琥珀色の戯言 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

この日記のはてなブックマーク数

2015-03-27 【読書感想】プロ野球 最強の助っ人論

[]【読書感想】プロ野球 最強の助っ人論 ☆☆☆☆ 【読書感想】プロ野球 最強の助っ人論 ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】プロ野球 最強の助っ人論 ☆☆☆☆のブックマークコメント



Kindle版もあります。

内容紹介

なぜヤクルトの外国人選手は「アタリ」が多いのか?

「成功する選手」と「ダメ外国人」を分ける18の判断基準とは?

ホーナー、ラミレス、ペタジーニなどを日本に連れてきた

敏腕国際スカウトが明かす「驚異の人材発掘力」の秘密

----------

実はバースはヤクルトに入団する予定だった?

あのチームはどうして「ポンコツ」ばかり?

エルドレッド、バレンティン、マートン、ゴメス、

呉昇桓、サファテといった今季期待の選手から

バース、カブレラ、ローズ、マルカーノ、バッキー、

スタンカなど往年の名選手までを分析・解説!


あなたにとって「最高の外国人選手」といえば?


 この新書のタイトルを見たときは、「ああ、野球ファンが、『自分の考える最強外国人助っ人』について熱く語っている本なんだな」と思っていました。

 でも、実際の内容は、「ヤクルト、巨人の国際スカウトとして、ラミレスやペタジーニなどの選手を獲得してきたプロのスカウトによる外国人選手論」なんですよね。

 ちょっと、タイトルで損しているかもしれません。


 のちに、ペタジーニやラミレス、テリー・ブロスなど、さまざまな「優良助っ人外国人」を獲得し、敏腕国際スカウトとして鳴らした著者も、その「外国人選手担当デビュー」は、散々なものでした。

 1973年、ヤクルトに、ジョー・ペピトーンという選手がシーズン途中から加入します。

 彼はそれまで3度、メジャーリーグゴールドグラブ賞に輝き、ヤクルト入団直前までアトランタ・ブレーブスで活躍していたという「現役バリバリ」のメジャーリーガー。メジャー通算で219本塁打を放っており、球団もファンも大きな期待を寄せていたのですが……

 しかしジョー・ペピトーンはその期待を裏切り、たった14試合しか出場せずに帰国。日本プロ野球史上「最悪の外国人選手」という汚名を残してしまった。彼は決して実力がなかったわけではない。性格に問題があったのだ。

 ペピトーンは事あるごとに「メジャーリーグではこんなことはやらない」と言って待遇の改善を要求。「日本は違う」と説明すると、悪態をつきまくった。それでも野球に真面目に取り組んでくれればいいのだが、こちらも手抜きし放題だった。球団がペピトーンを売り出そうと「ペピトーン・デー」と名付けダブルヘッダーを行ったところ、なんと二試合目への出場を拒否。そのまま、夫人との離婚調停のために一時帰国してしまった。ようやく戻ってきたと思ったら、今度はアキレス腱を断裂。「米国に戻って治療を受けたい」と主張した。さすがに球団も「約束が違う。日本で治療しろ」と帰国と許さず、ペピトーンも渋々これを了承した。ところが、ケガで休養中のはずのペピトーンは、あろうことか夜な夜な六本木で夜遊びに励む始末。挙句の果てに、無断帰国してしまった。

 その後もペピトーンに関するトラブルは続いた。勝手に帰国しておきながら「来シーズンの給料を前借りさせてくれ」と言ってきたり、婚約者がデパートで購入した商品の高額な請求書を球団に送りつけてきたり、非常識な要求はあとを絶たなかった。

 そんなトラブルメーカーをどうしてヤクルトは獲得したのか。それは「見ず買い」の選手だったからだ。選手のプレーを視察せず、売り込みのビデオや数字だけを見て判断して獲得することを、我々スカウトは「見ず買い」と呼んでいる。ペピトーンは、その「見ず買い」で獲得した選手だったのだ。


 ちなみにこのペピトーン選手、トラブルメーカーとしてアメリカでも広く知られていたそうです。

 この選手の通訳が、著者の「外国人担当のスタート」だったのですから、すごい苦労だっただろうな、と。

 まあ、「最悪」からはじめれば、もう、それ以下はない、という考え方もできるのかもしれませんが。

 ヤクルト、巨人で敏腕国際スカウトとして活躍した著者は「見ず買い」を強く戒めていたそうです。

 どんな選手でも、何年か前に見て、良い印象を受けた選手でも、契約を考える場合には、必ずその「現在の状態」を自分の目で確認し、実際に話をして人柄を知ることが大切だと繰り返し述べています。

 こういうのって、外国人選手獲得のときだけの話ではないですよね。

 その一方で、巨人のようなリッチな球団だと、他のスカウトや球団首脳部の意向との兼ね合いで、「不本意、あるいは満足とはいえない選択」を余儀なくされる場合もあるようです。

 ヤクルトや広島といった、けっして「金満」ではない球団が、優良外国人選手を獲得しているように見え、お金持ちの球団が連れてきた実績十分のはずのメジャーリーガーのなかにトラブルメーカーが多いのは、外国人選手の見極めや交渉が、ある種の「職人芸」であり、組織が大きすぎると、かえってしがらみや「見ず買い」が多くなってしまうこともあるのかもしれません。

 もっとも、「一人のスカウトの能力」に頼り切ってしまうというのは、それはそれでリスクが大きいのも確かではありますが。

 ちなみに、著者はこう仰っています。

 断言しよう。女性関係でモメて活躍した選手はいない。それが40年近くに及んだ私の通訳とスカウトの経験から得た結論だ。

 通訳というのも大変な仕事で、選手本人のみならず、異国で生活しなければならない家族のサポートも必要不可欠なのです。

 どんなすごい選手でも、家に帰るたびに妻の不満をぶつけられたら精神的に参ってしまうし、子供が元気を無くしていれば不安になります。家庭がうまくいっていなければ良い仕事をするのが難しいのは、世界共通。どんなに日本で好成績を残していても、「アメリカに帰りたい」ということになってしまうのです。


