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2014-07-31 【読書感想】ホテルに騙されるな!

[]【読書感想】ホテルに騙されるな!〜プロが教える絶対失敗しない選び方〜 ☆☆☆☆ 【読書感想】ホテルに騙されるな!〜プロが教える絶対失敗しない選び方〜 ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】ホテルに騙されるな!〜プロが教える絶対失敗しない選び方〜 ☆☆☆☆のブックマークコメント



Kindle版もあります。

内容紹介

近年は様々な形態のホテルが登場し、業界内の競争は熾烈を極めている。食品偽装のように利用客を“騙すのは許されないが、どのホテルにも利益を確保するための“儲けのカラクリ”はある。それは超一流の高級ホテルも例外ではない。では、どうすればなるべく安く賢く泊まれるのか? 年間200泊を超えるホテルジャーナリストが、一般利用者でもすぐに使えて役立知識を徹底指南。あくまでも“宿泊者目線”を貫いた画期的な一冊。


ビジネスホテルに泊まるのって、けっこう好きなんですよね。

日頃、物が多い、雑然とした部屋で生活をしているので、必要なもの以外、何もない空間というのが、ものすごく新鮮に感じられて。

「できること」が限られているだけに、作業に集中もできますし。

とはいえ、そんなに頻繁に出かけて外泊するわけにもいかないので、ホテルに泊まるのは年に数回くらいですし、大概、みんなで飲みにいって、そのまま寝てしまうような感じなので、あまり「ホテルライフ」を満喫しているとも言い難い。

そんな僕でも、この新書は、なかなか興味深く読めました。

ああ、最近のホテル事情って、こんなふうになっているんだな、って。

出張で各地のホテルを利用する機会が多い人なら、「ホテルガイド」として、さらに役立ち度は高いと思います。


「ホテル評論家」という肩書きを聞いて、珍しく思われる方は多いと思う。筆者は元々、経営コンサルタントとして12年近くやってきて、ホテルコンサルタントの仕事もしていたため、ホテルの経営や運営側についても専門ではあるのだが、これらの分野では多くのホテルコンサルタントや、業界に詳しいジャーナリストの方が活躍されていた。

 他方、ホテル利用者・宿泊者目線の職業評論家は知っている限りではおらず、「ホテルライフ」を評論することで、ここ数年、頻繁にメディアなどに取り上げていただけるようになったのである。

 あくまでもホテル利用者・宿泊者目線をスタンスとして、年間150〜200泊ほどのホテル覆面調査や取材から、特に有名ではないがキラリと光る全国各地のホテル情報を発信してきた。


 そんな著者のところに、2013年10月に発覚した「有名ホテルの食材偽装問題」の際には、取材が殺到したそうです。

 その理由を、「ホテルの実態や問題を利用者目線でストレートに書いている人間が他にはほとんどいなかったからではないか」と著者は述べています。

 たしかに、ホテルに関する報道とか書籍って、「こんなすごいサービスがあります」「感動しました!」みたいな話ばかりで、ネガティブな情報というのは、あまり表に出てきません。

 口コミサイトには、ある程度「本音」が書かれているのではないかと思われますが、評価者のなかにはクレーマーみたいな人もいて、けっこうバイアスがかかっているんですよね。

 

 著者は、「日本のホテル業態が急激に変化してきている」と指摘しています。

 久しくホテル業態の区分としては「シティホテル」「ビジネスホテル」という表現が用いられてきた。シティホテル=高級なホテル、ビジネスホテル=一般的なホテルというイメージである。

 ところが90年代以降ホテル業態は変化し、特に2000年あたりから「ラグジュアリーホテル」という外資系を中心とした超高級ホテルと、一方「宿泊特化型ホテル」といわれる機能的で清潔感のあるホテルチェーンが人気を博し、そのどちらにも進化することができなかった旧来のシティホテルやビジネスホテルは苦戦を強いられてきた。阪急ホテル、阪神ホテルなどはまさに旧態型のシティホテルにあてはまる。


 ホテルの料飲部門(レストランやカフェなど)の利益率について、こんな数字が出てきます。

 一般的な数字として、宿泊部門は正規料金で販売した場合、収入からの利益がおおよそ70%という割合に対し、レストランでは15%前後といわれる。レストランが利益で追いつくためには、宿泊に比べて5倍近くの売り上げを達成しなくてはならない計算だ。そのせいか特に高級ホテルの料飲部門の料金設定は、一般的に高いというイメージがある。


 というか、「高い」ですよねやっぱり。

 あれだけの値段なのだから、けっこう儲けているんだろうな、そして、ちゃんとしたものを出しているんだろうな、と思いきや……

 あの料金設定でも、ホテルのレストランは、そんなに儲かっているわけではなさそうです。

 経営側からすれば、「コストの割には利益が少ない料飲部門は、やめられるものならやめたい」くらいなのかもしれません。

 しかしながら、昔ながらの大型ホテルで、レストランやバーを全部潰してしまうというのは、宿泊者の利便を低下させるし、ホテルの「格」も落ちてしまいます。

 やめたくても、そう簡単にはやめられない。

「儲からない」から、コストを極力抑えたい。

 それが、「食品偽装問題」に繋がっていったのです。

 

 この新書では「ホテルはどうやって儲けているのか」が、いくつか紹介されています。

 いま流行りの高級ホテルのランチバイキングについて。

 ご多分に漏れず、ここでもホテルの儲けのカラクリはある。そもそもたくさんの中から選ぶという行為自体にバイキングの魅力があり、選ばれた料理は美味しく感じられるという心理効果もあるが、それ以前に様々な料理を見ているだけで満腹中枢が満たされていくという実験結果がある。

 また、ホテルのバイキングでは、ステーキやローストビーフ、蟹などの目玉メニューを設け、客寄せに使っているところも多い。確かに目玉メニューだけを大量に食べられると赤字らしいが、そればかりだと飽きてくるのは当然で、逆に満足感は得られないであろう。やはりバイキングの楽しみは、たくさんの種類から好きなだけ、自由に選べることにある。

 このような高級食材もあれば、サラダや卵料理など原価率の相当低い料理もあるが、意外にも偏りなく捌けていくという。また、提供する料理が決まっているので食材の無駄な在庫を抱える必要がなく、大量仕入れによる調達費用の節約が可能であるし、客が自ら運んでくれるのでスタッフは少なくて済み、人件費の節約も相当なものである。


 僕もバイキング形式だとワクワクしますし、自分で好きな料理を取りにいったほうが気分も高揚するので、これは「悪いカラクリ」ではなくて、いわゆるWIN-WINだと思うのです。

