琥珀色の戯言 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

この日記のはてなブックマーク数

2014-04-24 【読書感想】すばらしき特殊特許の世界

[]【読書感想】すばらしき特殊特許の世界 ☆☆☆☆ 【読書感想】すばらしき特殊特許の世界 ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】すばらしき特殊特許の世界 ☆☆☆☆のブックマークコメント


すばらしき特殊特許の世界

すばらしき特殊特許の世界

内容紹介

「特殊特許」と筆者が呼ぶ、個性的な特許を紹介。松本人志が発明した目覚まし時計など、ユニークな題材を取材や調査を通じてドラマチックに描く。新しいアイデアづくりのヒントも満載。笑えて学べる特許入門書。


 「特許」というものの存在を知らない人はいないと思うのですが、実際はどんなものが「特許」として認められているのか、あるいは、「特許」をとるには、どんな手続きが必要なのか?などということは、そんなに知られていないのではないかと思います。

 僕のイメージでは「特許さえとれば、使用料で遊んで暮らせるのではないか」という感じだったのですが、実際は、そんなに簡単な話ではないみたいで、特許を取るのも大変だし、お金になるような特許というのは、そんなに多くもないようです。

 それでも、「特許」をめぐってのさまざなま係争は後を絶ちませんし、いざというときに、致命的な問題となることもある。


 この本では、「何それ?」と驚くような特許に出願された発明が第1章で紹介されており(こちらは実際には特許を取るに至っていないのですが)、第2章では、「出願されただけではなく、実際に特許として認められた、驚くべき発明の数々」が採り上げられています。


 ちなみに、ここで著者が定義している「特殊特許」とは、以下の通り。

1.発明者や出願人/特許権者がふつうじゃない(なんで、この人が、この会社が、こんな発明を?)

2.技術の内容がふつうじゃない(なんで、こんなものを特許に?)

3.技術の解釈がふつうじゃない(なんで、そんな主張ができるの?)

4.権利の範囲がふつうじゃない(なんで、これが特許になるの?)


 「どうすれば特許が取れるか?」については、簡略化して、次のように説明されています。

(1)「特許を受けることができる発明」について「特許を受けることができる者」が「適式な出願書類」をそろえて特許出願する。

(2)特許庁の審査官による審査を受けて、「特許OK」と判断してもらう。

 これだけ読むと、そんなに難しくないのかな、なんて思ってしまうのですが、この本のなかで紹介されている、実際の特許出願のための書類の内容をみていると、図できちんと説明されていたり、既存の特許との差別化が大事だったり、専門知識がないと「特許として認めてもらう」のは、なかなか難しそうだな、という感じです。

 その一方で、要件さえ満たしていれば「何だこれは……実際にやるのは無理だろ……」と思われるような「特許」が認められていたりもするんですけどね。


 この本の第1章では、ダウンタウンの松本人志さんが『発明将軍ダウンタウン』で考えた目覚まし時計の話や、秋元康さんが発案したという『AKB48のメンバーを振りまくる恋愛ゲームのシステム」が紹介されています。

 この『AKBメンバーを振りまくる恋愛ゲーム』の特許出願の「公開広報」(こういう特許がいま申請されていますよ、というのが、認められる前に周知のために公開されるのだそうです)には、こんなふうに書かれています。

 良心耐久度40の減少というリスクを冒しつつ、恋愛の障害削除と本命女子の好感度Pgの大幅アップを果たすといった、絶妙な恋愛感覚が要求される従来に無い恋愛SLGとなる。

 しかし、これって、あの『ときめきメモリアル』とかと、同じなのでは……

 僕もそう思いましたし、著者もそう感じてツッコミを入れておられます。

 そのあたりは、この公開広報のなかでは、こんなふうに説明されているのです。

 公知の恋愛ゲームでは、とりあえず登場人物の異性の誰でも良いので「告白される」などの形で恋愛成就ができれば疑似恋愛を体感した扱いとなるケースが多い。ところが、実際の恋愛では「誰でも良いからお付き合いができれば良い」というものではなく、やはり……「本命」の異性との恋愛成就が最も望ましいものである。……しかし、公知の恋愛ゲームでは……「本命」以外の異性との恋愛成就に至った時のバッドエンディングの感じ、例えば「うれしいけどちょっと残念」といった……ほろ苦さを体感しにくかった。

 これ、『ときメモ』ファンは、怒るのではなかろうか……そもそも、これを書いて出願した人は、『ときメモ』やったことがあるのだろうか……もっとも、この特許を審査する人も、どのくらい恋愛SLGに詳しいかわからないのですけど。

 既存の恋愛SLGでも「誰でもいい」ってことは、ないと思うのです。

 まあ、こんな感じの、けっこう「ごり押し」っぽいものも、けっこうあるようです。

(ただし、これはまだ特許として認められているわけではなく、まだ出願の段階です)


 第2章では、東野圭吾さんが会社員時代にとった特許が紹介されていたり(かなり専門的な技術に関する特許で、僕には読んでも内容がよく理解できませんでした)、「夫婦が別れることのない指輪」なんていうものも紹介されていました(これは実際に特許を取れていたそうです)。

 

 また、話題になった「越後製菓とサトウ食品の切り餅裁判」についても、詳しく解説されています。

 僕はあの裁判のニュースなどを読んだことはあるのですが、「なぜ切り餅の切り込みの入れ方が特許になっていて、そこで激しく争っているのか?」は、いまひとつよくわかりませんでした。

