、字幕をつける人も、けっこう苦労されたみたいですね。
そういうところに注目してみるのも、原作ファンにとっては、けっこう面白いかも。
個人的には『華麗なるギャツビー』は、「アメリカを知るために、読んでおいて損はない本」だと思います(村上春樹さんもすごく好きな小説らしいです)。
でも、小説を読むのがめんどくさい、という人は、「こういう話なんだということを知っておく」という意味で、この映画を(DVDになってからでも良いので)観ることをおすすめしておきます。
地味なんだけど、やたらと派手な場面があって、ロクでもない人ばかり出てくるのだけれど、全体としては「良い映画」でした。
ところでこれ、3D版があるそうなんですが、どこがどんな感じで3Dになっているのだろうか……
2013-06-18 【読書感想】中国絶望工場の若者たち
■[本]【読書感想】中国絶望工場の若者たち ☆☆☆☆

- 作者: 福島香織
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2013/03/02
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- クリック: 2回
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Kindle版。紙の単行本よりも安かったので、僕はこちらで読みました(紙は1470円、Kindle版は1048円)。
- 作者: 福島香織
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2013/03/29
- メディア: Kindle版
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内容紹介
いま、中国には1980年~90年代生まれの「第二代農民工」(新生代農民工、新世代農民工)と呼ばれる若者たちがいる。
親が出稼ぎ農民として都市部に来た世代で、子供である彼らは都市に住みながら「農村戸籍」のため、差別と不遇をかこっている。
その数、なんと約1億人。
彼らの不満や鬱屈があるとき反日デモやストライキに至ることは、2012年の反日暴動で証明された。
中国ビジネスを行なう日本企業にとって、また体制崩壊の不安におびえる中国共産党にとって、いま「第二代農民工」とどう付き合うかは最大の問題である。
著者はこれまで調査されなかった「第二代農民工」の現地ルポを敢行。
工場で働く若い男女の「日系企業に対する愛と憎しみ」や「将来の夢」、「なぜ日系企業ではストライキが多いのか」を赤裸々に伝える。「絶望工場」とまで称される中国の生産現場では、どのような人生が繰り広げられているのか。その目でぜひ確かめていただきたい。
フォックスコンでの「非人間的な労働」や、日本での「『研修』という名目での『出稼ぎ』での厳しい労働環境」などが話題になることも多い中国人労働者たち。
著者は、彼らに実際に取材をして、そのナマの声を集めています。
著者は「日本に出稼ぎに行く(行った)中国人たち」に取材し、こんな話を聞いています。
取材した出稼ぎ経験者の多くは「日本はよかった、また行きたい」と答えていたのが僕には意外でした。
日本人である僕からみると、かなり「搾取」されているようなイメージしかなかったから。
ただ冷静に考えてみれば、月6万円で通常の労働者なみに働かされる「研修」とう制度は、やはりあざとい。「搾取」と指摘されても仕方ない部分があるだろう。2010年7月から「技能実習ビザ」(中国人の言うところの労働ビザ)が創設されて、一年目からきちんと労働関連法令で守られて働けるようになったが、それでも、日本弁護士連合会などから「問題あり」と指摘され、廃止が求められている。
そういう話を劉震(著者が取材した出稼ぎ経験者)に振ってみると、「それなら韓国の企業のほうが、よっぽどひどいよ。日本はずっと条件がいい。一度日本に行った奴は、もう一度行きたいと必ず言う。僕ももう一度行きたいよ。今なら一年目から『労働ビザ』で働けて、残業もできるんだもんな。でも技能実習制度は一度しか使えないから、次に外国へ出稼ぎに行くとしたら、韓国かシンガポールくらいしか選択肢がない。けれど、それなら中国国内で出稼ぎに行くのとあまり変わらないね」と話していた。
韓国への出稼ぎをなぜ彼らは嫌がるかというと、(1)仲介業者に預ける保証金6万元は帰国後も全額返還されない、(2)労働時間が12時間から14時間と長いのに日本よりも月給が低い、(3)日本のように住居、宿舎が準備されない、(4)韓国人のほうが性格がきつい(付き合いづらい)、からだそうだ。また、観光ビザで入国させて違法就業を斡旋されることが多い、とも。
シンガポールへの出稼ぎは、給与がかなり低い。人民元にして5000〜6000元というから、広州あたりの工場とそう変わらない。ただ出国前に支払う仲介費が2万元と安いので、韓国よりは希望者が多いらしい。