 バイキングというのは、ホテルにとってもメリットが少なからずあるし、だからこそ、流行っているということなのでしょう。

 「好きなものを、好きなだけ」だったら、ステーキやローストビーフばかり食べる人がいてもおかしくないのですが、たしかに、そういう人って、あんまりいないですよね。

 僕も、「元を取る」よりも、「せっかくだから、いろんなものを食べてみよう」としてしまうのですが、そういう人が多いのだろうなあ。

 「偏りなく捌けていく」のだから。

 

 最近のホテルでの「サービスの提供のしかたの変化」にも驚かされます。

 前述したホテルココ・グランに特徴的なサービスがある。ホテルの案内や有料放送はもちろん、貸し出し品からルームサービスまでテレビの画面上でリクエストできるのだ。無料貸し出し品目をザッと見ても、低反発枕、消臭スプレー、水枕に体温計、コンタクト保存液に携帯充電器からブルーレイディスクプレイヤーなど30品目以上に及ぶ。

 その種類や品数もそうであるが、リモコンのボタンひとつで客室に届けられることに驚く。テレビ画面上で希望する物の有無が確認できるという利点は大きく、通常の高級ホテルのように、受話器を取り、担当部門を確認した上でボタンをプッシュして希望を伝え、在庫有無のコールバックを待つ、というストレスから解放される。そもそも人による内線対応があるということは、その分の人件費が宿泊料金に上乗せされているのである。

 スシロー(あるいは「くら寿司」)かよ!

 と言いたいところではありますが、これは間違いなく「便利」ですよね。

 僕みたいに、電話をかけて頼むのも面倒だな、とか、つい考えてしまう人間にとってはなおさら。

 高級ホテルでは、「人が応対することそのものがサービス」だと考えるのかもしれませんが、僕はこちらのほうがいいなあ。

 こういうホテルは、これからどんどん増えていくのではないでしょうか。


 また、こんな話も出てきます。

 そうした中、最近問題視されている宿泊プランがある。ビジネス客の間で大人気となっている「クオカード付きプラン」である。

 例えば、実勢料金で1泊5000円のホテルがあるとしよう。予約サイトを開いてみると、スタンダードのシングルルームが「1泊5000円」という宿泊プランがある中で、同じスタンダードシングルなのに「1泊1万円」のプランもある。同じクラスの客室なのに料金差は2倍。よく見ると、1万円のプランは「5000円分のクオカード」が付くという。

 時々見かけるのは、これだけ割り引いているということをしめすために、敢えて正規料金のプランも並べて表示されているサイト。正規料金1万円のプランとともに、半額5000円にディスカウントしたプランも出し、利用客に「これは安い」と思わせるのだ。

 ただ、こうしたクオカード付き1万円のような高いプランを積極的に利用する客がいるのも事実である。なぜこのようなプランが流行るかといえば、次のようなカラクリがある。

 クオカード5000円分付きの「宿泊料金1万円」プランを利用した客は、「宿泊料金1万円」の領収証を受け取る。出張利用のビジネスマンであれば、これを経費として会社に提示することで1万円が支払われる。手元には5000円のクオカードが残り、カードは実際に使ってもいいし、金券ショップで換金もできるというわけだ。

 この話を読み始めた時点では「そんな高い価格設定の部屋に、誰が泊まるんだ?」と思ったのですが、それには、こういう「利用法」があるんですね。

 これについて、著者は「悪いことだ」と一蹴しているわけではなくて、「もともと会社が宿泊費として1万円の予算を組んでいたのであれば、その範囲内で安いホテルに泊まってお金を浮かせるというのは、会社側にとって『損』だとは言い切れない」とコメントされています。

 もちろん、「これはすばらしいので、ぜひやるべきだ」というスタンスではないんですけど(まあ、かなりグレーゾーンの事例でしょうから)。

 そもそも、「安いホテルに泊まったら、その分の差額をもらえるのが社会通念上あたりまえ」であれば、クオカードを介在させる必要もないわけですし。

 

 素晴らしいものから、やや疑問が残るものまで、さまざまなサービスが出現してきており、いまの日本のホテル業界は、「面白い時代」になってきているようです。

 僕も、この新書で紹介されているホテルに、今度は泊まってみるつもりです。

「安くて(あるいは、そんなに高くなくて)良いホテル」って、あるところには、ちゃんとあるものなんですね。

 

 

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2014-07-30 映画『思い出のマーニー』感想

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心を閉ざした少女杏奈は、ぜんそくの療養を目的に親戚が生活している海沿いの村にやって来た。そんなある日、彼女の前に誰もいない屋敷の青い窓に閉じ込められた、きれいなブロンドの少女マーニーが姿を見せる。その出会い以来、杏奈の身の回りでは立て続けに奇妙な出来事が起きるようになるが、それは二人だけの秘密だった。


参考リンク:映画『思い出のマーニー』公式サイト


2014年25本目の劇場での鑑賞作品。

月曜日のレイトショーで、観客は30人くらいでした。


これ、女の子どうしの友情物語みたいだし、中年男がひとりで観に行くのはキツイかなあ、なんて思っていたのです。

でも、映画館に行ってみれば、レイトショーだったこともあるのか、「女性ばかり」という雰囲気でもなく、かなり幅広い年代の大人の観客がいて、僕ひとりでもさほど違和感はなくて一安心。