 これを読んで、ようやく少しわかってきたような気がします。

 主要メーカーは、サトウ食品佐藤食品工業)、越後製菓、きむら食品、たいまつ食品など。これら4社はいずれも新潟県の地元企業で、合わせて業界シェアは7割を超える。今までは互助精神のもと共存共栄をはかってきたという。

 しかし、2009年に、業界2位の越後製菓が、自社の特許権を侵害しているとして、業界首位のサトウ食品を訴えた「切り餅裁判」が勃発して以降、業界はギスギスとした雰囲気となってしまう。

 サトウ食品と越後製菓は、もともと、同じ新潟県の企業でもあり、ライバルではあるものの、犬猿の仲、というわけではなかったそうです。それが、この「切り餅裁判」のために、業界全体がバトルに巻き込まれてしまいました。

 またこの切り餅の切り込みについての特許が、微妙なものなんですよね。


 サトウ食品は、「パリっとスリット」は上下面にも切り込みを入れているから、側面に切り込みを入れる越後製菓の特許を使っていることにはならない、と反論した。

 どちらの主張が正しいのかは、越後製菓の特許の請求項を見れば一目瞭然と思いきや、その文言は次に示すように、じつにビミョーなものだった。

 載置底面又は平坦上面ではなく……側面表面に、……切り込み部又は溝部を設け、

 わかりやすく言えば、「切り餅の上下面(載置面又は平坦上面)ではなく側面(=側周表面)に切り込み(=切り込み部又は溝部)を入れるということだ。

「上下面には切り込みを入れないで側面にだけ切り込みを入れる」ことを意味にしているようにも思えるし、「上下面とは異なる面である側面に切り込みを入れる(上下面には切り込みを入れても入れなくてもよい)」ことを意味しているようにも思える。

 つまり、この文言だけでは、「パリっとスリット」が、越後製菓の特許の権利範囲(特許発明の技術的範囲)に含まれるのかどうかが、よくわからない。

 こういうのはもう、解釈の違いで、どちらにでもとれるような話ですよね……

 裁判でも東京地裁ではサトウ食品の勝ち、越後製菓が控訴しての知財高裁の中間判決では、越後製菓の勝ち。

 終局判決で、越後製菓の勝ちが確定しました。

 しかしながら、これをきっかけに、越後製菓が他の製品に対してもサトウ食品を訴えるなど、さらなる訴訟が起こり、一連の裁判は、2013年12月現在も、まだ係争中なのだそうです。

 傍からみれば、狭い業界内のことだし、裁判費用も高額になりそうで、ブランドイメージも傷つくのですから、「和解」にもっていったほうがよさそうにみえるのですが……一度火がついちゃうと、なかなかそうもいかないのでしょうね。


 また、現在、アメリカのIT企業などを中心に「知的財産権を利用した究極の節税」が編み出されていることも紹介されています。

「ダブルアイリッシュ・ダッチサンドイッチ」という方法を使って、法人税の低い国を利用することによって、「グーグルの支払っている法人税の実効税率は、米国外事業で2.4%、連結ベースでも22.2%と非常に低いものとなっている(2009年)」そうなのです。

 これもひとつの「発明」ではあるのでしょうし、「違法」ではないのですが、なんというか、世の中には頭が良い人もいるものだなあ……と、溜息をつくしかないような。


 「特許」について楽しく知ることができる、なかなか興味深い一冊だと思います。

 「それ、特許取ればいいじゃん!」って言いながら、僕も含めて、ほとんどの人は、「どうやったら特許が取れるのか?」すら知らないのだよなあ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20140424

2014-04-23 【読書感想】ヘイト・スピーチとは何か

[]【読書感想】ヘイト・スピーチとは何か ☆☆☆☆ 【読書感想】ヘイト・スピーチとは何か ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】ヘイト・スピーチとは何か ☆☆☆☆のブックマークコメント


内容(「BOOK」データベースより)

差別と侮辱、排除の言葉をマイノリティに向けて路上やネット上で撒き散らす―ヘイト・スピーチとは差別煽動である。差別も「表現の自由」として、当事者の深刻な苦しみを放置するのか。民主主義社会をも破壊する「言葉の暴力」と向き合う国際社会の経験と制度を紹介し、法規制濫用の危険性も考えながら、共に生きる社会の方途を探る。


「ヘイト・スピーチ」という言葉、最近よく耳にするようになりました。

ただ、それは最近になって増えてきた、というよりは、日本でもようやく本格的に問題視されるようになってきた、ということのようにも思われます。


そもそも、ヘイト・スピーチとは何か?

最近になって広まってきた言葉であり、「中傷」であることはわかるけれど、そのなかでもどれが「ヘイト・スピーチ」にあたるのか?


