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2016-06-30 【本】広島カープ 最強のベストナイン

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Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)

名うてのカープウォッチャーが、OB・現役の中からベストナインを決定!投手は先発3人と中継ぎ・抑えを1人ずつ、そして監督も加え、計14人にインタビュー。彼らの熱き言葉をお届けする。広島ファンのみならず、野球好き必読の書!


 これは、カープファン的には、それも、長年のカープファンにはたまらない一冊です。

 僕は初優勝には間に合わず、『江夏の21球』はリアルタイムで観た記憶がある世代なので、この新書を読み始める前に、自分なりの「ベストナイン」を頭に思い浮かべていました(この新書では、著者は外国人選手を除いています)。

 だいたい、僕の予想という結果だったのですが、外野手の三人目が丸佳浩選手だったのだけ、ちょっと意外かな、という感じです。

(ただし、これは「なるべく現役選手を入れてほしい」という編集部の要望があったそうです。まあ、それも売る側の立場としてはわかります)


 あとは、ショートは高橋慶彦か野村謙二郎か……著者の二宮清純さんの答えは高橋慶彦だったのですが、通算成績では2000本安打も達成した野村選手のほうが上なんですよね。

 でも、あの「200発打線」をリアルタイムで観ていた世代であり、1番ショート・高橋慶彦、2番セカンド・木下、3番ライト・ライトル(なんか語呂が良いですよねこれ)、4番センター・山本浩二、5番ファースト・水谷、6番サード・衣笠、7番レフト・ギャレット、8番キャッチャー・水沼……と、何も参照せずに思い出せてしまう僕としては、「あのとき」のメンバーがたくさん選ばれているのは嬉しくもあり、当たり前だろ、という気分でもあり。

 それでも、セカンド・菊池というのは、正田や木下といった立派な候補がいるにもかかわらず、あの異次元守備を考えると、納得せずにはいられません。


 この新書、タイトルだけをみたら、「カープブーム」に乗って、オールドファンが妄想をたくましくしただけのもののように思われますが、さにあらず。

 さすが二宮清純さん、この「ベストナイン」のメンバー全員に直接インタビューをして、彼らの現役時代のカープについて訊ねているのです。

 ですので、ベストナインが誰か、というのは、あくまでも入口であって、彼らの「あのとき」そして「いま」を知ることができる、という、昔からのカープファンにはたまらない内容になっています。

 あのときは、そういうことだったのか……と長年のファンである僕も驚くような話もけっこう出てきます。

 そして、いろんな選手が、少しずつ、他の選手の話をしているのも面白い。

 あの前田智徳選手についての「伝説」を、一緒にプレーしていたり、コーチしていた人が語ってくれるなんて、なかなかありません。

 そういえば前田の引退試合の相手も中日だった。

 2013年10月3日、舞台は本拠地のマツダスタジアム。ゲーム前、前田は三塁側の中日ベンチに引退の挨拶に訪れた。

 中日ベンチには同じように今季限りでユニホームを脱ぐ山武司の姿があった。プロ24年生の前田と、プロ27年生の山崎。これだけ長く野球をやっていれば、さして親しくはなくても、一度や二度は言葉をかわしたことがあるのが普通だ。

 ところが、山崎によれば会話どころか、挨拶すらかわしたことがなかったというのである。

「前田、オマエと初めてしゃべったな」

「いやいや、恐れ多くて……」

「何を言うとるんや、オマエ!」

 山崎は社交的で親分肌、翻って前田は孤高を好む職人肌、交わる必然性がなかったのかもしれない。


 水谷実雄さんは、前田智徳選手の若手時代、コーチしていたときのことをこんなふうに回顧しています。

 前田はドラフト4位の入団、高校時代からバッティングには定評があった。加えて俊足、強肩、非の打ちどころがなかった。

「前田で感心したのは、練習をやめないところ。夜中の2時、3時くらいになると、前田の部屋から“ブン、ブン”とバットを振る音が聞こえてくる。一人で素振りをやっとった。一方の江藤の部屋からはまったく素振りの音が聞こえてこんかった(笑)。しいて言えば前田には、ボールをつかまえる瞬間、ちょっと重心が浮いてしまう欠点があった。頭が上がると、どうしても目線がブレてしまう。ここだけは注意しました。頭の上にゴムバンドを張り“これに頭をぶつけんように振れ”とね。

 まさか2000本も打つとは思わんかったけど、センスは際立ってしましたよ。ただアイツとは4年間一緒やったけど、しゃべるのを見たことがない。今はテレビなんかでようしゃべっとるけど、あれはどうなってるの(笑)」


 そうなんですよね、寡黙なサムライ、前田智徳さんもけっこうテレビでは、よくしゃべっているところを見かけるので、普段はしゃべり好きなのかな、と思っていたのですが、4年間一度も水谷さんの前ではしゃべらなかったのか……

