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2014-07-24 【読書感想】ハジの多い人生

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ハジの多い人生

ハジの多い人生

内容(「BOOK」データベースより)

文化系WEB女子改めハジッコ女子・岡田育の自伝的エッセイ集。デジタルコンテンツプラットフォーム「cakes」の人気連載がついに書籍化!!


岡田育さんのエッセイ、ずっと楽しみに読んでいます。

僕のような土着系オヤジには縁のない、お洒落な文科系女子の世界って、こんな感じなのかなあ、などと思いつつ。

その岡田さんのエッセイが本にまとめられたのがこれ。

「cakes」で連載されていたもので、ネットでけっこう話題になった岡田さんの結婚についての話は、この本には出てきません。

というか、ここに書かれている範囲には、まったく「結婚しそうな感じ」が無いんだよなあ。

いや、「結婚しそうな感じ」って、どんな感じかと問われると、困ってしまうのですけど、なんとなく。


「自伝的エッセイ」を銘打たれているだけあって、「本当に手がかからない子供だった」という物心ついたときの話から、周りが女性ばかりの環境で「男役」として生きたことへの感慨など、読んだだけで、「女の半生」を伴走してきたような気分に、少しだけなります。

そして、岡田さんがこれほどまでに「自分のことを、ちゃんと記憶している」ことに、圧倒されてしまうのです。

 ところで、日本語圏ウェブの世界では、ある一人の賢くて小さな女の子がTwitterを使い、彼女自身の言葉でユニークな意見を全世界発信するときに、一人前の個人として扱われる機会より、バッシングされる頻度のほうが、ずっと高かったりする。曰く、「子供のくせに社会を知ったふうに、不特定多数の前で大人のような口をきく」「子供はもっと子供らしく振る舞うべきだ」「あんなマセガキは、将来ろくな大人にならない」……6歳から満員電車に乗っていた私に言わせれば、笑止千万である。

 子供たちは、ほんの僅かな新しい体験から、じつに多くのことを吸収し、学び、みずからの糧として、成長していく。彼ら彼女らは、ものを考えていないのではない。言葉にしていないのでもない。じっと見聞きして、頭の中で整理整頓し、あらゆる事象を自分自身の思考として体得していく。泣き声を言葉に換えるのが他よりも早い乳幼児がいれば、思考を発信するスキルの習得が他よりも早い児童もいる。それだけの話だ。

 彼女が大人びているのではない。大人が子供じみているのだ。大人が子供じみたことを言うのは、かつて自分が子供だったことを、子供だったとき(彼女と同じように!)じっと見聞きし頭の中で考えていたことを、すっかり忘れてしまっているからだ。


ある有名な女性作家が「作家になるために必要な資質は?」と問われて、「過去、とくに子どもの頃の記憶を、失わずに持ちつづけていることだ」と語っていました。

岡田さんのエッセイには、まさにその「子どもの頃、悩んでいたこと、傷ついていたことを当時セーブしたものが、今、そのままロードされ、目の前に供されているような空気感」があるのです。


大部分の人は、大人になっていく課程で、いろんなことを忘れて、無かったことにしてしまう。

あるいは、自分が「子どもらしい子ども」だったと、無意識に記憶を改変してしまう。

そして、「いまの若い者は……」と居酒屋で愚痴をこぼす。

みんな、自分が子どもだった頃は「子どもは子どもらしくしろ!」って言う大人が、大嫌いだったはずなんですよ。

ところが、そんな大人に「ならぬつもりが、なっていた」(by 千昌夫)。


岡田さんは、忘れていない。

でも、それを「トラウマ」として、みんなの前で振り回すわけでもない。

自分自身さえ、軽く突き放し、どこか他人事のように、「報告」しているのです。


 私には恋愛感情というものが、よくわからない。「一緒にごはん食べる回数が増えるほど、相手に情が移る」と言われたほうが、まだしっくりくる。食う、寝る、遊ぶ、というけれど、誰かと二人で一緒に何かをして、情が移る……「情伝導率」が圧倒的に高いのは、寝るより遊ぶより、「食う」だよなぁと思う。恋人に限らず、友達や仕事の同僚でも、そうだ。美味い飯を食った幸福な体験に限らず、不味い飯を食ったひどい体験だってそうなのだ。

 昔の恋人や好きだった人が今どこで何してようが知ったこっちゃないのだが、ふと思い出すときには「ちゃんとごはん食べてるのかしら、誰かと」ということばかりが気にかかる。私は家でまったく料理をしない、とくに、他人を我が家に招いて手料理を振る舞うといったことはおそらく人生で一度も経験がないので、「食べる」といえばほとんど外食の意味なのだけど。ともすれば、かつて「私を家に一人ほっといて、他の誰かとごはんを食べてるなんて!」などと胸をいためていたあの頃よりも、彼らにとって何者でもなくなった今のほうがはるかに、静かに深く、気にかかる。


「自分には恋愛感情というものが、よくわからない」ということが「わかってしまった」人は、いまの世の中では、けっこう生きづらいのではないかと思うのです。

それがわかっているようにふるまうこと、恋愛に興味があると他者にアピールすることが「コミュニケーション」だとみなされがちだから。

でも、インターネット時代になって、より多くの人に向かって、「広く浅く」声を届けられるようになると「実は私もそうなんです」という人が、けっこういることもわかってきます。


 こういう人生になったことを、恥じてはいない。とはいえ、特別に誇らしくも思ってはいない。マジョリティに属することで満たされたことはない。マイノリティに属すことで消え入りそうに感じることもない。「恥の多い生涯を送って来ました」は太宰治人間失格』の書き出しだが、それを言うなら「ハジの多い人生を送っています」である。感慨もなくただ事実として、現在進行形として、「中心」ではなく「周縁」、それだけのことだ。


ただ、それだけのこと、なんですよね。

でも、「それだけのこと」を、こうやって、文章にして、「表現」したくなるのは、なぜなんだろう?