著者は、この新書の冒頭で、こう書いています。

 2013年に日本で一挙に広まった「ヘイト・スピーチ」という用語は、ヘイト・クライムという用語とともに1980年代のアメリカで作られ、一般化した意外に新しい用語である。日本では「憎悪表現」と直訳されたこともあり、未だ一部では、単なる憎悪をあらわした表現や相手を非難する言葉一般のように誤解されている。そのことが、法規制をめぐる論議にも混乱を招いている。

 1980年代前半、ニューヨークを中心にアフリカ系の人々や性的マイノリティに対する差別主義的動機による殺人事件が頻発したことから、85年にはヘイト・クライムの調査を国に義務付ける「ヘイト・クライム統計法案」が作成された。これが「ヘイト・クライム」という用語のはじまりと言われている。同時期に、大学内で非白人や女性に対する差別事件が頻発したことに対し、各大学は差別的表現を含むハラスメント行為を規制する規則を採用するようになった。「ヘイト・スピーチ」という用語はその広がりに伴って使われるようになった。このように、その成立の経緯から見て、ヘイト・クライムもヘイト・スピーチもいずれも人種、民族、性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃を指す。「ヘイト」はマイノリティに対する否定的な感情を特徴づける言葉として使われており、「憎悪」感情一般ではない。

「ヘイト・スピーチ」という言葉が広まるにつれて、罵詈雑言と「ヘイト・スピーチ」がイコールである、というような使いかたをしている人もいるようなのですが、原義は「人種、民族、性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃」です。

「多数派(マジョリティ)からの、少数派(マイノリティ)への攻撃」なのですね。


 この新書のなかで、著者は「ヘイト・スピーチに対する、日本と世界の現状」を紹介しています。

 日本にはヘイト・スピーチが蔓延している。その対象は、在日朝鮮人だけではない。ニューカマーの韓国人、中国人、ブラジル人などの様々な国籍の、また旧植民地出身者、移住労働者とその家族、難民(申請者)、非正規滞在者など、多様な立場の外国籍者や民族的マイノリティに及んでいる。アイヌや沖縄の先住民族にもその刃は向かう。被差別部落の人々、女性、障がい者、性的マイノリティもターゲットとなっている。

 また発信者は主要に公人、マスコミとそれ以外に分けられるが、媒体としてはマスコミ、本、漫画やリーフレット、ビラの他、インターネットが大きい。そして、直接的な表現形態としての排外主義デモ、街宣(街頭宣伝)がある。ヘイト・スピーチの中でも最も悪影響をもたらす公人によるヘイト・スピーチは、ほぼあらゆるマイノリティを攻撃対象としてヘイト・スピーチを撒き散らしてきた石原慎太郎東京都知事、現・衆議院議員(日本維新の会共同代表)の発言に見るごとく、野放し状態である。

 しかし、それは世界の常識ではない。2013年7月、欧州議会は、欧州議会議員マリーヌ・ルペン国民戦線党首の不逮捕特権を剥奪することを決めた。問題となったのは、ルペンの2010年のリヨンでの演説で、イスラム教徒が路上で礼拝を行っている様子をナチス・ドイツのフランス占領に例えた発言である。起訴され、有罪となれば最長一年間の禁錮刑と罰金4万5000ユーロ(約610万円)を科される。


 この新書では、「在特会」によるヘイト・スピーチなどが、実例を挙げて採り上げられているのですが、日本のヘイト・スピーチは、在特会によってのみ行われているわけではありません。

 ネット上では被差別部落へのヘイト・スピーチがあふれていますし、1997年には、日系ブラジル人少年へのリンチ殺人事件も起こっています。

 僕も海外での移民排斥運動のニュースを聞くたびに「それに比べて日本は平和でよかったなあ」なんて思っていたのですが、実際のところ「日本はヘイト・スピーチに甘い国」なだけなんですよね。

 石原慎太郎前都知事の発言なんて、かなり酷いものばかりなのですが、そういうのが「ホンネで喋ってくれる人」みたいな感じで、案外受け入れられているところもあるのです。


 1962年の国連総会で「あらゆる形態の人種差別発言の撤廃に関する宣言案及び条約案の作成」が共同提案され、1964年に条約が採択されました。

 この条約は1969年に発効し、2013年11月の時点では、国連加盟国193ヶ国中9割以上の176ヶ国が参加しているそうです。主要な人権条約の中では子どもの権利条約に次いで締約国が多いのだとか。

 日本がこの条約に加入したのは、なんと1995年。141ヶ国目でした。

 日本政府は、2013年1月提出の報告書において、ヘイト・スピーチ規制について、

(1)「正当な言論までも不法に萎縮させる危険を冒してまで処罰立法措置をとることを検討しなければならないほど、現在の日本が人種差別思想の流布や人種差別の煽動が行われている状況にあるとは考えていない」とし、

(2)「現行法で対処可能」

(3)啓蒙などにより「社会内で自発的に是正していくことが最も望ましい」

(第一・二回政府報告書第75項より引用)等の従来の主張を繰り返している。

 しかし、2010年3月の委員会勧告後にヘイト・スピーチ関連で裁判になっている事件だけでも、京都朝鮮学校襲撃事件、徳島県教祖襲撃事件、奈良水平社博物館差別街宣事件、ロート製薬脅迫事件があり、まさに「処罰立法措置をとることを検討しなければならないほど」に「人種差別の煽動が行われている状況にある」ことは明らかであろう。政府報告書は、これらの裁判について一言も触れていない。判例を掲載しなかった理由について、政府報告書作成担当の外務省の官僚は、判例については知っているが、報告書の枚数が制限されているからと言い訳した(2013年5月17日人種差別撤廃NGOネットワークの政府との意見交換会における発言)。

 いま、実際に日本で起こっていることをみると、これはあまりにも現状認識が甘いと僕も思うのですが……

 それにしても、ヘイト・スピーチを規制することに、なんでこんなに消極的なのだろう?