 話半分としても、けっこうすごい。

 人って、相手がコーチでも、そんなにずっとしゃべらずにいられるものなのだろうか。


 また、「ミスター赤ヘル山本浩二選手と東尾修選手のこんな「対決」の場面も紹介されています。

 山本浩二選手の「印象に残っている1本のホームラン」の話。

 1989年の日本シリーズの初戦、西武に0−2で負けていたカープ

 1アウト1塁の場面で、バッターは山本浩二、ピッチャーは、ここまで完璧なピッチングをみせていた東尾修

 山本と東尾は年齢こそ4つ違いだが、同期入団、しかも、ともにドラフト1位。「浩二さん」「トンビ」と呼び合うなど、昔からウマが合った。

 打席に入る前、山本は強く自らに言い聞かせた。

「えげつないシュートは捨てないかん」

 風は向かい風。それを利用して、この日の東尾はアウトコースギリギリのスライダーをウイニングショットに使っていた。

「このスライダーを狙おう。逆風の日はライトポール際の打球がよう伸びる。アウトコースいっぱいのボールを、ど真ん中に設定しよう……」

 初球、甘いスライダーがど真ん中に入った。これを山本は平然と見逃した。バッテリーにシュートを狙っていると見せるための心理的な作戦だった。

 2球め、内角シュート。山本は腰を大げさに引いた。腰を引けば、外のボールはより遠くに見えるはず、とバッテリーは読む。これは外いっぱいにスライダーを投げさせるための、山本の一世一代の演技だった。

 3球め、狙いどおりのスライダーが外角へ。待ってましたとばかりに山本は踏み込み、全体重をバットの先端にのせた。打球は逆風を切り裂きながらライトポール近くの最前列へ。ひと振りで試合を振り出しに戻したのである。打たれた東尾はマウンド上でニヤッと笑った。奥義をきわめた達人同士にしからからない“無言の会話”だった。30年前を懐かしむように山本は話す。

 トンビとは仲がいいから、対談でよくこの話が出たよ。トンビが苦笑いしたのは“さすが浩二さん、やられたよ”という思いがあったからじゃないかな。あのボールはストライクいうても外角低めいっぱい、ぎりぎりのコース。ワシが言うのも何やけど、勇気、決断、集中力……。すべてを研ぎ澄ました末の究極の3球勝負だったと思う。印象に残っている1本を挙げろと言われれば、やはりあのホームランになるんやろうね」

 ピッチャーとバッターの勝負というのは、「甘い球が来たから打てる」というような単純なものばかりではなくて、こんな「駆け引き」があるんですね。

 まさに達人どうしのボールを通じての会話、だよなあ。

 これを読んでいて、初球の甘いど真ん中のスライダーを打てばいいのに……とも思ったのですが、そういうものじゃないのか。


 「赤ヘル」は、今となってはカープの象徴なのですが、最初のチームカラーは赤ではなかったそうです(僕の物心がついたときには「赤」でした)。

 衣笠祥雄選手は、カープが「赤」になったときのことを、こう振り返っています。

 1974年には、もうひとつ大きな出来事があった。インディアンスのコーチをしていたジョー・ルーツが打撃コーチに就任したのだ。翌75年、監督に就任したルーツは驚くべき改革を断行する。帽子の色を紺から赤に変えたのだ。

「赤は戦いの色、今季は闘争心を前面に出す」

 それがルーツの狙いだった。

 しかし、現場は冷ややかだった。もちろん衣笠も、である。

「正直言って照れ臭かった。ルーツから“帽子の色を赤にする”と言われたときは“うわぁ、えらいことになった”と頭を抱えましたよ。

 だって、赤の帽子なんて小学校の運動会以来、被ったことがない。ほら、だいたい、男の子って白、黒、紺と決まっているじゃない。案の定、シーズンが始まったら“ちんどん屋か!?”とからかわれましたよ(笑)」


 思い返してみると、子どものころって、赤は「女の子の色」のイメージがあったよなあ。

 今の時代からすると、チームカラーが赤になっただけで「ちんどん屋か?」とからかわれるなんて、ちょっと信じがたい話ではあるのですけど、当時のカープは優勝経験もない「弱小球団」で、だからこそ、「あんなに弱いのに、『赤』だってよ!」とバカにされてしまった面もあるのです。


 本当に、カープファン、そして、1970年代の野球ファンにとっては、たまらない一冊だと思います。


 今シーズンはセリーグの首位にいるカープ

 優勝を知らない選手たち、そしてファンたちが、「あの瞬間」を今年こそ味わうことができますように。

 というか、僕も優勝するってどんな感じなのか、すっかり忘れています。

 あの頃は、「優勝するのがあたりまえ」だったのにね。

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2016-06-29 【読書感想】無敵の仕事術 君の人生をドラマチックに変える!

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Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)

世界一のヒト型ロボットをグーグルに売った東大発ベンチャー・シャフト元CFOが究極の仕事術を熱く語る。Encounter、Empathize、Dive、Learn、Encourage、Celebrate。スタンフォード大学でも注目の「共感」を軸にした6つの仕組み。


 この本のタイトルを見て、パラパラとページをめくった時点では、「なんだか暑苦しそうな本だなあ、どうせ仕事中毒みたいな超人が書いた自己啓発書なんだろ?」と思っていたのです。

 とりあえず、「日本で初めてグーグルにベンチャー企業を売ったCFO」というのをみて、読んでみることにしたのですが。

 正直なところ、僕は著者みたいに情熱を持って仕事に取り組んではこなかったし、これからも難しいだろうな、とは思うのです。

 でも、この本に込められている熱量みたいなものは、きっとこれから働こうと思っている人や、人生の意味みたいなものを考えてしまう人に、何かを考えさせてくれるのではなかろうか。


