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2016-05-31 【読書感想】科学者は戦争で何をしたか

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Kindle版もあります。

科学者は戦争で何をしたか (集英社新書)

科学者は戦争で何をしたか (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)

ノーベル賞科学者・益川敏英が、自身の戦争体験とその後の反戦活動を振り返りながら、科学者が過去の戦争で果たした役割を詳細に分析する。科学の進歩は何の批判もなく歓迎されてきたが、本来、科学は「中性」であり、使う人間によって平和利用も軍事利用も可能となる。そのことを科学者はもちろん市民も認識しなければならないと説く。解釈改憲で「戦争する国」へと突き進む政治状況に危機感を抱く著者が、科学者ならではの本質を見抜く洞察力と、人類の歴史を踏まえた長期的視野で、世界から戦争をなくすための方策を提言する。


 益川さんって、こんな「反骨の人」だったのか……

 益川さんは、理論物理学者。専門は素粒子理論だそうです。

 2008年にノーベル物理学賞を受賞。

 

 この新書、その益川さんが、「科学と人間(あるいは、科学と戦争)」について書かれたものです。

 益川さんはノーベル賞を受賞するほど優秀な科学者なのですが、それと同時に「科学の危険性」についても、ずっと考え続けている人なんですね。


 実は、ノーベル賞受賞時に、もう一つ、カチンと来たことがありました。受賞記念で行う講演の原稿を書いたのですが、念のため内容に不備はないかと何人かの知人に添削を頼んでおいたのです。ところがその記念講演原稿が、どういうわけか出回って、いろんな人の目に触れてしまったようなのです。

 すると、ある大学の教授から、私の書いた記念講演に対して、間接的に批判の声が聞こえてきたのです。原稿には、私が幼い時に経験した戦争に関する話も含まれていました。批判はその部分に対してでした。ノーベル賞受賞記念講演というアカデミックな場で、戦争に関することを発言すべきではない、不謹慎であるというのです。

 しかし、そんなことは関係ありません。ダイレクトに私に忠告してくださるなら、堂々と私は議論していたでしょう。けれど陰でこそこそ言うのが最もたちが悪い。私からわざわざ論争を仕掛けることはしませんでしたが、どんな権威からの圧力であろうと、私は原稿の内容を一切変えず、記念講演では予定通り、私が幼い頃、唯一覚えている戦争体験を話しました。その話をするのが最もふさわしい場と思ったからです。

 なぜノーベル賞の記念講演で、戦争に関することを話してはいけないのでしょうか。むしろ私は、積極的に発言すべきだと思っています。これはこれから本書でお話する戦争と科学のテーマにも深く関わってくることです。


 いまの日本でも、「戦争体験を語ること」「戦争に公の場で反対すること」を批判したり、圧力をかけたりする人々がいるのです。 益川さんは「九条科学者の会」の呼びかけ人もされているそうです。

 そういう活動も、「ノーベル賞受賞記念講演」の場だからこそ、世間の耳目を集めることができる、というのも事実なわけで。

 ノーベル賞を授賞する側も、対象者を「下調べ」しているのですから、益川さんが「そういう科学者」であることは百も承知で、授賞したのでしょうし。


 この新書の冒頭に、書かれているこんなエピソードに、僕は驚いてしまいました。

 2014年10月に第二次安倍政権のもとで運用基準などが閣議決定された特定秘密保護法のことを私があるテレビ番組で批判したところ、その数日後に外務省の役人が私の研究室にやってきました。そして「先生が心配されるようなことは一切ない」と、私を懸命に説得するわけです。しかしそんな説得、私には通用しません。丁重にお帰り願いましたが、秘密保護というのは何を秘密にしているか分からんことが一番大きな問題なのです。そんなことは子どもでも分かることでしょう。

 この特定秘密保護法は、本来はオープンであるべき科学技術の開発に関しても暗い影を落としています。秘密保護法という法律のもとで、どんな技術が軍事に応用されるか、一般の人々はおろか、開発に携わっている科学者でさえ蚊帳の外に置かれる危険性があるからです。


 そうか、有名人が批判すると、こんな「工作員」みたいな人がわざわざ家までやってきて、「説明」してくれるのか……

 これって、「親切」なのか、それとも「圧力」なのか。

 どちらかというと、後者っぽい感じがするんですよね。

 益川さんも「安倍総理の野心をくじくために、憲法九条にノーベル平和賞を!」というようなことを書かれているので、僕も「そこまではちょっと……」と思うのですが、戦争経験者として、戦争に使われるおそれがある科学の研究者として、言わずにはいられないのだろうなあ。


 科学というのは、人間の暮らしを豊かにすることもできるし、効率的な人殺しの道具にもなりうる。

 ノーベルの時代のダイナマイトなどは、工事に便利なのは確かだろうけど、兵器として応用されることは予想できたはずだ、と僕も思います。

 ノーベル自身に「そのつもり」は無かったとしても。


 著者は、フリッツ・ハーバーというドイツの科学者を例示しています。

 ハーバーは、第一次世界大戦中に、ドイツのために毒ガス(塩素ガス)を開発します。

 しかし、ハーバー自身には、科学者としての悔恨はなかったようです。自分はドイツ軍を優勢に導いた功労者であり、毒ガスの開発に関しては祖国のために偉業を成し遂げたと自負していました。夫と同じように著名な化学者だった妻のクララは、毒ガスの開発に取りつかれた夫の豹変が理解できず、夫の戦地での行為に深く絶望して自ら命を絶ってしまった。それでもハーバーは、毒ガス開発をやめようとはしなかったのです。

