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2016-02-13 【読書感想】幻獣ムベンベを追え

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幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)

幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)


Kindle版もあります。

幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)

幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

太古の昔からコンゴ奥地の湖に棲息するという謎の怪獣・モケーレ・ムベンベ発見を賭け、赤道直下の密林に挑んだ早稲田大学探検部11人の勇猛果敢、荒唐無稽、前途多難なジャングル・サバイバル78日。子供の心を忘れないあなたに贈る、痛快ノンフィクション。


 なぜか今になって、Kindle版がランキング上位に入っていて、懐かしいなあ、と思いつつ再読しました。

 著者の高野秀行さんは、早稲田大学探検部出身のノンフィクション・冒険ライターで、近年は『謎の独立国家ソマリランド』も話題になりました。

 僕も高野さんが書いたものは大好きなのですが、にもかかわらず、ときどき、宮田珠己さんと「どっちの人が書いた本だったっけ……」と迷ってしまうんですよね。

 

 初めてコンゴの怪獣のことを知ったのは、その年(1986年)の春のことである。

駒澤大学探検部がアフリカに怪獣を探しに行った」という話を聞いたとき、私も高橋も思わず笑い声をあげた。世の中にはバカなことをする人がいるんだなと単純に感心した。感心して普通はそれで終わりだが、なぜかそのときに限ってもっと詳しく話しを聞きたいと思った。

 結局、高野さんたちも同じ「バカなこと」に真剣に取り組むことになるのです。

 このコンゴ・テレ湖に棲息するという「怪獣・ムベンベ」を探す旅は、早稲田大学探検部+現地の人々によって、1988年に行なわれました。

 そして、この本は、翌1989年に「早稲田大学探検部」名義で上梓されています。

(のちに、高野秀行さんの著書として文庫化)

 これを読んでいると、「まだ何者でもなかった」時代の高野さんの、現地の人と関係を築いていく能力とか、語学の才能は、大学時代から片鱗があったのだな、と「後世からの視点」でみてしまうところもあるんですよね。

 個性豊かな探検部員たちの描写には、椎名誠さんの影響がありそうで、でも、その個性をうまくネタとして書ききれていない「荒削りなところ」が、すごく瑞々しくも感じたのです。

 

 昼間は洗濯をしたり、荷物の整理をしたり、しゃべったりして、しごくのんびりと過ごす。しかし、バケツに水を汲み、泥と汗がこびりついた眼を両手でぐしゃぐしゃやりながら、ついつい湖のほうを見やってしまう。とにかく、いつ出るかわからないのだ。これから飽きるほど見張りをするんだから、と冷静に考えても、しばらくすると「いや、怪獣が四十日間にたった一度しか現れないとすれば、それはひょっとして今のこの瞬間かもしれない」などと思い、顔をあげてしまう。


 高野さんをはじめとする探検部員たちは、数々のハードルを乗り越えて、コンゴのテレ湖までやってきて、なんと夜勤者を決めての「24時間の監視」まで行なうのです。

 ところが、ムベンベはなかなか現れず。隊員たちはどんどん消耗していきます。


 そもそも、この探検そのものが、「怪獣探し」についての成果でいえば、うーむ、としか言いようがないもので、テレ湖の水深とか、現地の人々の証言とかを考えると、途中からは、「とにかくその場に居続けること」が目的になってしまっているようにもみえるのです。

 現地の人々との駆け引きに、食糧不足、そしてなんといっても、メンバーのひとり、田村さんの体調不良。

 いやしかしこれ、「探検」とはいえ、田村さん本当に危なかった。

 途中からは、具体的な「成果」に期待が持てなくなっていくこともあり、これ、「撤退案件」じゃないか、せめて田村さんだけでも治療ができるところに移したほうがいいよ……と、ムベンベよりも、田村さんの病状のほうが心配でした。

 「退院たちのその後」を読むと、このテレ湖での探検では「ほとんど病んでいただけ」の田村さんが、もっとも精力的に「探検」を続けていったというのは、ものすごく興味深くもあるのです。

 山で遭難したり、仲間を失ったりした人の話を読むたびに、「ああ、この人はもう、山に近づきたくもないだろうな」って思うのですが、多くの人は、そんな目に遭いながらも、また次の冒険に出かけてしまう。

 

 こういうのはまさに「紙一重」で、結局死んだ人が出なかったから、こうして本になるし、「青春」みたいな感じで語ることができるのでしょうけど。

 