まあ、「ジブリ作品だったらOK」という風潮って、ありますものね。


この世には目に見えない魔法の輪がある。

この人たちはその内側で、私は外側。


なんだか不穏な雰囲気ではじまるこの作品なのですが、僕は序盤の杏奈とその家庭環境をみているのが、けっこうキツかったのです。

「他人とうまくやっていけない」「疎外感と自尊心のバランスを失っている」杏奈。

喘息という病気が、杏奈の孤立を深めていきます。

そして、「心配性」のおばさん。

おばさんは、杏奈の様子に心を痛め、つぶやきます。

「ああ、こんなときに夫はずーっと出張で……それもよくないのよね……」


ごめん、ほんとごめん。

いやほんと、身につまされましたこの場面。

僕は冒頭、12歳の「世の中にうまくフィットできない」杏奈に感情移入しかけていたんですよ。

でも、ここでいきなりドキッとしました。

「いや、今のお前は、杏奈じゃない。この『家のことはほったらかしのお父さん』だろ?」


子どもの頃の僕は、たぶん、杏奈だった。

でも、大人になってみると、苦しんでいる杏奈に何もできない、何もしようとしない「お父さん」になってしまっている。


お父さんにはお父さんの言い分だってあるんですよもちろん。

稼がないと家族が食べていけないんだから。

いや、そんな事情や言い訳は、子どもの目には「見えていない」のだ、と、この物語は大人に告げているのです。


結局、僕はずっと、杏奈だった頃の自分と、杏奈のような子どもを持った親と、その2つの視点から、この『思い出のマーニー』を観ることになりました。

杏奈に感情移入しようとする自分と、「じゃあ、お前は自分の息子のことを、ちゃんとしてやっているのか?」と責める自分がいる。


これはたぶん、宮崎駿監督にはつくれなかった作品だと思います。

岡田斗司夫さんが「『風立ちぬ』を語る〜宮崎駿スタジオジブリ、その軌跡と未来〜」という新書のなかで、こんな「宮崎家の家庭環境」を紹介しています。

 宮崎駿宮崎吾朗の親子関係は並ではありません。

 宮崎吾朗は母親、つまり宮崎駿監督の奥さんから、


「あなたはお父さんのようになってはいけない、あの人は何ひとつ人間らしいこと、父親らしいことをあなたにしてくれなかった。あなたはそんな人間、アニメ屋になってはいけない」


 と言われ続けて育ちました。

 だから、宮崎吾朗も、


「僕は子どもの頃から何ひとつ親らしいことを、宮崎駿さんにしてもらったことはないです」


 とブログに書いています。

 宮崎駿監督は、ずっと家に帰らずにアニメを作り続けていた人間です。だから、彼が家族から赦されることはないかもしれません。でも、映画の中で、本来ならありえない赦しが主人公に与えられると、僕らはなぜか感動してしまいます。

 何も僕は、「宮崎駿はこんなにひどい人間だ」と言いたいわけではありません。僕らだって何かを成し遂げようとしたとき、絶対に犠牲を払っているはずです。「夢を追いかけよう」「家族を食わせよう」、そんな当たり前の望みを叶えるために誰かを犠牲にしなければならないのが、この世界のあり方なんです。

 あらゆる人の営みは、犠牲の上に成立しています。だからこそ、せめて綺麗な夢を見せたい。それが、『風立ちぬ』のラストシーンで宮崎駿監督が伝えようとしていることではないでしょうか。


 これを読むと、宮崎駿という「家族を顧みず、アニメーションにすべてを捧げた天才」には、『思い出のマーニー』を撮れなかったのではないか、という気がするのです。

 宮崎駿もまた「出張ばかりで、子どものことはほったらかしのお父さん」=杏奈やマーニーの父親、だったのだから。

『風立ちぬ』で、苦悩する堀越二郎は描けても、『思い出のマーニー』の、娘からみた「家庭に存在しようとすらしない父親」を描く勇気は出なかったのではないかなあ。

もちろん、『マーニー』では、そういう父親たちも「赦されている」のだと思います。

ただ、それは、女性たちの物語に比べると、あまりにも希薄で、作中でも無視されているのです。

「あなたは、子どもからみたら、こんな父親なんですよ」

宮崎駿さんには、ここまで残酷に「父親を切り捨てる物語」は描けなかったのではないだろうか。

だって、まがりなりにも「父親」なんだから。


作品としては、静謐で、優しくて、細かいキャラクターの動きまで楽しめる良作でした。

杏奈が手紙を出しにきた郵便局で、地元の知らない人がそこにやってくるのを見て、さりげなく、かつ足早に立ち去る場面なんて、「そうそう、知らない人と会うのがめんどくさい感じ」って、こうなんだよなあ……と、納得してしまいました。

自分を認識されるのが嫌で、でも、他人に当てつけがましく行動してはいけない、という小さな良心もあって。


お人形さんのようなマーニーの立ち姿が美しい。

夜、ふたりでボートを漕いでいる様子は、まるで絵本の1ページのよう。


主人公・杏奈の「周囲にうまく溶け込めない感じ」は、僕にとってもすごく身に覚えがあるので、ヒリヒリしながら観ていました。

 自分ではうまくやれている実感がないし、おせっかいな周囲にもどかしさを抱いているけれど、最低限の挨拶はできる(してしまう)し、大人の言うことに表立って反発するほどの勇気もない。

「大人の世話にはなりたくない」けれど、「いまの自分の力では、何もできない」こともわかってしまっている。

だから、妥協するしかない、と自分に言い聞かせている。

そして、そんなふうに「うまくやろうとしてしまう自分が嫌い」。


その一方で、僕には杏奈ほどの行動力はなかったなあ、とも感じました。

どんなに不快なヤツにだって、「ふとっちょブタ」とか言えなかったよ……

というか、あの子だって、ちょっとおせっかいでうっとうしかったけれど、そんな爆弾を投げつけられるほど悪いことはしてないだろうに……

ある意味、「自分だけが傷ついていると思い込んでいる人間の残酷さ」を描いている作品、とも言えるのです。

ああいう「主人公の理不尽な悪意」を、ありのままに描いたジブリ作品って、他にあっただろうか。


なんて御都合主義な話なんだ!とも思うし、終盤の「説明ラッシュ」には、やや過保護な印象も受けたのだけれども、最後は涙をこっそり拭いながら観ていました。

この作品には「曇りのない幸福」はほとんど出てこないし(杏奈の療養先の夫婦だけは、とても幸福そうに見えたけれど)、杏奈の客観的な状況は、たぶん、そんなに変わってはいません。

出てくるエピソードは、後半になればなるほど悲惨な話が多くなるのに、杏奈は、明らかに「回復」していくのです。

人はみんなそれぞれ事情は違っても、同じくらい不幸で、そして、同じくらい幸福で。

そんななかで、お互いに愛したり、愛されたりしています。

残念なことに、うまく伝わらない、うまく伝えることができないことが多いのだけれども。

 

でも、人は「誰かを愛すること、そして、誰かに愛されること」によって、支えられている。

あなたは愛される、愛されている。

だから、私と同じあやまちを、繰り返さないでほしい。

心を閉ざさず、あなたを愛している人たちを、人生の良いところを、見つけてほしい。

これは、そんな「想い」を、ようやく伝えることができた物語。

 

