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2015-05-29 【読書感想】マリファナも銃もバカもOKの国 言霊USA2015

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Kindle版もあります。

内容紹介

スラングから紐解く爆笑アメリカ裏事情!


辛口批評と痛快ギャグで日本人の知らない最新アメリカ事情をメッタ斬り。週刊文春の人気連載が一冊に。これであなたも米国通!?


 町山智浩さんの「映画本」「アメリカ本」にハズレ無し。

 いまの日本や世界の(上)半分を知りたかったら池上彰さんに、アメリカの(下)半身に興味があれば町山さんに聞くべし。

 僕はこのシリーズ、前作も読んでいるのですが、アメリカという国では、日本の硬派なニュースでは伝えられないようなさまざまな「変化」や「試行錯誤」がずっと続いているということに驚かされます。


 この本のなかに「マリファナ(大麻)合法化」の話が出てくるんですよね。

 コロラドにマリファナを買いに行った。コロラド州では、マリファナを完全に合法化する法案が、2012年の州民投票で過半数を得て、2013年1月1日から実施されている。


(中略)


 受付でカリフォルニアの運転免許証を出した。21歳以上であることを証明できれば他州の免許証でも外国のパスポートでも構わない。

「医療用? 娯楽用?」と店の人に尋ねられる。医療用マリファナの売買は、1996年にカリフォルニアなど全米のいくつかの州で合法化されている。寝不足、憂鬱、腰痛、理由は何でもいい。健康上の理由でマリファナによるリラックスが必要であると医師に訴えれば、購買許可証が発行される。だが、娯楽用のマリファナ売買までが合法化され販売開始したのは今のところコロラドだけ。

 もの珍しさで買いに来た観光客だと言うと、「じゃあ、いちどに買えるのは1オンス(約28g)までです」と言われる。でも、他の店にハシゴすればいくらでも買える。


 ちなみに「タールを吸わないですむ水パイプを選び、1オンスのマリファナと清算すると2万円ぐらいだった」そうです。そのうち30%は税金。


 この話を読んで、僕の大好きな作家である中島らもさんが「マリファナ解禁」を主張していたのを思い出しました。ただし、いくら大好きな作家でも、僕は「マリファナ解禁に対しては、らもさんに反対」だったんですよね。

 いくらなんでも、そこは共感できないな、と。

 とくに健康に害はないとか、依存性が少ないとか言うけれど、「麻薬」だし、「街がラリった人ばかりになったらどうするんだ」と思ったので。


 しかしながら、コロラド州が無法地帯になっている、ということもないそうです。

 コロラド州ではマリファナOKでも、他の州に持ち込めば、その州の法律で裁かれる。ただ、現在、アメリカ全体でマリファナのdecriminalization(非犯罪化)が進み、未成年や営利目的でない大麻の使用や所有は罰しないことが慣例化している。そんな細かい罪でいちいち逮捕することでかかる税金の無駄を削減するのが目的だ。

 このコラムを読んでいると、マリファナを合法化することによって、麻薬カルテルの資金源を断つことができる、という狙いもあるのです。

 「2014年7月には、ワシントン州で販売が開始され、オレゴン、アラスカなども続いている」のだとか。


 僕は「マリファナが合法の国はオランダ」というイメージしかなかったのですが、あの平和そうなカナダでは、すでにマリファナは非犯罪化されているんですね。


 日本ですぐに合法化の方向に進むとは思えないのですが、世界はそこまでマリファナに対して寛容になっているのか、と驚かされました。

 アメリカは、ドラッグには厳しい国だと思っていたのに。

 いや、厳しいからこそ、「まだこのくらいしか解禁されていない」と言うべきか。


 町山さんが、アメリカでいま放送され、話題になっているドラマやドキュメンタリーのことを紹介してくれるのも面白い。

『キャットフィッシュ』は、若い写真家ニーヴ・シュルマンがフェイスブックで知り合ったミーガンという女性を探すドキュメンタリーだ。ミーガンはブロンドの美女。モデルだという彼女のセクシーな写真を見てニーヴは恋に落ちてしまう。ネットでチャットを重ね、電話でも話すようになり、会話もだんだんエッチになり、ニーヴも自分のヌード写真を彼女に送り、ついには互いに「愛してる」と告白する。結婚するぞ! と浮かれるニーヴだが、ひとつ気になるのは、ミーガンが一度も直接会ってくれないことだ。

「それってインチキなんじゃない?」

 親友のカメラマンはきわめて普通のことを言うが、恋するニーヴはミーガンを疑わない。そこで彼らは彼女の住む町に直接乗り込む……。


 そこで彼らが見たものは!

 その一部始終をビデオで撮影していた彼らが、それを映画にまとめたのが『キャットフィッシュ』という作品で、公開後スマッシュヒットとなったそうです(日本では未公開)。

 

『キャットフィッシュ』はその後、テレビ番組になった。ネット恋愛の相手が会いたいのに会ってくれない人の依頼を受けて、ニーヴたちがその正体を探っていく。

 これ、観てみたい!