日本人にとっては「ありえないような酷い労働環境」でも、中国から出稼ぎに来る人にとっては「好条件」なんですね、一般的には。
少なくとも、「韓国やシンガポールで働くよりも良い」と考えている人が多いようです。
そして、中国国内の「格差」もかなり広がっており、国内の工場で「出稼ぎ」をする農民工も少なくありません。
これを「日本はまだ良心的」だと考えるか、「それでも日本人の労働者に比べたら、厳しすぎる環境だし、差別だ」とみるか……
ある意味、日本人は「おひとよしすぎる」のかもしれません。
それはもちろん、美徳でもあるのだけれども。
少なくとも、彼らにとっては日本へ出稼ぎに行くと、数年で家が建てられるほどの稼ぎがあるし、「残業をどんどんしてでも、稼ぎたい」という人も少なくないのです。
その一方で、やはり「過酷」であることは間違いありません。
実習生の過労死問題もある。2008年に、茨城県の金属加工工場で働いていた中国人実習生が急性心不全で死亡。残業時間月180時間という長時間労働を強いられていたほか、工場側が二種類のタイムカードをつくり違法な残業実態を隠していたという悪質な事件だった。2012年11月に、この事件は工場側が遺族に賠償金を支払うことで和解が成立した。
ちなみに、2008年度の外国人技能実習生の死亡は34人、2009年は27人、2010年は24人、2011人は20人。死因を含めて公式に公表されているが、過労が原因と見られる心臓・脳疾患が圧倒的に多い。
給料を管理費名目でピンはねされた、一日13時間労働を強制されて残業代は未払い、割増残業代が支払われていないどころか最低賃金をはるかに下回る残業代しか払われていない、といった労働法違反、ろくな研修もないまま重機やフォークリフトを運転させる労働安全衛生法違反、そういう危険な作業を強いて発生する労働災害、セクハラやミスに対する罰金強制と、問題は枚挙にいとまがない。
大阪の小規模縫製工場で中国人実習生の労働環境を目の当たりにしたことがある日本人工場従業員は、「はっきり言ってブラック企業。人権侵害も甚だしい絶望工場。ただ、それでも、日本の工場のほうがましと本人たちが思っているみたいなんだ」と話していた。
この世界は、いったいどうなっているんだ?と問いかけたくなる話です。
要するに、「これでもマシなくらい、中国国内や他国の労働環境はひどい」ということなのでしょうね……
それでも、近年では国内の工場で働く若者たちの意識も変わってきていて、「あまりにも品質管理が厳しく、束縛される日本企業」は、人気がなくなってきているようです。
「もっとラクに働きたい」と。
中国国内の場合は、日本企業が他国の企業よりも高給というわけではないようですし。
中国の「第二代農民工」たちは、海外との格差だけではなく、国内の「都市の住民との格差」にも直面しているのです。
著者は、中国の戸籍制度をこう説明しています。
中国では農村戸籍と都市戸籍(非農村戸籍)がある。農民の子は農村戸籍が与えられ、都市民の子は都市戸籍が与えられる。中国人口のうち農村戸籍者は約8.3億人、都市戸籍者は約5.1億人。農民が都市で暮らし子供を産んでも、その子供は農村戸籍となる。要するに、農村戸籍、都市戸籍は一種の厳格な身分制度、階級制度でもある。
中国では官二代、富二代、農二代といった言い回しがあるが、官僚の子は官僚に、金持ちの子は金持ちに、農民工の子は農民工にと、親の身分からは原則逃れがたい社会なのだ。戸籍管理制度は人によっては中国版アパルトヘイト、つまり「農民隔離政策」だと言う。農民を農地に縛り付け、都市に自由に流入させないための制度、あるいは農村と都市の格差を維持するためのシステムだ。
巨大な人口を抱える中国で、農村からどんどん人が都市に流れ込んでくれば、食料生産は減るし、都市はスラム化するしで、国としての存亡に関わってきます。
ですから、「政策」としては致し方ないのかもしれませんが……
都市民と農民の待遇差を大まかに言うと、たとえば計画経済時代、都市民は住宅や主食、副食の配給を受け、医療・教育で公的支援を受け、年金や保険が保証された。農民は農地・宅地を分配されたが、食料・燃料も自給自足、医療・教育も全額負担で保険なども整備されていなかった。
計画経済時代が終わり、経済の自由化が進むと、都市民の配給の恩恵などは消えていったが、経済発展の波に乗り不動産の転売なや株で富を築くチャンスは都市民に圧倒的に多くもたらされた。農民は土地(使用権)を持っているが、それは自由に転売できず、農民に資本はない。経済成長によるキャピタルゲインもない。むしろ再開発を名目に農地を強制収容される「失地農民」の問題が深刻化した。
中国には、「都市民」と「農民」というふたつの「階級」が、いまも残っているのです。
「都市に移住すればいい」というわけではなく、農民は、どこに住んでも、出稼ぎに行っても農民。