本当に「それだけ」なら、淡々と日常生活を続ければ良いのではないか。


岡田さんほど「自分の人生を、突き放している」一方で、「自分の人生を、興味深く観察し、記録している」人って、あんまりいないんじゃないかな。

だから、このエッセイ集は、面白い。

だけど、岡田さんがいる場所は「ハジ」っていっても、「メインステージの周縁」なんだろうな、とも、少しだけ思うのです。

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2014-07-23 【読書感想】ルポ 電王戦―人間 vs. コンピュータの真実

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Kindle版もあります。


内容紹介

なぜプロ棋士は敗れたのか?


プロ将棋棋士とコンピュータが真剣勝負を繰り広げる電王戦シリーズ。今年おこなわれた第3回大会は、プロ棋士側の1勝4敗に終わった。かつてはルールすら守れなかったコンピュータは、いかにしてプロ棋士を凌駕したのか? そして、現役のトップ棋士たちはこの結果に何を思うのか――? コンピュータ将棋に精通する著者が、丹念な取材のもとに書き下ろす迫真のルポルタージュ。


この新書、書店で見かけたときには、2014年に行われた「第3回電王戦」について書かれたものだと思い込んでいました。

購入して読んでみると、今回の電王戦のみならず、これまでの「コンピュータ将棋の歴史」について俯瞰したものだったのです。

それが悪いというわけじゃなくて、読みながら、「ああ、そうだよなあ。人間が作り上げてきた、コンピュータ将棋というものは、こうしてプロ棋士と互角以上に戦えるようになったのだから、一度『総括』されて然るべき時期なんだよなあ」と感慨深いものがありました。


この新書によると、コンピュータと将棋の縁のはじまりは、1967年でした。

まだ僕が生まれる前の話で、コンピュータ将棋には意外に長い歴史があることがわかります。

そのとき、日立の大型コンピュータが指したのは「詰将棋」。

ルールのなかで、ひとつの正解に向かって試行錯誤しながら収束していく詰将棋は、対局に比べると、コンピュータには処理しやすかったのです。

ちなみに、『週刊朝日』の誌上で、当時(1967年)「人間対コンピュータ」の詰将棋早解き勝負が行われていますが、「人間側からみて、49勝53敗」という結果でした。

人間側は、プロ棋士ではなくても、それなりに腕に覚えのある有識者たちが登場していますから、詰め将棋に関しては、50年前の時点で、かなりの実力があったと言えそうです。

現在、2014年でも「コンピュータは(とくに)終盤に強い」というのが定説となっており、人間側は、いかにして前半にリードをつくり、それを維持していくか、というのが「攻略法」なんですよね。

この新書を読んでいると、人間にとって「間違わない」というのは、かなり難しいことなのだなあ、と痛感します。


詰将棋には早い時期から実力を発揮していたコンピュータですが、対局となると、取った齣を使えるなど、圧倒的に自由度が高いため、なかなか人間とまともに戦えるレベルにはならなかったのです。

 1985年はコンピュータ将棋の歴史にとっては画期的な年となった。森田(和郎)がパソコン用のソフト「森田和郎の将棋」を開発し、発売したのだ。ルール通りに動くのはもちろんのこと、基本的な定跡も入っている。また、簡単な詰みであれば、詰ますこともできる。ただし、考慮時間はかなりかかる。アマ有段の実力者から見れば、まだまだ強いとは言いがたい。それでも多くの初心者にとっては(いつの時代もどんな分野でも、一番多いのは初心者である)楽しく遊べるレベルだった。本格的な将棋ソフトが自宅のパソコンで指せるようになったのは画期的なことだった。

ちなみにこの1985年には、セタからファミコンの『本将棋 内藤九段将棋秘伝』が発売されており、僕もそれを持っていました。

当時(というか今でも)初心者だった僕にとっては「なかなかやるじゃん」というくらいの実力でした。

相手を強くすると、思考時間がものすごくかかっていたんだよなあ、途中で眠くなってしまうくらいに。


ようやく「コンピュータと対局できるソフト」が登場してから、30年。

上級者にとっては「まあ、暇つぶしの相手にくらいはなるか」という存在だったコンピュータ将棋は、いまや、「人間のトップクラスと遜色ない強さ」になりました。


この新書を読んでいると、ある1本のコンピュータ将棋ソフトが、大きな「歴史を動かすきっかけ」となったことがわかります。

 2005年に起こった三つ目の重大事件。それは、コンピュータ将棋の歴史を変えるものだった。コンピュータ将棋界のブレイクスルーは、その本流とはかけ離れたところから、ある日、突然やってきた。

 2005年6月、広大なネット空間の片隅に、

Bonanza-The Computer Shogi Program」

 という名の、テキストだけの簡素なページが、ひっそりと立ち上がった。

Bonanzaはコンピュータ将棋プログラムです。本将棋を指すことができます」

 と説明書きもきわめてシンプルだ。わずか2.5メガという軽い容量のソフトが置かれていて、誰でもフリーでダウンロードできて、すぐに遊べる。そして強い。あきれるほどに強い。

 噂はネットを通じて、あっという間に将棋フリークの間に広まっていった。当然私もすぐにダウンロードして指してみた。指してみると、勝てない。強い上に、人間とはもちろん、これまでのソフトと比べて、指し手の感触がどこか違う。何度か指してみて、理解した。これはおそろしいソフトが現れたのだと。


この、保木邦仁さんが開発した『Bonanza』と、保木さんの思想が、コンピュータ将棋を大きく進化させたのです。

 人間であるか、コンピュータであるかにかかわらず、将棋は読みと大局観が二本の柱である。

 Bonanzaは、読みに関しては「全幅検索」、大局観、すなわち形勢判断を評価値として数値化する評価関数については「機械学習」という点に特徴がある。

 まず読みについて考えてみよう。将棋の読みは「広く深く」が理想である。しかし人間にも、そしてもちろんコンピュータにも、能力に限界がある。では広さと深さ、どちらを優先すべきであろうか。