 僕は以前、世界中のどのベンチャー企業よりも先進的なヒト型ロボットベンチャーをつくって、米国グーグル(Google)本社に売却した経験がある。日本人として初めてグーグル本社に自分のつくった会社を売ったことで、一躍話題になった。ところが当初、日本人は誰もこのベンチャーを、その経営者である僕を、相手にはしてくれなかった。しかし、このベンチャーは結果として、ロボット事業にすさまじい予算を使って乗り込んでいこうとするグーグルの中心に埋め込まれることになった(2015年8月、このロボット事業はグーグルの組織再編に伴って、グーグルの親会社となる「アルファベット(Alphabet)」の傘下に入ることがアナウンスされた)。自慢話めくが、日本人として、素晴らしい技術を支援し、正しいタイミングを捉えて世に送り出した結果だったと思う。

 

 この中で、東大を辞めてまで、ベンチャーでロボットをつくろうとしている人たちの熱意とそのロボットの性能にに著者が動かされる場面が出てきます。

 僕は彼をジッと見つめ、

「そんなね、酔狂でお金を出す人なんて、マーケットにはいませんよ。ビジネスは、そんなに甘い世界じゃないんだから」

 と彼をたしなめた。大学の先生が、ビジネスに手を出してヤケドをするパターンかもしれない。こっちは、これまで死ぬ思いでベンチャーを経営してきたんだ。ナメてんじゃない。中西さんは黙って僕の話を聞いている。会議室に、しばらく沈黙が訪れる。

 そこで事件が起こった。

 何を思ったのか、いきなり中西さんが激昂したのだ。

「僕は、適当に自分の仕事をやろうとしているわけじゃない! ロボットを作るためなら、お金も彼女もいらない! これに人生のすべてを捧げてもいいと思っているんです!」

 と、彼は叫んだ。あまりに急な出来事に、会議室にいた人間は全員呆然とした。

 僕は、ビジネスはそんなに甘い世界じゃないといったつもりなのだが、どうやら彼は、自分のロボットに対す熱い思いを否定されたと感じたようだった。

 僕はこの出来事に心底びっくりしたのと同時に、中西さんは真面目な男だな、と思った。世の中、みんなリスクヘッジをしてうまいこと生きている奴らばかったりだ。ところが、彼の頭の中には、ただただロボットを作りたいという思いしかないらしい。それ以外の世の快楽をすべて捨ててもなお、彼はロボットだけを作っていたいのだ。


 中西さんは、ある意味「コミュ障」なのかもしれません。

 でも、これだけの熱意を持って、東大の先生という地位をなげうってでも「ロボットをつくりたい。そのためなら他人が思うような『成功』や『楽しいこと』は全部捨ててもいい」という人がいるのだな、と僕も圧倒されました。

 ところが、著者がバックアップしても、素晴らしい性能のはずの中西さんたちのロボットに投資をしてくれる人たちは、なかなか見つからなかったのです。

 すぐに結果を出して、お金を稼げるようなものではないだろう、という判断で。


 困った著者は、それならば、日本の将来の産業を支える技術として、国からの援助を得られないかと試みたのですが、それも不調に終わりました。


 Googleに買収されてみると、「なんで日本の投資家や国は、こんなすぐれた可能性に気づかなかったのだろう?」と疑問なのですが、「目先の利益を生まないものに対して、大胆になれない」というのは、いまの「目先の成果主義」の大きな弊害ではないかと思います。

 それにしても、Googleの先見の明と思いきりの良さ、アメリカという国のベンチャーへの理解の深さには圧倒されるばかりです。

 「日本のため」にはならないかもしれないけれど、中西さんたちや彼らがつくるロボットにとっては、Googleで開発ができるというのは、大きなアドバンテージになることでしょう。

 

 著者は、このGoogleへの買収劇とともに、銀行で働いていたとき、独立を決意した経緯や、倒産しそうな会社を若きリーダーとして建て直したときのエピソードを臨場感満点で語ってくれます。

 池井戸潤さんの小説みたい!

 本当に「アツい」人なんですよ、仕事にも人間関係にも。

 それでも、すべてがうまくいくわけじゃなくて、信じていた人に裏切られたり、リストラを余儀無くされたりもしています。

 そんな痛みを抱えながらも、著者は、戦い続けている。


 この新書のなかで、僕にとっていちばん印象的だったのは、この文章でした。

 僕は、何が日本人に足りないのだろうか? という問いを立てて、リアルな経営の現場を渡り歩いてきたが、その過程で、ある重要な事実に気がついた。

 優秀だが、成果が残せない人たちに共通していること、それは彼らのひとり一人に、圧倒的に「当事者意識」が欠落しているということなのだ。仕事をやっていても、彼らはどこか他人事。つまりは「傍観者」なのだ。「当事者意識」が希薄なために、目の前の仕事に強烈な執着心を持つことができない。強烈な執着心が持てないために、もう少しで成功するかもしれないのに、自分からサッと諦めてしまい、結果として成果につながらない。これでは大きな仕事などできるわけがないのだ。

 なぜ日本人の多くがこうして「当事者意識」を持てないのか? という問いを考え続けるうち、もしかすると、当時者であり続けるための理由がないからかもしれないという考えに至った。

 そして、小さくてもいいから、若いうちに当事者になって物事を切り拓いた経験がないことから、いつまでたっても自分で何かを決める感覚が得られないのではないかと、考えるようになっていった。


 これ、僕自身に痛いほど当てはまる話だよなあ、って。

 これは「自分の仕事」なんだけれど、専門からちょっと外れたり、きつい当直とかをやっていると「なんで自分がこれをやらなければならないんだ?」とか、「偉い人たちは、現場のことは考えずに『俺たちも昔は寝ないで頑張っていた』とかばっかり言いやがって」というような感情ばかりがつもってくるんですよね。