親が出稼ぎに長期間行ってしまい、親不在で育てられた子供たちが、成長して犯罪を起こしやすくなっている、という社会問題も生じてきています。
「発展途上国でありながら、経済大国でもある」という中国の矛盾が、この「絶望工場」に集約されているように思われますし、今後、中国を揺らしていくのは、この「格差」への反動ではないか、という気がします。
現場で働いている若者たちは、けっこう明るくて将来に希望を持っていたりもするんですけどね。
この本、「グローバル経済」のなかでの中国、そして日本の立ち位置を知るための興味深いレポートだと思います。
2013-06-17 【読書感想】ぼくらの文章教室
■[本]【読書感想】ぼくらの文章教室 ☆☆☆☆

- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2013/04/05
- メディア: 単行本
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内容紹介
どうすれば上手な文章を書けるようになるのだろうか。
そのためにはまず、自分の好きな文章たちを見つけること。
そしてその文章たちの中に入りこみ、
「びっくりしたり、感動したり、うろたえたりしているうちに、
……『文章』の成分のようなものがしみついて」くると、
タカハシさんはいう。
たとえば、タカハシさんが好きなのは、明治から昭和にかけて生きた貧しい農婦である木村セン。
彼女は遺書を残そうとして文字の手習いをはじめた。
障子紙の切れっ端に色鉛筆で書かれたその文章は短く、
ことばにも文字にも誤りがあるのに、なぜか力強く響く。
これは「名文」以上の文章ではないか。
あるいは、免疫学者の故多田富雄さんの『残夢整理』の文章。
これは作者が「幻覚」を見るに至るほど、
真摯に、徹底的に考えつづけてきたあげくにできた文章である。
自らの「人生」を見つめる視線の「深さ」によるのではないか、
名文以上の何かが含まれているとタカハシさんは考える。
ところで、現在最も文章がうまい人は誰なのか。
タカハシさんによれば、スティーブ・ジョブズが現代最高の文章家であり、そのプレゼン能力は驚異的だという。
彼が産み出した製品は、製品として素晴らしいだけではなく、
それに伴う「意味」も素晴らしい。
言い換えるのなら、「ことば」が素晴らしい。
ジョブズのプレゼンテーションの中にある秘密とは何だろう。
鶴見俊輔さんは『思い出袋』『教育の再定義』のなかで、
教育に本当に必要なものは何かについてふれている。
タカハシさんはこれを読みながら、「文章」を書く人と読む人との関係は先生と生徒の関係に似ていると思う。
それは人から人へなにか伝えること。
それが「文章」というものの、もっとも大切な機能なのだ。
「教育」と「文章」はよく似ている。
「専門家」や「エラい人」以外のみんなのための、伸びやかな思索が弾む人気の文章教室。
文章を書くのは、簡単なようで、難しい。
考えれば考えるほど、難しくなってくるような気がします。
この本、高橋源一郎さんによる「文章教室」なのですが、実際に読んでいくと「うまい文章の書き方」がわかってくるというよりは、「うまい文章、というか、他人の心に届く文章って、何なのだろう? どうすれば、それが書けるようになるのだろう?」と、かえって悩ましく感じてくるのです。
この本の冒頭で、木村センさんという人の「手紙」が紹介されています。
木村さんは、ずっと文字が書けなかったのですが、ある目的のために、勉強をはじめるのです。
そして、彼女が書いたものは……
結局のところ、ある文章が人の心を動かすかどうかって、その文章そのものの価値だけではなくて、その文章を書いた人への思い入れとか、「背景」に左右されるところが少なくないんですよね。
もちろん、「伝えるための技術」というのは存在するのだけれど、世の中には、「小手先の技術を超えた圧力を持った文章」というのが存在するのです。
もっとも、それらのなかには「当事者どうしだけでのやりとりで、記録には残らない」ものも多いのではないかと思いますが。
高橋さんは、この本のなかで、「文章のテクニック」ではなく、「どんな人によって、名文は生みだされてきたのか?」を語り続けています。
文章とは、「生きざま」でもあるのです。
太宰治もまた、小説の中で、女々しい自分のことばかり書くどうしようもない反社会の人であった。文章だってそうだ。太宰治の得意技は、女の人のひとり語り。男の作家なのに、「わたし、そうなのよ」なんて文章を大量に書いた。
なぜだろう。ぼくの考えでは、太宰治は、「男社会」にうんざりしていたからだ。太宰治の周りにあった世界は、男が支配していた。男が支配していたから、戦争になった。男が支配していたから、つまらぬ争いばかりが生まれた。男が支配していたから、女性的なものは虐げられていた。じゃあ、文章で、男の支配を糾弾すればいいのか?