 わかりやすく言うと、Bonanzaが採用した全幅検索は「広く浅く」、かつて多くのソフトが採用していた選択的探索は「狭く深く」が基本となる。

「なぜ開発者の棋力が初心者レベルだというのに、これほどにまで強いプログラムを作れるのか?」

 将棋関係者の誰もが思ったその疑問の答えは、コンピュータチェスの手法を参考にした機械学習にある。

 これまでは人間が「駒の相場」や「玉の安全度」などの評価項目の基準を、人間の頭で考えて、コンピュータに教えてきた。しかし機械学習では自動的に、コンピュータ自身に評価項目と、その基準を考えさせようというのだ。その教材は、人間の指し手を記録した棋譜である。Bonanzaは江戸時代からの数万局以上にも及ぶ棋譜を教材とした。手順を丸暗記しようというのではない。局面を解析して、人間が指しているいい形を学ぶのだ。

 そうしてBonanzaは自動的に学習を進めていき、保木が何も教えることもなく、自分で強くなっていった。

 この機械学習の手法は、2006年、保木自身の手によって発表された。以後は開発者の間では「Bonanzaメソッド」と呼ばれるようになる。このBonanzaメソッドこそが、コンピュータ将棋発展のためのブレイクスルーとなった。

 2009年1月、保木はBonanza最新版のソースコードを公開した。これも開発者たちにとっては、衝撃的なことだった。Bonanzaは以後、誰もが自由に改変して使っていいというのだから。


アマチュア棋士が組んだプログラムが、プロ棋士に勝つ。

僕は以前、「結局のところ、プログラムは、それを作った人以上に強くはなれないのではないか」と思い込んでいたのです。

ところが、現在の将棋ソフトは、自ら学んで、どんどん強くなっていく。

生みの親であるプログラマーが寝ている間も、「勉強」を続けて。

プロ棋士が書いた本を読んでいると、彼らもコンピュータ時代になって、過去の棋譜をデータベース化し、これまでの歴史上の棋士よりはるかに効率的に「研究」をしているのです。

つまり、現在の将棋界というのは、人間とコンピュータが似たようなことをやっている。

いくら棋士が天才ぞろいとはいっても、両者の「処理速度」には、圧倒的な差がある。

人間がコンピュータに勝てなくなってしまったのは「必然」のように思われます。


「手法や、ソースコードの公開」というのは、Bonanzaに、そして保木さんにとっては、何も実利はもたらさなかったはずです。

「敵に塩を送りまくる行為」だったのだから。

でも、これがコンピュータ将棋界全体にとっては、大きな進歩につながった。

何でもすぐ「コストパフォーマンス」とか「利益のために」という話になりがちな最近の世の中で、コンピュータ将棋というのは、「エンジニアたちの良心と矜持」が残っていた、数少ない領域だったのです。

それも「彼らが、お金のためにではなく、趣味としてやってきたからこそ」「人間に勝てるコンピュータ将棋をつくるという同じ目標を持つ仲間としてやってきたからこそ」でした。


コンピュータがこれだけ強くなってくると、新たな潮流も生まれてきます。

 電王トーナメントで異彩を放っていたのが、磯崎元洋が開発した「やねうら王」だった。磯崎はソフト同士が常日頃から連続で自動的に対局するサーバfloodgateで、強豪ソフト同士の対戦でも、意外とワンサイドゲームになっている棋譜が多いことに注目した。その中には、ソフトがはまりやすい進行が含まれている。それらを抽出して定跡化すれば、ソフトに対しての勝率は上がるのではないか。それがやねうら王が搭載している「やねうら定跡」のコンセプトだ。いわば、アンチコンピュータ戦略、「裏定跡」を専門とするコンピュータソフトが現れたわけだ。対人間ではなく、対ソフトという目的に限れば、なるほど合理的な考え方かもしれない。


「人間に勝つためのコンピュータ」から、「コンピュータに勝つためのコンピュータ」へ。

人間のプロ棋士どうしの対局でも、タイトル戦の前などは、相手の指し手や癖をキッチリ研究して臨むことが多いようです。

人間も、コンピュータに勝つために、コンピュータの癖を読む、プログラムの隙をつく、というのがいちばんの「攻略法」ではないかと認識されてきています。

そして、コンピュータもまた、コンピュータどうしの対局に勝つために「相手の癖を読む」ようになっているのです。

コンピュータ将棋が、ある意味、どんどん「人間的」になってきているんですよね。


「もし自分の息子がなれるのであれば、棋士は勧めたい職業でした。好きなことで生活ができ、自由で制約がない。でもこの先は、あまり人に勧められなくなるのかもしれません。自分は現在30歳です。棋士になり、将棋を職業として、ギリギリよかった、という最後の世代となってしまうのかもしれません」

 電王戦で棋士が二年連続でコンピュータに負け越したという現実を踏まえた上で、渡辺明は危機感を持って、そう語っていた。

 米長邦雄は第一回電王戦で自身がコンピュータに敗れた後、人間とコンピュータの関係を、「駅伝やマラソンと、車のような関係」と喩えた。人は、ランナーの汗に感動するものである、と。

 電王戦以前から将棋界では、コンピュータが次第に強くなるにつれ、「車と競走」の喩えが使われることが多くなってきた。実は、コンピュータの分野では将棋に先行するチェスでは、すでに1980年代半ばには、その喩えが使われている。おおよそ、

「人間は、人間が作った車と走る勝負をしても勝てない。しかし、人間同士の陸上競技の競走はなくならず、依然人々の感動を呼んでいる」

 という趣旨である。

 なるほど、言われてみればその通りである、と納得する人も多いだろう。その一方で、「いや、それとこれとは、ちょっと話が違うんじゃないか」と感じる人もいるだろう。


 将棋界が最近とくに盛り上がっているのは、なんといっても「人間対コンピュータ」というのが、多くの人の関心を呼んでいるおかげだと思うのです。

 もちろん、プロ棋士どうしの勝負も面白いのだけれども、いつか来るであろう(もう来てしまった、と言うべきなのかもしれませんが)「コンピュータが人間を超える歴史的な日」が、いつ訪れ、そして、そのときに人間はどうふるまうのか。

 それはまさに「歴史的な瞬間」なんですよね。

 もし、オセロやチェスのように「コンピュータのほうが強い」ことが当然になってしまえば、人間のチャンピオンに敬意は払いつつも、「でも、僕のパソコンで動くソフトよりも弱いんだよね」とか、つい頭をよぎってしまうはず。


 40代前半の羽生さんは、現役のうちにコンピュータ将棋と「真剣勝負」をするのだろうか?