 第一次世界大戦後、ハーバーは、アンモニアの合成法を発見したことでノーベル化学賞を受賞します。アンモニアは、化学肥料の合成に欠かせない物質です。人工的につくることができるようになったため、農作物の生産量も格段に上がりました。

 しかしハーバーは、戦場で塩素ガスを使用した首謀者としても有名でした。”人殺しに加担した化学者”です。当然、フランスやアメリカから受賞に対する異議申し立てがありましたが、受賞の決定は覆りませんでした。ノーベル財団は、戦場での悪行と、アンモニア合成の偉業を秤にかけ、食糧生産を向上させたという人類への貢献の方に重きを置いたのでした。


 あのアインシュタインも、原爆を開発するための「マンハッタン計画」で大きな役割を果たしています。

 アインシュタインは、後年、そのことを深く悔やみ、核廃絶運動に加わることになりました。


 ハーバーは「確信犯」だったわけですが、こんな事例もあるのです。

 数十年前、日本のビル街でテレビの電波がビルに反射し、画像がブレるゴースト現象が発生しました。そこである塗装会社に勤める科学者が、フェライトという酸化鉄を主成分とするセラミック入りの塗料を開発したのです。フェライトには強力な磁石作用があり、それを含んだ塗料をビルの壁画に塗ると電波を吸収してゴースト現象が起きにくくなるという画期的な開発でした。ところがその10年後、その塗料が米軍のステルス戦闘機に使われたことが判明したのです。通称「見えない戦闘機」。敵のレーダーに引っかからない驚異的な兵器です。

 もちろんその科学者は、「自分はそんなつもりでこの塗料を開発したのではない」と言うはずです。彼にしてみれば、人々が電波妨害なしに快適にテレビが見られるようになったこと、あるいはビル建築の技術においても画期的な発明をしたという自負こそあれ、自分の技術が兵器に使用されるなら、夢にも思わなかったでしょう。

 こうした例は他にはいくらでもあります。医学や化学の分野でも、病気の克服や疾病の流行を防ぐための研究開発が、細菌兵器や化学兵器への転用でテロリストに狙われることだってあり得ます。


 このような「民生にも軍事にも使用可能な『デュアルユース』」というのが、研究者たちを悩ませているのだと、益川さんは仰っています。

 このフェライトの例などは、まさに「そんなつもりじゃなかった」はず。

 それが、軍事利用につながってしまった。

 しかしながら、軍事利用=悪、と言いきれるのかどうか、というのもまた難しい問題ではあり、「味方の犠牲を減らし、効率よく敵を殺すシステム」というのは、「こちら側」からみれば「善」だとも言える。

 それは「原爆のおかげで、戦争は早く終わり、結果的に犠牲になった人の数は減った」というのと同じなのかもしれないけれど(ちなみに、この「原爆が終戦を早めた」のかどうかは、現在でも見解が分かれているようですが、非戦闘員を無差別に「虐殺」したということは紛れも無い事実です)。


 益川さんは、昔のような「国家による強制」ではなくても、たとえば、研究費の助成の可否とか、前述したような「圧力」のような形で、科学者が権力に脅かされていることを伝えています。

 

 結局のところ、どんな素晴らしい発見や技術も、使い方次第、なんですよね。

 そして、科学者は、どこまで責任をもつべきなのか。

 

 こんな硬骨漢が日本にいて、世界には、こういう人にノーベル賞をあげよう、と決めた人たちがいるのだな、と感心するのと同時に、ここまで国は目を光らせているのか、と怖くなりました。

2016-05-30 【読書感想】ネット炎上の研究

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ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

内容(「BOOK」データベースより)

炎上参加者はネット利用者の0.5%だった。炎上はなぜ生じたのだろうか。炎上を防ぐ方法はあるのだろうか。炎上は甘受するしかないのだろうか。実証分析から見えてくる真実。


 ネットの「炎上」について、統計学的な調査に基づいて検討した結果をまとめたものです。

 かなり「学術書的」(というか、学術書)なので、興味本位で読むには値段も高く、硬めの言い回しも多いのですが、読んでみると、いままで僕が思いこんでいた「炎上のときは、世の中の大部分が敵にまわっている感じ」とは全く違った様相がみえてくるのです。

 アンケート調査に基づいているので、炎上参加者が正直に「燃やしてます」と言わないんじゃないか、とも思うのですが、それにしても、「炎上参加者はネット利用者の0.5%」というのは、そんなに少ないのか、というのが実感です。


 「炎上」についてのさまざまなデータが紹介されているのですが、2004年創業のエルテス社のサービスeltes Cloudの炎上事例集に基づくと、炎上事例は2010年の98件から2011年に333件と急激に増加しており、その後は379件、449件とさらに増えています。ただし、増加のスピードはゆるやかで、2014年には415件と、やや減少傾向を示しました。