 外国人選手の獲得において、著者は「そのチームに欠けているピースを埋めること」を常に意識していたそうです。

 そして、「良い選手でも、チーム状況によっては『いまは獲得できない』という場合もあるが、その選手が必要になったときに声をかけられるように、つねに気にとめておく」とも。

 外国人選手に求められるのは、ピッチャーでいえば、「豪速球で押せること」、バッターでいえば「体格が良く、長打力で相手のピッチャーを萎縮させられること」。

 おそらく、メジャーリーグでも超一流の選手であれば、日本の野球にも順応できる(ペピトーン選手のようなトラブルメーカーでなければ)のですが、メジャーで年俸10億円もらっているような選手を日本に連れてくることは難しい。

 だからといって、向こうで箸にも棒にもかからないような選手では、日本の野球のレベルに適応できるはずもない。

 そのなかで、「日本のプロ野球に向いている選手」を探すことが、スカウトの腕の見せどころなのです。


 メジャーリーグには「ウォーニング・トラック・フライ」(Warning track fly)という言葉がある。外野のフェンス直前で失速するフライのことだ。フェンス際まで飛ばす力はあるが、なかなかフェンスは越えないバッターのことを「ウォーニング・トラック・フライ・ボール・ヒッター」、または「ウォーニング・トラック・パワー」と呼んでいる。

 私がこの言葉を初めて知ったのは、メジャーリーグの中継をテレビで観たときのことだ。米国滞在中は、球場に足を運ぶだけが仕事ではない。宿泊先のホテルでも時間さえあればテレビで野球中継を観戦するのだが、あるとき、テレビの解説者が「この選手はウォーニング・トラック・フライ・ボール・ヒッター。どこの球場でも外野フェンスの前でボールが失速してしまう。ウォーニング・トラック・パワーしかない選手だ」という表現をしたのだ。

「これだ!」その言葉を聞いた瞬間、私はピンと来た。米国の球場は広いし、ピッチャーの投げるボールも重い。だから人並み外れてパワーのある選手でなければ、ホームランを打つことは難しい。少しだけパワーの足りない選手の打球はフェンス前で失速し、外野手に捕られてしまう。しかし、もし彼らが日本でプレーしたらどうだろう。


 メジャーリーグでは「残念な選手」である、「ウォーニング・トラック・フライ・ボール・ヒッター」なのですが、だからこそ、彼らは「日本野球向き」ではないかと著者は発想を転換したわけです。

「メジャーでもホームランをガンガン打てる選手」を日本に連れてくるのは難しいけれど、こういう中途半端な選手であれば、メジャー側も放出してくれやすいでしょうし、メジャーとマイナーを行ったり来たりの選手が多いので、本人も活躍の場を求めている。

 逆に考えると、日本人のホームランバッターというのは、メジャーに行くと、「ウォーニング・トラック・フライ・ボール・ヒッター」になってしまうことも多いのです。

 著者が獲得したラミレス選手は、まさにこの「ウォーニング・トラック・フライ・ボール・ヒッター」だったそうです。

 また、「ボールを引きつけて打つというバッティングのタイプも、日本野球向きだと思った」のだとか。

 プロのスカウトの目というのは凄いものだな、とあらためて思い知らされます。

 限られた予算、限られた選択肢のなかで、最良の選択をするというのは、なかなか難しい。

 選択肢のなかには、もっと派手な経歴を持っている選手だって、いるのですから。


 (カープ)ファンとしては「もっとお金をかけて、メジャーで実績のある選手を連れてこいよ……」と言いたくなるのですが、実際に日本のプロ野球で長年活躍している選手というのは、たしかに、「3A以上、メジャーリーグ未満」が多いんですよね。

 なかには、日本の野球を経験することによって、変化球に対応できるようになったり、ピッチングに幅ができたりして、メジャーリーグに戻って活躍するようになった選手もいます。


 ちょうどペナントレースの開幕日でもありますし、こんな話も紹介しておきますね。

 外国人選手が気持ち良くプレーしているかどうかは、ベンチを見れば一目瞭然だ。外国人選手がベンチの中央、もしくは監督の近くに座っているチームは強い。それは、外国人選手がチームに溶け込んでいる証拠だからだ。外国人選手が気分よくプレーして期待以上の活躍をすれば、当然、チームにも勢いがつく。逆に、外国人選手がベンチの隅っこに固まって、外国人同士だけで話をしているようなチームは弱い。

 実は、私が入った頃の巨人がそうだった。外国人選手はヨソ者扱い。たとえ言葉には出さなくても、選手は雰囲気で自分がヨソ者扱いされていることはわかる。当然、「チームのために頑張ろう」という気持ちは生まれてこない。


 僕も今シーズン、贔屓のチームのベンチが映し出されたとき、外国人選手がどこに座っているか、注目してみたいと思います。

 なんのかんの言っても、外国人選手の活躍というのは、チームの浮沈の鍵を握っていますしね。

 エルドレッド、早く帰ってきて……

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20150327

2015-03-26 【読書感想】なぜ、この人と話をすると楽になるのか

[]【読書感想】なぜ、この人と話をすると楽になるのか ☆☆☆☆ 【読書感想】なぜ、この人と話をすると楽になるのか ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】なぜ、この人と話をすると楽になるのか ☆☆☆☆のブックマークコメント


なぜ、この人と話をすると楽になるのか

なぜ、この人と話をすると楽になるのか


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)

ニッポン放送の大人気アナは、些細な会話すらままならないコミュ障だった!そんな彼が20年かけて編み出した実践的な会話の技術を惜しみなく披露。話すことが苦手なすべての人を救済する、コミュニケーションの極意!!