 ネットを通じての恋愛というのは、初期のころは、「お互いの顔も本名も知らないふたりが、メールのテキストから人柄を感じ、惹かれあう」みたいな話が多かったのですけど、テクノロジーの進化と普及によって、「ネット上だからこそ、見た目だけで判断されてしまう」のが当たり前になってしまったのは、昔を知る人間として、「どうしてこうなってしまったんだろうな」と感慨深いところがありますね。


 これを読んでいて痛感したのは、アメリカという国は、良く言えば「多様な価値観がある」、悪く言えば「あまりにも分断されている」のではないか、ということでした。

 クリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』という映画は、イラク戦争で活躍した伝説の狙撃兵、クリス・カイルさんの自伝をもとにした作品です。

「狙撃兵は卑怯者だ。英雄なんかじゃない」

 マイケル・ムーア監督はツイッターでそう批判した。彼はドキュメンタリー映画『華氏911』(2004年)で、イラクに9・11テロの黒幕という濡れ衣を着せて攻め込んだブッシュ大統領を批判した。『アメリカン・スナイパー』でムーアが許せないのは、9・11テロをテレビで観たカイルがイラクの戦場に行くシーンだ。セリフはないが、これでは9・11テロの犯人がイラクだったみたいだ。

「この映画を悪く言うサヨクどもは英霊の墓に唾を吐いているのよ!」

 元副大統領候補サラ・ペイリンら、右寄りの人たちは、『アメリカン・スナイパー』批判者たちを「反米」「売国奴」呼ばわりした。カントリー歌手クレイグ・モーガンは「文句があるならこの国から出て行け!」とまで言った。

 間違っている。右も左も、本当に『アメリカン・スナイパー』を観たのか。この映画はイラク戦争も賛美してないしカイルを英雄視してない。戦争の大義を素朴に信じた男が壊れていく物語なのだ。


 僕も町山さんと同じように感じたのです。

 というか、マイケル・ムーア監督の主張は「政治的には正しい」のかもしれないけれど、カイルさん自身が「イラクが悪い」と思い込んでいたのだとしても、それを映画化する際に「修正」するべきなのか?

 町山さんの愛読者にはお馴染みのサラ・ペイリンさんに関しては、「ああ、この人、相変わらずだなあ!」と、定番ギャグを観るような気分になり、むしろ微笑ましくなってしまいます。

 でも、この人が「元副大統領候補」だというのは、シャレにならないよねえ。


 いまの「アメリカ」を知りたい人、そして、「面白くて、ちょっと世界のことがわかったような気分になれるコラム」を読みたい人におすすめです。

 気になった方は、ぜひ。


 

参考リンク:映画『アメリカン・スナイパー』感想(琥珀色の戯言)

 

教科書に載ってないUSA語録

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知ってても偉くないUSA語録

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2015-05-28 【読書感想】持たない幸福論

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Kindle版もあります。

内容紹介

僕はいわゆる「真っ当」な生き方から逃げて楽になった――


もっと自由に、伸び伸びと。

京大卒・日本一有名な"ニート"が提唱するこれからの生き方。


 僕はまだ「社畜系」の生きかたを続けているので、phaさんに対しては、愛憎半ばというような感情を抱いています。

 ああ、僕も本来は、phaさんのように生きていけたのではないか、というのと、「いやいやいや、僕はなんのかんの言っても、他人に叩かれるようなのには耐えられないだろう」というのと。


 最近自分の周りを見ても、ニュースを見ても、生きるのがつらそうな人が多いなと思う。

 会社でうまく働けなくてつらい、薄給なのに仕事がキツくてつらい、職が見つからなくてつらい、収入が不安定で人生の先行きが見えなくてつらい、お金がなくて生活が苦しくてつらい、結婚したいけど相手が見つからなくてつらい、結婚したけどうまくいってなくてつらい、子育てで疲れ果ててつらい、親の介護の負担が大きくてつらい、家族と仲が悪くてつらい、自分が抱えている病気でつらい、など、人によってつらい理由はそれぞれ違うけれど、常にみんな何かに追われているかのように余裕がなくて疲れていて、そうして疲れきった人たちの一部が、ときどき事件を起こしてしまってニュースに上がってきたりする。

 この社会では、なんでこんなにみんなしんどそうなんだろうか?


 この本を読んでいて、子どもの頃、ずっと考えていたことを思い出したんですよね。

 小学生の頃から「良い高校」に入るために塾に通い、

 高校時代は「良い大学」に入るためにいろんなものを諦めて受験勉強をし、

 大学時代は「食べていける資格」を得るためにそこそこ真面目に学校に行って実習、試験勉強をし、

 仕事をはじめてみると「将来の自分や老後のため」にキツい仕事をこなし……

 で、この人生、いつになったら、楽しくなるんだろうか?

 気づいたら、もう身動きも取れなくなって、成人用紙おむつをはめてベッドの上、じゃないのか?


 もちろん、仕事にはそれなりの充実感はあるし、自分なりの向上心を満たしてくれることもある。

 家族がいて、子どもと一緒に成長していく喜びもある。

 ……たぶん、ある。

 でもさ、先のことばかり考えているうちに死んじゃうよ。


 僕のいちばんの疑問は、「なぜ、phaさんはこうやって『発信』を続けているのだろう?」ということなのです。

 こういう書く仕事の収入がないと、生活していけないのかもしれないけれど。

 これは、最近ブログでよく見かける「ミニマリスト」を自称する人たちをみていて感じていることでもあるのですが、なぜ彼らは、自分のライフスタイルをネットで見せびらかしたり、同好の士たちとしばしば「オフ会」を行ったりするのだろうか。