 でも、目の前にあるのは「自分の仕事」であり、誰が代わりにやってくれるものでもなかったのです。

 にもかかわらず、「自分じゃなくても良い仕事なのだから、それなりにこなしておけば良いだろう」というくらいの情熱しか持てなかった。

 結局、その「当事者意識の欠落」が、僕を残念な人間にしてしまったのではなかろうか。

 そこで、「社畜になるべきだった」かどうかはわかりません。

 ただ、「経営者になったつもりで働く」ことができれば、僕も経営者になれていかかもしれません。

 向き不向きは、別として。

 そういう「当事者意識を持てるか」というのも、それまでの人生の積み重ねとか才能なのかもしれませんが、これから仕事をやっていく人は、知っておいて損はないと思います。


 著者は、大学時代の柔道部の後輩の就職活動が難航していた際、相談を受けて、こんなアドバイスをしたそうです。

「杉山(後輩の名前)、お前に足りないのは自信だけだ。今晩から寝る前に『俺って天才だああああぁ〜』と百回唱えて眠ろう。百回唱え終わったら、毎日俺にメールしろ」

 といって、毎日夜中にメールさせた。そして僕はそれに、

「そうだ! 間違いなくお前は天才だ!」

 と返した。

 結果として何が起こったか? 僕が杉山に会って一週間後の面接から、彼は一度も面接に落ちなくなった。あっという間に希望の会社の内定を取ってきてしまったのだ。

 若者は、何も持っていない。成功体験なんて、あるはずがない。何しろまだビジネスマンとしてのキャリアが始まったばかりなのだ。ならば、自分を後押しするのは、自己暗示しかないだろう。


 僕などは、こういう自己暗示みたいなのをバカにしたり、「成功した経験もないくせに、偉そうに理想ばかり語りやがって」と反感を抱いたりしがちなんですよね。

 あたりまえなんだよな、若者に「成功体験はない」「実績がない」ことなんて。

 だから、「自己暗示で自分を後押しする」というのは、合理的な戦略なんだよなあ。

 もちろん、杉山さんは「あとは自信だけ」という、もともと優秀な人ではあったのでしょうけど。


 僕のような40過ぎのオッサンが読んでも、自分に足りなかったことについて気づかされますし、仕事に対する向き合い方を考えさせられる「アツい本」なんですよ。

 正直、著者のすさまじい勉強法や生き様を全部真似できるとは思えないけれど、取り入れられるところもあるはずです。

「キャリアポルノ」と言われそうな本ではありますが、実録エンターテインメントとしても、楽しめる新書です。

 ドラマ化待ったなし!

 

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2016-06-28 【読書感想】ジブリの仲間たち

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ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリの仲間たち (新潮新書)


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ジブリの仲間たち(新潮新書)

ジブリの仲間たち(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)

風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』etc…ジブリはなぜ常に予想を超えるヒットを生みだし続けることができたのか。そこには作品の力に加え、プロデューサーである著者と、仲間たちの力があった。「宣伝の本質は仲間を増やすこと」という思想の下、監督と激論を交わし、企業を巻き込み、駆けずりまわり、汗まみれになって体得してきた経験則とは―。秘話満載で綴る、三〇年間の格闘の記録。


 プロデューサー・鈴木敏夫は、どうやってジブリ作品を売ってきたのか?

 ジブリが誇る、宮崎駿高畑勲両監督は、あまり商売っけがない人です。

 ジブリの作品がここまで「国民的な人気」を博し、ジブリ映画を老若男女みんなが映画館でみるのが当たり前、という「風潮」をつくったのは、プロデューサーの鈴木さんの力が大きかったのです。

 僕が子どもの頃は、「アニメ映画は子どものためのもの」でした。

 映画『宇宙戦艦ヤマト』の大ヒットにより、一部の大人はアニメ映画に足を運ぶようになったのですが、「万人向けのもの」とは言い難かった。

 ところが、『となりのトトロ』以降のジブリ作品というのは、「アニメなんて子どもが観るもの」と言っていた大人たちに「でも、ジブリは別」だという扱いを受けてきました。

 あの宮勤事件で、アニメファンがバッシングされていたときでさえも、「ジブリ作品は別格だけどな」という感じだったんですよね。

 僕は、そういう「御都合主義」みたいなのは嫌いだったんですが。

 ジブリだって、アニメじゃないか、って。


 鈴木さんは、雑誌の編集者からジブリのプロデューサーに転身した人なので、映画界の常識に染まらない視点で、映画の宣伝というものをみてきたのです。

 実際に映画の興業に携わる人の考え方というのは、一般的なイメージとちょっと違っているみたいです。


おもひでぽろぽろ』について。

 結果、配給収入は目標の4倍以上の18億7000万円。その年の日本映画でナンバーワンのヒット作となりました。興業のプロたちの見立てを大幅に裏切ったわけです。逆に、もし思うような宣伝ができずに、興行成績が東宝の予想どおりになっていたら、ジブリはなくなっていたかもしれない。そう思うとぞっとしますね。

 興行関係者の間では、『もののけ姫』が登場するまでの間、『おもひでぽろぽろ』こそジブリ最大のヒット作だと言われ続けました。彼らにとっては、売り上げの額面よりも、期待値をどれだけ上回ったかのほうが重要なんです。その後、地方の劇場をまわるたびに、映画館主から「『おもひでぽろぽろ』はすごかった」とよく感謝されました。