太宰は、そうしなかった。
文章で、この世界を糾弾するなんてやり方そのものが、男っぽいのである。男の考えるやり方である。
では、どうするか。
太宰治は、時々、女の子の文章を書いた。女の子になって、男(が支配する世界)を見た。ただ見たのである。それで充分、この男の支配する世界のくだらなさがわかったのだ。とはいえ、男だって気の毒だ、と太宰は考えた。支配しなきゃならないから、威張らなきゃならない。堂々とした文章に、立派な内容を詰め込み、威厳をこめてしゃべらなきゃならない。なんて不自由なんだ、支配するってことは。
僕は、太宰治や紀貫之が、女性として文章を書こうとした理由が、よくわかりませんでした。
太宰さんは女学生フェチだったんじゃないか、とか想像してもいましたし。
でも、これを読んで、「女性として文章を書くというスタイルそのものが、ひとつの主張なのだ」ということも理解できたような気がします。
この本の「文章教室」のなかで、いちばん僕にとって考えさせられたのは、この話でした。
「わたしは、想像を絶する経験をしました」
あなたはそう話しはじめる。あなたの周りにいる人たちは、ちょっと興味深そうにする。きっと、最初の三分間は、うんうんとうなずきながら、あなたの話を聞いてくれるだろう。でも、あなたが、「こんな話もあった」「こんな経験もした」と、息つく間もなく、話つづけたら、それから、その話のあちこちで、「きみたちにはとても理解できないだろうけどね」という様子を見せたら、その人たちは、ひとり去り、ふたり去り、残って聞いている人たちだって、退屈そうにしているだろう。
でも、あなたが、
「わたしは、想像を絶する経験をしました。でも、そんなことは、どうでもいいんです。そんな時でも、いつもと同じように、朝八時に起きちゃうんですよね。その話をします」といったら、みんなはきっと、「えっ?」と思いながら、話を聞いてくれるだろう。
なぜなら、みんなが興味を持つのは、金持ちの自慢話ではなく、金持ちなのに、お金の自慢をしないことの方だ。ふつうの金持ちは自慢話をするのに、それをしないなんて、どうしてそんなおかしいことをするんだろう、と思うからだ。
ちょうど、キリストが、全人類のために、ゴルゴダの丘に登り、十字架につけられた時みたいに。
あの時、キリストは、誰も頼んでいないのに、勝手に、全人類の罪を背負って死んでいった。
「変な人だ」と、当時の人たちは(というか、ぼくたちだって)思ったに違いない。
「ぜんぜん理解できない」とも思っただろう。
「馬鹿じゃなかろか」と思った人だってたくさんいただろう。
でも、それであることが起きたのだ。あることとは、キリストに興味を抱く人が出てきたことだ。
あそこには、あの人には、わたしたちの知らないなにかがある」と思ったのだ。そして、彼らは、キリストという人がやろうとしたことに近づいていったのである。
当時の人々にとって、キリストは「なぜあんなことをやったのか、わからない人」であり、だからこそ、みんなが彼に興味を持ったのかもしれない。
僕は、ネットで長年読んだり書いたりしていて、「(おそらく)正しいことを言っている人の話が、あまり拡散されず、『炎上案件』のほうが爆発力がすごいのはなぜなのだろう?」と考えてきました。
それは、多くの人の「理解力」の問題なのか、それとも、正しそうなことを言っている人のほうが、本当は間違っているのか?
知らないことは書くな。大きすぎることは書くな。
それは、正しい。でも、正しいけれど、少し悲しい。なぜなら、小さいままでいい、といわれているからだ。おまえは、その程度の人間なのだから、それ以上、望まぬほうがいい、と。
いったい、ふつうの人間である、ぼくたちは、どうすればいいのだろう。
自分でもよく知らない歴史的な事件、国とか政治のこと、信仰や宗教のこと、あるいは、テレビの向こうで起こった大災害。そういうものについては、首をつっこまない方がいい、と賢明な人はいう。
でも、それでは、小さい自分が、さらに小さくなるだけではないか。自分を成長させたい。いまある自分を、いまの時間の、小さな世界から脱出させたい。だから、大きなことも書きたい。どうすればいいのか。
そのためには、「大きなこと」を書いている「文章」を読んでみればいい。でも、気後れする。「大きなこと」を書いている人の多くは、「壇」の上から(ああ、さっき、そのことはいったばかりだ)書いている。
「わたしは、こんな『大きなこと』に会った。そのことを伝えたい」と書いている。
「わたしの経験の『大きさ』について、ぜひ伝えたい。あなたは、人間として、『大きなこと』について、知るべきなのだ」と書いている。
でも、そんな風にいわれると、ぼくたち、「大きなこと」に無縁な人間は、ちょっと悲しくなる。それから、馬鹿にされたような気になる。
そのことは、ずっと、ないがしろにされてきた。放置されてきた、重要な問題だ、とぼくは思う。
「大きなこと」を経験した人生の先輩が、自分の経験した「大きなこと」の重要性を、大きな声でしゃべりつづけたために、後輩たちがすっかりうんざりしてしまっていることに気づかない、という問題だ。
たとえば、
「前の戦争で、日本は、アジアに対してひどい行ないをした。その罪は償わなければならない」と、「大きなこと」を書くのが得意な人は書く。
たぶん、その人が言っているのは、「正しい」のだ。でも、その「正しさ」が、ぼくたちには遠い。その「遠さ」が、また悲しい。
その人たちは、「大きなこと」について語りたい人は、そのことに夢中で、しゃべっているのに、ぼくたちの方を見ていない(それも、さっき書いたことだ)。「大きなこと」についてしゃべっているうちに、だんだん、自分も「大きなこと」に属しているような気がして、気持ちがいいのだ。だから、こちらに気づかないのだ。
ああ、高橋さんは、こういうことを言葉にするのが、ものすごく上手い人だなあ。