 本当にシンプルに、つつましく暮らそうというだけなら、別にブログなんか書かなくてもいい。

 他者を啓蒙しなくても、良いわけじゃないですか。

 phaさんの場合には「こういう生き方を、社会にも理解してもらいたい」というのがあるのだろうな、というのは伝わってきます。

 その一方で、phaさんのように理論武装できる人は「エリートニート」なんですよね。

 そうではない、どうしても働いたり、外に出たりできない、そして自分の行動を理論で説明できない人は「引きこもり」とか「単なる貧乏人」になってしまうのだろうな、と。


 会社や家族に属さなくても、インターネットやシェアハウスでゆるく仲間を作っていれば、孤独にならずにわりと楽しく暮らしていける。あんまりお金がなくても、毎日好きなだけ眠ってのんびりと目を覚まして、天気のいい昼間に外をぶらぶら散歩したりしていれば十分幸せな気がする。

 会社や家族やお金に頼らなくても、仲間や友達や知り合いが多ければわりと豊かに暮らしていけるんじゃないだろうか。生きていく上で大事なのは他者との繋がりを保ち続けることや社会の中に自分の居場所を確保することで、仕事や会社や家族やお金はその繋がりを持つためのツールの一つに過ぎない。いわゆる「普通」とされている生き方以外にも、世界には生き方はいくらでもある。

 

 「お金に縛られない人生」というのも理念としてはわかる。

 でも、いまの世の中でそれをやろうとすると、シェアハウスだとか、節約生活だとか、仲間とのつながりだとか、コミュニケーション能力や生活の知恵をフル稼働しなければならないのです。

 お金って、「他者に自慢するための高級外車やガジェットを買うためのもの」だけじゃないんだよね。

 僕みたいにコミュニケーションに不安を抱えている人間にとっては「他人に関わるめんどくささを最低限に緩和してくれる道具」でもあるのです。

 お金がかからないから、と他人と住居をシェアして気を遣うより、家賃が高くても、ひとりで住みたかった。


 やっぱりシェアハウスの一番のネックは「セックスする場所がない」だなー、と思う。恋愛感情や性欲というものは人間を動かす大きなモチベーションだ。恋人ができれば好きな相手と二人だけでゆっくり過ごす時間が欲しくなるし、そうすると一緒に住みたくなる。そんな風に「恋愛」「同棲」というステップを踏んで、「家族」という新しい共同生活とコミュニティが生まれるのは、自然な流れにも見える。

 だけどその自然な流れでできたものは、長期的に見ると少しズレが出てくるんじゃないか、ということも思う。何が言いたいかというと、「恋愛やセックスの相手」というのと「共に暮らす同居人」というのは長期的に見るとズレていってしまうことも多いものじゃないだろうか。セックスレスの夫婦というのは世の中に結構多いみたいだし、一人の相手と長く一緒に暮らしていると安心感や親しさは増すけれどその代わりだんだんと恋愛感情や性欲の対象から外れていってしまう、みたいな話もよく聞く。

 生々しい話ではあるけれど、「シェアハウスに住み続けるのが難しい理由」には、こういうのも確実にあるのでしょう。

 たしかに「ズレてくることは多い」だろうし。

 そこまで先のことを考えてしまうと、何もできなくなりそうではあるけれど。

 

 こうして考えていけばいくほど、結局、エリートニートもミニマリストも、僕と似たような「承認欲求仲間」ではないか、と思いますし、その生きかたは尊重されるべきなのだろうな、とは感じます。


 ネットでは「老後はどうするんだ!」なんて責める声も目にするのですが、僕の現場感覚からすると、急病で働けなくなったり、難病にかかったり、交通事故を起こしたりすれば、普通の人が普通にがんばって蓄えたお金なんて、すぐに、底が抜けてしまいます。

 逆に、自分で行政機関にアピールする知識と能力があれば、「お金がないから」という理由で何も治療してもらえない、なんてこともありません。

 うまくできているといえばできているし、アリに厳しく、行動力のあるキリギリスに甘い世の中だとも言えるのかもしれない。

「他人に助けてもらうのは申し訳ない」という人ほど、ギリギリのところで苦しんでいるようにもみえる。

 「老後の保証がない」のはみんな同じで、そもそも、そこまで生きているかどうかわからないし、本人に「のたれ死にの覚悟」があれば、それをみんなが尊重する時代が、いずれやってくるのではないか、と感じます。


 何か物を持つということはその管理コストを抱えるということでもある。持っている物が増えると収納するための空間的コストだけではなくて、「○○が壊れちゃったから修理しないと」「○○買ったから置く場所を作らないと」「○○を収納する××を買おう」「そうしたらもっと広い家が欲しい」みたいに、物の管理や維持について考える心理的コストが日常の中で増えていく。実際はずっと持ち続けている物ほどあまり使わなかったりするし、自分が直感的にすぐ思い出せる以上の物を持っていてもあまり意味がないと思っている。

 また、知識や経験が増えるほど何かをやったときの新鮮味は薄れてしまう。年をとればとるほどそれまでに得た知識や経験のおかげでいろんなことを自信を持って語れるようになるけれど、その分考え方が硬直化して自由な発想がしにくくなるというのもある。

 僕はずっと、phaさんは京大を出ていて、こんなに理論武装できるほどの頭脳もあるのに、なんかもったいないなあ、と思っていました。

 でも、ようやくわかった。

 エリートニートをやっていくには、このくらいの賢さがないとダメなんだな、って。

 この本を読んでいて感じたのは、これは「哲学」というか「理念」の本なのだな、ということなんですよ。

 こういう本って、実際の生活ぶりとか、体験談みたいなものが、もっと入っているものだと思っていたのだけれど、「理論」が大部分を占めていたのです。

 だから、「楽しいニート生活!」みたいなものを期待して読むと、肩すかしを食らうかもしれません。

 この本によると、phaさんは本を出したり、ネットに文章をけっこう書いたりされているけれど、年収は100万円くらいだそうです。

 「ニート業」だけで生計を立てるのは厳しい。

 