 タイトルだけを見ると「癒し系の人になるための指南書」みたいなのですが、書かれているのは、「他人との『日常会話』とか『世間話』が苦手な人のための会話術」なんですよね。

 僕もそういうのってすごく苦手なので、かなり参考になりました。

 もともと親しい人や、仕事などで、お互いの「役割」が決まっていれば、それなりにコミュニケーションをとることができるのだけれど、そうでない人と「うまく話す」のが苦手な人って、少なくないと思われます。


 著者の吉田尚記さんはニッポン放送のアナウンサー。

 大学時代は落語研究会所属だし、この御時世にニッポン放送の入社試験に受かっているし、ラジオのパーソナリティとして、『ギャラクシー賞』も受賞されています。

 どこが「コミュ障」なんだよ……という感じなんですよね。


 吉田さんは、「専門家による治療が必要な、病的なコミュニケーション障害」ではないと思われます。

 どこにでもいる、「初対面、あるいはよく知らない人との世間話が苦手」というタイプ。

 吉田さんは、「日常会話が苦手だ」という自覚があったからこそ、考え、工夫することによって、それを克服しようとしました。アナウンサーという仕事だと、知らない人との「会話の糸口」みたいなものを見つけだしていかなければならないし、いくら大手メディアの人だからといって、向こうから面白いことを喋ってくれるとは限りません。

 いきなりマイクを向けられたら、足早に立ち去ろうとする人やインタビュー嫌いの人も多いだろうし。

 取材や街頭インタビューなどでは、かなり苦労もされたそうです。


 たぶん、吉田さんのスタート地点って、僕と同じくらいの「飲み会で知らない人の隣に座るのってイヤだなあ」というレベルだと思うんですよ。

 先天的に「明朗快活、人間大好き!」という人のコミュニケーション術を真似するのは、僕には無理。

 でも、自分と同じところから這いあがろうとした人の話には、頷かされるところも多いのです。

 僕の個人的な印象なのですが、自分でコミュニュケーションが上手だと思っている人って、案外、自分のことばかり喋って、満足して去っていく、そういうタイプが多い。

 僕は、昔よりは、うまく人と話せるようになったと思う。

 その一方で、自分に関しては、「自信を持ってしまったら、その時点でダメになるんじゃないか」という気がしているのです。


 プロインタビュアーの吉田豪さんは、インタビューの前に、徹底的に相手の著書や作品などを下調べし、相手に興味を持つようにしているそうです。

 「場当たり的な愛想のよさ」では、限界があるのです。


 この本の最初のほうで、吉田さんは、こう仰っています。

 どんなに偉くなってお金持ちになっても、実のあるコミュニケーションがとれない、楽しい思いができない、もしそうだとしたらどんなに虚しい人生だろうと思いませんか。そうですよね、すべての前向きな努力、すべての欲というのは、実のあるコミュニケーションがとりたいってところに行き着くんじゃないでしょうか。釣り好きの男の目的がどうしたって釣りであるように、結局、コミュニケーションの目的はコミュニケーションであると、ぼくは思う。

 コミュニケーションが成立して、そこで感心したり共感したり、笑い合ったり幸せな気持ちになったり、そういうポジティヴな感覚を得ることなしに人は楽になれません。そこがコミュニケーションの根幹であって目的のはずなんです。

 コミュニケーションを扱うほとんどのビジネス本は、コミュニケーションをまるで通過点のように扱ってしまっている。いきなり商談のシーンが登場して、「初対面の相手にはこんな話題を選びましょう」とか「聞き手になって好感を持たれましょう」とか、相手を都合よく動かすのが目的のように語られます。でもそうじゃなくて、そのまえにコミュニケーションについて、人と話をする営み自体について、もっと考えることがあると思うんです。

 ああ、これは本当によくわかる。

 コミュニケーションは、「目的を達成するための手段」だと、いわゆるビジネス書とか自己啓発本の多くには書かれています。

 でも、日々、他者とのコミュニケーションがうまくいっていて笑いあうことができて、食べるのに困らないくらいのお金があれば、人生って、そんなに悪くないような気がします。

 コミュニケーションそのものをより深く楽しむために、コミュニケーションのスキルを磨くべきなんです。

 そうか、飲み会での知らない人との会話や近所の人との世間話が苦手なのは、「そんなことをしても、何のメリットもない」と思い込んでいるからなんだ。

 そこで、「楽しく話をすることができる」ことを目的にすればいいのか……

 僕もそういうのって苦手なのですが、「知らない人と、うまく話すことができた」ときって、なんだかちょっと、気分が良いのも事実です。

 コミュニケーションをうまくとるって、具体的にはどういうこと? そうです、エレベータがきつくなくなることです。そう考えれば気も楽ですよね。


 吉田さんは「人前で話をして大丈夫なくらいになるには、三つのステップがあった」と仰っています。

(1)自己顕示欲がなくなったこと

(2)コミュニケーションは「ゲーム」なんだと気づいたこと

(3)コミュニケーションの盤面解説ができるようになったこと


 このうちの(3)については、こんな話をされています。

 コミュニケーションには、こう来たらこう受ける、こう受けたらこう出すという「型」がたくさんある。それはある種のパターンで、反復可能だし人に教えることもできる。定石を駆使するだけで、いまこうなってるからこっちに振ってみようとか、相対的なコミュニケーションがとれるようになったんですね。

 定石って意外とあるんです。誰しもたくさん身についてる。「ありがとう」って感謝されたら「こちらこそ」って返すのも定石。「どうも」も「どういたしまして」も「そんな」も「いえいえ」も全部、定石です。そうやってずっとコミュニケーションをモニタリングしていたら、いつのまにかコミュニケーションの盤面解説ができるようになっていたんですね。それが三つ目のステップです。