 あと、これを読んでいて「すごいな……」と思うのは、探検隊の食生活です。

 現地の人が仕留めてきた動物、サル、ゴリラ、カワウソ、ワニなどを、ガンガン食べまくる早稲田大学探検隊。


 そうこうしているうち解体作業に入った、熊五郎が鮮やかにさばいていく。目の前のチンパンジーは思った以上にヒトによく似ているが、何よりも当の熊五郎とそっくりである。やはり”権三”の方が良かったのではないかと思ったが、その彼が例によって陽気に冗談を飛ばしながら、血しぶきを浴びて肉をぶった切っていく様子は、”同類相打つ”という感じで、滑稽なくらい凄惨だ。このとき私は、「ああ、人を殺して食うまであと一歩だな」と実感した。次の獲物がヒトであったら、抵抗なく食えるような気がした。

 同じコンゴ・ザイールでも、ゴリラやチンパンジーは、「人に似ているから」ということで食べない地域が多いらしい。確かにボアの連中も獲物がとれると、「ほら、人にそっくりだろう」と言うが、そのあとに、「これがうまいんだ」と、付け加えて舌なめずりする。全然気にしていない。私も彼らの影響を受けているのだろうか。

 途中からは、ムベンベ探しよりも、『黄金伝説』のサバイバル生活、みたいな感じです。

 でも、「面白い」のですよねこの本、なんというか、浮世を忘れさせてくれる「別世界感」がある。

 高野秀行さんのルーツでもあるこの作品、「冒険ノンフィクション好き」なら、「この古さが、かえって新鮮」に思えるんじゃないかな。


謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

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2016-02-12 【読書感想】戦争する国の道徳 安保・沖縄・福島

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内容紹介

国民を舐めきった政治家に、激怒せよ!

もはや日本に道徳はなく、損得しかないのか!?

今、つくりだすべき倫理とは?


日本は戦争する国になった。これは怒(いか)ることを忘れ、日米安保に甘えた国民の責任だ。安保法制化も、沖縄県民だけに押し付けてきた米軍基地の問題も、当事者以外の意見を封じる福島の原発問題も背景にあるのは、怒りや苦しみによる連帯ができず、すべて他人事(ひとごと)として受け流す日本人の感情の劣化だ。しかし、今度こそ怒らねば、そして怒りつづけねばならない。戦争する現実を直視しつつ、舐めた政治家たちに恐怖を与えねばならない。この危機に、かつて罵り合った小林よしのり氏と宮台真司氏、さらには東浩紀氏という日本を代表する論客三人が集(つど)い怒り合った。暴走する権力を阻止し、共闘することを誓った一冊。


感情を抑えるな! 絶望に囚われるな!

〇日本を変えるにはときには政治家へのテロしかない場合もある

〇国民国家間の戦争は本当にありえるのか

〇インターネットが持っていた連帯の可能性もいまは消えた

〇かつては日本が戦争を仕掛けたという事実を水に流していけない

〇「崩れた民主主義」の行きつく先

〇保守でも革新でもない、新しい日本像をつくる


 「これが道徳だ!」と声高に語りたがる人が増えるほど、その社会は不安定なのではないかと僕は感じます。

 その一方で、「あちらにはあちら側の事情がある」ということを想像しすぎる人というのは、周囲に配慮しすぎて、何もできなくなってしまうこともある。


 僕は『ゴーマニズム宣言』が、『SAPIO』に移ってしばらく経つくらいまでは、単行本で小林よしのりさんの言説を追いかけていました。

 ずっと「とにかく戦争反対、暴力反対、日本はアジア諸国に酷いことばかりをした」と思っていた自分の「常識」を疑うきっかけになったのは『ゴー宣』だと思います。

 ただ、最近はAKB48を熱く語る小林さんから、ちょっと離れてしまっているのも事実。

 僕もAKBが嫌なわけじゃないのですが。


東浩紀さらに小林さんは『新戦争論1』で、「もし日本が中国に占領された場合は」「わしが抵抗戦線の指揮をとってもいい! あるいは手本として、神風特攻の第1号になってもいい!」とまで書かれている(107〜108ページ)。こうした小林さんの主張には、日本の現状に対するきわめて強い危機感が表われていると思います。

 「危機感」はわからなくもないのだけれど、「自分が神風特攻の第1号になってもいい」なんていうのは、「小林さん、死に急いでいるだけなのでは……」と心配になってきます。

 というか、本人に「覚悟」はあるのかもしれないけれど、そんなふうに煽らなくても……

 だいたい、小林さんが「特攻第1号」になるわけなんてないにもかかわらず、こんなことを言うのは無責任です(飛行機の操縦もできないだろうし)。

 こういう「威勢のいい言葉」で人々を鼓舞しようとした人々が、太平洋戦争をはじめてしまったのではなかろうか。


 この新書、読む前から「そういう予感」はしていたのですが、鼎談の多くのページは、小林さんと宮台真司さんの「オレのほうが世の中に影響を与えてきた」というマウンティング合戦+ほめ殺し合戦です。

 以前は不仲というか、『ゴーマニズム宣言』のなかで、宮台さんを情けないキャラクターで描き、「印象操作」していた小林さんが、ここまで宮台さんと和解していたことに驚きました。