 日本政府にとって、何か不都合なことでも、あるのでしょうか。

「マンガの表現規制」には、けっこう積極的にみえるのに、「ヘイト・スピーチ」関連では、そこまで「表現の自由」を大事にしているのかねえ。

 

 この新書を読んでいると、世界各国も、ヘイト・スピーチに悩まされているようです。

 黒人差別の撤廃が、半年前にようやく法整備されたアメリカはもちろん(アメリカは人権に関しては「後進国」であると、著者は指摘しているのですが)、第二次世界大戦後の戦後処理について、日本とよく比較されるドイツ(西ドイツ)も、けっして平坦な道を歩んできたわけではありません。

 第二次世界大戦終了後、ニュルンベルク国際法廷で主要な戦犯が訴追され、占領規定でもナチス標識の使用やナチスに関連した政党の活動が禁止された。1949年に制定された西ドイツの基本法(憲法)では、性別、血統、人種、言語、出身地、宗教等による差別禁止が明記されている。

 しかし戦犯訴追は徹底されず、戦犯が次々と政界・経済界に復帰し、虐殺された被害者や遺族に対する賠償責任もなされなかった。1948年の世論調査では「ナチズムはよい理念だが、実行の仕方がまずかった」という意見に58%もが賛同したという。1950年代には、元ナチス関係者らを中心にユダヤ人協会に対する襲撃やナチス犠牲者の記念碑を汚す行為が相次ぎ、1959年のクリスマスには、前述したようにケルン市における反ユダヤ主義の大規模な騒動が発生、西欧社会全体のネオナチ運動の引き金となった。

 これらの「反動」に対して、西ドイツでは、ヘイト・スピーチへの刑事規制が具体化していったのです。

 どんな歴史的悲劇も、人をそう簡単に変えることはできません。

 それは、日本もドイツも同じ。

 ただ、ドイツが危機感を抱いてヘイト・スピーチを積極的に規制し、変えようとしてきたのに対して、日本は「そんなにひどい差別はない」と自分に言いきかせてきたのです。

 

 日本でヘイト・スピーチ規制に慎重論をとなえる人たちにも、それなりの理由はあるのです。

 まず、日本では戦前、権力が批判的な言論を違法とし弾圧した歴史を踏まえるなら、政府が一定の内容を「悪い」「不適切な」表現と認定し規制することは危険であるとの主張がある。すなわち、一定の人々にとっていかに「不快」でも、ヘイト・スピーチを権力が表現内容に基づいて「不快だから規制する」と結論づけることは許されないという主張である。ヘイト・スピーチ規制を認めると、他の「悪い」表現、例えば政府批判を政府が規制することに道を開いてしまうという者もいる。主にアメリカの判例理論、とりわけ前述のブランデンバーグ判決の基準を引用し、ヘイト・スピーチの規制は、暴力行為を直ちに行うよう煽動し、かつ、暴力行為を引き起こす差し迫った危険性があるものい限定すべきとの主張もある。

 正直、この考え方も、わからなくはない。

 というか、言われてみれば、それもそうなのかな……とも思えるのです。


 日本でも、ヘイト・スピーチをきちんと規制していくべきだと僕は考えています。

「ヘイト・スピーチの原義」に従って規制すれば、「不快だけを理由にした規制」と、一線を引くことは可能だと思うので。

 あれこれ慎重に考えているうちに、時間ばかりが過ぎていく……というのが現状なのかもしれませんね。

 ヘイト・スピーチが「単なる不快な発言」ではなく、「人種、民族、性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃」だということが、日本で、もっと周知されれば良いのですけど。

2014-04-22 【読書感想】女のいない男たち

[]【読書感想】女のいない男たち ☆☆☆☆ 【読書感想】女のいない男たち ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】女のいない男たち ☆☆☆☆のブックマークコメント


女のいない男たち

女のいない男たち

内容紹介

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」から1年、

村上春樹、9年ぶりの短編小説集。

表題作は書下ろし作品。


 村上春樹さんの9年ぶりの短編小説集ということで、けっこう気合いを入れて読み始めたのですが、読んでいるうちに、肩の力が抜けてきました。

 ああそうか、村上さんの長編は、ちょっと身構えてストーリーや伏線っぽい描写を整理しながら追っていかなければならないところがあるけれども、短編は、リラックスして読んでもだいじょうぶなんだよな、って。

 9年ぶりともなると、読みかたを忘れてしまっていたみたいです。

 

 この『女のいない男たち』という短編集は、ひらたく言ってしまうと「愛する人に去られてしまった男たちの話を、その『別離』からしばらく経った時点で、聞き手が記録したもの」です。


 僕はこれを読みながら、村上さんの『東京奇譚集』という短編集を思い出していました。

 実際に有ったのか無かったのかわからない、事実と虚構の境界にあるような「打ち明け話」を、当事者とはそんなに長年の関係ではなかった(でも、ある時期に「すごく共鳴しうる存在」ではあった)語り部が聴き、その素材をそのまま活かしてサッと読者の前に出す。

 そんな「都市伝説的な書かれ方」が、すごく似ているのです、『東京奇譚集』に。

 もうほんと、なんとも微妙な「こんなことが実際に起こったのだろうか……と疑問ではあるのだけれども、フィクションだと言い切れるほどの人生経験は僕にないしな……」というさじ加減。


 そして、『神の子どもたちはみな踊る』という連作短編集のことも、思い出してしまいました。

 『神の子どもたちはみな踊る』は「阪神淡路大震災」を描いた短編集なのですが、「そのこと」が起こったときをリアルタイムに描くのではなく、それからしばらくの時間を経た時点で、人々が、その「喪失体験」について語るという形式でした。