 年齢的には、「勝負を避けようと思えば、なんとか避けたまま引退できる」。

 戦って勝ち、「人間の意地」を見せてもらいたい気持ちもあるし、羽生さんが負けてしまったら、「棋士という天才への幻想」が、陰ってしまう怖さもあります。

 ただ、渡辺明さんの世代となると、「もう逃げきれない」とは思うんですよね。

 あとは、誰が、いつ、どのようにして、『人間の王としての敗者』の役割を引き受けることになるのか。

 これからも、将棋というゲームが無くなってしまうことはないだろうけど、コンピュータ将棋選手権が、真の「名人戦」だと認められる時代は、もうすぐそこまで来ているのかもしれません。

 

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2014-07-22 【読書感想】紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている

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紙つなげ!  彼らが本の紙を造っている

紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている

内容(「BOOK」データベースより)

「8号(出版用紙を製造する巨大マシン)が止まるときは、この国の出版が倒れる時です」―2011年3月11日、宮城県石巻市の日本製紙石巻工場は津波に呑みこまれ、完全に機能停止した。製紙工場には「何があっても絶対に紙を供給し続ける」という出版社との約束がある。しかし状況は、従業員の誰もが「工場は死んだ」と口にするほど絶望的だった。にもかかわらず、工場長は半年での復興を宣言。その日から、従業員たちの闘いが始まった。食料を入手するのも容易ではなく、電気もガスも水道も復旧していない状態での作業は、困難を極めた。東京の本社営業部と石巻工場の間の意見の対立さえ生まれた。だが、従業員はみな、工場のため、石巻のため、そして、出版社と本を待つ読者のために力を尽くした。震災の絶望から、工場の復興までを徹底取材した傑作ノンフィクション。


この本のなかで、瓦礫や汚泥に埋まった機械を復旧する場面を読みながら、僕は、百田尚樹さんの『海賊とよばれた男』の冒頭を思い出していました。

太平洋戦争に敗れた日本は、国じゅうが瓦礫の山となり、人びとは食べるものにも困窮します。

そんななかでも『出光』は一歩ずつ、復興の階段をのぼりつづけていったのです。

社員たちが、タンクのなかで、油まみれになり、疲労困憊しながらの作業を続けて。


僕は九州在住ですので、直接被災したわけではありません。

だから、被災した人たちと、同じ目線でみることはできないのです。

でも、この「日本製紙石巻工場」の復興までの道のりを読んでいくと、いろんなことを考えてしまいます。

彼らは、なぜ、ここまでの困難を乗り越えて、あえて「石巻での復興」を選んだのか?

そして、日常では忌み嫌われるような「会社への身を粉にしての貢献と忠誠」というのは、こうして「大震災」を背景にすると、なんと美しくみえてしまうのなのか。


「非常時」だから、しょうがない。

たしかに、そうなのだと思います。

それぞれの人びとが、悲しみを乗り越えるために団結するには「会社を蘇らせること」が必要だったのもわかります。

「社畜になるな!」と言えるのは、自分たちの属している世界に、まだ余裕があるからではないのか?


紹介されている、社員たちの証言を読んでいると、震災時も「津波が来る」ということに対して、半信半疑、あるいは懐疑的で、「家の様子を見に帰りたい」と訴えていた人も多かったのです。

東北地方の太平洋沿岸の人たちは、過去の経験もあり、津波に対する心構えができていた、と言われています。

それでも、実際にそれを目の当たりにするまで、かなりの人が実感できていなかった。

 従業員たちは、なかなか持ち場を離れたがらない。避難命令が下ったからといってただちに作業を中止して避難できるほど、オペレーションは単純なものではないのだ。

 ボイラーを担当している原動課課長、玉井照彦(45)はラガーマンのような体格の持ち主で、この震災にあっても、外見に違わずどっしりと構えていた。

「たとえ津波が来ても、チャポチャポって足元が浸かる程度だろうと思いました。大きなものなんか、警報が出ても来たためしがないでしょう? たいていは数センチ海面が浮くぐらいなもんなんですよ。『津波なんてそんなもんだろう』と思いました。それよりも、タービンの方が気になった」


津波が来る前に避難先から、「ちょっと家の様子をみてくる」と引き返していった人たちは、もう、戻ってこなかったそうです。


日本製紙は、日本の出版用紙の約4割を担っていました。

その主力である石巻工場の再興は、日本の出版界の命運も握っていたのです。


三浦しをんさんの『舟を編む』には、辞書編纂者たちの「めくったときの紙の感触へのこだわり」が描かれています。

「紙」という言葉にまとめられているものには、実際は、さまざまな色や厚さのものがあるのです。

 印刷用紙には、用途に応じていろいろな種類がある。たとえば辞書に使われる紙は、極限まで薄く、いくら使っても破けないという耐久性が特徴だ。しかも静電気を帯びないように、特殊加工が施されており、高い技術が要求される。

 雑誌に使われている用紙は、読んでいて楽しさや、面白さを体験できるものであることが求められる。最近よく好まれているのは、紙が厚くて、しかも柔らかく、高級感のあるものだそうだ。読者はめくった時の快楽を無意識のうちに求めているのだろう。