 もちろん、今後も減り続けるかどうかはわからないのですが、「炎上」することのリスクが社会に周知されることにより、個人・著名人・法人がそれぞれ対策をとるようになったのではないか、と著者たちは推測しています。

 最近は「炎上」に対するリスクマネジメントも進歩してきているのです。

 また、TwitterFacebook、その他の炎上件数の推移の統計では、2008年以降Twitterの割合が急速に伸び、2011年からほぼ横ばいとなっています(全体の50%程度)。

 TwitterFacebookのアクティブユーザー数は、2010年頃はTwitterが圧倒的に多かったのですが、2012年はほぼ同数程度。

 しかしながら、Facebookが「火元」の炎上は、全体の数%程度で、Twitterの「拡散力」が炎上に寄与していることがわかります。

 ちなみに、ユーザー数を急速に増やしているLINEは、基本的に仲間うちでしか閲覧できないため、火元にはほとんどなっていません。


 著者は、炎上がもたらす問題点として、「サイバーカスケード」を指摘しています。

 炎上を嫌って、ネット上からの意見表明から撤退する人が少なからずいます。

 現実には炎上を嫌って撤退する人は、意見分布の中庸な人に偏ると考えられる。なぜなら、炎上があっても撤退しない人とは誹謗中傷に負けない”強い”人で、そのような人は極端な意見の持ち主に多いと考えられるからである。意見分布の両極の人は自己の正しさを強く確信しており、何を言われてもくじけない。少々の攻撃にはくじけず、むしろ発奮して反撃する。これに対し、中庸の人は相手の意見にも一理あるとして耳を傾けるので、相手が非常に攻撃的であると傷つき、あるいは嫌気がさしてしまう。炎上が続く状況下では、「自分の非を認めない、硬直した人間ほど議論に強い、という倒錯した嫌な話になってくるのである。したがって、炎上に嫌気がさしてネット上の議論から撤退するのは中庸な人が多くなると考えられる。


(中略)


 このように意見が両極端に分かれると、意見交換が難しくなる。あまりに意見が異なる場合、前提条件が違いすぎて議論ができないためである。


(中略)


 このようにネット上で意見が極端に分かれてしまい、互いの間の対話や議論が行われない現象はサイバーカスケード(Sunstein 2001)と呼ばれる。サンスティーンは、ネット上では同じ意見の人ばかりが意見交換して、異なる立場の人の間の意見交流が乏しいことをサイバーカスケードと呼んだ。サンスティーンは、民主主義のためには人々が共通体験を持ち、他の人と思いがけない接触を持つ必要があるとし、サイバーカスケードはこれを阻害するをして警笛をならした。サイバーカスケードが起こると意見が過激化し、議論が劣化しやすい。


 著者たちは、その実例として2015年に話題になった安保法制に対するネット上の議論を挙げているのです。

 確かに、議論というより、「安倍(首相)の犬!」「あいつらは共産党の手先だ!」みたいな人格攻撃的な罵り合いを目にする機会が少なからずありました。

 僕もネットで書いていて思うのは、ネット上の意見って、意外と「ど真ん中」がガラ空きなんですよね。

 それじゃ目立たない(あるいは、書いている人がいても注目されない)だけなのかもしれないけれど。

 インターネットは、黎明期には、さまざまな意見がフラットに寄せられる「新しい民主主義」を生み出すのではないかと期待されていたのですが、それとは程遠い、というのが現状のようです。


 また、アンケートの分析から、著者たちは以下の知見を得ています。

 第1に、炎上を知っている人はインターネットユーザの90%以上いるものの、炎上参加者はわずか1.1%しかいない。また、炎上に1度書き込んだことのある人は、2度以上書き込んだ人の半分以下となっており、ごく少数の人が、複数回にわたり炎上に参加している。

 第2に、炎上参加者の属性として、「男性である」「若い」「子持ちである」「年収が多い」「ラジオ視聴時間が長い」「ソーシャルメディア利用時間が長い」「掲示板に書き込む」「インターネット上でいやな思いがしたことがある」「インターネット上では非難しあって良いと考えている」といったものが得られた。子持ちである、年収が多い等の属性は、一般的に言われる炎上参加者のプロフィールとは異なるように思われる。また、学歴やインターネット利用時間といった属性は、炎上参加行動に有意な影響を与えていなかった。


 この「炎上参加者のプロファイリング」は、正直、意外でした。

 というか、「若い」「インターネット上では非難しあって良いと考えている」を除けば、僕にけっこうあてはまるような……

 何も失うものがない、いわゆる「無敵の人」が、炎上を引き起こしている、というイメージは、どうも現実とは異なっているようです。

 でも、なぜこういう層の人たちが「炎上」を起こすのか、そこは、よくわかりませんでした。

 

 著者たちは、この「参加者は全体の1.1%にしかすぎない」ということを知ったうえでの「炎上対策」が重要であると繰り返し指摘し、炎上の予防法やサロン型のSNSという提案もしています。

 個人的には、わざわざ「サロン」に入ってまで議論をしたい人がそんなにいるのだろうか、という気がしますが、どうなんだろう?