 この『女のいない男たち』というのは、『東京奇譚集』+『神の子どもたちはみな踊る』つまり、「知人の、信じてはもらえないかもしれないけど話」+「大きな喪失体験を経てきた人にとっての、その体験の意味と、その後の生きざま」の合わせ技、とも言うべき、作品集なのです。


 最近「社会」のほうを向かざるをえなかった村上さんは、ここで今一度、もっと個人的なこと、内向きなことに目を向けてみたくなったのかな、とも感じました。

 いつのまにか、読むときに正座し、背筋を伸ばさなくてはならなくなったような「ノーベル賞候補・村上春樹」であることに息が詰まっていたのは、読んでいる側だけじゃなかったのかもしれませんね。


 他人に対して、以前の恋愛についてのけっこう深刻な打ち明け話や、セックスの話をはじめてしまう人っていうのは、僕にとってはけっこう信じがたい存在ではあるんですよ。

 そんな人、本当にいるのか?と。

 昔からの友人とかならともかく。

 この短編集を読んでいると、世の中には「打ち明けたい人」と「打ち明け話を聞いて、その物語を成仏させてあげられる人」がいて、小説家というのは後者の特殊能力を持った人なのだと思われてきます。

 書いてあることがすべて事実だとは思えませんが、「奇妙な友人の打ち明け話を、そのまま文章にした」ようにもみえるこの短編集を読むと、個人的な「経験」から、普遍的な「物語」を取り出してみせる(あるいは、撮り出しているようにみせる)のが、村上春樹という小説家の底力なのでしょう。

 星新一さんの有名なエピソードに、バーでみんなで飲んでいて、出されたお題であっという間にショートショートを1本つくりあげてしまった、というのがあるのですが、村上春樹さんにも同じような才能があるのではないかなあ。

 僕は村上春樹さんの『東京奇譚集』を読んで、「ああ、こういう『他人の話をそのまま物語にしてしまうような作品もアリなんだな」と思い、自分でもときどき真似事をしてみました。

 やってみると、「他人の話を適切な長さにし、わかりにくいところは調整し、説明を加え、それでも、誰かがいま知り合いに話しているような躍動感も残しておく」というのが、いかに難しいかがわかります。

 他人の話って、「そのまま」テープ起こしのようにして文字にしても、なかなかうまく伝わらないのです。

 内的な屈折や屈託があまりに乏しいせいで、そのぶん驚くほど技巧的な人生を歩まずにはいられない種類の人々がいる。それほど多くではないが、ふとした折りに見かけることがある。渡会医師もそんな一人だった。


 この小説には「変わった男」ばかりが出てきます。

 ところが、どの作品も、読んでいけばいくほど、「彼らのほうが正しいところ」を持っているのではないか、と思えてくるのです。

 恋愛は、人を、とくに男を「変」にしてしまう。

 なんらかの理由で、その関係が終わっても、そこに生じた痕跡みたいなものは消えないし、「ズレ」も、そう簡単には修正されません。

 だからといって、「女のいたことがない男たちの人生」も、それはそれで、単純なものにはならないのです。


 うーん、どうすればいいのだろう?

 もしかしたら、「ああ、他の人もみんな『どうすればいいんだろう?』って思っているものなんだな」ということを知るための短編集、なのだろうか。


 僕らは14歳のときに中学校の教室で出会った。たしか「生物」の授業だった。アンモナイトだか、シーラカンスだか、なにしろそんな話だ。彼女は僕の隣の席に座っていた。僕が「消しゴムを忘れたんだけど、余分があったら貸してくれないか」と言うと、彼女は自分の消しゴムを二つに割って、ひとつを僕にくれた。にっこりとして。そして僕は文字通り一瞬にして彼女と恋に落ちた。

 ああ、これは確かに、恋に落ちそうだ。

 僕の人生では、起こらなかったことだけれども。



東京奇譚集 (新潮文庫)

東京奇譚集 (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20140422

2014-04-21 【本】有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか

[]【読書感想】有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか ☆☆☆☆ 【読書感想】有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか ☆☆☆☆のブックマークコメント


内容紹介

コンビ間の軋轢や家族との衝突……

みんな下積み時代の苦悩を乗り越えたからこそ、脚光を浴びる現在がある。

ダウンタウン、ナインティナイン、爆笑問題・太田光マツコ・デラックス……、

浅草キッド水道橋博士が編集長を務めるメールマガジン

水道橋博士のメルマ旬報』の人気連載「芸人ミステリーズ」配信分から 7篇を厳選の上、大幅に加筆修正して収録。

新書化にあたって『有吉弘行と猿岩石の地獄』『芸人・有吉弘行のウソ』の2篇を書き下ろし。

生い立ち、猿岩石時代、あだ名芸と毒舌、ダチョウ倶楽部・上島との関係など、

いま最も注目すべき芸人・有吉弘行の生き様や謎を多くの証言から解明し活写する。

最強のTVっ子が「実像」と「虚構」とのスキマを切り結ぶ。


「華やかな芸能界の深層に地獄の地下水脈は流れている。

    • てれびのスキマは、テレビの写さない、余白を解き続けることによって、芸人の棲む地獄の底に流れる河の水を見事に浄化している」

水道橋博士、推薦!!


「目次」

序章 有吉弘行と猿岩石の地獄

第一章 オードリーのズレ漫才と幸福論

第二章 オリエンタルラジオの証明

第三章 なぜダウンタウンはそんなにも客の出来を気にするのか?