 このマウンティングおやじ2人に対して、進行役として自分を殺し、送りバントを続けていた東浩紀さんの株は、僕の中では上がりっ放しでした。


 ほんと「俺たちは偉い、よくやってきた!」という話が多くて辟易します。

 ただ、個々の話のなかには、興味深いところも少なからずあるのです。


小林よしのりさっきの「誇り」とかそういうものが大切だという宮台氏の意見に、わしも賛同する。保守の人間は、「誇り」というキーワードにものすごい弱い。たとえば道徳を教科化するというときも、「誇りが大切だから」とか言うわけです。でも、そもそもその「誇り」とは何なのか、という議論が必要なわけでしょう。


東:そのとおりですね。


小林:沖縄においてもそうですよ。自立心とは何なのか。依存心とは何のことか。日本人としての誇り、沖縄人としての誇りとはいったい何なのか。そのこと自体をいまから問題にしていかなければならないわけ。でも、そこを議論できるテーマや視点を誰も抽出できてない。


 これはたしかに、自省する必要があるよなあ、と。

 「日本人としての誇りを持て」と主張する人はたくさんいるけれど、じゃあ、その「日本人としての誇り」というのは、一体何なのか、言葉にして説明できる人が、どのくらいいるのだろうか?

 他者を責めるときの方便として、「誇り」を濫用しているだけではないのか。

 そもそも、「誇り」というのは、他者に押し付けるものではなく、自分のなかに存在していれば良いものではないのか。

 本当に「誇り」を持った人間が、ヘイトスピーチをするのだろうか。


 東さんは、小林さんと宮台さんが「精神主義」に陥っているのではないか、と指摘しています。

東:これまでの話を聞くと、どうもお二人ともかなり精神主義に傾いていらっしゃるように聞こえます。日本にはもう、これをこういうふうに改善すればよくなるという具体的な処方箋がない。そんなことよりも、いま必要なのは俺たちの心だ、という話になってきているように聞こえるんですね。でも、そうなってくると、それはそれで未来がない話のようにも思えてくる。


小林:それはちょっと違っていて、まず「誇り」という言葉の定義、「戦後レジーム」という言葉の定義が、安倍晋三は完全に間違っているわけ。

 それに、わしの考えは精神主義とも違う。宮台氏が在特会とか在日朝鮮人に対するヘイトスピーチのことを「劣化した感情の発露」だと書いているのを読んで、その言葉にものすごく感心した。「劣化した感情の発露」か、なるほどそのとおりだと。いまの時代は人々の感情が劣化して、あちこちで噴出している。でも「誇り」とか「豊かな情感」は必要だから、演説のときには感情の部分を強調するわけだ。言葉と感情は、やはり一体になっていかないと、どうにもならないんですよ。若者のカルチャーがあった時代は、感情がもっと豊かだったよね。


宮台:それは間違いない。問題は「反知性主義」じゃなく「感情の劣化」なんだよ。道徳心理学者ジョナサン・ハイトが強調するとおり、最先端の実験心理学では、感情が理性を方向づけるのであって逆ではないことが証明されている。感情が劣化しているから知性を尊重できないんだよ。だから処方箋も理性ならぬ感情の涵養(かんよう)にあるわけだ。


 感情の劣化か……

 感情というものに、優劣があるのか?

 現代人の感情は、本当に「劣って」いるのか?

 それこそ「いまの若者は……」とか、「○○はオワコン」みたいな、過去を生きている人の定型句のような感じがするのですけどね。

 

東:重要なのは政策だけではなくマインドセットだと。アベノミクスもその意味では本当に第二段階に入ってきた。金融緩和はした、規制緩和もした、あとは一人ひとりを経済戦士に洗脳し、再び鍛え上げれば、日本もまだまだ行けるはずだという精神論になっているのだと。

 しかしそれは無理だろうというのが、小林さん宮台さんの共通の見解ですよね。僕も同意しますが、しかしそこで単純に里山に帰れますかね。というのも、日本は、途中に敗戦という方向転換はあったけれども、明治以降、とりあえずずっと欧米に追いつけ追い越せで自分を駆動してきた国なわけです。つまり、「1位になる」「成長する」ということをとても重視していて、それがアイデンティティの一部になっている。若い人はそうでもないという意見もありますが、嫌韓の盛り上がりなど見ると、やはりまだまだ日本はすごいと思いたいんだと思いますよ。里山でこぢんまりとやっていても俺たちは幸せだ、なんて国にはなれないんじゃないか。そもそも、台風や地震だらけの日本では、里山の小さな集落の維持にこそお金がかかる。


 僕もこれは確かにそうだなあ、と感じます。

 なんのかんの言っても、「成長を求めず、こぢんまりとまとまっていくこと」を、受け入れられる人ばかりじゃないと思うんですよ。

 さんざん高度成長やバブルを享受してきた高齢者たちが、若者に「お前たちは成長しない時代に生まれたんだから、しょうがないね」と言っても、素直に頷くのは難しいはず。

 小林よしのりさんに「オレは中国に神風特攻するから、お前らもオレに続け」なんて言われても、「迷惑」以外の何物でもないのでは……


 僕としては、以前影響をかなり受けた小林よしのりさんや宮台真司さんが、ここまで行ってしまったのか、と思い知らされた新書でした。

 でも、僕の感情って、本当に「劣化」しているのかな……

 こんなに他者の情報を入手しやすい時代なのに、他者への想像力が欠けている言葉がネットには並んでしまうのは、なぜなのだろう?