 正直、この本に掲載されている「結果」は、僕の感覚とは解離している印象なのですが、2万人近くのインターネットモニターへのアンケート調査に基づくもので、統計学的な処理もきちんとなされており、これまで行われた調査のなかでも、信頼度はかなり高そうです。

 もしかしたら、ユーザーは「炎上」というものを「過大評価」しすぎているのかもしれません。

 とはいえ、「炎上」しないに越した事は無いのも事実なんですけどね。

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2016-05-29 【読書感想】セッター思考 人と人をつなぐ技術を磨く

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セッター思考 (PHP新書)

セッター思考 (PHP新書)


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内容紹介

オリンピックに3大会連続で出場し、2012年のロンドン五輪では銅メダルを獲得した、元・全日本女子バレーボール代表キャプテンの竹下佳江氏が語る、仕事と人生の成功法則――。13年の現役引退後、ゲームの解説や子供たちの指導など、バレーの魅力を選手時代とは異なる形で伝える仕事に取り組むなか、竹下氏は、周りを支える喜びを自分の喜びに変える「セッター思考」の重要性に改めて気づいたという。そんな“人と人をつなぐ技術”は、きっと会社でも役立つし、友人とのつき合いや家庭でも使えるはず……。そこで、「セッター思考」はどうやって磨けばいいのか、「火の鳥NIPPON」の一員として世界を相手に闘ってきた経験をベースに、あらためて考え直したのが本書だ。全員がアタッカー型やリベロ型では、チームは決してうまくいかない。いまの時代、セッター思考こそ一人ひとりを輝かせ、チームを、組織を、そして日本を元気にする可能性を秘めているのである。


 そうか、「セッター思考」か……

 僕自身も「アタッカータイプ」ではないので、この竹下選手の話、興味深く読みました。

 「セッター思考」って、なんとなく、「調停役」で、「まあまあ」って言っていれば良いんじゃないか、という僕の思い込みは、竹下選手のすさまじい練習や試合に望む「覚悟」の前に、打ち砕かれていったのです。

 

「セッターに求められるものは何ですか?」

 時折、そんな質問を受けます。

 私はいつも、「コミュニケーション力」と答えています。もちろん正確なトスワーク、緻密な分析力、相手のチームの動きを見抜く観察力も大切ではありますが、どれも一番ではないと思います。

 セッターには「自分が、自分が」というタイプの人はあまり向いていません。人のために尽くせる、黒子に徹することができる人のほうが向いています。

 コミュニケーション力といっても、試合の途中に話をしたり、「いままでやってきたことを信じて、頑張ろうよ!」とみんなに声をかけて励ましているわけではありません。大事なのは、試合のコートに立つまでにいかに信頼関係を築いておくか、なのです。それができなければ、試合でもいいプレーはできないでしょう。

 セッターとアタッカーは、よく「息の合ったコンビ」といわれますが、それはやはり地道な練習と普段のコミュニケーションがあるから。いつも会話をしながら、「こういう場面ではこういうトスを上げるから」と、考え方をピッタリと合わせていくのです。


 これを読むと、みんな国際試合のような「表舞台」にばかり目がいきがちだけれど、本当に大切なのは、それまでの日常であり、準備期間だということがよくわかります。

 日頃からコミュニケーションをとっていなければ、いくら試合のときにリーダーシップを発揮しようとしても、誰もついてはこないのです。


 竹下さんは、バレーボールの世界で頂点を極めた人なのですが、キャプテンとして「女性の集団をどう扱っていくか」には、頭を悩ませていたそうです。

 いや、男と女の集団って、そんなに違うものなのだろうか?と「女だけの世界」に親しみがない僕などは考えてしまうのですが、けっこうサラッと「やっぱり違うのものだ」という話をされています。

”いい群れ”をつくるために、私がしていた方法をお伝えしましょう。

 全日本女子には、十代から三十代までの選手が集まります。私がチームで最年長だったときは、まず世代ごとに中心になってもらう選手を決めました。

 私と同世代にはもちろん私から、中堅の世代にはミドルブロッカー大友愛(ユウ)から、それより下の世代にはウィングスパイカー木村沙織(サオリ)から話をしてもらうようにしました。監督やコーチから何か指示があったとき、私が全員を集めて伝えるのではなく、ユウやサオリから世代ごとに伝えてもらっていたのです。

 つまり、女性の群れを把握するということですね。

 女性は、大きな集団のなかに小さな群れをつくりたがります。その小さな群れの中心になっているのは誰かを見極め、サブリーダー的なポジションを任せるのです。

 好きな人とそうでない人に同じことを指示されたら、女性は男性以上に、間違いなく好きな人のほうに従います。


 そういうものなのか……

 僕の感覚でいうと、こんなふうに分けると「世代間の断絶」を促進してしまいそうだと思うのですが、実際にこれでチームをまとめ、ロンドンオリンピックでは銅メダルを獲得した竹下さんの実体験に基づくアドバイスなんですよね、これは。

 

 この新書を読んでいると、竹下さんのバレーボール人生が、波瀾万丈だったというか、これだけの実績を残した選手なのに、こんなに苦労してきたのか、と驚かされます。

 とにかく「背が低い」ということでなかなか実業団からも誘いがかからず、アテネ五輪のときには、日本バレーボール協会から、「この三人は使うな」と当時の柳本監督が言われたうちのひとりに入っていたそうです。