第四章 なぜナイナイ・矢部浩之はいつもニヤニヤ笑っているのか?

第五章 爆笑問題・太田光の偏愛、あるいは太田光を変えたもう一人のタケシ

第六章 ダイノジ・大谷ノブ彦のどうかしている“熱"

第七章 マツコ・デラックスの贖罪

終章 芸人・有吉弘行のウソ


 同じ著者の『タモリ学』は名著だったのですが、こちらもすごく面白かった。

 そんなに厚くない、200ページにも満たない新書なのですが、読んでみると、ものすごく濃密な世界が広がっているのです。

 こんな文章が毎回載っているんだったら、水道橋博士のメルマガを購読してみようかな、と思いましたよ本当に。


 この新書では、オードリー、オリエンタルラジオ、ダウンタウンなどの人気芸人を採り上げて、彼らが著書やインタビューで実際に残した痕跡から、その「笑いのルーツ」と「人となり」を辿っています。

 これを読んでいて痛感したのは、「芸人になるには才能も必要なのだろうけれど、才能だけで人気芸人になれた人はいないのだな」ということでした。

 彼らが語るエピソードを読んでいると、自分たちの「型」にたどり着くまでのあまりに壮絶な試行錯誤に、ただただ圧倒されてしまいます。

 努力すれば成功が約束されている世界ではないけれど、とにかく限界まで考えて、やれることをやり抜いた先に見えてくるもの。

 それしか、頼れるものはないのです。


 有吉弘行(ちなみに、有吉さんの名前って、「ひろゆき」じゃなくて「ひろいき」って読むのですね。僕はこの新書を読むまで知りませんでした……)さんの「猿岩石」結成当時の話。

 ようやく部屋を見つけた二人は「猿岩石」を名乗り、太田プロのネタ見せに。事務所はどこでも良かった、という。ネタ見せは最初から感触が良かった。すぐにライブに出してもらえるようになった。「意外とちょろいもんだな」有吉は最初そんなことを思っていたが、すぐに行き詰まった。人気が出る気がしないのだ。ナマコを口から出したり、ズブ濡れでネタをやったり、「とにかくパンチが必要」だと奇をてらったネタを繰り返していた。だが、「どうも笑いは取れず奇声が上がるだけ……」だった。


hon-nin・vol.01』(太田出版)で読んだ松尾スズキさんと爆笑問題の太田光さんの対談(「『テレビ』と『本人』の距離」)に、こんなエピソードがありました。

松尾スズキ今って普通の新人お笑い芸人がバラエティ番組にぽんと出ても、わりといけるじゃない? あれはすごいなあと思いますね。


太田光そうですね。オレらも最初は差別ネタばっかりだったんです。で、当時はライブでウケる芸人って、テレビに出れないやつらばっかりでしたからね。テレビで何をやってはいけないかよく分かっていなかったし、それに加えて「テレビなんかに出てやるものか」というワケの分からない反抗意識もあったし(笑)。


松尾:それは今の芸人志望の人たちと真逆ですね。


太田:明らかに違います。僕らが最初に出たのは(コント赤信号が主宰する)La,mamaってライブなんですけど、当時トリをつとめていたのがウッチャンナンチャンで、彼らやピンクの電話、ダチョウ倶楽部はテレビで成立するネタをやってましたけど、オレらはテレビでは流せないネタばっかり。オレらが最初にやったのは中国残留孤児もののコント。あとは全身カポジ肉腫だらけの原子力発電評論家とか、佐川一政くんがレストランを出しましたとか、どうしようもない。


松尾:ひどいですねえ(笑)。


太田:それでもオレらはまだ「テレビ用のネタも作らなきゃ」って気持ちがありましたけど、他のやつらはもう……気が狂ったやつらの巣窟でしたね。で、またみんなバカだから、そんなネタやってるくせにテレビのオーディションを受けに行くんですよ。障害者のモノマネやって「けっこうです」って言われたり(笑)。あとはトマトジュースを飲んで「今飲んだジュースを手首から出します」って言ってその場で手首を切ったり。


松尾:もう芸人でも何でもない(笑)。


太田:そもそも笑えないしね。あとはナイフを持ってきて振り回しながら客席に乱入するだけとか(笑)。で、オレらも一時期そっちの路線にいってたわけです。「そっちの方が偉い」「女コドモにウケる軟弱なネタよりも、ハードなネタのほうが上」みたいなノリがあって。


松尾:でも、田中さんの資質はそっち方向じゃないですよね?


太田:そう(笑)。で、そんなネタばっかりやってると、それを求めるファンしか来なくなるわけです。そのうちファンの方が危ないライブになっちゃって、自然と「これではダメだ」と思うようになりました。


松尾:そういう危ないネタをやりたくなる季節があるのかな? 今はあんまりないよね。


太田:新人のライブを見ても、面白いかつまんないかは別として、今はそのまんまテレビで流せるネタが多いしね。


松尾:思い出したけど、俺らもその頃、下北沢の駅前劇場とかで、ひどいギャグをやっていましたね。「黒人力発電」ってネタがあって、街で踊っている黒人をさらって原子力発電所に閉じ込めて、ヒップホップをかければやつらクルクル回るから電力が取れるんじゃないかとか。でも、あんまり回り過ぎると核融合を起こしちゃうから、そういうときは『アンクル・トムの小屋』を読んだら回転が収まるんじゃないかとか……。