ネットで「大きすぎることを書く」と、反発も大きくなります。
とはいえ、書く側の「自分を大きく見せたい」という欲求を抑え込むのも、なかなか難しい。
多くの場合、そういう人は「(自分にとって)正しいこと」を書いているし、そんな背伸びさえ許されないようでは、あまりに寂しい。
なぜ、そういう「大きなこと」を言うと反発されやすいかというと、結局「自分に酔って、自分自身も、相手も見えなくなってしまいやすいから」なのです。
置き去りにされた読み手は、「自分が特別であると思っている書き手」に共感できなくなってしまう。
相手が「正しそうなことを言っている」だけに、正面から反論はできないけれど、ネガティブなコメントを書いたり、黙って立ち去ってしまったりする人が増えていくのです。
多少なりとも「上から目線」気質でないと、ブログなんて書けないものではあるのですが、読む人は、書き手の傲慢を見逃さない。
そして、「じゃあ、そんな大きなことを言う、お前自身はどうなんだ?」と問いかけてきます。
「正しいこと」は、「面白いこと」や「ツッコミを入れやすいこと」に、なかなか勝てない。
大部分の人がネットに求めていることは「正しいこと」じゃなくて「面白いこと」だしね。
タイトルは「文章教室」ですが、これを読んでも「うまい文章」が書けるようには、たぶんならないでしょう。
でも、「うまい文章、他人に伝わる文章とは、どんなものなのか?」を考えるきっかけになる、とても興味深い一冊でした。
2013-06-16 【読書感想】キャリアポルノは人生の無駄だ
■[本]【読書感想】キャリアポルノは人生の無駄だ ☆☆☆☆

- 作者: 谷本真由美(@May_Roma)
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2013/06/13
- メディア: 新書
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こちらはKindle版です。
- 作者: 谷本真由美(@May_Roma)
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2013/06/13
- メディア: Kindle版
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内容(「BOOK」データベースより)
自己啓発書を読んで「オレって何かスゴイ」と興奮するが、現実が改善された形跡がない…そういうあなたは「キャリアポルノ依存症」です!マネジメントの不在を社員の精神主義でカバーする日本の労働環境と自己啓発書ブームの深い関係―。やる気がでれば、それでいいのか!?
Kindle版で読みました。
Kindle版は500円とワンコインなのですが、紙の本には音声ファイルが特典としてついてくるらしいです。
ついつい、「自己啓発本」の扇情的なタイトルを見ては、手にとってしまう僕にとって、身につまされる話の数々でした。
著者の造語である、この「キャリアポルノ」の語源は「フードポルノ」なのだそうです。
「フードポルノ」という言葉も僕は知らなかったのですが、英語圏では「ウェブサイトや雑誌、テレビ、広告などで美味しそうな料理や調理する様子を紹介して視聴者・読者の気を引くこと(または、その料理そのもの)」をこう呼ぶのだそうです。
フードポルノと同じように、自己啓発書というのは、目に見えない部分での努力や行動、勉強をすっ飛ばして、読むだけで自分の手に届かないもの、例えばかわいい彼女、素敵な家、もっとやりがいのある仕事、高い給料、楽しい友達などを想像し、自分が求めている欲望を満たすだけの「娯楽」に過ぎないのです。読むだけ、聞くだけ、見るだけでは、自分の欲しいものは手に入りません。
いつまでたっても欲しいものは手に入らないので、延々とフードポルノを見つづける怠け者のように、次々に自己啓発書を買っては読んで、何となく自分が凄い人になったような気になり、実は何もしないのです。会社での仕事は中途半端で、仕事に本当に必要な会計や技術や語学の勉強はほったらかし、書類作りには身が入らず、お客さんや同僚の意見も無視します。毎日何か積み重ねて頑張ろうという気力もありません。何か新しい仕事を生み出そう、新しいものを書こう、こんなおもしろいことをやろう、これを作ったら素晴らしいに違いない、という発想も出てきません。自己啓発書を読んで真似すれば何とかなる、ショートカットを使って、痛みや苦痛を体験せずにお金持ちや成功者になれると思い込んでいるからです。その根本にあるのは、怠惰であり、模倣です。自己啓発書が好きな人々の心には、自由、進歩、貢献という言葉はありません。自己中心的な怠け者なので、世の中に貢献しようという気もないのです。
自己啓発書の読者は、遊びではなく勉強のための本を買う意識の高いビジネスマン、という自己イメージをもっているかもしれません。しかし、自己啓発書が何十万部も売れているのにもかかわらず、なぜこんなに日本は不景気なままなのでしょうか。分別のある大人であれば持って当然の疑問のはずです。
「ダイエットの最も確実な方法は食事制限と運動療法」だということは、誰もが理解しているにもかかわらず、それはキツイしめんどくさいから、「裏技的ダイエット」が雨後のタケノコのように乱立しつづけているわけで。
人間は、ラクをしたい、そして、できれば他人より優位に立ちたい(僕もそうです)。
つまり、日本の社会というのは、一般的には「和」を重視すると言われていますが、実はその「和」とは、集団から突出しない集団圧力であり、しかしながら、集団内では小規模なレベルで常に競争があり、他の集団とは激しい競争をしているという、実は競争好きな社会であるのです。