 ところで、雑誌には、たいてい異なる手触りのページが何種類か含まれている。

 雑誌の中に挟む込まれた、異なる質感の紙をアクセントページという。これは「ここから違う特集が始まりますよ」という合図であるとともに、異なった「めくり感」を出すことで、新たな興味を抱いてもらうという演出である。同質の紙ではやがて飽きてしまう。そこでアクセントページの、指先から脳へ伝わる異なった触感が、未知のものへの好奇心をそそるのである。

 文芸の書籍には文芸の紙の選び方というものがある。装幀家や編集者は、原稿に目を通し、作品の中身を咀嚼したうえで紙を選ぶ。

 製紙会社には、紙の作り方と記した門外不出の「レシピ」と言われるものだがある。表面の仕上げに使う薬品など、それぞれの紙の仕上げ方は、長年の研究の上に積み上げたものである。それらもまた、知的財産としてそれぞれの工場内で伝えられている。しかし、「レシピ」だけでは完璧に仕上げることができない。最後の微妙な塩加減が料理人の腕にかかっているように、技術者たちの微調整が完璧な紙を作り上げているのである。


 そのノウハウを蓄積してきた工場が水に沈んだ。石巻工場は間違いなく日本製紙の心臓部であり、出版用紙の供給責任を大きく負っている。しかし紙の市場が、電子化と少子化などの影響で年々縮んでいることは間違いない。特に出版用紙については、この傾向が顕著だ。

 石巻工場を再生させるのか、それとも閉鎖するのか。

 その決断が日本製紙の命運を左右する。社員たちは、そのことを痛いほどわかっていた。


震災後「紙不足」になり、出版物の発行が難しくなるのではないか、というニュースを、僕もかなり見ました。

しかしながら、実際は(少なくとも表向きには)、「紙不足で出なかった雑誌や本」には気づきませんでした。

関係者の不断の努力で確保されたであろう紙の出版物を、僕はそんなことは意識せずに、ずっと読んでいたことになります。


そして、「日本製紙石巻工場」は、必ずしも「再生されるのが当たり前」ではなかったのです。

かねてからの出版不況もあり、今後も同様の災害のリスクが消えるわけではありません。

工場内は瓦礫と泥の山で、電気もしばらくは通らず、復旧作業には多大なコストがかかります。

出版用紙の需要は、ネットや電子書籍によって、今後も減っていくでしょう。

「このまま閉鎖する」という選択肢も、ありえたのです。

もし、この工場が閉鎖されていたら、日本の出版文化の「電子書籍化」が、急速に起こっていたかもしれません。


当時の工場長だった倉田さんは、あまりにも厳しい「目標」を掲げました。

 倉田の話は続く。

「まず、復興の期限を切ることが重要だと思う。全部のマシンを立ち上げる必要はない。まず一台を動かす。そうすれば内外に復興を宣言でき、従業員たちもはずみがつくだろう」

「はい」

 課長たちは思わず身を乗り出す。

「まず、一台でいいんだ……」

 なるほど、まず一台動かせば、工場の復活を印象づけられる。

 ところが次の瞬間、倉田は表情を変えることもなく、課長たちが耳を疑うようなことを言い始めた。

「そこで期限を切る。半年、期限は半年だ」

「えっ?」

 一同唖然として、驚きのあまり声も出なかった。

<……半年?>

 誰も面と向かって異議を唱えようとする者はいない。

 しかし、関西出身の金森は反射的に心の中でこう叫んだ。

<アホか、おっさん! できるか!>

 倉田もあの惨状を見ているはずだ。瓦礫と汚泥がうずたかく積もり、どこから工場でどこから外かもわからない廃墟を、それを半年復興とは。うちの工場長は寝ぼけてでもいるのか。


日本製紙の奇跡的な半年での「再起動」には、社員たちの不屈の努力があったのです。

そのおかげで、「紙の出版文化」は延命されました。

日本製紙のスタッフたちの再生への献身的な努力には「紙の出版文化が失われてしまうことへの危機感」もあったはずです。


それにしても、この本に掲載されているカラー写真で「惨状」を目の当たりにすると、半年とかいう話じゃなくて、この工場を再生させることができたこと自体に驚いてしまいます。


日本製紙石巻工場の再生、という明るい話題の一方で、著者は、被災地の人びとの悲しみにも「格差」があったことや、不法行為が行われていたことも書いています。

 その頃多くの生き残った者が、何らかの複雑な感情を抱えていた。命があった者は命を失った者に、家族が無事だった者は家族を失った者に、家が残った者は家を失った者に、それぞれ、負い目とも罪悪感ともつかない感情を抱えていた。

 彼らには、不平を言ったり、弱音を吐いたりすることなど、思いもよらなかった。

 動ける自分たちができることをする。仕事があるのはむしろ気が紛れた。


著者が取材をしたある居酒屋店主は、こんな話を聞かせてくれたそうです。

 石巻駅前から家までを往復する日々。街は昼間でも人影がない。嫌でも不審者がぶらついているのが目に入った。彼は、ファミリーマートを二、三家族が集団で襲撃しているのを目撃した。彼らは店に入り込むと、しばらくして商品を両手に抱えて出てきた。

「あいつら、ピクニック気分かよ」

 生きるためにやっているのではないのは、すぐにわかった。彼らが抱えていたのはビールのケースだったのだ。

 自然災害で店が壊れてしまったのなら、それは運命とあきらめもつくかもしれない。だが津浪の被害は免れたのに、この店は人間の力で壊されたのだ。窃盗犯の顔を見れば、唇にはうっすらと笑みすら浮かんでいる。

 路上に止めてあった車には、ポリタンクを持った男女が群がっている。ガソリンを狙っているのだ。こちらも犯人は家族連れに見えた、渡辺は人心の荒廃にうすら寒いものを感じた。