「もっと上手く漕げると思ってた」

「私も、そう思ってた」


 僕も、自分でやってみるまで、そう思っていたよ。こんなに自分がヘタクソだなんて。

 他人が、人生というボートを漕いでいるのを見ているときは、なんであんな簡単なことが、うまくできないんだろう?って、ずっと思っていたのにね。


『思い出のマーニー』、なかなか良い映画でした。

ただ、この作品の「ほろ苦い甘さ」を理解するのには、それなりの年輪が必要なのかもしれません。

息子が観たら、サイロでの嵐のシーンで「怖い!帰ろう!」って言いそうだし。

まあ、「ホラー映画」として観るのもまた一興か、夏だしね。



 以下、ちょっとだけネタバレ感想です。映画観賞後に読んでいただけるとありがたいです。



 本当にネタバレですよ。

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2014-07-29 【読書感想】起業のリアル

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起業のリアル

起業のリアル


Kindle版もあります。

起業のリアル

起業のリアル

内容紹介

LINE森川亮、スタートトゥデイ前澤友作、

ユーグレナ出雲充、リブセンス村上太一、

ライフネット生命岩瀬大輔、チームラボ猪子寿之

テラモーターズ徳重徹、サイバーエージェント藤田晋……。


「でも、それで本当に儲かるの?」


今をときめくベンチャー社長16人に日本で一番有名なジャーナリストが容赦なく突っ込む。

彼らの生い立ち、挫折、決断、そして新しい金儲けの哲学が詰まった一冊。


「でも、それで本当に儲かるの?」

この対談集を読みながら、僕は何度もそう思いました。


僕自身は「起業家精神」とは縁遠い人間で、あーもう他の職場に行きたい……とボヤキつつも、なかなか目の前に転がってきたボールをシュートできないような人生を送っているのです。

で、「起業家」たちに対しては「お金が大好きなのか、目立ちたがりなのか……とにかく押しが強い人じゃないと、やってられないだろ、社長なんて」と決め付けていたのです。


この起業家たちと田原総一郎さんとの対談を読んでいて、あらためて思い知らされたのは、僕の「起業家像」の古さだったんですよね。

IT関連の「起業家」というと、堀江貴文さんのことをイメージしてしまうのですが、ここに登場してくる「バブル時代を知らない、日本は斜陽だと言われつづけてきた時代の起業家たち」は、僕と同世代の堀江さんとも違う価値観を持っている人たちでした。

(『サイバーエージェント』の藤田さんのように、堀江さんと同世代の人も登場されてはいるんですけどね)


『フローレンス』代表の駒崎弘樹さんの回より。

田原総一郎駒崎さんの世代は、社会をよくしたいという思いから社会起業した人が多いですね。でも四十代以上の社会起業家は少ない。どうしていまの若い人は社会起業をやるのかな?


駒崎弘樹:僕らの世代は、批判のことを「DIS(ディス)る」といっています。DISはラップ文化の一つですが、僕らの世代は社会をDISることに限界を感じているんです。

 タイタニック号がいままさに沈没しようとしているときに、「船長、ダメじゃん」とDISっても、何にもならないですよね。だとしたら、もう自分たちで穴をふさぐしかない。DISるのは後でもできるから、とりあえず板とトンカチ持とうぜ、という気持ちで社会起業する人が多いのだと思います。


田原:どうか、いままではDISることばかりやってきたもんね。野党もしかり、新聞もしかり。


駒崎:昔はそれでもよかったと思います。力強い体制が悪いことをしていて、その悪に対して正義の市民が火炎瓶を投げるという構図がありましたから。でも、いまは悪がいないじゃないですか。僕は2010年から半年間、政治的任用ということで民間人ながら半年間内閣府の官僚をやったのですが、鳩山元総理を含めて、悪の権化みたいな政治家や官僚に出会うことはありませんでした。DISるより僕たちで解を見つけて提示していくほうが、問題を生んでいる構造を早く動かせます。


資本主義とか共産主義とか大国の欲望とか悪徳政治家とか……

そういう「それを批判することで世界が変わる(と信じられる)ような巨大な悪」がいなくなってしまって、ただただ、延々と続く不況で、緩やかに下降し続ける時代を、生きてきた若者たち。


いまの40代、あるいはもう少し上の世代が「ゆとり」だとか「覇気がない」などと揶揄してきた世代の若者たちは、この長い下り坂を生き抜くための「最適解」を探しつづけてきたのだな、と、これを読んで痛感しました。


ただ「DISる」だけでは何も変らないことを、彼らは上の世代をみて、悟ったのでしょうね……


『リビング・イン・ピース』代表の慎泰俊さんの、こんな話も印象的でした。

田原総一郎慎さんはすごく前向きで、自信に満ち溢れているように見えます。もともとそういう性格なのですか?


慎泰俊:もともとかどうかわかりませんが、過去の成功体験が私に自信を持たせてくれた面はあると思います。


田原:たとえば?


慎:私が通っていた学校には、三年生になったら一、二年生からお金を巻き上げるという悪い伝統がありました。この習慣をどうしても変えたくて、三年生で生徒会長になったときに同級生たちと話し合いを続け、なくすことができました。


田原:なくすといっても、口で言っても聞かないでしょう。


慎:講堂に同級生の男子生徒150人を集めて「もうやめようよ」と提案したのですが、最初は「ふざけんな」という反応でした。一、二年生の間はずっと我慢して、ようやくお金を取る側になったのだから、ある意味で当然の反応です。サッカーをやっていて体は強かったのでいじめられたりはしなかったですが、ずいぶん陰で笑われていたようです。


田原:それじゃ変らないじゃない。


慎:途中から言い方を変えました。最初は「間違ったことはやめよう」だったのですが、それだと反発があってうまくいきませんでした。そこで半年後から「自分たちでいい学校をつくって、歴史を変えよう」と方針転換したところ、共感してくれる人が増えてきて、いろいろな悪い習慣がなくなりました。


田原:すごい成功体験ですね。


慎:卒業式で表彰状をもらったとき、全校生徒が拍手してくれました。これは本当にうれしかったです。でも、感謝されたくてやったわけではないんですよ。自分が心から変えたいと思ったから働きかけただけで。


ああ、世の中には、すごい人っているものだなあ、と。

この慎さんのエピソードの場合は、「新しい世代特有」というわけじゃなくて、どの世代にも、こういう「集団の空気を変えられるカリスマ」って、いるものではあるのでしょうけど。


慎さんが言っていることって、まあ、100人に聞けば99人くらいは「正論」だと判定するはずです。

ところが、これまで自分たちがお金と取られてきた人たちには、受け入れがたかった。

それも、わかる。

そこで、慎さんは「なぜ、間違っているお前たちは、正しいことに従わないんだ!」と、正しさを押しつけることの限界を理解したのです。

そして、「悪いことをするな」ではなくて、「みんなで、後輩たちのために、良い歴史を作っていこう」と呼びかけた。

結果として起こったことは同じかもしれないけれど、みんなの「やる気」を引き出すことに成功したのです。


ジョン・F・ケネディの有名な演説に「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」という一節があります。