日本人の競争好きは、店舗に行くと、やたらと「これは売り上げ何位でした」「わが社は業界何番です」と競争をあおるランキングが貼ってあることからわかります。特にヨーロッパでは店舗の壁にべたべたとチラシを貼ることは、インテリアの美観を損ねることもありますし(日本の人は町や店舗の美観にはあまり興味がないようです)、お客さんも何が売れ筋かなどには興味がないので、ランキングなど貼らないし、だいたいどこの店舗で何がどのぐらい売れているかを買う人が気にすることそのものが滑稽なのです。しかし日本では、お客さんは競争されたもの=ランキング上位のもの=競争に勝ったもの、を好むようです。
さらに、雑誌やテレビで、やたらと「人気ランキング」が掲載されたり放送されているのも大変日本的です。そのようなランキング番組を、ゴールデンタイムやサラリーマンが帰宅したあとにお酒を飲みながら見ると思われる深夜番組で流しているのです。このようなランキングは、他の国ではあまり見られないものです。フランス、バングラデシュ、アイルランド、イタリア、ボリビア出身の友人たちは、日本のこの「ランキング地獄」を目にして「なぜ日本ではこんなに順位にこだわるのか? さっぱりわからない」と首を傾げています。
「和を尊ぶ」「仲良しグループ」のようなイメージを持たれがちな日本社会なのですが、たしかに、こういう「小さな競争好きな面」って、ありますよね。
「みんな同じ」でなければならないという圧力がかかるのは、常に他人と比べてしまう習性の裏返し。
比べなければ、同じである必要もないのだから。
ただ、この本は全体的に、ちょっと「粗い」のではないかと思うところも多かったのです。
著者のサービス精神が暴走してしまっているというか……
この本の前半では、自己啓発書が批判されているのですが、なかには、ウォルター・アイザックソンさんの『スティーブ・ジョブズ』なんかも含まれているわけです。
えっ、あれって「自己啓発書」なのだろうか……
僕はアイザックソンさんの『スティーブ・ジョブズ』は、「伝記」だと思います。
偉い人、成功した人が書いた本、あるいは、そういう人たちについて書かれた本は、みんな「自己啓発書」で「キャリアポルノ」っていうのは、さすがに乱暴なのではないかと。
それなら、『史記』とかヘロドトスの『歴史』も、キャリアポルノ、なのだろうか……
著者が「キャリアポルノ」のなかに含めている稲森和夫さんの『生き方』とか僕も読みましたが、「まあ、社畜養成ギブスみたいなものだけれども、こういう考え方で仕事をやる人を全否定することもできないよなあ」と感じたんですよね。
これはちょっと行きすぎ、と思うところもあるけれど、参考になるところも少なくありません。
矢沢永吉さんの『成りあがり』は、うーん、あれは「キャリアポルノ」なのだろうか……エンターテインメントとして消化している人が多いのではないかなあ……
もちろん、『金持ち父さん貧乏父さん』とか、与沢翼さんの『秒速で1億円稼ぐ条件』みたいな、「これはまさに『キャリアポルノ』だよね」としか言いようがない本のタイトルも多数紹介されているのですが。
「『キャリアポルノ』というジャンルがあるのはわかるけれど、著者の『キャリアポルノ』は、ちょっと範囲が広すぎる」と僕は感じました。
実は、著者が本当に言いたいことは、「キャリアポルノの悪口」ではなくて、「働く人たちにゴールのない競争を強いて、しかもそのレースの参加者たちに、効果がないと知りながら『自己啓発書』まで売りつける連中のあざとさ」なんですよね。
そして、「自分の生き方を、自分自身で考え直さなければ、いいように使い捨てられるだけだよ」ということ。
これは、著者が一貫して言い続けていることでもあります。
なにせ自己啓発書では何が何でも「絶対」「完全」「秒速」「成功」なのです。表紙の時点で完璧にうまくいくことが確約されているようなものです。ラッシャー木村氏にマイクパフォーマンスで侮辱されようが、マツコ・デラックスさんに「あんたなんてチンカスだわ」などとなじられてもゾンビのように立ち上がってくる力がみなぎっています。
自己啓発書はそもそも字を読むのが嫌いで努力も嫌いな人向けなので、難しい字や言葉は使っていません。そもそも、「一分間」で大金持ちになりたい人が読む本なので、辞書で調べないと意味がわからないような言い回しや言葉は使っていないのです。言語のレベルはだいたい中堅の高校に通う高校生くぐらいのレベルです。
売れ筋の本になればなるほど字が大きく、行間の余白が大きいのも特徴です。これはなぜかというと、字が大きくて余白が大きければ早く読み終わるので「俺はこんなに速く本が読める。よし、この調子で大金持ちになる」というやる気を持ってもらうためです。著者は書くのも楽だし、編集も校正も他の本に比べたら楽なのです。まさに、売る方にも買うほうにもWin-Winのソリューション、それが自己啓発書なのです。
しかしながら、この本を読んでいてインパクトがあるのは、前半の著者が自己啓発書とその読者たちを「めった斬り」にするところ。
でも、そこが面白すぎて、読み誤られてしまうのではないかと心配になるのです。
「キャリアポルノを読んでいるだけで、自分が偉くなったような気分になる連中」を、「キャリアポルノを読んでいる連中をバカにするだけで、自分が『わかっている人間』だと錯覚する人々」が嘲笑する、という、ハイパーネガティブスパイラル優越感ゲームの引き金になってしまいそうなんですよ、この新書。
これを読んでいて、朝井リョウさんの直木賞受賞作『何者』の最後のところを思いだしてしまいました。
「意識高い系」の知人をSNSなどで、ハンドルネームを使って物陰から嘲笑する主人公、しかし、「意識高い系」も、追いつめられ、もがいているのです。
自分では何もしないで、ただ、「あの人、『意識高い系』だよね」とバカにしているだけの人は、『意識高い系』よりも「賢い」のか?