全体として考えれば、被災した人びとは、冷静かつ利他的に行動していたと思うのです。

ただし、そこには「例外」もあった。

この「無法者たちの表情」については、目撃した人の主観に基づくものですし、ある意味、「振り切れて」いなければ、こんなことはできなかったのかもしれません。

でも、「被災地には、こんな現実があった」のは事実です。

僕だって、本当に食べ物に困ったり、子供が寒そうにしていれば、略奪をやらないとも限らない。

「生きるために、仕方なく」であれば、理解はできるんですよ。

ただ、ここに挙げられている事例は「混乱に乗じて、自分の欲望を満たす行為」にしか見えません。


著者は、新日本製紙の復興という「美しいもの」を描くのと同時に、「震災の現場は、美談だけが生まれていたのではない」ことも、あえて紹介しているのです。

生き残った人たちも、「自分の目の前で失われてしまった命」に対して、責任を感じ続けずにはいられない。

第三者からみれば、「自分の身を守るのに、精一杯の状況」であったとしても。


このノンフィクションを読みながら、自分が読んでいる本の「手触り」を確かめたくなることが、何度もありました。

紙の本があるのは「あたりまえ」だと思い込んでいるけれど、どこかで誰かが文章を書き、紙をつくり、印刷し、製本しているからこそ、この本は、ここにある。

そのリレーのどこかひとつでも欠けてしまったら、僕は、この本を読むことができなかったのです。

こんなに簡単に本が読むことができるのが「あたりまえ」の世の中って、すごいんだよね。

 8号の親分、憲昭は今も石巻の8号マシンで紙を作り続けている。

 なぜそこまでして石巻工場を復興させ、紙を作ろうとするのだろう。憲昭と娘の礼菜に話を聞いた。

「いつも部下たちには、こう言って聞かせるんですよ。『お前ら、書店さんにワンコインを握りしめてコロコロコミックを買いにくるお子さんのことを思い浮かべて作れ』と。小さくて柔らかい手でページをめくっても、手が切れたりしないでしょう? あれはすごい技術なんですよ。一枚の紙を厚くすると、こしが強くなって指を切っちゃう。そこで、パルプの繊維結合を弱めながら、それでもふわっと厚手の紙になるように開発してあるんです」

 子どもも、そしてかつて子どもだった大人も夢中になって読んだ漫画雑誌の一枚、一枚の手触りに、彼ら無名の職人たちの矜持と優しさがこもっている。

「衰退産業なんて言われているけど、紙はなくならない。自分が回している時はなくさない。書籍など出版物の最後のラインが8号です。8号が止まるときは、出版がダメになる時です。ネットが全盛の世の中ですが、もしかしたら、サーバーがパンクして世界中の情報が焼失しちゃうということだってあるかもしれないでしょう。その日のためにも、自分たちが紙を作り続けなければと思っています。

2014-07-21 【読書感想】マネる技術

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マネる技術 (講談社+α新書)

マネる技術 (講談社+α新書)


内容紹介

ものまね四天王」として一世を風靡したコロッケさん。その卓越したものまねは、もはや真似ではなく、オリジナルパフォーマンス芸の域に達し、いまでは海外からも認められる世界的なエンターテイナーとしての地位を確立しています。中でも、人体工学、機械工学の研究者もうならせるロボットパフォーマンス、顔の表情と声を異なる人物で演じるパフォーマンスは圧巻の至芸。止まることなく進化を続ける「レジェンド」です。

本書では、そんなコロッケさんが、自身の真似て、表現して、独自の創造を行うまでの秘密、また、常に第一線で居続けるための秘訣を初めて開陳します。

働く人から学生まで、先人の知恵、情報、技術を真似て、学んで、自分なりのスタイルを確立していきます。その「守破離」のプロセスは、コロッケさんが日々突き詰めてきたこととまったく同じ。一流の表現者の創造の秘密を知る面白さと、自分自身に生かす知恵が融合する、楽しく読めてためになる1冊です。


ものまね界の大御所、コロッケさん。

この本を読みながら、「そういえば、『お笑いスター誕生』の頃、まだ売り出し中だったコロッケさんを、僕は学生時代に観ていたんだなあ」と思い出してしまいました。

「ものまね」をやる人はたくさんいるけれど、コロッケさんは、本当に息の長い活躍をされています。

最初に「ネタ」として観たときには「すごく面白いんだけど、なんだか誰の真似なんだか、わからなくなってる……これは一発芸みたいなもんだよなあ」と感じた記憶があります。

タモリさんに対しても、同じように「これはなんだか面白いような気がするけれど、よくわかんないなあ」とか思っていたので、僕の芸を見る目がない、ということなのかもしれませんが。


コロッケさんは、自らのものまねの「コツ」について、こんなふうに語っておられます。

 第一印象で安易に相手を判断してしまうと、その人の「本質」を見極められなくなる気がしてならないのです。だから私自身は、第一印象では何も決めないし、決め付けないことにしています。とにかく、常にフラットな心持ちで接することを心がけているんです。

 どんな人でも、性格や思考はそれぞれ実に興味深いものですし、多面性を備えてもいます。だから、ある一面だけを見てその人を言い当てるなんて不可能! むしろ、あえて決め付けずに観察し続けることが、相手の本質を読み解くうえでは大切、というのが私の考えなのです。

 だから私は、第一印象で決め付けることなく、ひたすら「観る」ことから始めます。とりわけ、その人の「仕草」に注目します。たとえば首をかしげる、眼鏡を指で上げるといった小さな仕草のひとつひとつに注目して、ディテールを積み上げていきます。そうしてその断片を集めた集合体こそ、その人の総体だと捉えるようにしているのです。


「対象全体を理解しようとする」のではなくて、小さな仕草のような「ディテール」を積み上げることによって、「総体」らしきものが見えてくるのだそうです。

 ものまねにおける「その人らしさ」というのは、むしろ、ディテールに宿っている。


 自分なりに相手の特徴を組み立てた後でも、「Aさんはこういう人!」と決め付けることはしません。相手を見て気になった些細な仕草を元に、自分なりのイメージを膨らませていくことが大切だと思っているからです。