「国にばっかり頼らず、自分でできることは、自分でやれ」という内容でも、相手への訴え方次第で、効果は大きく違ってきます。


『チームラボ』代表の猪子寿之さんは、「日本の後進性」について、こんな意見を述べておられます。

田原総一郎猪子さんたちが新しいものを生み出していることについて、僕はとっても頼もしいと思う。でも世界的に見ると、iPhoneにしても、グーグルのサービスにしても、新しいものはアメリカからやってくる。なぜ日本ではできないのですか。


猪子寿之なんだろう。大きく言うと、アメリカの西海岸、つまりシリコンバレーは、未来を全面的に肯定している。それに対して、日本は未来を否定している。その違いかな。


田原:未来の肯定はわかる。未来の否定ってどういうこと?


猪子:例をあげると、コピーライト(著作権)ビジネスがそうでしょ。20世紀までは音楽も出版もソフトウェア、あらゆる業界がコピーライトをパッケージ(複数のものを一つにすること)化してビジネスにしてきた。でも、情報化社会になった瞬間、コピーライトパッケージはビジネスにならなくなった。それを受けて、シリコンバレーの人たちは、「いままでのモデルがビジネスにならなくなるなら、次はどういうものがいいのか」と未来を肯定して、YouTubeをつくったり、音楽はライブのビジネスに移ったりするわけです。ソフトウェア産業のアップルもグーグルもコピーライトをパッケージにして売ったりしてませんよね。


田原:でも、日本は過去にこだわると。


猪子:だからどうするかというと、コピーライトのパッケージ化はもはやビジネスにならないのに、無理にビジネスを成り立たせようとして法律を増やしていく。そして、法律を増やしてもビジネスが復活しないにもかかわらず、さらに増やしていく。これは未来の否定だよね。


田原:これはどうしたらいいだろう。


猪子:どうにもならない。日本はすでに老人の国だから。


「日本は、著作権ビジネスが限界を迎えているという現実を見ようとせず、法律で時代の流れを食い止めようとしている」

 ああ、たしかにそういう面はあるのかな、と。

 グーグルは「著作権ビジネスの、その後」を考えているように見えるものなあ。

 ただ、ミッキーマウスというキャラクターに関するディズニーのコピーライト延長問題などをみると、これは、アメリカだから、日本だから、というより、時代の流れに乗って変化していかなければならない、という人たちと、それを食い止めて、既得権益を守りたい、という人たちの、世界共通の葛藤なのかもしれないな、とも思うのです。


 僕自身は「起業家的なメンタリティ」を全く持たない人間なのですが、だからこそ、「いま、この時代に起業している人たち」の話はすごく新鮮でしたし、「実は、この人たちは、僕がいままで読んできた立志伝中の『伝説の経営者』たちよりも、よっぽど良心的で、利他的なのではないか」と思いました。

 彼らは「自分が見つけた穴を、自分たちでふさぐ」ために、起業しているのです。

 そういう気質が、起業家としての成功につながるような世の中であってほしいと願っています。

2014-07-28 【読書感想】ルポ 介護独身

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ルポ 介護独身 (新潮新書)

ルポ 介護独身 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)

自分のことだけを考えていれば良かった生活に、ある日突然、親の介護が立ちはだかる―。非婚・少子化と超高齢化が同時進行する中で、「介護独身」とでも呼ぶしかない人々が今、急激に増えている。他に家庭を持つきょうだいはあてにならず、「何でも一人」に慣れているが故に、介護も一人で抱え込んでしまう彼ら。孤立と無理解の中でもがく日々に、自身、介護問題に直面しているルポライターが向き合う。


タイトルに惹かれて購入し、読んでみました。

うーむ、まあなんというか、身の回りのことや、仕事で見聞きした話などから、「こんな感じなんだろうな」と思っていたことが、ほぼそのまま書かれている、という感じで、率直に言うと、あまり目新しいところもなく、読んでいると鬱々としてきて救いがないなあ、と。

その「救いのない現実」みたいなものを描こうとしているのだとは思うのですが、「そんなことわかってるんだから、わざわざ言わなくてもいいよ……」って気分にはなります。


 介護というのは、どのような形態をとっても、「日常」の枠外に足を踏み出していく。介護する側が夫婦であろうと独身者であろうと同じである。夫の親の介護がはじまった途端、夫婦喧嘩が絶えなくなったというのは、何もテレビドラマの話ばかりではない。

 ただ、独身者が親の介護に当たる場合のほうが、「悲」の色合いを濃厚に帯びている。夫婦による介護が家族間に摩擦を引き起こすパターンは有吉佐和子の『恍惚の人』以来さまざまな形で描かれている。そうした摩擦においては、少なくとも「夫婦喧嘩」というコミュニケーションが生じてくるのだ。しかし、独身者が介護に当たるときは、そうした他者との関わり方がかなり薄くなっている。あくまで「孤」である。先のような事件に関する報道を見ていると、その感を強くする。

 インターネットを覗いてみると、ここでも「惨」に至る一歩手前のエピソードが、さまざまなサイトからこぼれ落ちてくる。

 ある質問サイトでは《47歳男性》がこう書いていた。30代半ばから両親の介護をしている。父は半身マヒ、母は足腰が弱り、家事は彼一人が担っている。《毎朝午前4時半起床、仕事で遅くなると明け方近く就寝。この繰り返しで、12年間が過ぎていました》と嘆く。かつて結婚を考えた相手がいたものの、どうしても決断できず、別れてしまった。最近、不意に《私には「結婚」という二文字はないのかな》と、少し悲しくなることがある。もう、諦めるしかないのだろうかと、サイトを訪れる人たちに問いかけるのだ。

 また、10代から親の介護をはじめたという、かなり特異な体験の40歳女性は、こんなことを書いていた。これまでに男性と付き合った経験は何度かあるが、常に親の体調と照らし合わせるため、すれ違いや衝突が繰り返される。そして、いつしか距離が生まれ、いつも別れが訪れた。親の介護だけでなく経済的にも自分が背負って生活しているため、親と共に暮らすしか道はないと思える。とはいっても、親を恨む気持ちはない。親が生きているうちは、もう結婚はできないだろうと思っているが、親を看取った後、良きパートナーに出会えたら、そのときは残りの人生を一緒に歩いていきたい、と。