 結局のところ、phaさんがどんなに「啓蒙」しても、エリートニートとして生きていける人って、ほんのひとにぎりだと思うのです。

 「普通のひと」は、ずっと働かずに、家でネットをしたり、寝たいだけ寝て猫にエサをあげるだけ、みたいな生活には、耐えられないようになっている。

 だからもう、「棲み分け」で良いんじゃないかな。

 たぶん、社会にとって適当なところで、バランスがとれていく。


 彼らを叩くのに使う資源があるのなら、「働きたくても仕事がない人」や、「社会に適応できなくて、引きこもってしまっている人」の支援に向けるべきではなかろうか。

 後者の場合、「それでも社会に適応させようとする」のが正しいのかどうか、僕にはよくわからないのだけれども。


 正直なところ、「phaさんはまだこれで印税もらえるから良いけど、後に続く人たちは、phaさんたちが狩り尽くしたあとの焼け野原に放り出されるだけじゃないか」とも思うのです。

 ただ、phaさんも「ずっとニートをやる」ことを薦めているわけではなくて、「一定期間働いて最低限のお金を稼ぎ、しばらくはその蓄えで仕事をしないでゆるやかに生活する、その繰り返し」というライフスタイルも推奨されています。

 そういうのも「アリ」で良いのではないか、と。

「プログラムを学ぶことで、お金を稼げるようになった」という例もあげておられます。


 phaさんに関しては、「ニート」ばかりが強調されがちです。

 実際は、こんなに世の中にいろんな価値観が出てきているのに、「仕事」「労働」に関しては、まだまだ昔の「社畜礼賛」的な風潮が強いのはおかしいのではないか、もっと多様性を認めようよ、ということが、この本の要旨なんですよね、たぶん。


 ただ、「結婚とか子どもとかは諦めている」というのを読むと、「それは個人の選択としては有りなのだろうけど、みんながそう思うような世界になったら、人類はゆるやかに滅亡していくのではないかな」なんてことも、考えてしまうんですよ。

 まあ、僕が死んだら、あとの世界のことなんて、あれこれ心配したってしょうがない、という気もするんですけどね。


ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

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2015-05-27 映画『イニシエーション・ラブ』感想

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バブル真っただ中の、1980年代後半の静岡。友人から合コンに誘われ、乗り気ではなかったが参加することにした大学生の鈴木は、そこで歯科助手として働くマユ(前田敦子)と出会う。華やかな彼女にふさわしい男になろうと、髪型や服装に気を使って鈴木は自分を磨くのだが……


参考リンク(1):映画『イニシエーション・ラブ』公式サイト


 2015年13作目。

 平日のレイトショーで観賞しました。

 観客は僕も含めて5人。

 ちなみに僕は原作既読です。

 原作を読んだのは、もう7年前になるんですね。

 あの原作を、どうやってトリックがバレないように映像化したのか、気になっていました。


参考リンク(2):【読書感想】イニシエーション・ラブ(琥珀色の戯言)


 さすがに読んだのが7年も前となると、ディテールは忘れてしまっていたのですが、原作を読んだときに、この作品の「仕掛け」にはものすごく感心したので、大まかな流れは記憶にあるんですよね。

 どんでん返しのためのどんでん返し、ではなくて、この作品のテーマというか、人間のA面B面みたいなものが、一挙に浮かび上がってくるのです。


 最後の5分全てが覆る。あなたは必ず2回観る。


 というのがこの映画のキャッチフレーズなのですが、原作を読んだことがあると、最初からその「2回目」を観ているような心境ではありました。

 ラストはとっても親切なので、たぶん、原作未読でも「2回目」は観なくていいはず。

 観ながら、「もし原作を読んでいなかったら、この映画の仕掛け、僕は気づいただろうか?」とか考えていたのですが、うーむ、どうかなあ……「違和感」くらいはあったかな。

 やっぱり、映像にすると、「さすがにこれは……」と思うところもあるのだけれども、それは「原作を読んでいたから」なのかもしれないし。

 

 ちなみに「ラストが原作と違う」と宣伝されていますが、「違うけど、原作を読んだことがある人が、それだけを目当てに観るほどの『違い』ではない」とは思います。

 というか、僕はラストに関しては原作のほうが好きだし、この作品のテーマみたいなものに沿っていると感じたのだけれども、そこは良く言えば「及第点映画請負職人」、悪く言えば「堅実だけど『大傑作』も『大駄作』も撮れない(撮らない)小さくまとまった映画をつくる人」、堤幸彦監督としては、「映画として、座りのいい感じのオチ」にしたかったのでしょうね。

 でもさ、あそこでそんな「交錯」が起こると、『イニシエーション・ラブ』じゃないと僕は思っています。交わらないから、良いのではないか?