 たしかに、「高さ」が大事なスポーツではあるとしても、実際のプレーを見て評価しているのだろうか。

 セッターというのは、ひとつのチームにそんなに大勢必要ではない、ということもあります。

 そんななか、159cmの身長で、竹下さんは、日本代表として活躍し、チームをまとめてきたのです。


 シドニー五輪の最終予選で、日本はオリンピック出場を逃してしまいます。

 かつて「東洋の魔女」の活躍で「日本のお家芸」といわれたバレーボールですが、当時は凋落が激しく、けっして相手関係もラクではありませんでした。

 しかも、竹下さんは、この最終予選の3カ月前に、ようやく召集されていたのです。

「戦犯」とはよくいったものだな、と思います。私は本当に「犯罪者」扱いでした。

 大会が終わるとすぐに、最終予選敗退の原因探しが始まりました。

「小さなセッターを使うから、オリンピックに出られなかったんだ」

 バレーボール関係者からも、メディアからもファンからも、いっせいに非難を浴びました。それまで親しかった人までもが手のひらを返して、私を非難する。もう誰も信じられなくなりました。他人の視線が怖くて外にも出られなくなり、私は家の中にしばらく引きこもっていました。

 言葉は悪いですが、人を殺めてしまった犯罪者のような気持ちになりました。誤って罪を犯してしまった人はこんな気持ちになるのか、とまで思ったのです。

 自分が責められるだけではなく、葛和監督までが私を選んだという理由で責められている姿をみるのは、耐えられませんでした。ほかの選手たちは「召集されてから三ヵ月しか経ってないんだから、責任はない」と思ってくれていたようですが、私は自分を許せませんでした。


 勝てば「英雄」なのかもしれないけれど。

 世の中の人々の「アイツのせいで負けた」という声は、ここまで選手に届き、ダメージを与えているのかと、心苦しくなりました。

 言うほうは、試合に負けて何日か経てば、口汚く罵ったことなど忘れてしまっているのに。

 これを読んでいると、「普段親しかった人」までもが竹下さんから距離を置いたというのがショックだったようで、オリンピックというのは、そこまで人を残酷にさせるものなのか、と考えずにはいられません。

 たぶん、今年のリオデジャネイロ五輪でも、同じことが繰り返されるのだろうな……


 もう、バレーボールの世界には自分の居場所はない、と思いつめた竹下さんは、24歳のとき、一度「引退」してしまうのです。

 周囲の人からの「あなたが必要だ」という熱い気持ちと竹下さん自身のバレーボールへの愛着もあって、結局、復帰することになったのですが。


 いかにアタッカーが気持ちよくスパイクを打てるポイントにトスを上げるか、しかも、アタッカーが打つ瞬間にアタックポイントを選べるように、いかに複数のポイントを見つけ、それらに合わせた的確なトスを上げられるかが、セッターとしての生命線だと思って、私はやってきました。

 そのためには、アタッカーの位置とスパイクに行く前の助走をつねに視界に捉えていないといけません。状況把握ですね。助走への入り方やジャンプするタイミングは、選手によってそれぞれです。同じコースにスパイクするときでも、一回一回入り方や踏み出すタイミングが違う選手もいます。それをゲームが動いているなか、瞬時に判断し、そのときどきに合わせたトスを上げていました。

 こうやって言葉にするとなんだか難しく、とても特殊なことをしているように思われるかもしれませんが、日ごろの練習や生活のなかで一人ひとりの性格や考え方、好みなどを把握していくと、次第にポイントがわかってくるものです。 

 たとえば合宿で一緒に食事をしながら相手のことをみたり、部屋の荷物をどんなふうに片づけているかを目にしたりすると、人となりの一端がわかることがあります。


 試合中、練習中どころか、普段での生活まで、しっかり観察して、竹下さんは、トスを上げる相手のことを考えているのです。

 ここまでやっていたからこそ、世界で通用していたんですね。

 バレーボール選手というのは、みんなこうなのだろうか。

 

 第5章には「セッター思考」を磨く七つの習慣、なども紹介されていて、「調整型のリーダー」を目指す人にとっては、参考になるところが多いのではないかと。

 いざというときだけ本気を出す、ではダメなんだということが、本当によくわかります。

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2016-05-28 【読書感想】バターが買えない不都合な真実

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内容紹介

バター不足が続いている。農林省は、その理由を原料となる生乳の生産量が落ちたうえ、多くを飲用牛乳向けに供給したせいだと説明した。だがこれはうわべの事情に過ぎない。実際は、バターをつくる過程で同時に生成される、あの【脱脂粉乳】が強い影響力を持っていた。使い道が少なくなった脱脂粉乳が、生乳の価格、酪農経営、そしてバターの生産量をも左右していたのだ。これまで外部にさらされることのなかった酪農をめぐる利益構造と、既得権益者たちの思惑。隠された暗部をえぐる。


 2014年から、慢性的なバター不足が続いています。

 そんなに不足しているのなら、作ればいいのに、なぜ「バター不足」が続いているのか?