 テレビでプロの棋士が、棋譜を示しながら盤面解説するでしょう。「この一手はこういう意図があって、その流れだったら次はこんな手が考えられる」みたいな分析をする。同じように、コミュニケーションをゲームと捉えると、その流れから「この質問だったらこう受けるのがベスト」とあ、「この答えだったらこっちに話を振ったほうがいい」とか分析できるんです。

 そうか、「ゲーム」にしてしまって良いんだな、と。

 こういうのを聞くと「そんな定石通りの会話なんて、面白くない」と思われるかもしれません。

 僕もそう感じました。

 でも、それこそ将棋に例えると、プロ棋士たちだって、将棋を覚えた最初の頃は「定石」から覚えていったわけです。慣れてきて、実力がついて、はじめて「定石を外れた、自分オリジナルの指し手」を考案していく。

 「まずは定石から」というのは、結果的に早道でもあるんですよね。

 サッカーだって、トラップもうまくできない人が、そんなのはみんなできるから、まずドライブシュートのやりかたを教えてくれ、なんて言われたら、失笑されるだけなのに、コミュニケーションに関しては、「何か特別な近道」があるのではないかと、つい考えてしまうのだよなあ。

 そういえば、お笑い芸人が、合コンのあとに参加者で「反省会」をするという話を聞いたことがあります。

 その話を聞いたときは、「なんでそんなに合コンに一生懸命なの?」って思ったのですが、彼らはまさに「ナマのコミュニケーションの盤面解説(あるいは感想戦)」をしているんですね。


 吉田さんは、「コミュニケーション巧者」になるための手段として「愚者戦略」というのを推奨されています。

 欠点から自分のキャラを戦略的につくるというのは、ひとことで言えば、そこをツッコまれてOKにすることです。相手に自分の欠点をツッコまれたとき、ヘコんだり心が折れたりするんじゃなくて、喜べなきゃいけない。コミュニケーション・ゲームをプレーするうえでは、弱点があったらラッキーなんです。

 極端な話、ハゲチビデブの人、全部ラッキー。それをネタにされてOKの人になる。自分のコンプレックスをツッコまれてもウェルカムできる。そうして自分を低く設定しておくと話しかけられやすくなるんです。ボールがよく回ってくるようになるし、パスを出す足場もしっかりする。


 吉田さん自身も「オタクキャラ」であることを「ツッコミどころ」にしているそうです。

 いやまあ、こういうのって、僕はあんまり好きじゃないし、ツッコミを入れるほうにもある種の「作法」みたいなものがあるとは思うのですが、「あまりプライドを高く持ちすぎない」のは、大事なことなのだろうな、と。

 吉田さんは「コミュニケーションというのはチームプレーであり、誰かを打ち負かして個人としての自分の評価を上げようとするのではなく、周囲をうまくサポートしてみんなが楽しくなれば、それが最良の『勝利』なのだ」とも仰っています。

 そういう意味では、「誰かの欠点を過度にあげつらう人」というのも「チームプレーができないプレイヤー」ということになりますよね。

 それでは、ハリルジャパンには選ばれない。

 

 正直、これだけでは、この本の魅力を伝えきれてはいないとは思うのですが、「コミュニケーションは勇気じゃなくて、技術なのだ」ということと、「他人と上手くコミュニケーションをとれるようになっていくのは、けっこう楽しい」ということが書かれている本なのです。


 もちろん、この本だけですべてが解決するわけではないけれど、「エレベータや飲み会が嫌いな人」は、読んでみて損はしないと思いますよ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20150326

2015-03-25 【読書感想】寂しさの力

[]【読書感想】寂しさの力 ☆☆☆☆ 【読書感想】寂しさの力 ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】寂しさの力 ☆☆☆☆のブックマークコメント


寂しさの力 (新潮新書)

寂しさの力 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)

人間のもっとも強い力は「さみしさ」だ。スティーブ・ジョブズウォルト・ディズニー坂本龍馬山口百恵酒井法子…世界を変える偉人やスターは、みんな猛烈なさみしさの持ち主だった。彼らは精神的「飢え」をいかにして生きる力に変えていったのか。自身の喪失体験をもさらけ出して人生の原動力を示した筆者の新境地。さみしくても大丈夫、ではない。さみしいから、大丈夫!なのだ。


「だって、さみしかったんだもの……」

 僕はずっと、こんな「浮気した人の言葉」を見るたびに、「何だそれ?」と憤っていたのです。

 家庭内暴力とか相手の浮気とか借金とか、そういうものが理由であれば、納得するのにやぶさかではないけれど、こんなの「理由」にはならないではないか、と。

 そもそも、いい大人が「寂しい」なんてみっともない。


 それでも、おや? と思うことがありました。

 四十代も後半にさしかかる頃だったかな。妙にため息をつくことが多くなった。

 別段、大した理由があるわけではない。

 気がつくと、あ〜あ、とため息をついているんです。

 仕事の合間に、ちょっと出かけた折などに、あるいは日常のほんのつかの間、ふとため息をついている。

 なんだろう、これは?

 心のどこかに隙間のようなものがあって、スースーする。

 胸にポッカリと穴があいたようで、気が抜けるというのか、なんだか頼りない感じ。

 昨今、大流行らしい「鬱」といった、決してそんな大げさなものじゃない。

 ちょっとした虚脱感。欠落感、漠然とした不安のようなもの。

 そう形容したほうが近いかもしれない。

 ある時、ふと気がつきました。

 ああ、俺はもしかして……。

 さみしいんじゃないか?

 愕然としました。

 青天の霹靂と言っていいでしょう。

 そんなバカな!

 まさか、この俺がさみしいなんて!?