太田:ひどい(笑)。でも、そういうネタって実際面白いんですよね。ただ、それを続けていくとエスカレートするしかなくなってきて、最終的にはチンコ出すとか放送禁止用語を言うとか、そういう単純なことになってきちゃうから、これじゃ全然面白くないなって。

 この太田さんが語られている「当時」というのは、今から20年くらい前の話です。

 でも、こういう「他人がやらないことをやる」=「自分らしさ」という迷宮みたいなものに入り込んでしまって苦悩する人間の姿というのは、いつの時代にもあるものでしょう。

 「それ同じようなやつを、ネットで観たよ」って言われてしまいますから、「新しいことをやりたい」芸人たちにとっては、現在はさらに厳しい時代になっているはずです。


 オードリーは、結成後、8年間も鳴かず飛ばずだったそうです。

 当時は、若林正恭さんがボケで、春日さんがツッコミ。

 若林さんは、売れなかった時代のことを、こんなふうに振り返っています。

「深夜、部屋の隅で悩んでいる過去の自分に言ってやりたい」を現在の若林は言う。「そのネガティブの穴の底に答えがあると思ってんだろうけど、20年間調査した結果、それはただの穴だよ」

 これはまさに、20年間、その「ネガティブの穴」を覗き込み続けた若林さんだからこその言葉ではないでしょうか。

でも、そうやって、「ただの穴」の底を探し続けたからこそ、今のオードリーがあるような気がします。


 著者は、オードリーについて、こんなふうに述べています。

 二人が試行錯誤して様々に姿かたちを変えていった春日のキャラは、若林の理想像を具現化した「春日」として完成した。キャラとしての「春日」は結果的に普段の春日を誇張しただけで実は地続きだった。もっとも本来の春日の「ズレ」がなかったのだ。

 しばしば芸人は「辞めなかったらいつか売れる」と言われることがある。しかしちょっと違う、と若林は言う。「辞めないことによっていつもの自分がネタに出るときが来て、それが見つかったら必ず売れる」(『オードリーのANN(2012/9/8)』)のだ、と。

「賛否の否があるときに限って、その後ざくっと残ったりする」。だから「なるべく賛否両論があるような場所に身を置きたい」と。

 自分らしい「人(にん)」の出る漫才のスタイルを手に入れた今、それが中核にある限り、たとえ彼らしくない状況に立ったとしても、その違和感、ズレを含めてオードリーらしさがにじみ出ているはずだ。


 この新書は、この「若林正恭さんが20年間調査し続けた、ネガティブの穴」の一端を、読者に見せてくれるのです。

 いまの世の中では、「先の見えない努力」は、バカにされがちだけれども、芸人には、そういう「バカなこと」をやり尽くさないとたどり着けないような「世界」がある。

 別に「努力のすばらしさ」が書かれているわけではないのだけれども、「芸人として生きていくこと、いや、人間として試行錯誤していくことの厳しさと充実感」みたいなものが、伝わってくるんですよね。


 「武勇伝」での、史上最速といわれた大ブレイクから、一気に「転落」していったオリエンタルラジオ

 与えられたポジションに見合う実力がまだついていなかったオリエンタルラジオ。当然のように、次々と短期間で番組が打ち切られていった。

「そこはまだ、覚悟ができていなかった」と中田は述懐する。「(始まるのも)怖いけど、落ちるのもっと怖いって」

 この「現象」を中田は「吉本興業の中での実験」だったと自分のなかで整理しているという。

「テクニックもキャリアもなくても、それで成立するんだったらビジネスモデルとしては正解じゃないですか。コストがかかってなくてパフォーマンスが得れるわけですから。これが成立したらこれをどんどんやっていくつもりだったと思うんです。だけど、それが出来なかった! 促成栽培が出来るもんじゃない。それが芸人なんだ、っていうのを逆説的に証明したのがオリエンタルラジオなんです!」

 聞いているブラマヨの二人が呆然とし、無言になってしまうほどの冷静さ、客観性が逆に当時の深すぎる苦悩を物語る。


 この新書のなかで、僕がいちばん好きだったのは、書き下ろしの有吉弘行さんの章でした。

 僕も「自意識過剰な子供」だったので、有吉さんの子供時代に、自分の姿を少し重ねてみたりして。

 たぶん、この新書のなかに出てくる芸人の誰かに、自分を重ねて読む人は、多いのではないかと思うのです。

 彼らは人気者であり、超人である一方で、「どうしようもなく、人間」でもあります。

「(インドとかに行って)人生観変わったとか言うヤツは、日本でたいした人生送ってないんですよ」(『アナザースカイ(2010/4/16)』)

「自意識」が崩壊するような過酷な旅をしてきたからこそ説得力がある言葉だ。「自分」なんて本当はない。「他人から見た自分」こそが「本当の自分」なのだ。だとしたら自分が思っている「本音」だって、それが本当に「自分の本音」なのかは疑わしい。だから有吉は「自分」や「本音」を捨て、「リアクション芸」をするかのように、その場に応じて変わる「本音っぽい」毒舌や批評を相手にぶつけるのだ。


 新書という形態やページ数による見かけのイメージを遥かに超える「密度」のある本でした。

「芸人の感動話になって、興味ないよ。舞台の上でいかに笑わせるかが勝負なんだから」

 そういう人にこそ、ぜひ、読んでみていただきたい一冊です。




ナインティナインの上京物語

ナインティナインの上京物語

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20140421

2014-04-20 【読書感想】白ゆき姫殺人事件

[]【読書感想】白ゆき姫殺人事件 ☆☆☆☆ 【読書感想】白ゆき姫殺人事件 ☆☆☆☆を含むブックマーク 【読書感想】白ゆき姫殺人事件 ☆☆☆☆のブックマークコメント