 『おもひでぽろぽろ』に関しては、「これ、誰が観るんだ?」と思った記憶があるんですよね。

 興行関係者は、その作品のヒット予測に基づいて、上映館数や座席数を決めていくので、「ハリウッド発の予想された大ヒット」では、あまり心が動かないみたいです。

 この新書のなかでは、鈴木さんが、いかにして公開時にたくさんの劇場を抑えたか、そして、企業とのタイアップも含めて、作品を知ってもらうために工夫を続けてきたか、が繰り返し語られています。

 『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)で、JA共済とタイアップした際には、大型のパンフレットを800万部も刷る、という組織の規模の大きさに驚かされたそうです。

 

 『もののけ姫』(1997年)の項で、鈴木さんは、ある「法則」を見出します。

 そのとき僕が見出したのが、「宣伝費=配給収入」の法則でした。

 じつはそのころ、これまでの作品の収支の数字を見ていて、ふと思ったんです。かけた宣伝費に対して、興行成績が比例しているんじゃないか?

 そこで、新聞広告やテレビスポットなどの直接的な宣伝費に加え、タイアップやパブリシティ、イベントなど、間接的な宣伝の効果も一つひとつを金銭換算してみることにしました。すると、『紅の豚』なら配給収入と同じ28億円、『ぽんぽこ』なら26億円、『耳をすませば』は18億円ぐらいの額になることが分かったんです。

 つまり、60億円の配給収入をあげたいなら、60億円の宣伝をすればいい、そう説明すると、最初はみんなポカーンとしていました。そこで、具大的な項目をホワイトボードに書きだしました。


・配給宣伝費5億円(※最終的に10億円まで膨れあがった)

・製作宣伝費2億円

日本生命とのタイアップ8億〜10億円(最終的に12億円相当。ジブリ史上最大のタイアップ)

・『トトロ』『耳をすませば』のビデオ販売プロモーション

・新聞=読売新聞の特別協力、スポニチの半年連載

・テレビ=日本テレビ(スーパーテレビ特番)、ネット局、NHKスペシャル

・出版=講談社27誌連合1万人試写会、徳間書店

・音楽=徳間ジャパンコミュニケーションズによるレコード店フェア

・イベント=高島屋

・パブリシティ


 これらの宣伝手段のすべての効果を金銭換算して積み上げていく。


 宣伝費=配給収入だと、全然儲からないんじゃないか、と思ったのですが、スポンサーとのタイアップによる露出や日本テレビとの協力なども含めて「宣伝効果をお金に換算すると」という話なんですね。

 こういう仕組みを考えると、最近公開されているほとんどの邦画に地上波のキー局が絡んでいる理由もわかります。

 テレビで採りあげてもらうだけでも、お金に換算すれば、かなりの宣伝効果が期待できるのだから、協力関係を築いておいて損はありません。

 だからこそ、「自社でどんどん宣伝できる、テレビ局、テレビ番組発の映画」がたくさんつくられているのです。

 鈴木さんはこう仰っていますが、これはあくまでもジブリの場合であって、一般的な映画は「宣伝費をかければかけるほど客が入る」としても、お金をかけるほど、費用対効果は落ちていくはずです。

 「質」がともなっていなければ、こういう「わかりやすい結果」にはならないのでしょう。


 ジブリ最大のヒット作となった『千と千尋の神隠し』(2001年)について、鈴木さんは、こう振り返っておられます。

 1年に及ぶロングランの結果、最終的な観客数は2350万人、興行収入は304億円。『タイタニック』に破られていた日本記録を再び更新して、マスコミは盛んにそのことを書き立てました。

 ただ、僕はブームの渦中にあっても、どこか醒めた目で喧噪を眺めていました。ヒットしたことがうれしくないわけじゃない。でも、そこには功罪両方の側面があることを自覚していたからです。

 ひとつは、先述したテーマの問題です。これ以降、心の問題を扱う映画がますます増えていきました。そして、いまや心の問題が大衆化され、エンターテインメントとしてそれを楽しむ時代になってしまった。それはあまり健全なことだとは思えないんです。

 もうひとつは映画興行界への影響です。『千と千尋』がスクリーンを独占してしまったことで、普通ならヒットが見込めたはずの他の映画が軒並み割りを食ってしまったのです。

「『千と千尋』のような事態は二度と起こしてはならない」

 興行界ではそんな話が出ているという噂が伝わってきました。もっと各社で協調して、いろんな映画に機会を与えるべきだというのです。

 日本の映画市場に訪れた本当の「自由競争」は一瞬で終わることになりました。それは、その後の『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』の興行にも影響を及ぼすことになります。


 『千と千尋の神隠し』は、あまりにもヒットしすぎてしまったゆえの問題も生じてしまった作品なのです。

 現時点では、ジブリ作品のなかで、『千と千尋』が最大のヒット作なのですが、その後のジブリ作品の興行収入の低下には、こういう「業界全体の考え方の変化」も影響しているのでしょう。

 

 この新書のなかでは、最近新作映画の動きがないスタジオジブリの現在についても触れられています。

 新作の長篇映画をつくっているわけではありませんが、宮崎駿監督の創作意欲は、まだまだ尽きてはいないようですし、海外の作家とジブリのコラボレーションによる新作『レッドタートル ある島の物語』も2016年9月に日本で公開が予定されています。