 ……でも、自分が40歳を過ぎてみると、なんというか、この「どこにも行き場がないような感じ」って、わかるような気がしてきたんですよね。

 中森さんは、やや自虐的に「客観的には、妻も子供もおらず、結婚も同棲もしたことがない50代の独り者なんて、さみしくて当然です。自分自身では、普段はまったくそんなこと意識しないけれど」と仰っています。

 でも、そういうのって、「客観的にみた状況」とは、また別物なのかもしれません。

 僕は40代で、家族はいるし、浮気しているわけでもない。子供もかわいい。

 僕が「さみしい」のは、おかしい。

 にもかかわらず、そういう感情がわき上がってくることが、あるのです。

 「さみしさ」って、怖い。

 生きるっていうのは、「めんどくさい」「さみしい」との終わりなき葛藤なのではないか、そんなことも考えてしまいます。

 死んでしまえば、めんどくさくも、さみしくもなくなるんだろうけど。


 この新書、「寂しさの力」というタイトルですが、半分くらいは中森明夫さんの自伝です。

 パーティーが始まり、家族ごとにテーブル席に着いて、司会者が名前を呼ぶと、一家が立ち上がります。

「中森ライオン!」

 すると家長が高々と両手を挙げて「ウォーーーッ!」とライオンの雄叫びを上げる。その瞬間、会場中が拍手です。

 お笑い草でした。

 ライオンズクラブの制帽をかぶって、高々と両手を挙げて、得意満面で「ウォーーーッ!」と雄叫びを上げる田舎の中年男――それが幼い日の私の脳裏に焼きついた”成功者としての父”でした。

 中森さんのお父さんが「ライオンズクラブ」で活動している姿の描写などは、僕にとっても、自分の父親の姿をみているようで、胸の奥がキリキリしました。

 僕の父親もやっていたんですよ、ライオンズクラブ

 最初は「西武ライオンズのファンクラブなのか?」と思い込んでいました。

 なんで父親はあんな「これみよがしに、自分を大きくみせるような活動」をやっていたのだろう?


 ああ、でも、僕も今はなんとなくわかる。

 あれはあれで、父親なりの「さみしさ」への抵抗だったような気がするのです。

 僕がこうしてブログを書くのも「さみしさ」から、なのかもしれない。というか、たぶんそうだ。

 中森さんは、ウォルト・ディズニースティーブ・ジョブズの例をあげておられますが、たしかに「さみしさ」は、人に何かをさせようとします。

 それは、「偉業」になったり、「迷惑行為」になったり、「あの人はなんであんなことをやるのかわからない、とるに足りないこと」になったりするのだけれど。

 

 アイドル評論家、ベストセラー作家というような「陽」の部分しか知らなかった中森さんの「陰」の部分を知ると、「だからこそ、アイドルに惹かれていったのかな」などと考えてしまいます。

 中森さん自身が対話してきたアイドルの話も紹介されていて、読んでいると、「そんな一面があったのか」と、せつない気分にもなるんですよね。

 強烈な陽射しは、濃い影をともなう。


 酒井法子さんについて、サンミュージックの相澤秀禎会長・正久社長に取材したときの話は、この新書のなかでも、とくに印象的でした。

 複雑な家庭に育った者が芸能人になる――酒井法子こそその代表と言っていいでしょう。

 デビュー当時、私が接した笑顔の少女にふいに射した暗い影。その由縁が彼女の生い立ちを知って、ようやくわかったような気がしました。

「中森さん、実は法子のことで一つ不思議なことがあるんですよ」

 相澤秀禎会長が身を乗り出します。

「あの子は幼い頃に母親に捨てられ、里子に出された。二人の継母を転々とした。父親はヤクザだったという。相当につらかったと思うんです。でも、そのつらさをまったく出さない。自分を捨てた母親も、父親のことも、絶対に悪く言わないんです」

 正久社長がそれを受けます。

「あの子は人の悪口を言わない……いや、言えないんですよ」

――一度もですか?

「ええ、法子が誰かの悪口を言うのを聞いたことがない」

 初めて耳にする話でした。

「僕は、法子が中学・高校の時に彼女の家庭教師までやったぐらいですから、あの子のことはよくわかっているつもりです」

 正久氏は続けます。

「彼女は自分が生きていくためには、まず”いい子”に見られなければならない、と非常に深く思っているんですよ。常に目の前の相手を気にして、その人に気に入られるように全力でがんばるというか」

――つまり、それは”いい子”を演じるわけですか?

「いや、演じるんじゃない。その……本能的にというか」

 本能的? 私は耳を疑いました。すると、それはなんと悲しい……いや、さみしい”本能”なんでしょう。

 周囲や目の前の相手に気に入られなければ、生きてはいけない――そんな幼い日の彼女の苛酷な環境が目に浮かびます。


 酒井法子さんは、「ファンやスタッフの受けも、すごくよかった」そうです。

 僕は、「アイドルなんて、表ではあんなふうにニコニコしているけれど、楽屋ではタバコをふかし、マネージャーにジュースとか買いにいかせ、気持ち悪いファンを罵倒しているんだろうなあ」と思い込んでいました。

 それはそれで「偏見」ではあるんですけどね。

 酒井法子さんに関しては、アイドル時代、「なんだかつくりものっぽい感じ」を持っていました。

 でも、この話を読むと、そんなふうに”いい子”を続けてきたというのは、それはそれで大変だったのだろうな、と。

 本人にとっては、それが「自然なこと」になっていたのかもしれませんが。

 そんなふうに”いい子”をずっと演じてきたはずなのに、あんな事件を起こしてしまったのはなぜなのか?

 相澤会長・社長との会話のなかから、中森さんは、ある考察をしています。

 それは、僕にも納得できるものではあったけれど、もし、本当にそうだとするならば、酒井法子さん自身にとっての「人生」とは、いったい、何なのだろうか?