「親を看取った後」か……

2012年の日本人の平均寿命は女性が86.41歳、男性が79.94歳だそうです(厚労省調べ)。

これが「平均」ですから、もっと長生きする人も大勢いるわけです。

親が90歳まで生きたとすれば、看取った時点で、子どもも還暦くらいにはなっているでしょう。

いくら今の60代、70代が「昔より、見かけも体力的にも若くみえる」としても、「残りの人生」の長さを考えてしまうんですよ。

医療の現場にいると「老老介護」の現実に「人が長生きするというのは、基本的にはめでたいことなのだろうけど……」と考え込んでしまうことも少なくないのです。


 老親が倒れたり認知症になるなどして介護が必要になったとき、これまでは、まず施設に入れることを考えただろう。そのことの是非は、ここでは問わない。社会的な通念として、そのような対応をとってきたということだ。施設も老人ホームなどではなく、病院に入院させて、最期はそこで看取ることが多かった。三十年ほど前に亡くなった私の祖父などは、まさにそうした社会的入院を経た後の死であった。

 では、現在はどうなっているか。要介護状態の高齢者はできるだけ家に戻す。家族が中心となって面倒をみる。そのときは地域包括ケアシステムによって地元がサポートする。そういう形になっている。

 現在、介護されている者からみた介護者の続柄は、25.7%が配偶者であり、20.9%が子どもである。そして、つづく15.2%が子どもの配偶者だ。これに父母(0.3%)やその他の親族(2.0%)を含めた64.1%が「同居者」による介護ということになる(厚生労働省の「平成22年国民生活基礎調査」から)。

 在宅での介護が現実となった時、「誰が面倒を見るのか」が家族で話し合われる。そのとき、介護者として真っ先に指さされる可能性が高いのは、他に家族を持たない独身者であろう。「介護独身」とは、超高齢化社会の流れと、晩婚化・非婚化の流れが出あった場所で生まれた、止められない渦なのだ。

 独身者が親の面倒をみること、介護をすることがどういうことなのか。それを、いまいちど見つめ直すべき時に来ている。

この新書の場合「独身での介護」に焦点をあてているのが「特徴」なのですが、「だからといって、介護のために結婚するっていうのもおかしな話だよなあ」とも思います。

そして、独身であることを選ぶというのは、親の介護はしなければならないけれども、自分が家族から介護してはもらえない人生を選択することでもあるのです。

そこには「家族に介護してもらえないなんて寂しい」と「介護のために人生のうちの長い時間を費やすことを、介護する側も、される側も望んでいるのか?」という葛藤もあるんですよね。

現実的には、独身であったとしても、体調が悪くなれば兄弟とか親戚が病院に呼ばれて「家族」としてなんらかの責任を負わされることにはなりますし、本当にひとりで死んでいくためには、かなりの事前の準備と覚悟が必要です。


日本では「核家族化」「非婚化」がすすんでおり、個人重視で、「家族という意識」が希薄になってきているにもかかわらず、経済的、人的資源的な問題もあり、「介護はそれぞれの家族や地域で行われるべき」だという方向に舵取りがなされています。

子どもが減り、ご近所との繋がりもなくなってきているのに、時代に逆行した「家族責任」に向かっているのです。

とはいえ、「じゃあみんな施設に入れてしまいましょう」というほどのお金も人手もない。

そして、施設に入れるとなると、気持ちの上で「見捨てることになるのでは……」とつらいところもあるし、あまり介護にタッチしていない周囲の人からは「冷たい」なんて言われたりもします。

しかしながら、みんなが割り切って介護が必要な親を施設に入れてしまう世の中になったとしても、それを収容しきれるほどのキャパシティはありません。

なんだかもう、どうしようもない状況ではあるのです。

ほんと、人間は、日本人は長生きしすぎているのではないか、とは思う。

その一方で、「人間」の一員である自分自身や家族、友人には、なるべく長生きしたい、してもらいたいと思う。

難しいですね、本当に。


著者が取材した、40代半ばの「介護独身」女性と、こんなやりとりがあったそうです。

「介護のために結婚しなかったわけじゃない。でも、どこかで介護とシングルであることを結びつけてしまう自分がいるんですよね」

 介護の前後で結婚観は変わったのだろうか?

「以前より、結婚に関していろいろな思いを持つようになりましたね。もともと自由な状態が好きだったし、結婚願望も薄かったけど、年をとってからは家族がいた方がいいかなとか。これからだって、情熱があれば結婚するだろうと思います。ただ、勢いに任せて付き合うというのは若いときじゃないと難しいでしょう。いろいろなものを抱えているから、それを乗り越えられるかどうかで決まるんじゃないですかね」

 そういった後、こう付け加えた。

「ま、天罰なんですよ。家族よりも自由を愛した人間への天罰だと思いますよ。自由が好きだった者が、最も自由じゃなくなった」

 こう書くと悲愴感に溢れた物言いだが、けっして暗くはない。あっけらかんとしている。どん底を経て、自分の苦痛さえ客観できるようになったためかもしれない。


天罰」ではないとは思うのだけれども……でも、なんと言っていいのか……


 また、6年前から介護をしているという38歳女性は、こう話しています。

「それまでは両親の世話になっていませんし、たまに帰っても、あまり会話もしない親子でした」

 それが、ひょんなことから母の介護、さらに少し遅れて糖尿病で倒れた父の食事の世話までこなし、そのことで日々追われることになる。

 母の介護をはじめてすぐ、知美さん(仮名)は「私の人生、終わったな」と感じたという。三人いる兄たちは介護に手を貸さないどころか、母が倒れて以来、家にも寄りつかなくなる。知美さんは職場を離れたため他人との付き合いもなくなり、たまに会う昔の同僚は知美さんの切り出す介護の苦労話に相槌さえ打ってくれない。同世代の友だちには「介護などまだまだ先のこと」という思いがあり、切実感がないのだ。

 あたかも「離れ小島に流された気分」だという。


 これはたしかにつらいだろうな、とは思うのです。

 でも、同世代の友だちは「切実感がない」のではなくて、「いつかはそういう時期が来ることはわかっているのだから、せめて今は、そのことは考えたくない」という気持ちなのかな、とも想像してしまいます。

 それはそれで、わかるのだよなあ。


 そんなに厚い新書でもないのですが、思いのほか読むのに時間がかかってしまったのは、僕にとっても「あまり直視したくないこと」だったからなのかもしれません。

 介護するために生きるというのはあまりに寂しいけれど、介護しなければ死んでしまう身内がそこにいれば、逃げるわけにもいかない。

 本当に、どうすればいいんでしょうね……というか、「その状況」にならないと、わからないんだろうな……



「介護される(かもしれない)側」からの視点である、この本も参考になると思います。

ひとりで死んでも孤独じゃない―「自立死」先進国アメリカ―(新潮新書)