 とりあえず、「ネタバレ厳禁」だと冒頭でもアナウンスされていますし、僕もこれから観る人たちの楽しみを奪うつもりはありません。

 ネタバレされたあとに『シックス・センス』を観ても、やっぱりつまらないじゃないですか。

 

 ただ、この映画、トリック云々は別として、前田敦子さんの存在感が素晴らしいんですよ。

 前田さんって、けっして、劇団員的な芝居の上手さを持っている人じゃないのだけれど、この映画に関しては、前田さんがマユを演じているというより、マユって、前田さんみたいな女の子だったのかもしれないな」って、思えてくるのです。

 役柄を演じるというよりは、役柄を自分のほうに引き寄せてしまう、それが前田敦子さん。

 木村文乃さんは、むしろ、「しっかり演じている」のですけどね。

 

 前半の前田敦子さんのマユをみていて、僕は「こんなにわざとらしく迫ってくる女、地雷っぽいよな……」と思っていたのです。

 僕も見栄えがしない、モテない人生を送ってきたので、「自分に近づいてくるような女性は、何か『訳あり』なんじゃないか?」と疑うクセがついてしまっていて

 こちらが入れこんでしまうと、貢がされたり、マグロ漁船に乗せられたりしてしまうのではないか、って。

 それでも、「ああ、この前田敦子さんに騙されて、一時期でも『そういう関係』になれるのなら、最終的に何もかも失ってもいいかもしれない……」と感じてもいたのです。

 なんというか「本心」と「演技」の境界が、すごく不明瞭なんだよなあ、前田さんって。

 それは、前田敦子さん自身が、「そういう存在」だからなのかもしれませんね。


 「ベッドシーンがある!」とか言われていたのが、「ああ、あれはたしかに『ベッドシーン』だけどな!橋本愛さんは『寄生獣』であんなに頑張っていたのに、『恋愛映画』でこの程度とは……」っていうレベルのシロモノだったことには、あえて注意を喚起しておきたい。


 いやほんと、この映画の前田敦子さんの「何を考えているのかわからない感じ」「したたかさと脆さの同居」って、他に誰が演じられるだろう?って思いますよ。

 というか、「演じている」のか「素でやっている」のか。

 個人的には、こんな前田さんを観られただけで、映画代の元は取れたと感じました。


 この映画の「もうひとつの主役」は、バブル華やかなりし頃、1980年代の情景描写です。

 当時流行った音楽がBGMとしてたくさん使われており、あの時代に10代後半を過ごしていた僕にとっては、ものすごく懐かったのです。

 クリスマスイブに彼女と「初めての夜」を過ごすために、一生懸命アルバイトをしてためたお金で、シティホテルを必死に予約しようとしていた同級生とか、いたいた!

 「かっとびスターレット」あったあった!

 C-C-B

 

 思えば、あの時代というのは、それまでの「恋愛=結婚」というような価値観が崩れていき、男女交際のきっかけも、女性の側がイニシアチブを握ることが増えてきた時代でした。

 原作を読んだときには、「トリック」ばかりが印象に残っていたのですが、こうして映像化されてみると、「バブルの時代は、男女関係の変化のターニングポイントだった」ことを思い出します。

 「カンチ、セックスしよ!」も、この時代だった。


 原作未読で、この映画を観ることができる人は、ぜひ、原作を読まずに観て、「わかった」かどうか、僕に教えてください。

 そういえば、原作を読んだとき、僕は鈴木にけっこう腹が立ったんですよね。ひどい男だ、って。

 そして、女のほうもなんだかなあ、と。

 でも、今回の映画を観ていると、悪意がなくても、人と人は傷つけあってしまうことが往々にしてあるのだ、こういうのもしょうがないよ、とスッと受け入れられたのです。

 それは、大人になったのか、それとも、諦めることに慣れたのか。


イニシエーション・ラブ (文春文庫)

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2015-05-26 【読書感想】必殺技の戦後史 昭和~平成ヒーロー列伝

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Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)

力道山の空手チョップ、眠狂四郎円月殺法、忍者カムイの飯綱落とし、鮎原こずえの竜巻おとし、藤枝梅安の鍼、星飛雄馬の大リーグボール、宇宙戦艦ヤマト波動砲、ケンシロウの北斗神拳…いつの時代もみんなを熱狂させた必殺技。なぜ、そんなに夢中になったのか?必殺技がわかると日本人がわかる!


 太平洋戦争後の懐かしいマンガやアニメ、時代劇・時代小説についての四方山話を、時系列に並べたエッセイ集です。

 このタイトルからは、「必殺技」の変遷を個々の作品に触れながら、論評していく、という「論文」「研究書」的なものなのかな、と思っていたのですが、読んでみると、1回完結形式で、昔の作品の思い出などを「必殺技」の話を中心に著者が語っているものなのです。

(もともと『小説推理』に連載されていたものを、新書にまとめたものだそうです)


 だから悪い、というわけではなくて、気軽に読めて、「そういえば、そんなマンガあったなあ」なんて懐かしむことができる、そんな内容。

 かなりたくさんの作品、ジャンルの話題が出てくるので、それぞれの作品については「細切れ」感が強いのですが、飽きずに読めるし。

 ちなみに、僕のなかでは、「必殺技」といえば特撮モノ(「スペシウム光線」とか「ライダーキック」とか)なのですが、著者はあまりこのジャンルについては詳しくない、ということで、この新書のなかではほとんど採り上げられていないのは、ちょっと残念でした。

 「じゃあ、スペシウム光線について蘊蓄を語ってみろ」と言われても、困るだろうな、とは思うんだけど。


 日本の物語には、必殺技の出てくるものが多いなあ。二十年以上前、ふと思った。それ以来、折に触れて必殺技について考えているうちに、これをキーワードにすれば、エンターテインメント・ジャンルを縦断できるのではないかという着想を得た。だってそうではないか。小説・映画・ドラマ・マンガ・ゲーム……。ありとあらゆるところに、必殺技が溢れているのだから。

 それから意識的に必殺技の出てくる物語をチェックしているうちに、これがよく使われるようになったのが、戦後になってからであることも分かってきた。ならば必殺技を語ることで、日本の戦後史も語れるのではないか。かくして調査と、考察を重ねていった。それを形にしたものが、本書『必殺技の戦後史』である。……なんて書くと堅苦しい内容になりそうだが、根底にあるのは必殺技の出てくる物語が好きだという、熱い想いだ。