(その内容について興味がある方は、この新書を手にとってみてください)


 また、1991年、松任谷由実さんの全盛期に行ったインタビューでの、こんなやりとりも紹介されています。

「私の歌が売れなくなるとしたら、まあたとえば株価が暴落する時、日本経済がダメになる頃かもしれないわね」

 冗談っぽくそう言うと、ユーミンは笑いました。時あたかも、それは爛熟したバブル経済が今にもはじけようとするその頃でしたが……。

「スターの条件って何だと思いますか?」

 私が問うと、ふいにユーミンの笑いが止んだ。どこか遠くを見るような表情です。

「そうね……孤独だってことかした。ほら、人気ってのは人の気なのよ。孤独がきっとそれを引きつけるのよね」

 そう口にした時、実にさみしそうでした。そう、彼女自身が。

 ああ、この人は孤独なんだ。だから、スターだ。だからこそ、人気者なんだな。はっきりとわかりました。

 しかし、私はそのくだりをインタビュー原稿から削除しました。なぜでしょう?

 自信満々の女王の内にある孤独な少女――その姿を見たようで、これではユーミン神話を傷つけてしまう、そう思ったのかもしれません。


 40年以上生きてきて、僕はこんなことを考えるようになりました。

「みんなに同じように優しくしようとすると、結局、誰に対しても優しくしていることにはならない」

 万人を愛そう、愛されようと思えば思うほど、人は「孤独」になっていくのかもしれません。

 マイケル・ジャクソンさんや高倉健さんの伝記を読むと、「スター」であること、あろうとすることのせつなさを感じずにはいられないのです。

 星って、みんなに見えるけれど、誰も手の届かないところにあるものだから。


「さみしさ」は、悪いものじゃない、はず。

 さみしいから、人間なのかもしれない。

 できれば、その「寂しさの力」を、他人の迷惑にならないように、使いたいものです。

 そんなに簡単に、できることじゃないのだろうけど。

2015-03-24 映画『イミテーション・ゲーム』感想

[]イミテーション・ゲーム ☆☆☆☆☆ イミテーション・ゲーム ☆☆☆☆☆を含むブックマーク イミテーション・ゲーム ☆☆☆☆☆のブックマークコメント


f:id:fujipon:20150324004426j:image

第2次世界大戦下の1939年イギリス、若き天才数学者アラン・チューリングベネディクト・カンバーバッチ)はドイツ軍の暗号エニグマを解読するチームの一員となる。高慢で不器用な彼は暗号解読をゲーム感覚で捉え、仲間から孤立して作業に没頭していたが、やがて理解者が現れその目的は人命を救うことに変化していく。いつしか一丸となったチームは、思わぬきっかけでエニグマを解き明かすが……。

参考リンク(1):映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』公式サイト


2015年7作目。

月曜日のレイトショーを観賞。

観客は僕も含めて5人でした。

僕が平日でも行ける範囲の映画館は3館あるのですが、そのうち1館のみでの上映。


 僕はもともと「歴史もの」が好きで、しかも「ちょっと異常な天才の話」になぜか惹きつけられてしまうので、まさに「ストライクゾーンど真ん中」という作品でした。

 これは、本当に面白かった。


 2時間足らずの上映時間なのですが、途中で「あと残り何分くらいかな……」って、一度も思いませんでしたし。


 映画の冒頭で、ケンブリッジ大学の数学教授であるアラン・チューリングは、いきなり取り調べを受けることになります。

 彼は、いったい何をやったのか?

 多少なりとも予習をして映画館にやってきた観客としては、「陰の英雄」であるはずのこの人物が、なんでこんな目に遭っているのか?これは国家的な陰謀なのか?などとあれこれ想像してしまうのですが……


 この映画は、チューリングの学生時代、『エニグマ』と対決することになる第二次世界大戦中、そして、戦争が終わったあとの1951年の3つの時間を行ったり来たりしながら進んでいきます。

 メインは、彼が中心となって、「史上最強の暗号」とされたドイツの『エニグマ』を解読していく話なのですが、率直に言うと、「その思いつきをどう活かすと、エニグマが短時間で解析できるのか?」という肝心のところが、僕にはいまひとつ理解できなかったんですよね。

 いやまあ、素人にそう簡単にわかるようなものじゃないからと、そのへんは無理に説明しようとしなかった節もあるのですけど、そこだけがちょっと気になったかな。


 このアラン・チューリングという人、冒頭から「非コミュ」というか「空気読めない感」全開なんですよ。

 「あなたは天才なのか?」という問いに対して、ニュートンやアインシュタインが歴史的な発見をした年齢を例にあげて、「まあ、僕も所詮彼らと同程度、といったところですよ」と、悪びれることなく言ってのけます。

 頭はいいかもしれないけど、それはさすがに大風呂敷すぎるんじゃない? 

 何様なんだよ!と言いたくなりますよね相手も。

 観客は、のちに彼が偉大な業績を残したことを知っていますが、当時彼に接していた人たちは、「この男をどう扱ったら良いのか?」と困惑していたに違いありません。


 チューリングは、「他人の感情を理解できないタイプの人間」でした。

 悪意からではなく、本当に「そういう機能がプリインストールされていない人間」だったのです。

 彼はこの「暗号解読」という、極めて特殊で「コンピュータ的な才能を要する仕事」を与えられることによって、自分と同じような「常識の枠におさまることができない天才たち」と出会い、少しずつ「他人と協力して仕事をすることの意味」を見出していくのです。


 彼らは『エニグマ』を解読することに成功するのだけれど、そこで、また新たな問題が生まれます。

 これだけ苦労して『エニグマ』を解読したことを、どうやって最大限に活かすべきか?