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2016-02-11 【読書感想】美術館の舞台裏: 魅せる展覧会を作るには

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内容(「BOOK」データベースより)

一九九七年、スペインのさびれた地方都市ビルバオに世界的に有名な建築家フランク・ゲーリー設計のビルバオグッゲンハイム美術館が誕生しました。その集客は最初の3年間で400万人、収益約5億ユーロ!しかしこの美術館は存続の危機に陥った老舗名門美術館による起死回生の挑戦でした。美術品の保存と研究を旨とする美術館に、今、商業化とグローバル化の波が押し寄せています。新しく変わりつつある文化の殿堂で何が起きているのでしょうか?


 僕は美術館や博物館を訪れるのが大好きで、どうやって絵や展示物を世界各地から集めてくるのだろう?と興味があったんですよね。

 東京芸大の大学院を卒業後、研究員としてフランスなどで活躍し、2006年から、東京丸の内の三菱一号館美術館初代館長に就任している著者は「美術館はどうやって展覧会を開いているのか」をこの新書で紹介しています。


 太平洋戦争後の日本の美術館で行なわれた美術展には、新聞社の力が必要不可欠でした。

 戦後しばらくは、新聞社の駐在員・特派員は特権的に海外の情報に触れることができた数少ない職業だったのです。

 美術館と新聞社との連携による、日本独自の展覧会開催スタイルは、確かに結果としての数字も出していました。

 戦後の海外美術展来場者数ランキングを見ると、上位三展とも新聞社主催の展覧会です。


1位『ツタンカーメン展』(1965年)…約293万人 朝日新聞社主催

2位『ミロのヴィーナス』展(1964年)…約172万人 朝日新聞社主催

3位『バーンズ・コレクション』展(1994年)…約107万人 読売新聞社


 大学院を修了し、私が国立西洋美術館で研究員(学芸員)となったのが1980年です。今にして思えば、美術館業界全体にまだおおらかな雰囲気が漂っていた最後の時代だったのかもしれません。今ほど、数字で見える結果、採算を求められなかった時代とでもいうべきでしょうか。


 1位と2位は僕が生まれる前の美術展で、3位はものすごく話題になったのは知っていますが、行ってません。

 『ツタンカーメンの黄金のマスク』や『ミロのヴィーナス』、そしてあの『モナリザ』も来日したことがあるんですね。いずれも1970年代以前で、まだ「美術品を貸すことに対して寛容だった時代」だったそうです。

 今は、日本で大混雑の美術展に行くよりは、現地で直接見たほうが良いのでは、と思うくらい世界が狭くなったのも事実ではあります。

 著者によると、ヨーロッパの美術館どうしては、お互いの収蔵作品を無償で貸し借りすることが通例なのですが、日本は海外の美術館で喜ばれるような収蔵品が少ないため、「お金」で作品を借りることになりました。

 そのことが、世界の「習慣」を変えて、美術館のなかには、その「レンタル料」をアテにしたり、海外に「分館」をつくったりするところも増えてきたのです。

 とはいえ、基本的に美術展というのは「収支がトントンなら万々歳」というくらい「儲からない」そうです。

 正直申し上げると、展覧会の収支は赤字になることがほとんどです。新聞社やメディアとの共催展示会で、メディア側がものすごく集客に力を入れ動員数につながった場合、あるいは、超有名作品が鳴り物入りで来日した場合など、十本に一本レベルくらいの割合で黒字になるケースもあるますが、原則、展覧会の収支目標としては、大きく黒字をめざせるわけではない。赤字を出さず収支トントンであれば、充分、許容範囲なのです。その収支目標を狙うにしても、ある程度の集客を確保しなければなりあせん。展覧会づくりは、こうしたシビアな現状のなかで行なわれているのが現実です。

 予算についても同様です。決して好環境というわけではありません。小規模の市立や区立美術館などでは一展覧会につき1000万円どころか100万円単位の予算で運営している場合も多いと聞きます。新聞社などのメディアが共催する大規模海外展レベルで数億円という予算でしょう。ただ、それだけの予算をかける場合には、少なくとも数十万人という動員客数が見込めなければ、結局、収支は赤字になってしまいます。