 バターは、酪農家が生産する生乳(=搾ったままの牛の乳)から作られる。農林水産省は、2013年の猛暑の影響で乳牛に乳房炎等の病気が多く発生したことや、酪農家の離農等で乳牛頭数が減少していることなどにより、生乳の生産量が減少したためだと説明している。

 しかし、2013年の生乳の生産量の減少は、前年比2.1%に過ぎない。バターが足りなくなるような減少率ではないと思われる。これについて、各紙はおおむね次のように報道した。

 生乳は乳代が高く量も多い飲料用牛乳向けに供給され、残りがバターや脱脂粉乳などの乳製品の生産に回される。また、飲用牛乳向けの生乳はそのまま飲用牛乳に処理されるので、飲用牛乳向けの生乳生産量は飲用牛乳の消費量と同じである。このため、飲用牛乳の消費量(飲用牛乳向けの牛乳供給量)の減少率よりも生乳の生産量の減少率が大きいときは、バターや脱脂粉乳などの乳製品向けの生乳の供給量は、全体の生乳生産量の減少率よりも大きく減少することになる。2013年の飲用牛乳向けの生乳供給量は前年比1.1%の減少で生乳生産量の減少率2.1%がこれを上回ったため、バターや脱脂粉乳などの乳製品向けの生乳の供給量は、8.1%も減少することとなった。


 僕も「より高く売れる、飲用牛乳への供給が優先されたため、原料が同じであるバター向けの生乳の供給量が減ってしまった」と認識していました。

 しかしながら、農林水産省で長年仕事をしてきた著者は、理由がそれだけではないことをこの新書のなかで丁寧に解説しています。

 そもそも、「バターが足りないのなら、輸入すれば良いのではないか」という考え方もあるのだけれども、「日本の酪農を守る」という名目で、それも難しくなっているのです。


 ただ、そんなに日本の酪農家たちは「弱い」のか?という疑問もあるのです。

 牛肉価格が上昇する前の2014年度でも、酪農家の年間所得は974万円ほどもあり、412万円の米農家の所得の倍以上である。酪農家は農業の他の業種に比べても、高い所得を得ており、決して経営が苦しいとは言えない。

 なお、自民党の酪農関係の文書には、“酪農家の所得向上のため”という文言がよく出てくる。酪農や牛乳・乳製品についての政策の目的は、“酪農家の所得向上”だけにあるようだ。消費者へ合理的な価格で安定的に供給しようとする発想は、皆無である。乳価を上げれば、酪農家は喜ぶが、一般の庶民は困る。

 酪農家としては、所得が多ければ多いほどよい。これは人情だろう。しかし、酪農家は平均的な日本人の所得の倍の所得を稼いでおり、所得を補てんしなければならないような社会的弱者ではない。残念なことに、非正規雇用で月15万円くらいしか収入がなく、満足にバターや牛乳も買える人たちは、牛乳・乳製品についての政策を決定する農林族の人たちの視野に入ってこない。


 「日本の酪農を守る」というのは大事なことだと僕も思います。

 著者も「保護」そのものを否定しているわけではないのですが、それが行き過ぎになっているのではないか、と疑問を呈しているのです。

 酪農には設備投資のリスクがあるし、生き物相手の仕事なので、なかなか休みもとれない、著者は「今は派遣で牧場の仕事を短期でやって、酪農家を休ませてくれるシステムもあるから」と仰っていて、それはもちろん「無いよりははるかにマシ」なのだろうけれど、現場にはまだ浸透していないか、利用が難しいところがあるではないかと思われます。

 逆に言えば「多少は儲からないとやってられないような仕事」なんですよね。

 実際に後継者不足で廃業する酪農家が多いというのも、若者には魅力的にみえない仕事、なのでしょうし(ただ、これは「キツいし、経営も厳しい」というイメージの影響も大きいのかもしれません)。

 それらを考慮しても、あまりにも日本の政策や補助金が「酪農家のほうばかり向いている」ようにみえますし、その負担をかぶるのは納税者・消費者なわけです。

 結局のところ、日本の「農業保護」というのは、政治家にとっての票集めの手段に陥っていて、バラマキにしかなっていないのでは、ということなんですよね。


 牛乳やバターが国内で生産されていても、牛の飼料は「アメリカ頼み」なわけですから、本当にこれが「国産」だと言って良いのかどうか?


 税金から「補助金」が出され、価格保護政策で高い農産物を買わされる、ということで、消費者は二重の負担を強いられているのです。

 著者の言い分は筋が通っていると思う一方で、それを突き詰めると、日本の農業は一部のやる気があって、環境が整ったところ以外は、廃業してしまうことになるのではないか、という気もします。

 

 いまの世界情勢を考えると、国家間の大きな戦争や大飢饉で食糧が不足する、という自体は想定できるとしても、国内の食糧自給率が高ければ安心、ということもなさそうな気がするんですよね。

 それこそ「鎖国」でもしないかぎり、生産者や流通業者は「国内でも国外でも、いちばん高く買ってくれるところに売るだけ」ではないでしょうか。

 この本の第一の目的は、なぜバターが不足するのかを説明することにある。それだけではななく、酪農・乳業という産業と牛乳・乳製品という生産物に監視、経済的な側面から見た基礎知識とこれらの産業・生産物についての政策について、解説したい。この本を読むことで、読者は牛乳・乳製品政策に関する歴史的かつ包括的な知識を身に付けられるだろう。また、どういうメカニズムでバター不足などの現象が起こるのかを、理解できるようになるだろう。また、農林水産省の人たちが、どのようなことを念頭に置いて政策を検討したり実施したりしているのかについても、説明した。これは、長年酪農・乳業界の中にいる人たちも知らないことだろう。