 そこにまた「普通の人間であるならば、頭では理解できても、実行することを躊躇わずにはいられないような考え」が出てくるのです。

 僕は正直、チューリングの選択が「正しい」とは思えない。

 でも、いま、こうして生きている自分に「間違っている」と言う資格はないような気がする。

 そのような決断ができるのは「英雄」か「機械」しかいない。

 チューリングは「コンピュータのような、合理的な決断」を、あえて下しました。

 それは「ドイツの敗戦を2年早め、結果的に1400万人の命を救った」と評価されているそうです。

 とはいえ、その「推測」が、チューリング自身の魂を救ったかどうかは、わかりません。

 結果的には、「戦争」という非常事態が、彼の才能を最も輝かせてしまった、とも言えるのでしょう。

 戦時中でなければ、「変人の天才数学者」として、一生を終えたかもしれないチューリング

 彼が暗号解読のために作った機械の末裔が、いま、僕がこうやって、この文章を打ち込んでいるものなのです。

 ちなみに、この映画に出てくる暗号解読機「クリストファー」は、当時実際にチューリングが作ったものを忠実に再現しているのだとか。

 そういうディテールへのこだわりも、この映画を美しいものにしているような気がします。

「時に、誰も想像もしない人物が、誰も想像できない偉業を成し遂げる」


 この映画の脚本を書いたグレアム・ムーアさんのアカデミー賞・脚色賞受賞スピーチが話題になりました。


参考リンク(2)アカデミー賞で最も感動的だったスピーチ「人と違ったままであれ」(ハフィントンポスト)

「16歳の時、私は自殺を図りました。しかし、そんな私が今ここに立っています。私はこの場を、自分の居場所がないと感じている子供たちのために捧げたい。あなたには居場所があります。どうかそのまま、変わったままで、他の人と違うままでいてください。そしていつかあなたがこの場所に立った時に、同じメッセージを伝えてあげてください」


天才には、天才にしかできない仕事がある。

僕はこういう作品を観るたびに、「天才として生きるっていうのは、ラクじゃないよなあ」と思いますし、「天才だからって、幸福とは限らないというか、むしろ、不幸な場合も多いよね」と自分に言い聞かせます。

僕は、天才じゃなくて、よかった。


でもね、この映画を観ながら、考えたんですよ。

他人の、とくに天才の人生を幸福とか不幸とか勝手に外野が決めるのって、ものすごくバカげたことなのかもしれないな、って。

天才っていうのは、自分の幸福のために何かをやる、という人じゃなくて、時代の使命みたいなものを、やむにやまれぬ事情や衝動みたいなもので果たそうとする人たちで、それは、個人的な幸福とか不幸とかの次元を越えてしまっているものなのかもしれないな、って。


アラン・チューリングを演じたベネディクト・カンバーバッチさんは、素晴らしいのひと言です。

繊細で静かな「ズレ」とか「狂気」みたいなものに、これほどの説得力を持たせられる人は、存在しないのではなかろうか。


地味な映画ではあるんですよ。派手なアクションもなければ、濃厚なラブロマンスもない。

狭い部屋で、やたらと図体の大きな機械をいじって、「ダメだ〜」と言い続けるシーンばかり。

それでも、僕はこの作品が、大好きです。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20150324

2015-03-23 【読書感想】8割の人は自分の声が嫌い

[]【読書感想】8割の人は自分の声が嫌い ☆☆☆☆ 【読書感想】8割の人は自分の声が嫌い ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】8割の人は自分の声が嫌い ☆☆☆☆のブックマークコメント



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)

声を出さない、誰の声も聴かないなどという日は、ほとんどないのではないでしょうか。声は自分を取り巻く生活にあたりまえにあるもの。まるで空気のようです。空気はなくならなければ、その重要性に気がつきません。声もとても大切なものなのに、意外と意識されている人は少ないのではないでしょうか。でも、自分の声を知ることは、自分という“存在の意味”を知ること。「病気」「悩み」「嘘」…声を知り、その力を手にしたとき、本当の意味で自分自身を大切にし、自分の人生を生きることができるでしょう。本書は声をあなたの生涯の友、本当の味方にしていくためのガイドです。


 自分の声って、好きですか?

 僕は即座に「嫌いです」と答えます。

 留守番電話が一般化しはじめた頃、「○○はただいま留守にしております。御用の方は、ピーッという発信音のあとに、メッセージを入れてください」というアナウンスを、自分の声で、しかも、ちょっとクスッとしてしまうような捻りを入れて吹き込むのが流行ったことがありました。

 僕もそれを、試してみたことがあったのです。

 しかしながら、電話機から流れてくる自分の声を聞くと、「こんな声じゃなかったはずなのに……」と落ち込み、すぐにあらかじめ設定されていたメッセージをそのまま使うことに決めました。

 自分の声って、案外、自分で聴く機会がない。

 そして、聴くたびに、落ち込んでしまう。


 いや、考えてみれば、ふだん自分で喋っている声は、自分で聴いているはずなんですよ。

 ところが、録音したものを聴いてみると、全然違う(ような気がする)のです。

 それは、自分自身の「欲目」みたいなものなのだろうな、と思っていたのだけれど、著者は、その理由について、明確に説明してくれています。

 録音した自分の声を聴いたことがあるでしょう。まるで別人のようだと思ったのではないでしょうか。

 たいていの人は録音した自分の声を聴くと、「こんなにキンキンしていない」とか「こんなに鼻にかかった声じゃない」と嫌悪と露わにします。

 自分で聴いている自分の声は、骨などを伝わる「骨導音」ですが、録音したものは空気を伝わる「気導音」です。骨導音のほうが低い周波を響かせて伝えるので、録音した声のほうが薄っぺらく聞こえてしまうのです。


 この新書、「声」についてのさまざまな知識が詰まっているのですが、読んでいて思い知らされるのは、「声」はコミュニケーションのための大切な道具であり、トレーニングによって、「自分の魅力を引き出す声」に近づくことができるのに、それを意識している人は、あまりにも少ない、ということなんですよね。