 世界的に見て例がないほど、日本のエンターテインメントには必殺技が多い。なぜ日本人は、これほど必殺技を受容してきたのか。その理由のひとつが、日本古来の武術にあると思われる。


 「必殺技大国」日本か……

 こう言われて、あらためて考えてみると、たしかに、アメコミの主人公って、「これでフィニッシュ」っていう必殺技を持っていないのです。

 スパイダーマンも、スーパーマンも、圧倒的な力や能力、武器は持っていても、「このヒーローといえば、これで決まり!」という必殺技って、ないですよね。

 『スパイダーマン』も、日本で版権をとって制作された特撮テレビシリーズでは、最後に巨大ロボットに乗って戦っていたのを思いだします。

 日本では「必殺技」がないと、ウケないのかなあ。

 僕も世代的には「キン肉バスター」とか「オーバーヘッドキック」とか「北斗百烈拳」とかを、さんざん真似していたのです(さすがに「キン肉バスター」は無理だった)。『ゲームセンターあらし』の「炎のコマ」とかも試してみて何度も即死して、「百円返してくれ……」と嘆いていたんだよね。


 著者の「必殺技と戦後の日本」についての考察は、かなり興味深いものでした。

 眠狂四郎の必殺技「円月殺法」について。

 刀身で円を描くことにより、相手を無力化(催眠状態のようなものであろう)し、斬り倒す。また、無力化を恐れて円を描く途中で襲ってくる相手もいるが、焦りや苛立ちから実力を発揮できず、やはり狂四郎に斬り倒されることになる。実に無敵の必殺技である。そんな円月殺法のどこに、戦後的な意味があるのか。ヒントとなるのは無力化だ。

 ここであらためて振り返りたいのが、戦後日本の在り方だ。敗戦によりGHQの占領下に置かれた日本は、GHQの指導により国家の方向性を決めていった。そのひとつが1946年に発布された日本国憲法だ。先に私は、五味康祐の「喪神」に登場する護身の必殺技”夢想剣”に触れ、根底に日本国憲法第九条――いわゆる”平和憲法”があるのではないかと述べた。それをもう一度繰り返そう。相手を無力化する円月殺法の根底にも、やはり日本国憲法第九条があるのではなかろうか。ただし夢想剣が護身の必殺技であるのに対して、円月殺法は相手を無力化する必殺技である。必殺技の能力は、正反対といえよう。

 その点を踏まえて注目するべきなのが、眠狂四郎の国際児という設定だ。そもそも狂四郎の発想の源となった戦後の国際児だが、父親のほとんどはGHQの兵士である。そして武力を持つことを禁じ、戦後日本を無力化した日本国憲法は、GHQの先導により作られたではないか。ならば狂四郎の身体に流れる父親の血は、GHQを象徴しているといっていい。


 正直なところ、こういうのを読むと、「著者の考えすぎなのではないか……」とも思うんですよね。

 この新書のなかでも、さまざまな社会情勢に影響を受けたといわれているマンガの作品の作者が、のちに「自分は社会に何かをアピールしようとしていたわけではなくて、当時話題になっていたことを、エンターテインメントとして描いただけだ」と否定していた、という証言が採り上げられています。

 もちろん、こういうのは「解釈する楽しみ」もありますし、作品というのは、描かれた時代の影響を受けるのが、むしろ「当然」ではあるんですけどね。

 こういう「ちょっと読み取り過ぎなんじゃないの?」と言いたくなるような「必殺技と戦後史の関連」を(半ばツッコミを入れながらでも)愉しんで読める人には、この新書、けっこう面白いのではないかと。


 自分の記憶って、けっこう曖昧なものなんだな、と思い知らされるところもあります。

 さて、そんな波動砲が、初めて使用されるのが、第五話「浮遊大陸脱出!! 危機を呼ぶ波動砲!!」である。第四話でワープ航法を成功させ、火星にジャンプしたヤマト。しかし火星を出発したものの、エネルギー伝導管の障害により操縦不能に陥り、木星のメタンの海に突入。そこを回遊する、オーストラリア大陸ほどの大きさの浮遊大陸に不時着する。しかし浮遊大陸には、ガミラス星人の偵察基地が建設されていた。伝導管の修理を終えたヤマトは、基地からの攻撃を躱しながら、ついに波動砲を発射。だが、波動砲の威力は、あまりにも強烈であった。基地のみならず、浮遊大陸そのものまで破壊してしまったのだ。あまりの威力に真田は「浮遊大陸自体吹っ飛んでしまったじゃないか。我々は許されないことをしたのではないか。我々はガミラスの基地だけを破壊すれば、それでよかったはず」といい、それを受けて沖田は「波動砲は我々にとって、このうえない力となる。だが使用を誤ると、大変な破壊武器になってしまうことが分かった。今後、使用には細心の注意が必要だ」という。

 以後、波動砲は、第十二・十七・二十・二十四話で使用される。全部で5回である。まあ、毎回のように使っては必殺技の有難味が減ってしまうが、それにしてもかなり少ないといえる。そこには波動砲を、強力すぎるがゆえに扱いに注意しなければならないという、制作者側の認識があるようだ。

 最初のテレビアニメ版の『宇宙戦艦ヤマト』では、全二十六話で、波動砲は5回しか発射されていなかったのか……もっと「乱射」されていたイメージがあったのだけれど。映画版と混同してしまっているのかも。