 コスト面についても触れておきましょう。例えばフランスからルノワールの絵画を一点輸送する場合。保険費も含めた輸送費はおおよそどれくらいかかるのでしょう。まず、堅牢なクレート(特注のケース)の内側に厳重な内装材を入れたダブル仕様のクレート作成だけで数十万円。そこに輸送費をプラスして、さらに保険料を加算すると、約100万円単位の経費が必要となります。あくまで作品一点についての輸送費です。さらに作品をエスコートしてくる貸し出し側の美術館のクーリエ(随搬者)の経費もこちらに付随します。ですから、作品を何十点も輸送しなければならない大規模海外展の場合は、輸送費・保険費だけで数千万円あるいはそれ以上のコストを捻出しなければなりません。

 それに加え、会場設営費、人件費、カタログなど展示会関連書籍・チラシやパンフレットなどの制作費……と、必要経費はどんどんかさんでいきます。それでも、この輸送費関連のコストが占める割合は非常に大きいといわざるを得ない。


 大規模海外展で数億円って、そんなにお金をかけているわけではないのだな、と感じました。

 美術館の「特別展」の入場料って、1000円から2000円くらいですし、収容できる人数もそんなに多くはないので(あまりに混雑している美術展というのも、観客にとってはつらいものです)、そんなに儲かるようなものじゃないみたいです。


 最近の美術館の館長には、美術品に詳しいというだけではなく、経営センスや社交力も求められるようになっています。 

 実はアメリカの館長にとって、女性に好感をもたれる魅力があるかどうかは大袈裟ではなく死活問題につながります。女性のなかでも、富裕層の未亡人の心を〓むことが必須です。アメリカの美術館は寄付と合わせ、所属コレクションの多くを富裕層のコレクターからの寄贈に頼って発展してきましたから、実質的にコレクションの所有権を持っている、もしくはご主人亡きあと莫大な遺産を相続した彼女たちは、あらゆる意味で美術館最大のスポンサーとなりうる存在なのです。マダムキラーであること。それがアメリカの館長、スターキュレーターに課せられた、ある意味ミッションでもあります。


 「マダムキラー」と言うと、なんだか人聞きが悪いですが、「人に好かれるタイプ」のほうが、いろいろと有利なのは間違いなさそうです。


 あと、日本の昔の絵画などは「会期中の前半と後半で、主要な展示作品が一部入れ替わる」ことがあります。

 僕はあれは「同じ人に二度来場してもらおうという、営業上の戦略なんだろうな、ちょっとセコいなあ」と思っていました。

 ところが、そういう「経営判断」とか「借りられる期間が短かった」だけではない、「日本美術の特異性」があるようです。

 日本美術の展覧会で、よく展示作品が小刻みに変更されることがあります。さすがに一週間ということはありませんが、展覧会の会期中であっても、一か月程度で、展示が終了してしまうものがあります。それはひとえに繊細な材料を用いることが多い日本美術が応々にしてもつ物理的な脆弱さゆえです。展示期間が3〜4週間程度に限られるものとしては、紙製のもの、つまり襖絵、巻物、浮世絵などが挙げられます。最終的は判断は所蔵者と学芸員や保存・修復の専門家によりますので、一概にはいえませんが、紙製の美術品の展示は慣例的にはその程度の期間とされています。そういった美術品は、酸素・光線などに晒され続ければ急速に劣化するので、一定期間を超えると、どうしても作品に負担がかかってしまうのです。


 西洋の絵画に比べて、日本美術は材料が繊細で、長期間の展示に向かないものが多い、ということなんですね。

 そうか、あれは「二度来てもらうための戦略」じゃなかったのか(もちろん、それで二度来てくれたら嬉しいでしょうけどね。僕自身は、同じ展覧会を期間中に二度見たことはないのですが)。


 これまで観る側としては知らなかった、あるいは意識したことがなかった「美術展、美術館の舞台裏」を垣間みられる、なかなか興味深い内容だと思います。

 

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2016-02-10 映画『オデッセイ』感想

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f:id:fujipon:20160210004515j:image

火星での有人探査中に嵐に巻き込まれた宇宙飛行士のマーク・ワトニー(マット・デイモン)。乗組員はワトニーが死亡したと思い、火星を去るが、彼は生きていた。空気も水も通信手段もなく、わずかな食料しかない危機的状況で、ワトニーは生き延びようとするが……

参考リンク:映画『オデッセイ』公式サイト


2016年4作目。

2月9日のレイトショーで、2D・字幕版を観賞。

観客は僕も含めて10人くらいでした。


 70億人が、彼の還りを待っている。

 このキャッチコピーとともに、映画館で予告編を観たときには「この人、生きて還ってくるんだろうけど(じゃないと映画として成立しにくいだろうから)、さすがにこの状況は詰んでいるとしか言いようがないのでは」と思ったんですよね。

 地球から遠く離れた火星で、水も酸素も食糧も限界があって、通信手段もない。

 そして、ひとりぼっち。

 その時点で、観客としては、もう「ノックアウトされている」ような感じなのですが、ようやく公開となり、見届けることができました。

 まあ、「食糧1か月分!」とか宣伝ポスターには書いてあるのですが、それは「6人のクルーの1か月分」なので、「若干、話を盛っているのではないか」という気もしなくはないんですけどね。

 しかしこれは、宇宙人か、未来から誰か助けにきてくれなきゃダメだろ、と。


「さあ、これから僕たちを助けにいかなきゃ!」

ドラえもん』かよ!