白ゆき姫殺人事件 (集英社文庫)

白ゆき姫殺人事件 (集英社文庫)


Kindle版もあります(ただ、2014年4月現在「単行本よりは安いけど、文庫よりは高い」価格設定です)

白ゆき姫殺人事件 (集英社文芸単行本)

白ゆき姫殺人事件 (集英社文芸単行本)

内容(「BOOK」データベースより)

美人会社員が惨殺された不可解な殺人事件を巡り、一人の女に疑惑の目が集まった。同僚、同級生、家族、故郷の人々。彼女の関係者たちがそれぞれ証言した驚くべき内容とは。「噂」が恐怖を増幅する。果たして彼女は残忍な魔女なのか、それとも―ネット炎上、週刊誌報道が過熱、口コミで走る衝撃、ヒットメーカーによる、傑作ミステリ長編。


ミステリ小説とジャンル分けされていますが、実際は、「美人会社員惨殺事件」というひとつの事象を、たくさんの人が、それぞれの視点で語り、その「事実とのズレ」と「つくりあげられていく虚像」に圧倒されていく、そういう作品です。

「ミステリ」としては、それぞれの登場人物の「主観」や「エゴ」、そして「戦略」が入り乱れていて、これを読んだだけで推理するのは、なかなか難しいのではないでしょうか。

こういう「人間の悪意」みたいなものを容赦なく描くのが、「湊かなえワールド」なのだよなあ、と。

登場人物も、みんな本当のことを言っているとは限らない。

(ただし、それぞれの人物は「自分にとっての事実」を語っている)

読んでいて、芥川龍之介の『藪の中』を思い出してしまいました。


ちなみに、『薮の中』のように「で、真相はどうなんだ?」と投げ出されるわけではなく、きちんと「解決編」まで用意されています。

「実際にそんなことが可能だったのか?」「偶然の要素が強すぎるのでは?」と言いたいところはあるのですが、とりあえず、スッキリする結末にはなっているのです。

恩田陸さんだったら、「で、結局『犯人』は誰なんだ?」と言いたくなるようなオチになっていたんじゃないかな。


これを読んでいると、「もし自分が殺人事件の容疑者になったら、周りの人は、どういうふうにメディアに語り、SNSで発言するのだろう?」と考えずにはいられません。

 私は私の過去が解らなくなってきました。

 私はイジメられっ子だったのか。執念深く、気持ちの悪い女だったのか。呪いの力があるのか。中学も高校も学校中の子たちから嫌われていたのか。親友なんて存在しなかったのか。

 自分の記憶で作られる過去と、他人の記憶で作られる過去。正しいのはどちらなのでしょう。


ワイドショーなどでは、「容疑者の学生時代の卒業文集」などがよく公開されています。

「キレたら怖いところがあった」なんて話をする人もいます。

でも、学生時代に書いた文章なんて、誰でも多少は「イタいところ」があるはずだし、「絶対にキレない人」「キレても怖くない人」の方が「異常」なんじゃないか、とも思うのです。

人間なんて、切り取り方次第で、どんなふうにでも見えてしまう。


文庫の「解説」で、この作品を映画化した中村義洋さんが、こう書かれています。

 物語は、『週刊太陽』の取材記者・赤星雄治が、美人OL三木典子が殺された直後に姿を消した容疑者・城野美姫の同僚や幼馴染み、家族への取材を重ねていく、その証言構成で進んでいくわけだが、まず僕が感心したのは人々が取材されるときの「話を盛っちゃう感」のリアリティーである。

 赤星という男は、取材が下手なのか、リアクションに乏しいのか、とても相手から首尾よく話を引き出せるタイプではない。すると取材相手がどうなるかといえば、赤星のリアクションを引き出そうと、「そーいえばこんなこともあんなことも」と、あることないことビミョーに話を盛り始めるのだ。その無自覚な話の盛り方、増幅のさせ方が、ものすごく「こういうのってあるよな」という既視感を伴って迫ってくる。


正直、この作品で描かれている「事件」には、あんまりリアリティーを感じなかったんですよ。

でも、この中村監督がおっしゃっている「無自覚に話を盛ってしまう人々」の姿と、そうして「盛られてしまった話が暴走していくところ」こそが、この小説の読みどころなのだと思います。

読んでいて、なんとなく、小保方さん関連の話も、実際はどこまでが「事実」だかわからないけれど、最初の大絶賛から、現在の大バッシングまで、こんな感じで「本人の手の届かないところで、盛られてしまっている部分」がたくさんあるのだろうな、と考え込んでしまいました。

「無責任な受け手」である読者や視聴者も、結局「盛られた話」を喜ぶし、それが「誇大」だとわかると、「盛った人々」を責めて、また楽しむ。


巻末のtwitter風のSNSでのやりとりや、週刊誌の記事風に事件のことが書かれている「演出」は、そんなにうまくいっているとは思えないところもあったのですが、なかなか「面白い作品」ではありました。

映画のほうも、DVD化されたら、観てみたいと思っています。

井上真央さんが「さえないOL」の役っていうのは無いよな、という気はするんですけどね。

「さえない役者さん」が主役だったら、興行作品として成りたたないのはわかるのだけれども。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20140420