 以上を踏まえて、バター不足が起きた本当の理由や、酪農・乳業、牛乳・乳製品の世界に隠されている、複雑な事情や秘密を明らかにしたい。これらの事実を知らないと、酪農を専門とする大学教授、農業団体、農林族議員や農林水産省の役人など、いわゆる専門家と称する人たちに騙されてしまうからである。

 どちらにも言い分がある話ではあるでしょうし、そもそも国民は「部外者」ではないはずなのですが、こうして、「政策をつくる側」である官僚たちの考え方をまとめたものに触れる機会って、そんなに無いんですよね。

 各省庁のホームページにアクセスして、「お役所用語」を丁寧に読み解けば、できないこともないのでしょうけど。

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2016-05-27 【読書感想】「表現の自由」の守り方

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「表現の自由」の守り方 (星海社新書)

「表現の自由」の守り方 (星海社新書)

内容紹介

私たちは、これからもマンガ・アニメ・ゲームを楽しみつづける!

児童ポルノ禁止法、TPPに付随した著作権非親告罪化、国連による外圧、「有害図書」指定、青少年健全育成基本法……日本が世界に誇るマンガ・アニメ・ゲームの表現は、たえず厳しい規制の危機にさらされてきた。しかし、争点を冷静に見極め、したたかに交渉を重ねていけば、必ず「表現の自由」は守ることができる――。本書は、参議院議員としてマンガ・アニメ・ゲームの表現規制を水際で食い止めてきた著者が、永田町の表と裏の舞台で行ってきた活動を明らかにするものである。単に「規制反対!」を大声で叫ぶのではなく、私たちの表現を守るために、一人ひとりにできることを共に探っていく座右の書。マンガ家・赤松健との特別対談を収録。


 そうか、こういう人がいたから、「表現規制」に対して、政治の世界で、一定の歯止めをかけることができたのか……

 僕はこの本を読むまで、山田太郎参議院議員のことを知りませんでした。

 それだけでも、僕の「表現規制の現状」に対する無知を再認識したのです。

 この本のオビには、赤松健さんの「君は知っているか? コミケを救った英雄を。」というコメントが書かれているのですが、これはけっして、大げさな宣伝文句ではないのです。


 この本の冒頭で、日本の隣国で起こった「事実」が示されています。

 じつは、海を隔てた隣国・韓国では、「アチョン法」と呼ばれる日本の「児童ポルノ禁止法」にあたる法律が2011年に改正され、アニメやマンガ、ゲームといった架空の児童を描いた創作物も、児童ポルノとして取り締まりの対象に当たるとされた結果、2012年には2000人あまりが逮捕されるという事態が現実に起こったのです。結果として、韓国のマンガ産業は壊滅に近い打撃を受けました。

 児童ポルノの取り締まり対象にマンガやアニメ、ゲームなど架空の創作物を含める。同様の内容は日本でも検討されていました。一歩間違えば、日本が同様の状況に陥っていたとしてもまったくおかしくはなかったのです。


 幸いなことに、日本では「架空の児童を描いた創作物」が取り締まりの対象となることは(現時点では)ありません。

 ネットでは「表現規制反対!」という運動が盛り上がっていましたが、政府側の説明では、「児童ポルノ禁止法の改正によって、『ドラえもん』のしずかちゃんの入浴シーンが規制されるようなことはない」とされていました。

 しかしながら、著者は、児童ポルノ禁止法の施行にともない、1999年の「紀伊國屋事件」で、日本の書店の最大手である紀伊國屋から『あずみ』や『バカボンド』『ベルセルク』といったマンガも「グレーゾン」として「自主的に」撤去されてしまったことを指摘しています。

 ちなみに、2015年に『映画ドラえもん 新・のび太の大魔境〜ペコと5人の探検隊〜』がテレビ放映された際には、しずかちゃんの入浴シーンがまるごとカットされたそうです。

 いやまあ、あの入浴シーンに「ストーリー上の必然性」があるのか、と言われれば、無くても構わないような気はしますが……


 僕は「表現の自由」を守りたいと思うし、実際の被害者がいない「架空のキャラクター」まで規制するのはやり過ぎだと思います。

 その一方で、「架空」とはいえ、明らかにモデルらしき人がいる場合もあるし、うちに女の子がいたら、近くで(架空のキャラクターとはいえ)少女を陵辱するようなコンテンツをニヤニヤしながら眺めているヤツがいたら、気持ち悪いだろうな、とも考え込んでしまうんですよ。