(ちなみに、この『オデッセイ』は、そういうオチではないので念のため)


 予告編を観た時点では、「火星にひとり取り残されて苦悩する男」の姿が描かれる、観ていて胸がしめつけられるようなドラマ、だと思っていたのです。

 ところが、実際に観てみると、なんというか、ものすごく前向きで、明るめの作品になっているんですよ。

 実際は、もっと苦悩するんじゃないかワトニー!

 ……って言いたくなるのですが、宇宙飛行士は、退かぬ!媚びぬ!省みぬ!

 リアリティがない!というわけじゃなくて、どうも、宇宙飛行士というのは、「そういう人たち」みたいなんですね。

 つねに、自分が置かれた状況で、何が最善かを考え、それに従って行動する人々。

 そもそも、こんな絶望的な状況で、絶望されても、観客としてはどうしようもないし。

 ただし、マット・デイモンさんの後半での「肉体」が、ワトニーの極限状態での苦闘を、言葉以上に語っているんですよね。

 

 最近、『若田光一 日本人のリーダーシップ』という新書を読みました。

 そのなかで、宇宙の専門家たちが『ゼロ・グラビティ』という映画を「実際の宇宙ではあり得ないことばかりで、ツッコミを入れながら観ていた」という話が出てきます。

 ただ、あの映画のなかに出てきた、ジョージ・クルーニーが演じていたベテラン宇宙飛行士は、まさに「理想の船長」だった、と。

 もちろん、宇宙飛行士とはいっても人間ですから、羽目を外したり、ヤケになったりすることもあるのかもしれないけれど、この『オデッセイ』では、あえて、「危機的な状況での人間の強さ」を強調しています。

 ほんと、みんないい人ばっかりなんだよね。

 せめて、映画では、サイエンスに、テクノロジーに、人間の強さや優しさに、そして宇宙に「希望」を描きたい、そんな願いが伝わってきます。


 同じような「宇宙飛行士の危機』を描いた映画に『アポロ13』があって、僕はこの映画が大好きなのです。

 『アポロ13』のほうは、実話だからすごいよなあ。

 

 ああ、でも率直に言うと、この素晴らしい映画を観ながら、僕は「ひとつの命の価値」みたいなものについて、ずっと考えていたんですよね。

 これだけのお金とリスクをかけて、「火星にとりのこされた男」をみんなが救おうとします。

 しかしながら、世界では、空爆に巻き込まれて命を落とす小さな子供もいれば、その場にいただけで、通り魔の犠牲になってしまう人もいる。

 彼を救うための費用を使えば、アフリカで、かなり多くの命が救えたはず。

 同じ「ひとつの命」なのに。

 劇中では「論外」とされたけれど、「他の宇宙飛行士をリスクにさらす」よりも「ワトニーを見捨てる」ほうが、合理的な選択なのかもしれません。

 そもそも、宇宙開発にはリスクがつきものです。

 スペースシャトルだけでも、チャレンジャー号、コロンビア号で、それぞれ7名の宇宙飛行士が命を落としています。

 まあでも、ワトニーの帰還が、多くの人に希望を与えるものであったことは事実だし、結局のところ、人の命というのは等価ではないのかなあ、なんて。

 いや、そもそも、等価だというのが「キレイ事」なんでしょうけどね……


 

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2016-02-09 【読書感想】アンドロイドは人間になれるか

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内容(「BOOK」データベースより)

マツコロイド、美人すぎるアンドロイド、人間国宝を永久保存…世間の度胆を抜く発想で注目を集める世界的ロボット工学者・石黒浩。アンドロイドが教えてくれる「人の気持ち」や「人間らしさ」の正体とは?常識を次々と覆していく鬼才が人間の本質に迫る。


 いやあ、この石黒さん、本当に「鬼才」だな……

 アンドロイドを通して考える「人間らしさとは何か?」

 この新書、すごく興味深く、面白かった。

 

 あの「マツコロイド」を作った石黒さんは、子供のころ、「空気が読めず、『人の気持ちを考えなさい』とよく言われていた」そうです。

 でも、ずっと、「気持ち」とか「考える」という行為の正体がわからなかった。

 そして、その疑問に、周囲の大人たちは、誰も答えてくれなかった。

 そこで、人工知能の研究をして、コンピュータに、石黒さん自身の解釈による「考える」「思う」という行為をやらせることによって、「人の気持ちを考える」ということを解き明かそうとしているのです。