ひとりで死んでも孤独じゃない―「自立死」先進国アメリカ―(新潮新書)

参考リンク:【読書感想】ひとりで死んでも孤独じゃない(琥珀色の戯言)

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2014-07-27 【読書感想】ダメなときほど運はたまる

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Kindle版もあります。

ダメなときほど運はたまる (廣済堂新書)

ダメなときほど運はたまる (廣済堂新書)

内容(「BOOK」データベースより)

「僕は運だけで生きてきたんだ。だから運については一家言あるの」―。1970年代にコント55号でブレイクし、その後30%台という驚異の高視聴率番組を連発してテレビ界を席巻した著者。「みんな、運のため方、使い方を間違ってるんだよね」。どうにも運が向かない人たちに贈る、逆転人生の極意。


なんとなく手に取って読みはじめてみたのです。

最初のほうは「若い頃の苦労は、買ってでもせよ」とか「情けは人のためならず」とか、僕の親世代(1930〜40年代生まれ)が好きそうな人生訓が書かれた本なんだな、という感じでした。

萩本欽一さん、「欽ちゃん」といえば、1970年代前半生まれの僕の世代にとっては、物心ついたとき、ちょうど『欽ドン』『週刊欽曜日』『欽ちゃんのどこまでやるの』などの高視聴率番組の全盛期で、「お笑い界の大スター」だったんですよね。


その「大スター」が語る、成功の秘訣ですから、「ちょっと古くさいなあ」なんて思いつつも、けっこう楽しく読んでいました。

 受験勉強をするとか、サッカーの練習をするという「人の目に見える」努力の場合は、また別のコツがあります。

「努力は隠れてしろ」

「いいことをすれば必ず誰かが見ていてくれる」

 世間的にはこれがかっこいいってことになってるでしょ。でも、本当に隠れてやっていると、運の神様に見えないかもしれない。忙しいですからね、神様も。だから、一見隠れてるようだけど、だれか一人ぐらいには見てもらえるようにするのがいいの。

 だって、王さんのことを「畳が擦り切れるほどバットを振ってた。それぐらい振ったから世界のホームラン王が生まれた」って言うけど、どうしてそれがわかったの? 隠れて努力してたけど、一人ぐらいはそれを見てた人がいるから伝説として語られているんでしょ。

 だから受験勉強するときはお母さんにチラッと見えるようにドアを薄〜く開けておくとか、夜サッカーの練習をするときはコーチの家の近くでするとか、運のためにちょっとは工夫したほうがいいの。そうするとたまたまそれを見たお母さんやコーチが、神様の代わりに運をくれるかもしれないですからね。


完璧に「隠れて努力した」という人は、努力したことそのものが知られることがない。

皮肉なものではありますが、こういうちょっとズルいくらいのバランス感覚が、うまくやるためには大事なのかもしれません。


ちなみに、萩本さんがコメディアンを目指したのは、子どもの頃、家業が没落して借金取りに母親が土下座している姿を目の当たりにし「お金持ちになりたかったから」なのだそうです。

スポーツ選手や俳優になるのは無理だから、現実的な選択として、コメディアンを目指したのだとか。


この本の前半に書かれている、周囲の人との接し方や、つらい状況での生き方、考え方、自分の欠点を長所に変える発想などは、昔も今もそんなに変わりはないし、参考になると思います。

 僕はアドリブが得意と思われているけれど、それも欠点から生まれたの。極端なあがり症だったから、決められたセリフがあると緊張しちゃってぜんぜん言えない。だからアドリブでその場をしのぐしかなかったんです。

 自分のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』(ニッポン放送)を始めるとき、リスナーからのハガキを読むことにしたのもそう。コント55号時代、「坂上二郎は芸があるので残るだろうが、萩本欽一は芸がないので残らないだろう」って活字に書かれたことがショックでね。そうか、僕には芸がないのか、それなら一人でなにかやるときには「芸」とは関係ないもので勝負すればいいやと思ったの。

 決められた台本じゃなくハガキなら僕にも間違わずに読めそうだし、自分に合ってる気がしたんです。それがフジテレビの『欽ちゃんのドンとやってみよう!』につながったんだから、考えようによっては『欽ドン』って欠点から生まれた番組ですよね。

 だから欠点がある人は運につながるの。もちろん、その欠点をどうすればいいのか真剣に考えて行動しないと、いつまでも欠点のままになっちゃいますけどね。


「欠点」も、やり方次第で、「長所」に変えることができるのです。

芸人さんというのは、自分のしゃべりに自信を持っているのが普通でしょうから、セリフもきちんと言えることを前提にしているでしょうし、自分の笑いに素人の力を借りようとは、なかなか思いつかないはずです。

ところが、萩本さんは、自分の「芸」に確信がなかったからこそ、「他人の力を利用する」というスタイルを確立することができたのです。


ただ、この本、ずっと読んでいくと、後半のほうになればなるほど、萩本さんの「運」についてのこだわりが、恐ろしくなってくるんですよね。

まるで「貯運モンスター」みたいだ、と圧倒されてしまいます。

 一緒に仕事をする人を選べるとしたら、なにを判断基準にします?

 僕の場合、才能だとか知識、学歴なんてどうでもいい。やっぱりまず顔だね。前に話したように、人間の顔にはその人のすべてが表れてますから。顔のなにを見るかというと、勝負に強そうかどうかを見るんです。

 それと僕は、さりげなく親のことも聞きますね。とてつもない運を持っている親から生まれた子は、間違いなく強運を持っているから。


実際に起こった「良くないこと」を、「それで運がたまっていくのだから」と前向きに考えるというのは、(僕自身の考え方はさておき)理解できるのですが、萩本さんの「運をためる、あるいは運を無駄に使ってしまわないようにするためのやり方」は、あまりに徹底していて、僕は読みながら「ドン引き」してしまいました。

これでは、周囲の人は大変だろうな、と。


 毎週放送する番組には大勢のスタッフが関わるから、大きな家族みたいなものでしょ。だから番組の視聴率が落ちたら、スタッフのだれかがでっかい運を仕事以外で使ったんじゃないかと思っちゃう。