 『ヤッターマン』で、ボヤッキーの「ポチッとな」は、意外と使われている回数が少ない、というのを思いだしてしまいました。

 

 なんのかんのいっても、「必殺技」の話って楽しいですよね本当に。

 このことは打法にもいえる。阪急に入団した明智球七、球八の兄弟超人をアストロ球団に引き込むため、球一が勝負を挑む場面。驚くべきことに、巨漢の球八が小柄な球七をぶん投げることで、どんなホームランボールでも球七がキャッチしてしまうのだ。この鉄壁の守備を、いかにして破るのか。罅(ひび)を入れた木製バットで球一がボールを打つと、ボールと一緒に砕けたバットの破片が飛んでいき、目くらましとなるのである。これを称してジャコビニ流星打法。ジャコビニ流星群を見たことから思いついた打法である。なお、昭和47年には、流星雨の観測が予想され日本でブームが巻き起こっている(実際は観測されず)。このブームをいち早く、取り入れたのであろう。

 そんなのありえない!

 とツッコミを入れつつも、ニヤニヤせずにはいられない、「必殺技」の世界。

アストロ球団』また読み返してみようっと。

2015-05-25 【読書感想】国境のない生き方

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Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)

14歳で欧州一人旅、17歳でイタリア留学。住んだところは、イタリア、シリア、ポルトガル、アメリカ。旅した国は数知れず。ビンボーも挫折も経験し、山も谷も乗り越えて、地球のあちこちで生きてきた漫画家をつくったのは、たくさんの本と、旅と、出会いだった!古今東西の名著から知られざる傑作小説に漫画まで、著者が人生を共に歩んできた本を縦糸に、半生を横糸に綴る地球サイズの生き方指南!


【編集担当者からのおすすめ情報】

発売前の本書の原稿を読んだ人から、すごい反響が寄せられています。曰く、「『テルマエ・ロマエ』のヤマザキマリさんって、こんなに教養人だったの?」

ヤマザキマリさんの半生自体が、漫画みたい!」などなど。「漫画になりそうな劇的な半生」と、「驚くほどの教養人」「心を揺さぶるような言葉の持ち主」といったイメージは、どれも私の想像をはるかに超えていました。ぜひ、本書でご確認ください。


 ヤマザキマリさんといえば、「『テルマエ・ロマエ』の」と前置きしてしまうのですが、その破天荒というか、常識では考えられないような半生についても、これまであちらこちらで描かれています。

 「いいところのお嬢さん」だったのに、音楽に魅了され、勘当同然で北海道のオーケストラの奏者となり、シングルマザーとしてヤマザキさんたちを育てたお母さん。

 その「教育」についての話を読むたびに、「これは結果オーライ」というものなのではないか……と、親としての僕は考え込んでしまうのです。

 初めてひとり旅をしたのは14歳の時でした。

 オーケストラのヴィオラ奏者をしている母は、ヨーロッパに音楽家の友人がたくさんいます。一か月かけてフランス〜ドイツ〜ベルギーを巡るその旅は、もともとは母がその人たちに会いにいくはずのものでした。ところが、急に母が行けなくなったので、冬休みだった私が代わりに行くことになったのです。

 英語もろくにしゃべれない14歳の娘を、よくもまあ、ヨーロッパにひとりで行かせたものだと驚かれますが、その気持ちは、私にもよくわかります。私には息子がいるのですが、彼が14歳の時に同じことができるかと言われたら、とてもじゃないけれど無理だと思うからです。

 私の母は、いざという時、世間の常識より自分の直感を信じているところがあったので、この旅が私にとって特別なものになることに賭けたのだと思います。


 14歳の女の子のヨーロッパ一人旅。

 僕は、この話を何度か読んでいるのですが、そのたびに、「僕も自分の子どもを行かせることはできないだろうな」と思います。

 というか、「ヤマザキマリさんの場合は、それが結果的にうまくいった」だけで、その無謀な旅の最中に、心ない何者かによって、14歳の女の子は、大きく傷つけられてしまった可能性もあるわけで。

 その一方で、そういう強烈な体験と、お母さんの教育方針がなければ、ヤマザキマリという人格はこの世に生まれてこなかったとも思われます。

 「そりゃ虐待みたいなものだろ」と言うべきなのか、「信じて行かせたお母さん偉い」なのか……

 正直、「参考になる」とは、ちょっと言いがたいところも多いんですよね、この新書の内容って。

 ヤマザキマリさんという人とその人生が、あまりに個性的すぎて。


 ただ、ヤマザキさんの言葉を読んでいると、「自分の直感より世間の常識を信じてしまう」僕でも、ちょっと勇気づけられるところがあるのです。

 

 ジョブズは、きっとそういう彼自身の闘いを闘い抜くことにしたのでしょう。

 人からどう思われようと、そんなことはどうでもいい。だから人に平気でつらいことも言えるし、自分勝手なこともできる。だって向き合うべきは自分で、他者という鏡に自分を映す必要が一切なかったのですから。

 この現代社会でそんな人はまずいない。ほとんどの人は、みんな「自分は人からどう見えているのだろう」ということを意識しながら、関係性の中で自分をやりくりして生きている。ところがジョブズはそうじゃない。あくまでも「俺中心」で「俺がルール」なんです。あらゆることを「俺がこう言うんだから、それでいいんだよ」で押し通す。