 研究していると、ひとつわかってきた。

「人の気持ちを考える」を理解するための人工知能を作るためには、脳の神経回路を研究し真似しているだけではダメだ、ということである。体なしの人工知能は、ありえない。脳しかない人間は、賢くなりえないのだ。体がなければ何も「経験」ができず、経験がなければ過去の出来事を次の行為にフィードバックすることができない。

 たとえば手を刃物で切ってしまった子どもは血を流し、痛みを感じ、泣きながら「今度から気をつけよう」と思うだろう。経験が人を賢くする。そのためには「感覚」が必要であり、感覚で見聞きした情報を使ってみる体がなければいけない。コンピューターの「脳」にあたるCPU(中央演算処理装置)自体を一生懸命見たところで「こいつ、賢いな」と思う人間はいないだろう。手足に相当するマウスやキーボードの操作を通じて、パソコンやスマートフォンが人間には即座にできないこと(検索でもメールでもゲームでもいい、誰もが日常的にしていることだ)を実行し、それがディスプレイに表示されるから「賢い」と感じられる。そもそも目や手足といった感覚器や運動器がなければ、いったい誰が脳に多様な情報を入れることができるのか? 人工知能には、かならず体が必要なのだ。体と心は、密につながっている。

 人工知能には動く体が必要だとわかり、僕は身体のある人工知能――ロボット研究に没頭することになった。

 僕は、いつか人間を作れると思っている。「人間を工学的に実現する」ことはおそらく可能なのだ。だれもが「このロボットは心を持っている」と思うロボットが実現できれば、それは人間と一緒である。そのロボットはすなわち「人の気持ちを考える」とはどういうことか、そして「人間とは何か」という根源的な問いに対する答えとなる。

 つまり、ロボットが「人間の条件」を教えてくれるのだ。


 この新書で、著者の「人間らしいロボットへの試行錯誤」を読んでいて、僕はものすごく「腑に落ちた」のです。

 世の中って、「やっぱり人と人とのふれあいが大事」とか「機械には人間の心がわからない」なんて言うじゃないですか。

 でも、僕のなかには「対人関係のめんどくささ」みたいなものが、ずっと溜まっていて。


 著者は「テレノイド」という、「クリオネ」みたいな、顔と短い手と丸まった下半身を持ったロボットでの実験結果を、このように紹介しています。

 僕が作ったロボットで、もっとも「気持ち悪い」と言われるのは、「テレノイド」である。こんな気持ち悪いものを作り、高齢者に抱かせて実験しようなどと考えた人間は、僕のほかにはいないだろう。

 テレノイドは、人間としての必要最小限の「見かけ」と「動き」の要素のみを備えた通話用のロボットである。やわらかな形状をした端末を抱えながら、声を通して相手と話す。対話相手の姿を見ることはできない。一方で、テレノイドを操作している人間は、ロボットに附属するカメラで撮影され、向うからは姿が見えた状態で話をする。


(中略)

 

 複数の施設の協力を得て実験したところ、高齢者はこのテレノイドでの通信を好み、「生身の人間以上(実の家族以上)に親しみやすい」と評価する傾向が、如実にあらわれた。もちろんそれでも「気持ち悪い」と言う人もいるが、大抵の人はテレノイドを使って通話し始めると、夢中になって話をするようになる。これは日本だけでなく、オーストリアやデンマークなど、さまざまな施設で行なったアンケート調査から明らかになっている。

 70代〜80代の老人たちは、なぜ自分の息子たちとの対面のコミュニケーションより「テレノイド相手に息子と話すほうがいい」と言うのか。なぜ「かわいい孫やひ孫はまだいいが、50代〜60代になる自分の子どもには会いたくない、テレノイドのほうがいい」と言うのか。

 

 テレノイドを通じての対話なら、家族が内心抱いている「親の世話をするのは面倒くさい」という雰囲気や、不安が表情に出ることもなく、それが親に直接的に伝わることもない。だから高齢者は「テレノイドと話すほうが快適だ」と言うのである。

 高齢者には肉親のみならず、デイケアセンターのスタッフや医者、看護師との会話にも気後れする人が多い。「先生に迷惑をかけてしまうのではないか」といった後ろめたさが付きまとい、医者とあまりしゃべらない人も多いのだという。