 東宝の宣伝プロデューサー・市川南さんは、鈴木敏夫さんについて、こんなふうに語っています。

 鈴木さんが人を怒る話は有名で、いろんな人が大声で怒られているのを見て、「大変だなあ……」と思っていたんです。もちろん僕も担当になってすぐ怒られました。ただ、電話越しだったのが不幸中の幸いでした。受話器を耳から離しても鼓膜に響くぐらい、すさまじいボリュームでしたけどね。

 僕としては、他の人たちが鈴木さんにこっぴどく怒られながら、そのあとも仕事を続けているのが不思議だったんですけど、自分が怒られてみて分かりました。鈴木さんに怒鳴られると、滝に打たれたように、ちょっと清々しい気持ちになるんです。

 

 ああ、こういう人って、いるよなあ。ごく稀にだけれど。

 この話を読んだだけで、僕はなんとなく、鈴木敏夫さんの魅力がわかったような気がしました。

 「性格的に合わなかった人」が、語られなかったところに少なからずいるのだとしても。

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2016-06-27 【読書感想】なぜ疑似科学が社会を動かすのか

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内容(「BOOK」データベースより)

企業における人事採用の際に、「性格診断」が使われることがある。しかし、非常に複雑な存在であるヒトの性格を、質問に答えてもらうだけで診断するのはかなり困難である。世間に流行している心理テストもほとんど疑似科学の疑いが強い。一方、巨大市場を形成しているサプリメントも注意が必要で、その効果をうたう主張のほとんどは疑似科学といえる。なぜこのようにあやしげな理論が蔓延しているのか?共同研究者とともに「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」を立ち上げた、疑似科学研究の第一人者が、進化生物学の視点から人間の心理の本質に迫る。


 新書のなかには、「怪しげなオリジナルの説を意気軒昂に語っているもの」も少なからずあります。

 その一方で、この新書のような「疑似科学に騙されないための基礎知識」を紹介しているものもあるのです。

 私は大学で疑似科学を題材に科学リテラシーを教えている。科学リテラシーとは、科学的な研究方法を理解し、科学とその成果に対して適切な態度をとれる技能のことである。文明社会では、市民がみな身につけていてほしい基本的な技能となっている。

 これを聞きつけて取材に来るメディア関係者の多くが、「どうして疑似科学のような根も葉もないことをみな信じるのでしょうかね」などと質問してくる。この質問には、「根も葉もないことはふつう誰も信じない」という前提があるのだが、この前提のほうが違っている。人間には、根も葉もなくとも信じたいことがよくあるのだ、たとえば、


「きみの肩にある星形のアザは勇気の印だ」


 などと言われれば、気分がいい。とくにそのアザに劣等感を抱いていた少年の場合には、なおさらである。


 著者は、こういう「物語」が人間におよぼす力は、必ずしも悪いものばかりではないし、「個人や社会にとって、意義があるのならば、信じておくのもよい」と仰っています。

 「こんなの信じるヤツはバカだ!」というスタンスではなくて、人間というのは、そういう物語に魅力を感じるものであることを受け入れているのです。

 だからこそ、大切なのは、それが「科学」と誤解されることを防ぐ、あるいは、「科学」のフリをして近づいてくる「偽科学」に騙されて自分の大事なものを失わないようにすることなのです。


 これを読んでいて驚いたのは、現代のテクノロジーによって、「超常現象」の多くが「科学的に」解析され、人為的に再現できるようになっている、ということでした。

 「幽体離脱」って、訊いたことがある人も多いはずです。

 臨死状態のときに、霊魂が身体から抜けだして、自分を天井から見下ろしていた、というもの。

 多くの人が同じような話をしているのだし、これは「科学」では説明がつかないのでは……と僕も思っていたんですよ。

 実際に、体脱体験をすれば、かなりショッキングな心霊体験をしたと思うだろう。しかしこれにも、金縛りと同様、科学的な理由が見出されている。

 まず「自分」という身体感覚は通常肉体の中に位置しているが、これはあたりまえのことではない。感覚系(情報の入力)と運動系(情報の出力)の拠点が肉体にあるので、「自分」も肉体にあると想定しがちなのだ。拠点が肉体から離れていけば、「自分」も離れたほうが便利になることもある。

 もう少しわかりやすく説明しよう。今では実験装置を使って簡単に体脱体験ができるので、これを例にあげたい。

 まず、目にゴーグル型のディスプレーを装着して、自分の肉体を見下ろす天井位置に設置したカメラから、自分の行動の様子を見続ける。これにより、情報入力の拠点を天井に移したことになる。すると、カメラの位置に「自分」がいるかのような感覚にしばらくするとなってくるのだ。触覚や聴覚をもカメラの位置に移動させる工夫をすれば、さらに体験効率が高められる。私自身も実験してみたが、ある種の体脱体験が誘発された。

 つまり、「自分」という身体感覚の拠点は、比較的自由に肉体外へと移動できるわけだ。こうした人工的な実験状態では、魂が抜けたとは主張できない。なぜなら、自分の位置感覚だけが体外に移動していて、当の肉体は普通に活動しているからだ。

 

 人間の感覚器である目をカメラと同じように考えれば、「視点を切り替えることによって、自分の居る場所が変わったように錯覚してしまう」というのは、わかるような気がします。

 どうやって、その「外部カメラ」に切り替えるのだろう、という疑問は、僕にはまだ解決しきれないのだけれども。

 テクノロジーの発達によって、人間と機械のあいだの違いは、どんどん薄れてきているように思われます。

 というか、人間というのは、たぶん、ものすごく精巧に作られた機械である、ということなのでしょうね。


 パワーストーンやオーラ、お守りなど、日常生活でもよく見かけるような「信頼の対象」についても、著者は実験や科学的な検証にもとづいて、「信じてしまう仕組み」を説明しています。