 日本の犯罪件数を経時的に眺めていくと、戦後の混乱期から、犯罪件数全体、そして、凶悪犯罪も、どんどん減ってきているのです。

 ただ、「ポルノ」が「ガス抜き」になって、性的な犯罪を抑制するのか、それとも、性的犯罪を助長するのかという結論は、それだけでは証明できません。

 ドラえもんの「もしもボックス」でもあれば「ポルノがある社会」と「ない社会」を比較対象できるのかもしれませんが、そんなことはできません。

 それは踏まえた上で、「証明できない」し、「少なくとも犯罪件数は増えていない」のであれば、「表現の自由」を制限する必要は、現時点ではない、と思うのです。

 自分の愛好するマンガとして『ゴルゴ13』『課長島耕作』『沈黙の艦隊』を挙げ、他方で「先ほどの資料に出てくるような、気持ち悪くて読む気にもならないような劣悪な表現」については、保護する必要もないし、「萎縮してもらいたい」とさえ口にする自民党議員。これはきわめて矛盾した行為です。

 犯罪にあたる行為が描かれた創作物を規制せよと言うのであれば、こうしたマンガだって問題視されなければおかしいはずです。『ゴルゴ13』は殺し屋が主人公の作品であり、『島耕作』は不倫を繰り返すサラリーマンの話で、『沈黙の艦隊』にいたっては原子力潜水艦と核兵器で武装したテロリストの話なのですから。

 結局のところ、自分の好きなものは規制する必要はない、自分が嫌いなものは規制せよ、と言っているにすぎないのです。


 山田議員がすごいのは、野党議員にありがちな(ように見える)「とにかく何でも反対!」というスタンスではなく、自民党議員に問題点を詳しくレクチャーし、対話によって、「落としどころ」を探っていくところなんですよね。

 この問題で、たったひとりの野党議員が、なんでこんなに大きな影響力を発揮することができたのか、というのは、山田議員がタフ・ネゴシエイターであり、「反対のための反対」ではなく、「日本のマンガ・アニメというコンテンツの価値とこの法案のリスクを指摘しながら、相手の面子も立つように配慮したから」なんですよね。

 交渉事をうまくやるためには「相手をコテンパンに打ちのめす」のが正解ではないのです。

 すべての議員が、マンガ、アニメに詳しいわけではないのに、いきなり、幼い女の子が辱められているマンガを見せられたら、「これはちょっと……」と思うのは、致し方ない面もある。

 そこで、「こんなこともわからないのか!」なんていきなり「こちら側の常識」で責めても、話がこじれるばかりで、まとまる交渉もまとまりません。


 僕は正直、この本の前半部を読みながら、「でも、この人って、人気取りのために、ネットに多くいる『表現の自由』を叫んでいる人たちに迎合しているだけなのでは……」なんて、ちょっと考えていたのです。

 でも、それは大間違いでした。


 私は児童養護の問題にもずっと取り組んでいて、性虐待に関して日本には対応部署がないという指摘も以前から耳にしていました。それが(2016年)1月19日の予算委員会で、官房長官がきちんと日にちまで決めてやると約束した。政府を動かすことができたわけで、政治家冥利に尽きると思っています。

 児童養護と表現規制の問題は裏表の関係にあります。

 マンガ・アニメ・ゲームを性虐待の原因にするというのはおかしい。本当に性虐待を問題視するなら、ちゃんと対策をすべきです。しかし児童の性虐待を理由に表現を規制しようとする側は、いっこうにそれをしようとしない。むしろ、アニメやマンガやゲームが性虐待の原因ではない、という調査結果を恐れて、正確な実態の把握に消極的なように見えます。実際に性虐待の被害にあっている子供のことなどどうでもよく、表現規制の口実にしたいだけなのではないかと思えてしまいます。

 だから、表現の自由を守ろうとする側こそ、根本の問題である性的搾取、性虐待の問題について、まっこうから受け止めて、きちんと対応するべきです。そうした問題がきちんと把握されれば、一体、何が性虐待の本当の原因なのか、アニメやマンガやゲームの影響なのか、ということもわかってくるでしょう。もちろん、性虐待の問題が解決されれば、マンガやアニメやゲームが批判されることもなくなると思います。


 これまで、国の「縦割り行政」の境界にあって、対応部署が無いまま放置されてきたということを、山田議員は公の場で指摘し、菅官房長官は「2016年4月」と期限を決めて対応部署をつくることを明言しました。

 山田議員は、「自分が好きなマンガやアニメを守ろうとする」だけではなく、それ以上に「児童の性的虐待という問題を解決する」ことを重視してきたのです。

 単なる「人気取り」じゃなくて、「子供たちの幸せ」について、しっかりと目を向けている。

 だからこそ、年長の与党議員たちも、山田さんの話に耳を傾けたのではないでしょうか。


 ネットで「表現の自由」を強く訴えている人は多いけれど、それでは「自分が好きなものを守ろう」というところで、思考停止してしまう。

 多くの人に理解してもらうには、表現規制というような間違った方法をとらなくても、「子供を守ることができる社会」をつくれることを証明してみせなければならないのです。

 それは、とても難しいことだと思うし、「嫌いだし、不快だからやめさせろ」を「子供を守るため」と言い換える人は、これからも出てくるだろうけど。


 国会議員には、こんな人もいるんだな、ひとりの議員の力で、ここまでのことができるんだな、と感心しましたし、こういう人がいることを、もっと多くの人が知ることで、少しでも、世の中は良い方向に行くのではないか、と僕も思うのです。