 ああ、こういう「相手の顔色をみて、迷惑をかけているのではないかと想像してしまって、会話が苦痛になること」って、ありますよね。

 人間にとって、人間と面と向かって「うまくやる」のは案外難しい。

 身内だから、ということで、かえって相手も包み隠さずに面倒そうな顔をすることもあるでしょうし。

 そんなに仲が悪くない身内であっても、こういうのって、あるんですよね、きっと。

 むしろ、「顔が見えない」ほうが気楽なのです。

 もっと言えば「声も聞こえないほうが気楽」だからこそ、あっという間に電子メールというコミュニケーションの手段が広まっていったのではないかと思います。


 この新書を読んでいると、「人間好き」が思っているよりも、「対人コミュニケーション」のめんどくささに辟易している人は多いようなのです。

 

 また、大阪タカシマヤで活躍している、接客アンドロイド「ミナミ」についても紹介されています。

 ミナミは服を売っているのですが、販売員としての成績は優秀で、高齢者や男性に対しては、人間よりもいい成績を出しているそうです。

 お客さんは、ミナミとタブレット端末のディスプレイに表示される選択肢を選んで会話するのですが、基本的な選択肢の数は4つで、そのうち1つは「そんなこと言うて、また買わそうとして」というようなネガティブなものになっているそうです。

 なぜなら、そういうふうに相手にネガティブなことを言うと、大部分の人は負い目を感じて、「フォロー」しようとして、罪滅ぼしに服を買うことを検討するようになるから。

 人間対人間ならわかるのだけれど、対アンドロイドでも、人間にはそういう傾向があるのです。

 対人だと、そう簡単にはネガティブ、攻撃的な言葉は投げつけられないけれど、相手が機械だったら大丈夫だろう、と選択してしまったあとに、やっぱり後悔してしまうんですね。


 しかしこれだけでは、ミナミの方が人間の販売員よりも好成績な「売上」までを達成できる理由を説明できない。なぜなのだろうか。

 ふつう、僕らが服屋に行った場合、人間の店員に話しかけるのは、あるていど服を買うという意志をもって行動しているときである。言いかえれば、店員に話しかけることは「その服を買わなければならない」というプレッシャーにつながっている。しかしたとえば試着して気に入らなかったときや、よく見たら似合わなかった場合には、断らなければいけない。むこうは売るのが仕事だから、似合っていなくても「お似合いでるよ」と言って買わせようとするかもしれないし、あれこれいらないものまで薦めてくるかもしれない。それを断る必要を想像してしまうと――非常にめんどうくさい感覚をおぼえる。

 ところがアンドロイドに対しては「ロボットだし、イヤなら無視すればいい」と人間は思う。だからほとんどのひとは、ミナミに話しかけることに抵抗がない。いつでも断れると思っている。逆説的だが、断れると安心しているからこそ、積極的に買い物にのぞめるのだ。人間相手に服を選ぶさいには抱く抵抗感が、ミナミを前にすると薄くなる。こうした心理状態にあることは、アンケート調査に裏づけられている。

 もうひとつ面白いのは「アンドロイドは嘘をつかない」という信頼感である。


 「買わなくても、気軽に断れる」そう思うと、ミナミに声をかけやすい、というのは、すごくよくわかります。

 僕は、服屋で店員さんがすぐに寄ってきて、「お似合いですよ」とか、明らかに似合っていないものを薦められるのが、苦手で苦手で。

 そもそも、似合わないのは服のせいではなくて、僕自身に問題があることも理解しているので、さらに心苦しい。

 こうしてみると、ロボットには、人間でないことによる安心感、みたいなものが少なからずあるのです。

(著者は「距離感がない」「遠慮しなくていい関係」だと述べています)

 著者たちは、自閉症の子どもの治療にアンドロイドやロボットを使う研究をすでに3年ほど行なっているそうです。

 そもそも僕がめざしているのは、人間らしい振る舞い、そして表情をアンドロイドから学べるようにすることなのだ。


 この言葉だけを抜き出すと、「不謹慎な!」と怒る方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 でも、この新書を読んでいただければ、このアプローチは、自閉症の子どもたちが、周囲から「人間らしい」と見てもらうためには、かなり有望であることが理解してもらえると思います。

 そもそも、人間は、自分にとって都合のいいときだけ、「人間らしさ」を賞賛するけれど、「人間らしさ」の8割くらいは、他者にとっては「めんどくさいもの」だと僕は感じますし、他者に与える印象の大部分は、後天的なトレーニングによって身についたものなんですよね。

 将棋の世界で、コンピュータの思考ルーチンが、人間の対局から指し手を学ぶシステムによって急速に進化したように、ロボットも、どんどん「人間らしく」なっていく。

 人間というのは、「まだロボットに追いつかれていないだけ」なのかもしれません。

 そして、「人間らしさ」には、「見た目」も重要なのです。

 『機動戦士ガンダム』のジオングについて、技術者が「あんなの(手や足)は飾り物です。偉い人には、それがわからんのですよ」と言っていましたが、ロボットが「人間らしく」なるためには、「飾り物」が必要なのです。


 かなり知的好奇心をそそられる新書ですので、興味を持たれた方は、ぜひ読んでみてください。