 そして、「なんとなく科学的に実証されているっぽいもの」のなかには、「疑似科学」だけではなく、「現時点では根拠が不確かなもの」なども含まれており、科学というのは、必ずしも「0か100か」で色分けできるものではないことも繰り返し語られています。

 脳に関する疑似科学も多い。脳の断層撮影によって、脳が栄養をたくさん消費しているところが写真に撮れるので、あたかも何でもわかるように市民は誤解してしまう。脳の断層撮像写真が掲載されているだけで、科学記事の信用性が増すことも調査で明らかになっている。じつは写真を見ても、脳の神経回路がどのように動作しているかまではわからないのだ。

「脳の断層写真が掲載されているだけで、なんとなく信じてしまう」という気持ち、わかるなあ。

 実際のところ、「栄養を消費している」という以上のことは、まだわかっていない、とのことなのです。

 ただ、これは「わからない」という段階であって、「栄養を使っているということは、なんらかの活動が行われている可能性が高い」という推測はできそうですが、現時点では、それ以上でも、それ以下でもありません。

 脳に対する研究はかなり進んできているのですが、それでもまだ、このレベルです。

 活発な神経回路とは、初心者によくある非効率なエネルギーの使い方をしている状態なのかもしれない。事実、断層撮影に写る脳の活動度合いが、熟練度に応じて低下することも知られている。ゲームに熟練していたがために、前頭葉は洗練された医師判断をしていて、エネルギーをあまり使っていなかった。だから、働いてないと誤解された可能性も高いのである。


 また、広告などでの「売るためのテクニック」についての解説もされています。

 ものは言いよう、というか、ちょっと考えてみればわかりそうなことでも、人は案外、信じてしまうもののようです。

 総じて、消費者は量に無頓着である。商品によって配合量が違うのだが、量に応じた価格比較もせずに購入している。「倍に濃縮」という新製品が3倍の値段で売られても、性能が良くなったと錯覚して購入する。旧製品を2倍飲めば、そのほうが安かったりもするのだが……。

 先日、「一錠にプラセンタ(胎盤)エキス9000ミリグラム配合」という広告を見て笑ってしまった。9000ミリグラムは9グラムであるが、一錠は明らかに1グラム未満である。重量の計算が合わない。胎盤9グラムを乾燥させたというのかもしれないが、それなら大部分はそもそも水であったのだから、エキスが9グラムというのはおかしいはずだ。

 似たような事例は枚挙にいとまがない。乾燥した熟成ニンニクが、「赤ワインの10倍のポリフェノール(100グラム当たり)」と宣伝されていた。しかし実際に調べてみると、10倍量の赤ワインのほうが明らかに安く買えるうえ、飲みやすかったりもするのだ(お酒に弱い人は、ブドウジュースでもOKだ)。

 ああ、こういうものって、いっぱいあるなあ!と頷きながら読んでしまいました。

 わざわざ高いお金を出してそれを買うなら、ワインを飲めばいいのに!

 でも、こういうのが「効きそうな感じがする」という気持ちも、わからなくはないんですよね。

 「気休めですから」なんて言われてしまうと、それはもう、そうですかとしか答えようがないし。

 実際のところは、みんなそんなに盲信しているわけではないけれど、信じたい、という思いが強い、というところなのかもしれません。

 食事制限や運動をするよりは、ダイエット薬を1日1錠飲んで同じ結果画得られればいいなあ、というのも、気持ちはわかる。

 そこにつけこまれてしまう、というのもまた事実なのだけれども。


 自分の「科学リテラシー」に自信がない人はもちろん、「自分が騙されるわけがない」と信じている人も、ぜひ読んでみていただきたい新書です。

 第一種疑似科学(占いや心霊主義など、精神世界に端を発したものが、物質世界とかかわり、科学的装いをまとったもの)に対応するには、宗教的なことと物質的なことを分けるとよいだろう。7章で触れた、進化論と宗教的教義の矛盾を例に考えてみる。アメリカの生物学者の多くはキリスト教徒なので、そうした人と気心が知れるようになったら、その矛盾にどう対応しているのかを、私は尋ねるようにしていた。すると総じて、日曜日はキリスト教徒だが平日は生物学者であるという趣旨の回答が返ってくるのだ。まさにこれこそが、疑似科学信奉に陥らないための知恵だと思える。

 宗教的なものを全否定するわけではなく、それはそれ、これはこれ、と状況に応じて切り替えていく。

 こういうのは、宗教と日常を切り離せない、世界の多くの国で編み出された知恵、なのでしょうね。

 アメリカの一部には、「進化論を教えない(聖書の教えに反しているので)」という地域もあって、そういう「切り替え」ができる人ばかりではないのが現実ではあるのだけれど。


 疑似科学批判、というだけではなくて、「なぜ人間は幽体離脱をしたり、オーラが見えたりするのか」という疑問に誠実に向き合ってくれる、好感度の高い新書でした。

 信じていないつもりでも、オカルトにも興味を持ってしまう人は少なくないはず(僕もそうです)。

 こういうスタンスだと、「信じている人」も、読みやすく、受け入れやすいんじゃないかな。

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2016-06-26 【読書感想】ストーナー

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ストーナー

ストーナー

内容紹介

これはただ、ひとりの男が大学に進んで教師になる物語にすぎない。しかし、これほど魅力にあふれた作品は誰も読んだことがないだろう。――トム・ハンクス


半世紀前に刊行された小説が、いま、世界中に静かな熱狂を巻き起こしている。

名翻訳家が命を賭して最期に訳した、“完璧に美しい小説"