この新書のなかで、著者自身も、キャリアのなかで「意識高い系」だった時期があったことを告白しています。
「車をぶつけてみないと、車幅感覚はわからない」なんて言われますが、そういう「自己啓発しようとした経験と挫折」があればこそ、辿りついた「生き方」が、この本の読者に、どのくらい伝わるものなのだろうか。
著者は「働き方、努力の方向性、自分にとって大事なものを、もう一度考えてみたほうがいいですよ」って言っています。
「自己啓発書マニアになって、何者かになったような気分になる」ことは、時間の無駄だ、と。
まあ、競馬の予想家みたいなものですよね。本当に確実に儲かるのなら、他人に教えずに、自分でやればいいのだから。
この本のなかでは、自己啓発書の著者たちの「どうしようもない人生の推移」も、たくさん紹介されていますし。
仕事でこんな実績を上げた、こんなふうに昇進した、こんなふうに給料があがった、同僚に勝った、偉くなった、ということだけが人生ではないのです。仕事は仕事、人生のほんのひとつの側面にすぎず、自分を表すことのほんの少しのことでしかないのです。
「私とあの人は同じでなければならない」
「あの人が私より評価されるのは許せない」
「あの人は私よりお金があるのに、なぜ私にはないのか」
「私は学歴も仕事も優れているのに、なぜあの人と同じように有名にならないのか」
「あの人は私より不細工なのに、なぜ美男子の彼氏がいるんだろう」
「なぜあの人にできて私いはできないの?」
「あの人は楽しそうだが私は楽しくない、許せない」
こんな考え方に心当たりはないでしょうか? ネットで、一度も会ったことがない人を執拗に攻撃したり、職場でうまくいっている人の陰口を叩いたり、学校で気に入らない人を虐めている人の心の中にあるのはこのような「私とあの人は同じでなければならない」という思い込みです。その思い込みが、嫉妬の感情に繋がるのです。
仕事って、大事なんですよやっぱり。
僕は、そう思う。
仕事がなかったら、人生は長過ぎるんじゃないか、とも感じます。
(その一方で、仕事ばっかりしていると、人生は短くなりすぎるよね……)
でも、だからこそ、「仕事だけが人生じゃない」ことを、もう一度考えてみるべきなのでしょう。
「仕事をすること」が悪いんじゃない。
他の人が決めた価値観を疑うこともなく流されて、「みんなと同じであるために、仕事は終わったのに職場でダラダラしていたり、行きたくもない飲み会に付き合ったりするような働き方」をするのが、人生の無駄遣いなのです。
「本当に仕事が好きで、楽しいから、仕事をする」そういう人は、それで良いと思う。
大事なのは、「自分が本当に何をやりたいのか、やるべきなのか」を、自分自身で考えてみること、なのでしょう。
……とまあ、こんな話を「明日仕事行きたくないなあ、今夜も呼び出されないといいけどなあ……」などと思いつつ、僕も書いているわけです。
「普通の人生」って、そんなものなんだろうけどさ。
2013-06-15 【読書感想】泡沫日記
■[本]【読書感想】泡沫日記 ☆☆☆☆

- 作者: 酒井順子
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2013/04/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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内容紹介
親の死、介護、我が身の老化、友人の死、花粉症発症などなど、40代女子には初めてのことが次々と訪れる。そして東日本大震災。著者の身辺を通して「今の日本」が浮かび上がる、初の日記風エッセイ。
『負け犬の遠吠え』から10年。
酒井順子さんが書かれたものは、なんとなく「女性向け」みたいな感じがして、あまり手にすることはなかったのですが(『女子と鉄道』は除く)、書店でこの本を見かけて、冒頭の文章を読んで購入。
そこには、こんな言葉がありました。
若い頃は、初めて友達の披露宴でスピーチを頼まれたり、はたまた合唱を頼まれたりして、緊張しながらマイクの前に立ったものでした。しかし今、友達の弔辞を読むために私は、マイクの前に立った。初めての披露宴スピーチの頃からずいぶん遠くまで来たわけですが、これからはきっと、人生の後半であるからこその、この手の初体験が待ち構えているに違いない……。
そして本書は、そんな「人生後半の初体験」に満ちた日々を記した日記です。そうしてみると、意外に出てくる初体験。子供の頃、中年という人々は何に対しても動じない、何にでも慣れた人達であると思っていましたが、自分が中年になってみると、初めて出会う事物にいちいち驚き、びくびくし、また喜んだり悲しんだりしているではありませんか。中年は中年という状態にまだ不慣れなのであり、やっと慣れてきたと思える頃には、もう老年の域にさしかかっているのではないか。
人生後半の初体験は、もちろん老いや死と密接な関係を持っています。成長に伴う初体験でなく、退化とともにある初体験であったりする。そういった初体験を積み重ねることによって、人は自らの死を迎え入れる準備をしていくのでしょう。