 それには理由があります。

 対象とする人を四六時中観察し、同じ曲を何百回と聴いて完璧にマスターしたところで面白いものまね芸になるとは限らないし、相手の人格を見極めたからといって、ものまねが似るわけでもありません。

 むしろ、固定観念に縛られずに、その人の些細な仕草や言葉遣いの面白さに注目することのほうがはるかに重要です。ディテールにこそ、その人の特徴がより端的に表れていることが多いからです。

 変な先入観を持たない私の場合、見たまま、感じたままの相手の”大まかな雰囲気”を再現することができます。というより、先入観や固定観念がないために、感じ取ったものしか出せません。そこに、その人らしい具体的な癖やポイントをいくつか追加していくと、見た人に「似てる!」と言われるものまね芸になっていきます。

 ところが、わかった気になって決め付けたり、固定観念で相手を見てしまったりすると、相手をまねているつもりでも、実際には自分のなかにあるいくつかのパターンに当てはめるだけになってしまいます。そうして少しも相手の本質には迫れず、面白くもないものまねになってしまう。それで苦労しているものまね芸人をたくさん見てきました。


この「無意識のうちにわかったつもりになり、自分の中のパターンにあてはめてしまう」というのって、ものまね芸人だけが陥るものではないですよね。

世の中の「他人を見る目があるつもり」の人とか、「人間観察が趣味」なんていう人の多くは、実は「あの人は、以前会ったあの人みたいな感じ」と、「自分のなかの類型にあてはめて、わかったつもりになっている」ように思われるのです。

人間はそれぞれ違うはずなのだけれども、その「似ているようにみえるところ」を見ようとするか、「違い」に着目するかで、見えてくる相手の姿は変わってきます。

「周りに面白い人がいない」とか「みんな似たような没個性な連中ばかり」と考えている人は、一度、自分の見方が「パターン化」されていないか、見直してみると良いかもしれません。


また、「まねること」に対する気持ちの障壁についても言及されています。

 何かをまねる際には、まず、凝り固まった自分を捨てる作業が必須です。

 でも、これが意外と難しい。自分を捨てて、スポンジのように何でも吸収できるような状態になりたいのにそれができないとすれば、”邪念”があるのだと思います。

 私は、まねることにはある意味で潔さが必要だと考えています。言い換えれば、前にも述べた「勇気」です。

 たとえば飲み会の席で、ものまねが得意でない人に、「あれ? そこにいるのは田中邦衛さんじゃないですか?」と無茶振りしたとします。おそらく、その人はまねすることを拒絶するか、恥ずかしがって何もしないかのどちらかだと思います。似ていなくても、その場でさっとできる人とどこが違うのか。

 それはやはり、勇気があるかないか。似ているか似ていないかより、大事なのはやるかやらないか、できるかできないか、なのです。

 第一歩を踏み出す勇気さえ持てば、そのあとはスススッと五歩も六歩も前進できるもの。

 憧れている人のどこかひとつを、思い切ってまねてみる。

 毎日繰り返し、まねを重ねていくことで新たなる発見が生まれる。もしかすると、二ヵ月後には、その発見が10個になっているかもしれません。繰り返しまねすることで、まねには変化も生まれていきます。


この「勇気がないんでしょ?」に、反発したくなる気持ちは、僕にもあるんですよ。

でも、40年以上生きてきて、たしかに、こういうのって、「思い切ってやってしまえば、そんなに悪い結果にはならない」というのもわかってきました。


 私も、ものまねをするとき「恥ずかしいな……」と思うことがあります。基本的に”恥知らず”みたいに思われているコロッケですが(笑)、こう見えて、実はけっこうな恥ずかしがり屋なのです。

 逆説的な言い方ですが、現代は”恥ずかしがらないことができない”時代なんじゃないかとも思っています。

 失敗を恐れるばかりで、思い切って何かをすることができない。恥ずかしがらないことができない”若者たちは、とても不幸です。

 居酒屋で注文するときをイメージしてみましょうか。

 店内は賑やかで、手を振って呼んでも、店員さんはなかなか気づいてくれない。そんなとき、どうするか。

「すみませーん!」(できれば笑顔が好ましい)と大きな声で、周りの人も振り向くくらいのボリュームの声で呼ぶしかありません。そんな確実な方法がわかっているのに、大声を出すことができない。


飲食店に一人で入ったとき、なかなかオーダーを取りに来てもらえず、そういうときにもなかなか「すみませーん!」って言えずに、ずっとモジモジしてしまう僕にとっては、これはすごくよくわかる話で。

どうしたら良いか自分でもよくわかっているし、大声を出すことが物理的にできないわけでもないのに、なんだかすごくためらってしまう。

で、しびれをきらして声を出そうとすると、声が裏返ってしまってなんだか恥ずかしい、とかいう繰り返しです。

「恥ずかしがらないことができない時代」っていうのは、なんだかとても、いまの時代の雰囲気を言い表しているなあ、と。


コロッケさんは、自らの「芸」について、こんなふうに仰っています。

 ものまねを仕事にして、それで生計を立てているわたしは、「ものまねのプロ」です。けれど同時に、アマチュア精神を忘れずにいます。

「プロ意識に欠けているぞ」と言われたら、「すみません!」としか返せませんが、おそらくコロッケのものまねには、15パーセントくらいの「アマチュアリズム」が含まれている。また、そうでないといけない気がしています。

 完全な商業的プロフェッショナルもいいけれど、どこか学園祭めいた雰囲気だとか、学生演劇の手作り感とか、そういった要素を大切にしていきたい。私の場合は、子どものころ、あるいは高校生のころに飛び込んだスナックで、私のものまねを笑ってくれた普通の人々の自然な笑顔を忘れないでいたい。だからこそ、「子どものものまねの延長」のような表現を続け、また、それを楽しんでいるのかもしれません。