 実際、こんなことがあったんですよ。ある番組の数字が急に落ちたから、スタッフみんなの前でこう言ったの。

「だれかこのなかでマンションでも買って運を使ったやつがいるような気がする」

 そうしたら番組のプロデューサーが、そおっと手をあげて、

「僕です。マンション、買いました」

 そのプロデューサー、そのあとどうしたと思います? 自分のせいで視聴率を下げたんだから自分がなんとかしようと思って、買ったばかりのマンションのカギを川に投げ捨てたんですって。それで二度とその部屋には帰らなかった……という伝説が残ってます。まさか、ふつうはそこまでしないよって思うでしょ? 僕もちょっとだけ疑ってました。で、20年ぐらい経ったとき、「マンションの鍵を捨てたっていうあの話、今でも伝説として語られているけど、ほんとはどうだったの? もう時効だから真実を語れ」

 って本人に確かめたら、ほんとに投げたんだって。しかも、もっとすごい後日談もあったの。

「あのころ結婚しようと思う人がいて、あのマンションは新居用に買ったんですよ。でもマンションを買った僕が数字を下げたって大将(萩本さん)に言われたんで、マンションも使えないし、結婚もできなくなっちゃった。いや、その彼女と別れたわけじゃないんです。一緒にはなったんですよ。でも結婚式をあげると、もしまた数字が下がったとき『お前が結婚したせいだ』って言われると思って、しばらく籍を入れずに同棲してました」

 うれしいよね。こういう話を聞くと、家族の話から仲間の話になっちゃったけど、こういうスタッフに恵まれたから番組に運がきたんです。

 プロデューサーのマンションの話を聞いて「うれしい」と語っている欽ちゃん。

 それって、いまの僕からみると、「狂ってる」ように見えます。

 マンションを買ったことと番組の視聴率に因果関係があるはずがないと思うし。

 家族のなかで不運な人が出ないようにするためには、動物をたくさん飼うといいんです。動物も家族だから、運を大勢で分けられるじゃない。イヌでもネコでも、人間が飼う動物は人間より寿命が短いし、死ぬ前に病気もするだろうから、悪い運を持っていってくれるの。その代わり一生懸命かわいがらないと、彼らに行くはずの不運が人間にきますよ。

 僕もテレビ番組が当たり始めてきたとき、これは動物家族を増やさないといけないと思って、奥さんに言ったの。

「イヌとかネコとか飼おうよ。そうしないと子供が入院するかもしれないから」

 だけどそのうち、ネコだけじゃ間に合わないぐらい番組の人気がすごくなってきちゃった。

 こりゃあまずい。ネコとイヌ、100匹ずつ飼わないといけないぐらいの運がきてる。でもイヌネコはそんなに飼えないから、金魚を100匹買ってこよう。

 そう思って大きな水槽で金魚を飼育したら、毎日一匹ずつぐらい死ぬんですよ。金魚って割合弱いのね。でももちろん死なせるのが目的じゃないから、毎日水を変えて餌もやって一生懸命世話してたんだけど、やっぱり二日に一匹ぐらいは死んじゃう。それでかわいそうになってきてね、金魚飼育はやめました。

 僕は知らなかったけど、この金魚の話って芸能界ではけっこう有名らしいの。伝説になって芸能界に伝わっていたんです。萩本欽一は自分の運を守るために、毎日金魚を殺していた――そんな恐ろしい話になっちゃってました。ある番組で一緒になったタレントの女の子に、こう直接質問されたときはびっくりしたなあ。

「欽ちゃんって毎日一匹ずつ金魚を殺してたってほんとですか?」

 そう聞かれたの。それほど僕、ひどいやつじゃないですよ。


 さすがに、「それほどひどいやつ」ではなかったのかもしれませんが、この「動物をたくさん飼って、悪い運を持っていってもらう」というのは、「身代わり」という発想ですよね。

 ちゃんと世話はしているとしても、金魚ですから、何匹かずつ死んでいくのは目に見えているわけで。

 死んだ金魚をみて、「これで悪い運を持っていってもらった」というのは、「手を下して殺す」ほど残酷ではないけれど、それはそれでけっこう怖いなあ、と。

 

「萩本基準」は傍からみていると「異様」なのだけれども、実際に芸能界、テレビの世界という「特殊な場所」で成功していれば、みんな「欽ちゃんはすごい」と受け入れてしまっていたのですよね。

この本を読むと、けっこう無茶苦茶やっているように思われるけれど、萩本さんの元で修行をして放送作家として現在活躍している人も、大勢いるのです。

ここでは語られていないけれど、「笑い」に対するセンスとか、徹底的に突き詰める執念みたいなものがあったからこそ、萩本さんはここまで成功できたと思うんですよ。

金魚100匹飼ってるだけで大スターになれるんだったら、みんなそうするでしょうし。

周りにとっては、「大将って、コメディアンとしては凄いけど、あの『運への過剰なこだわり』だけは、どうにかならないかねえ……」という感じだったのでしょうか、それとも、「そのこだわりの異様さが、大スターとしての『伝説化』に役立っていた」のかなあ。


僕はいままで、「実力だけではなく、幸運もあって、成功した人」をたくさんみてきました。

成功者でも「オレの実力でうまくいった」という人よりも「運が良かっただけですよ」と謙遜してみせる人のほうが、一般的に好感度は高くなるでしょう。

しかしながら、この本を読んでいると「すべては運のおかげ」だと考えている人のほうが「傲慢」「理不尽」になってしまうこともあるのだな、と思ったんですよ。

「努力が足りないから、努力しろ」というのは、程度問題ですが、言われたほうも理解はできます。

「番組の視聴率が下がったから、面白い企画を考えろ」というオーダーなら、できるかどうはさておき「そうしなくてはいけないだろうな」と納得しますよね。

でも、「視聴率が下がったのは、お前がマンション買って、運を使ったからだ」なんて言われたら、「そんなの関係ないだろ!」と言い返したくなりますよね。

そんな「狂気」にとらわれた男と、それに巻き込まれ、彼を信じた人たちが「お茶の間で、ふつうの家族が笑う、超人気番組」をつくっていたというのは、なんだかとても不思議な気がしました。

考えてみれば、テレビや芸術の歴史って、「アブノーマルな人たちがつくってきたもの」なんですよね。

「ふつうの人が、ふつうに作ったもの」は、「ふつうの受け手」には、喜ばれない。


これって、ありきたりな人生訓のようにみえますが、実際は『トンデモ本』のカテゴリーに入れても良いんじゃないかと思います。

でも、成功者の場合は、こういうのが正当化されがちなんだよなあ。

人生って、「結果論」なんですよね……

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