そして私は既に、「これが自分にとって初めての体験であったか否か」が判然としなくなっている自分にも、気づくのです。「この場所に来るのは初めてだなぁ」などと思いながら旅をしていても、ある建物を見た瞬間、
「ここ、前にも来たことある!」
と思い出したりする。それはデジャビュではなく、単に「かつて来たことを忘れていた」というだけなのです。
ああ、こういうのって、あるよなあ、と40歳を超えてしまった僕は、1965年生まれの先輩(酒井さん)の言葉に、頷くばかりです。
子供の頃は、40過ぎた中年なんて、みんな落ち着いていて、半分悟っているような人たちなのかと思っていました。
このくらいの年齢のオッサン、オバサンたちの「痴情のもつれ」を、こっそり『ウイークエンダー』で覗き見て(子供推奨、の番組ではなかったので)、「こういうみっともない大人もいるのだなあ」なんて。
しかしながら、自分がこの年齢になってみると、40歳といっても、そんなに大人になったような感じはしないんですよね。
悟ってもいないし。
むしろ、つまらないことでイライラすることも多くて、「ダメな中年だ僕は……」なんて内心落ち込むことも少なくありません。
「痴情」関連にしても、「これがダメでも、次があるさ」という若者に比べて、「これが最後かも……」なんて考えてしまうオッサン、オバサンのほうが、いっそうこんがらがってしまいやすい場合がある、というのもわかってきました。
人って、意外といろんなことを「体験」しないまま年を取るものではありますしね。
そして、このエッセイは「日記風」であるために、いままであまり表に出ることがなかった酒井さんの「日常」みたいなものも窺い知ることができます。
大学時代の所属サークルがインカレで優勝候補となり、フェイスブックのグループが盛り上がっていたときの話。
実は私、今まで一度も、FB(フェイスブック)に書き込みをしたことがなかったのだ。他人の動向を見るのは面白いけれど、自分の心情や行動を人様の目にさらすのが、恥ずかしくてしょうがなかったから。
さんざ自分のことを書いて出版までしてきた人間が、今さら何を言うのだ、という話もあろう。しかし出版という行為は、不特定多数のかたがたに自分の思いをさらすという、いわば精神的ストリップのような行為。
対してFBへの書き込みは、知り合いに裸を見せるような感じ。ストリップの舞台は数々踏んですっかりスレている私だが、FBにほんの数行書くことが身悶えするほど恥ずかしいのは、ストリッパーの純真というものなのか。
ああ、こういうのって、わかるなあ。
不特定多数の人の目に触れる(であろう)文章は書けるのに、特定の知り合いの目を意識すると、僕もけっこう書きにくい。
たぶん、前者がやりやすい人は、ブログを書き、後者のほうに居心地の良さを感じる人は、SNS(FBやmixiなどの「ソーシャル・ネットワーク・サービス)中心になっていくのでしょう。
もちろん、両立している人もいるのですけど。
この本での「初体験」のなかで、最も大きなものは「東日本大震災」だったと思います。
僕も含め、多くの日本人にとって、そうであったように。
酒井さんは、何度も被災地を訪れています。仕事のこともあり、観光のこともあり。
「被災地に対して、こんな姿勢で良いのだろうか?」と悩みながら。
福島については、県外の人も「行っていいのか、いけないのか」がわからないところがあると思う。放射線の問題のみならず、「今の福島を見てみたい」という気持ちが、福島の人を傷つけるのではないか、という危惧も私達にはある。
しかし彼等は、
「来てもらえると、すっごい嬉しいんですよ! 福島に来て、つまらなかったって言われるのが悔しいから、楽しいところをいっぱい見てもらいたい」
と言う。来てよかったんだ、と私は思う。
震災と原発事故の後、広島や長崎そして沖縄など、苦しみを知る土地の人達の気持ちがよくわかった、とも彼等は言うのだった。そして苦しみを知る人達は、福島の人にとても優しいのだ、と。
酒井さんが接した人たちの多くは、福島のなかでも、イベントをやったり、観光業に従事している人である、という面はあります。
だから、みんなが同じ考え、ではないと思う。
でも、現地の人たちの多くは「忘れるより、無視するより、来てほしい、知ってほしい」のです。
経済的な効果も、もちろん含めて。
僕自身は、子供がいることによって、「ひとりの人間が成長していくのを側で見届ける楽しみ」もあることを、この本を読みながら、考えていました。
僕自身の「初体験」だけではなくて。
それは、悟りきれない僕にとっては、すごくありがたいこと、なのかもしれません。
この「日記風エッセイ」、本当に、淡々と書いてあるのですが、だからこそ、「中年を生きることの面白さと切なさ」みたいなものが静かにしみ込んでくるのです。
- 作者: 酒井順子
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2009/07/09
- メディア: 文庫
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