コロッケさんの「ものまね」って、あまりに飛躍しすぎていて、「これ、もう誰のものまねだか、わからなくなってるよ!」ってツッコミたくなることも多いんですよね。

でも、それが「個性」であり、「武器」になっているんだよなあ。


「芸」の話だけではなくて、いち社会人としてのふるまいについても、考えさせられる新書です。

コロッケさんの真面目さや他人への向き合い方には「こういう面がある人だったのか」と、驚かされました。

「ものまね」で30年以上やっているということは、それだけ、新しいネタを作りつづけているということですしね。

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2014-07-20 【読書感想】破門

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破門 (単行本)

破門 (単行本)


Kindle版もあります。

破門 (角川書店単行本)

破門 (角川書店単行本)

内容(「BOOK」データベースより)

映画製作への出資金を持ち逃げされたヤクザの桑原と建設コンサルタントの二宮。失踪した詐欺師を追い、邪魔なゴロツキふたりを病院送りにした桑原だったが、なんと相手は本家筋の構成員だった。組同士の込みあいに発展した修羅場で、ついに桑原も進退窮まり、生き残りを賭けた大勝負に出るが―!?疫病神コンビVS詐欺師VS本家筋。予想を裏切る展開の連続で悪党たちがシノギを削る大人気ハードボイルド・シリーズの最高到達点!!


第151回直木賞受賞作。

作者の黒川博行さんは、愛媛県出身の65歳で、高校の美術教師を経て作家になり、警察やヤクザ、ばくちなどをテーマにしたハードボイルド小説を書き続けておられるそうです。

この『破門』は、ヤクザの桑原と建設コンサルタント(ということなんですが、僕には正直、この人が「カタギ」とは言いがたいのでは……と思いながら読んでいました)の二宮の「『疫病神』コンビ」を主人公とした5作目。


僕はいままで黒川博行さんの作品は未読だったのですが、今回の受賞をきっかけに手にとってみたのです。

「ハードボイルド」に特に思い入れはなく、「ヤクザもの」は苦手なので、受賞作じゃなかったら、縁がなかったのではないかなあ。

シリーズ5作目ということで、『疫病神』シリーズの1作目から読んだほうが良いのではないか、と逡巡したのですが、このシリーズに関しては、この『破門』から読んでも、とくにわかりづらいところはありませんでした。

シリーズをずっと読んできた人ならば、ニヤリとするような場面もあるのかもしれませんけど。


この作品、読んでいると、なかなか楽しいんですよね。

僕はヤクザ嫌いですが、黒川博行さんって、会話を描くのが上手い人だなあ、と。

けっこう長くて、驚くようなトリックやどんでん返しはなく、ストーリーの起伏にも乏しいこの小説が面白く読めるのは、会話の面白さと「現代ヤクザ事情」がリアルな感じに織り込まれているから、なのだと思います。

 この男も先行きは暗いな――。まともなシノギのないヤクザが、いったいどうやって食っていくのだろう。川坂会直系組織の組員とはいえ、使い走りのその日暮らし、下っ端のまま一生を終えるのは眼に見えている。勤労意欲なし、金づるの女なし、ひとがいい分、貫目に欠ける。

 いまヤクザの下っ端が食えるのはシャブの売買と振り込め詐欺くらいだろうが、シャブは捕まると初犯でも三年から五年の実刑、振り込め詐欺は数百万円の初期投資が要るという。

 そう、セツオのようなヤクザには成り上がっていく道筋がない。経済活動というステージにおいて、個人事業者であるヤクザは堅気の何倍もシノギが厳しいのだ。


まあ、だからといって、ヤクザに「共感」もできないんですけどね……


僕としては、前半は二宮と桑原の会話のやりとりはテンポ良く読めて、なかなか面白かったのだけれども、後半3分の1くらいは息切れしてきて、「ああ、また監禁と暴力と金の話か……」と、食傷気味ではありました。

任侠の世界が好きな人にはたまらないのかもしれないけれど、ストーリー的には「長さの割には、何も起こらない小説だなあ……」とも思ったんですよね。

登場人物は滅法面白いのだけれど、物語は、あまり面白くない。


鈴木敏夫さんが仰っていた、この話に繋がってくるのかもしれません。

 じつはショックだったのは別のこと。若い人に多かった感想です。「何だ、月へ帰っちゃうのか」、こんな感想を言ったのは一人二人じゃない。つまり単にストーリーを追っている。表現を気にしていない。ぼくはいままでずいぶん映画を観てきて、ストーリーなどはおぼろげだが、シーンはいまでもはっきり思い出せるという経験をしてきています。表現の仕方にこそ影響を受けてきた。そういう観方をしないのか。映画に期待しているものがまるで違ってしまっていることにショックを受けたんですよ。現代は、どう表現しているのかがすっとんでしまって、お話の複雑さのほうにだけ関心が向いている、そんな時代なんだなということを、あらためて思い知らされました。


僕も「ストーリーを追うだけで、表現の力に見向きもしない受け手」なのかな……

桑原という、ものすごく暴力的で強面なのだけれど、なんだか憎み切れない、絶滅危惧種的な「ザ・ヤクザ」という人物を「面白い男だなあ」と感じることができれば、それで十分、なのかもしれません。

この桑原って人物、なんだか『龍が如く』の真島吾朗みたいなんですよ。

って言われても、『龍が如く』を知らない人も多いとは思うけど。

「なるべく関わらないようにしたい」と言いつつ、やたら桑原に金をせびりまくる二宮との関係の腐れ縁っぷりは、「ああ、なんかこういう『非建設的なんだけど、離れられない二人』っているよね」と、妙な説得力がありました。


黒川さんは、どんなふうに取材をして、こんな会話とか、凹凸のある人間像をつくりだしているのだろうか。


率直なところ、「よくできているとは思うけれど、僕にはあまり向いていない小説」であり、「ストーリーの起伏よりも、人間関係を丁寧に描いた小説が好きな人のための作品」だと思います。


疫病神 (新潮文庫)

疫病神 (新潮文庫)