美しい小説……文学を愛する者にとっては得がたい発見となるだろう。――イアン・マキューアン


純粋に悲しく、悲しいまでに純粋な小説。再評価に値する作品だ。――ジュリアン・バーンズ


ストーナー』は完璧な小説だ。巧みな語り口、美しい文体、心を深く揺さぶる物語。息を呑むほどの感動が読む人の胸に満ちてる。――「ニューヨーク・タイムズ


読んでいると、さざ波のようにひたひたと悲しみが寄せてくる。どのページの隅にもかすかに暗い影がちらつき、これからどうなるのだろう、ストーナーはどうするだろうと、期待と不安に駆られ、もどかしい思いでページを繰らずにはいられない。(…)しかしそんな彼にも幸福な時間は訪れる。しみじみとした喜びに浸り、情熱に身を焦がす時間が……。ぎこちなく、おずおずと手を伸ばし、ストーナーはそのひとときを至宝のように慈しむ。その一瞬一瞬がまぶしいばかりの輝きを放つ。なんと美しい小説だろう。そう思うのは、静かな共感が胸に満ちてくるからにちがいない。(「訳者あとがきに代えて」より)


 この小説が「面白くない」のは、たぶん、人生というものが、根本的に「面白くない」からではなかろうか。

 

 農家の一人息子として生まれ、新しくできた大学で、農学を学ぶはずだったウィリアム・ストーナー

 ところが彼は入学したミズーリ大学で、「文学」に魅せられてしまい(というか、取り憑かれてしまい、というべきかもしれません)、家業を捨てて、文学者・教育者として生きることになるのです。


 内向的で偏屈で、研究者としても高名になるまでには至らず、でも、それなりに学生の指導には情熱を傾け……

 彼自身は争いを好む人ではないのだけれど、世の中というのは、「妥協」とか「打算」に乏しい人間は、それだけで「異分子」として避けられることもあるのです。

 この本のなかで語られている、「象牙の塔」での、外部からみれば「なぜこんなことで?」と思うような大人同士の縄張り争いのようなものは、僕もいくつか見てきました。

 ウィリアムと妻との結婚までの情熱的なやりとり、娘との幸福な時間が描かれているのだけれど、結局のところ、彼らは、どちらが悪い、というわけでもないのに、いがみ合い、すれ違ってしまうのです。

 「ドラマチックな小説」であれば、何か劇的なきっかけがあったりするものなのだろうけれど、なんというか、「なぜ、こんなことになってしまったのだろう?」と登場人物に問いかけたくなるような、やるせない関係がそこにはあって、でも、きっと世の中の夫婦とか家族の関係には、そういうのがたくさんあるんですよね。

 

 この小説、読んでいると、胸に押し迫ってくるような「人生における、どうしようもなさ」を痛感させられるエピソード満載です。

 ただ、劇的なところはほとんど無いので、若い(20代くらいまで)の人には、「何このダラダラとつまらない人間のつまらない人生を描いた小説?」って思われるかもしれません。

 でも、今の僕にとっては、「ああ、『普通の人生』って、こんなものなんだな、なんだか煮詰まってしまっているのは、僕だけじゃなくて、50年前の人も、同じような生きづらさを感じていたんだな」という「救い」を感じさせてくれる小説だったのです。

 人生は、大概、あまり幸せじゃない。

 でも、そのごく一部に、珠玉の瞬間がもたらされることもある。


 巻末の「訳者あとがきに代えて」で、布施由紀子さんは、この翻訳が遺作となった名翻訳家・東江一紀さんの言葉を紹介しています。

「平凡な男の平凡な日常を淡々と綴った地味な小説なんです。そこがなんども言えずいいんですよ」とおっしゃったのは、わたしの恩師で、本書の訳者である故東江一紀先生だ。だからこそ訳したいと思いました、と。

 平凡な男の平凡な一生の一代記。

 でも、農学をやるつもりで薦められるまま大学に入り、文学に「転向して」しまって、准教授のまま同じ大学でキャリアを終えてしまったという人生は、たぶん、多くの人の「中央値」よりは、はるかにドラマチックなんですよね。

 にもかかわらず、やっぱりこれは「地味」な小説です。


 ふよほどのことがなければ、人間、文学的なほどドラマチックには生きられない。

 そして、こういう「地味な人生を知ること」で、ラクになる人も少なくないんじゃないかな。

 少なくとも、僕にとってはそうでした。

 

 しかし、これだけ思い切って、物語を「回収しない」小説を、よく書いたものだなあ、と思うし、それをちゃんと読んで、評価した人がいることに感心せずにはいられません。

 悪いヤツに天罰が下るわけでもないし、離れてしまった家族の心が、何かのきっかけで急に一つになるわけでもない。誰も改心なんてしない、する必要もない。


 とはいっても、爆発的に売れたのは、著者の死後、発表から40年以上経ってからで、最初は翻訳が出たフランスで火がつき、本国アメリカでは、なかなか人気が出なかったそうなのですが。


 ほんと、50年経っても、アメリカでも日本でも、「突き抜けられない、それでも、諦め切れない人間」って、同じなんだな。

 ああ、そういうのが、なんだかとても、愛おしい、ような気がするよ。