 もちろん、僕自身も含めて。

 ただし、日本と比較すると、西欧の上流階級、あるいは政治や芸能の世界では「声」や「話し方」がかなり重視されているようです。

 「いい声」「魅力的な声」って、かなりの影響力があるのです。

 著者は、オウム真理教の教祖・麻原彰晃の声について、こんな話を紹介しています。

 あるとき、数名の元信者とオウム真理教を取材した人に「麻原氏の声はどんな声でしたか」と訊いてみました。全員の声は示し合わせたように同じでした。

「ものすごく良い声でした。あの声を聴いたら誰でも説得されてしまう」

 やはりと思いながら音源を探して聴いてみると、なるほど見事な声です。ときには明るくユーモアをたたえ、深くも強くも優しくもなる。幹部への命令には迷いのない迫力がある。一言で表現するなら「ただものではない」、そんな声でした。まさしく彼は、一世一代の宗教家か、あらゆる人間をたやすく虜にする詐欺師かのどちらかであったのでしょう。

 麻原死刑囚は洞窟で修行したわけではないでしょうが、その代わり目が不自由でした。目が見えない人の感覚はものすごく鋭敏で、特に音に対しては普通では信じがたいほどの感受性を持っています。麻原死刑囚は、声が人の脳に働きかける影響力を知り尽くしていたに違いありません。

 麻原死刑囚のマントラを聴いたことがあるという人が、こんなふうに言っていました。

「鳥肌が立った。何を言っているのか内容などわからないのに、心身を揺さぶられるようだった」

 これが声の力でなくて、なんと言えばいいのでしょうか。


 すべてが「声」のおかげなのか?と言われると、さすがにそれだけではないだろう、とは思うのですが、「いい声」が他者に与える印象って、ものすごく大きいのは間違いないでしょう。

 僕が「良い声」と聞いてすぐに思い出すのは福山雅治さんなんですけど、あのルックスにあの声は反則だろ、と。

 あの声だけでも自分にあればなあ……なんて夢想してみたりもするんですけどね。


 この新書、「声の威力」を紹介するだけではなくて、「自分の声が嫌いな人のための、対処法、トレーニング法」も紹介されています。

 そんなに難しい話じゃないんです。

 声を明るくするのに、もっとも簡単で効果的なのは眉を上げることです。「あ―――」と声を長く伸ばして、眉を上げてみてください。かすかに音程が上がり音色も明るくなるのが実感できるでしょう。同じように「あ―――」と出しながら、今度は眉をしかめてみてください。半音近く音程が下がり音色も暗くなるはずです。目を閉じても暗くなります。だから瞬きが多いと音声は不安定になるのです。

 スピーチの名手は声を出している間、瞬きのタイミングを考えています。瞬きによって音程が下がり、自信なさげだったリーダーシップを感じられない声になってしまうからです。名歌手も同じです。声を伸ばしているときはもちろん、歌詞の切れ目まで瞬きはなし。これは歌うときの基本中の基本なのですが、最近はたったこれだけのこともできない歌手が増えました。

 というわけで、明るい声を出すのは眉毛を少し上げて目をはっきりと開くだけでいいのです。明るい声にしようと意識して、声を張って無事に明るくしようとするとかえってわざとらしくなり「イタイ感じ」になります。しかも実際には明るくなるよりも硬質な声になってしまいます。


 著者は、声についての研究をずっと続けており、実際に、声のトレーニングによって、さまざまな悩みを抱えている人を助けた経験も持っています。

 この新書に書かれているのも「精神論」ではなくて、「練習することによって、誰にでもそれなりにできるようになる技術論」がほとんどです。

 

 

 「自分の本来の声」を取り戻すために、著者は、こんな方法を勧めています。

 まず、あなたが普段聴いている自分の声は本当の声ではありません。これは骨導音をともなった声なので、自分にだけ聞こえている声だと前に書きましたね。

 録音した声が今現在、あなたが出している声です。そこにはもともとの体格や体質、声帯の長さや厚さ、仕事や人によって使い分けてきた心持ち、呼吸、今の体調、そして精神のありか、つまり生き方すべてが表れています。これは現在のあなたの真実です。そこから目をそらしてはいけません。今の自分の声を知ることがオーセンティック・ヴォイスを見つける第一歩なのですから。そしてそれを見つけてくれるのも、その声を使えるようにしてくれるのも「聴覚」、つまりあなたの耳なのです。

 ほとんどの人は録音した自分の声を聴くといやだなあと思う。それはクレーン声だったり作り声だったり、変に装っている自分、媚びたりしている自分、コンプレックスや弱いところが出てしまっている自分だったりするから。それを自分の耳が聴き取ってしまうからいやだと思うのです。

 でもそのいやな声の中に、ときおり「いいな」と思う声があるはずです。嫌悪よりもむしろ「いいな」と思える声。それは作り声ではなく、妙にテンションが高くもないでしょう。そして嫌悪を感じる声よりも幾分低い声であることが多いでしょう。

 それがあなたの恒常性にかなった声、つまり本物の声です。

 その声を出したときのシチュエーションや、自分の状態を思い出してください。そしてその声を「耳に記憶させて」ください。何度も何度も聴くのですよ。聴かなくても頭の中でその声が簡単に思い出せるようになるまで、覚え込ませてください。次にその声を頭で再現しながら、つまり思い出しながら改めて録音してみてください。


 「どうしても自分の声のなかに『いい声』が見つからない場合」には、普通に話している声の少し低めを意識しながら、ゆっくりと喋って、いろいろな場面を録音してみる、という方法が紹介されています。

 

 要するに「まずは自分の声をちゃんと聴いて、自分に向き合うこと」そして、「いろいろ試してみて、その結果をみて自分に反映していくこと」で、専門のトレーナーに頼らなくても、「本物の声」を習得できる、ということなんですね。

 いやまあ、率直に言うと、「自分の声の録音を聴く」という時点で、僕にはかなり苦痛なのですが、そこをまず乗り越えないことには、先には進めない。

 まずは鏡をまっすぐ見よう、ということなんだよなあ。


 すべてが「声」で解決するわけではないと思うけれど、長い付き合いである自分の「声」、好きになれるのなら、そのほうが良いですよね。

 「自分の声が嫌いな8割」に属する僕にとって、たいへん興味深い本でした。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20150323