 それはもう、「個性的」とか「自分らしさ」なんて枠には、とても収まりきれない。

 私が「個性的」とか「自分らしさ」という言葉に対して鼻白んでしまうのは、ジョブズのように、そんな枠なんかとっくに突き抜けた人間に、たまらない魅力を感じてしまうからでしょう。周りに好感を持たれる程度の「自分らしさ」なんて、そこで生き抜くための便宜的なもので、生ぬるく感じてしまう。もし、ほんとうに掛け値なしの「自分らしさ」みたいなものがあるのだとしたら、それはジョブズのような、もっと抜き差しならない、切実なものなのだと思います。


 この本を読んでいると、ヤマザキマリさんも、こういう「自分でもどうしようもない衝動のような、抜き差しならない、切実なもの」を抱えて生きていて、ジョブズという人間に共鳴しているのだと思います。

 いまの時代を代表する「天才」と比べるなんて、というような発想も、たぶん「凡人のもの」でしかありません。

 きっと、この世の中には、「その人がやったことが周りには理解できなくて、単なる変人として一生を終えた、スティーブ・ジョブズ的なメンタリティを持った人」がたくさんいたはずです。

 今も、きっと少なからず存在しているのでしょう。

 『嫌われる勇気』を読んで、「なるほど!」とか言っている人間は、きっと「切実」ではないんですよね。

 もちろん、僕も含めて。


 僕には、こういう人たちの生き方は、真似できない。

 こんなふうに、自分の子どもを育てることも、無理。

 でも、こういう人の存在は、普通に生きている人間にとっても、「ああ、人間って、生きづらそうな人でも、案外、居場所ってあるものなのだな」という安全弁みたいなものでもあるのです。

 

 これを読んでいて驚かされたのが、ヤマザキマリさんという人の「教養」の深さでした。

 有名大学で専門的な研究をしたわけではないけれど、ヤマザキさんは若い頃からイタリアという国で絵を学ぶのと同時に、芸術家たちと交流し、彼らから「読んでおくべき本」「見ておくべき芸術作品」などを教わり(ときには彼らにも教え)、吸収しつづけてきたのです。

 また、「ヨーロッパ人が評価した日本文化」についても、学んでいったのです。

 ヤマザキさんが歴史や美術のみならず、日本や世界の文学について、こんなに深い知識を持っていたんですね。

 恥ずかしい話なのですが、僕のなかでは、ヤマザキマリさんという人は、「歴史好きと人並み外れた度胸と行動力、そして運を活かして、漫画を描いて成功した人」というイメージだったのです。

 ガルシア=マルケスや三島由紀夫はもちろん、安部公房やイタリア映画の鬼才、パゾリーニ監督、そして、『21エモン』や『日本沈没』。

 ものすごく幅広く読んだり観たりされていて、ただ消費するだけでなく、その「意味」についても、考え抜こうとしている。

 ヤマザキさんは博覧強記の人で、「小松左京さんと気が合いそう」というのも、よくわかります。

 これを読んでいて、「安部公房の作品くらいは、僕もちゃんと読んでおかなくては」と思いました。

 いやほんと、山口果林さんを愛人にしていたことだけ知っていても、ダメだよな、と。


 パゾリーニにしろ、プリニウスにしろ、いろんな政治的な軋轢の中で生きてきた人たちですから、そこで押しつぶされないために、現実をバリバリ咀嚼する丈夫な胃袋を持っていたと思うんです。

 彼らが持っていた膨大な知識量は伊達じゃないんですね。彼らにとって教養というのは、単にひけらかすためのお飾りじゃなくて、現実を生き抜くための具体的な力、進むべき道を切り開くための飛び道具みたいなところがある。

 知識をそこまで鍛えあげるには、やっぱり、自分ひとりで抱え込んでいたのではだめで、常にアウトプットして、人とコミュニケーションすることが必要。

 これは私もイタリアで痛感したことですが、教養を高めるといっても「自分はたくさん本を読んだからいいわ」という話ではないんですね。見て読んで知ったら、今度はそれを言葉に転換していく。

 これって、日本人に欠けているところではないかと思われます。

 さまざまな国籍、文化、背景を持った人たちが一緒に生活している場所では「言わなくてもわかってくれる」はあり得ない。ヨーロッパの社会においては「自分の考えをアウトプットすること」は必須の能力でもあるんです。

 ただし、それはいわゆるディベートとは違う。自己主張して、相手を圧倒することではないし、ましてや優劣や勝ち負けを競うものでもない。考えていることをアウトプットすることで、彼らは、教養に経験を積ませているんです。そうして、教養をよりブラッシュアップして、深化させていく。

 日本にも、60年代くらいまでは、こういうタイプの知識人がいたと思うのですが。


 僕は60年代を知らないので、その時代の日本にそういう知識人がいたかどうかはわかりません。

 ただ、こうしてネットで書いたりしていると、どうしても「自分のほうがよく知っている」とか「お前のこれは間違いだ」みたいな「優越感ゲーム」になりがちなんですよね。

 誰か、何かと「勝負」してしまう。

 「考えていることをアウトプットすることで、教養に経験を積ませる」というのは、本来「ネット向き」のはずなのに、それを実践するのは(僕にとっては)難しい。


 ヤマザキマリさんって、こんな教養人だったのか!と驚かされる新書であり、いろんな点で、「こんなやり方もあるのか」と考えさせられます。

 鵜呑みして全部真似することはできないけれど、それは百も承知で、ヤマザキさんは、書いているはずです。


「こんな人間もいるんだけど、あなたは、どう思う?」

 こういう生き方の粗をさがすのではなく、まずは面白がってみることが、「枠の外に出てみる」第一歩なのかもしれませんね。

 

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