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2014-10-30 【読書感想】リクルートという幻想

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Kindle版もあります。

内容紹介

「株式上場」「人材輩出企業」「モーレツ営業」「新規事業創造企業」……

リクルートって、そんなに凄いのか?

OBが激白! 気鋭の論客がリクルートの虚像を剥ぐ


リクルートは「人材輩出企業」や「新規事業創造企業」等と賞賛され、

「営業武勇伝」に事欠かない。「やんちゃ」な社風は賛否両論あるが、

日本人の働き方に良くも悪しくも影響を及ぼした。論客として著名なOBが、

自らの体験と新規取材の両面から、リクルートの実態に迫り、将来を展望する。


はじめに――リクルートのことを知っていますか?

1章 リクルートの 「焦り」――話題のCMから読み解く

2章 人材輩出企業という幻想(1)――「リクルート本」 が教えてくれること

3章 人材輩出企業という幻想(2)――採用と起業のしくみ

4章「モーレツ営業」 の虚像と実像

5章 モチベーションとテンションが高い理由

6章 そこに 「新規事業」 はあるのか

7章 リクナビはなぜ批判されるのか

8章 リクルートという幻想を超えて

あとがき


 リクルートOBである著者による、リクルートという「普通じゃない会社」が辿ってきた道と、現在の立ち位置について。

 そして、「リクルート」に対する、世間の誤解と、内部の人間たちの勘違い。


 「はじめに」著者はこのように述べています。

 リクルート上場。

 しかし、そもそもリクルートとは、どんな企業なのだろう。なぜ、上場するのだろう。その先に何があるのだろう。

 この本は、リクルートという企業にまつわる幻想を検証すること、それを通じて同社だけでなく、日本の企業やビジネスパーソンのこれまでと、これからを考える本である。

 そう、リクルートが上場する。あのリクルートが、である。借金は完済状態。同社の2014年3月期連結営業収益は過去最高の1兆1915億円(前期比13.6%増)となっている。しかも、海外収益が2800億円となっており、グローバル展開が加速していることが窺える。連結経常利益は1260億円だ。グループ全体の従業員数も3万人に迫る。12年10月より持株会社制に移行しているが、現在、各主要事業会社の人数は1000人〜3000人で、一昔前のリクルート本体の規模にまでなっている。創業期からの求人広告などの人材ビジネスだけでなく、カバーする領域も広がっている。そして、グローバル化、IT化に社運をかけている。社屋は以前は、銀座8丁目のリクルートビルがおなじみだったが、現在は東京駅八重洲口にある42階建てのビルに入っている。リクルート事件のイメージもいまや薄い。創業者江副浩正氏は13年に他界した。

 昔のリクルートを知らない若い人と話していると、戸惑うことがある。私がリクルート出身だと知ると、みんなが目をキラキラさせて「リクルート時代の話を聞かせてください!」と言い出す。彼らは「意識高い系」の若者によくいる、「リクルート信者」たちだ。彼らにとって、リクルートのイメージは驚く程に、良い。リクルート事件後に生まれた若者が、社会に出ている。彼らは、リクルートに憧れるだけで、現実はほぼ知らない。


 この新書を読んで、「リクルートって、そんなにすごい会社だったのか……」と、一般的な「就活」を経験しておらず、企業の情勢にも詳しくない僕は、驚いてしまいました。

 そもそも、そんなに「特別な会社」だったのか、と。

 40代前半の僕にとっては、リクルートって、「就職情報誌をはじめとした情報産業の大手で、あの『リクルート事件』を起こした会社」でしかないんですよね。

 すごい人材をたくさん輩出していて、「意識高い系」の若者たちに、こんなに興味を持たれているのか……と驚きでした。

 「リクルート事件を知らない若者たち」が、どんどん社会に出てきているのだものなあ……


 リクルートの採用の特徴は「リクルートに入りたい」人ではなく、「リクルートが欲しい」と思う人材を採用することである。なぜなら、当時の同社は応募すらしていない人、リクルートに興味のない人までを対象とし、口説き落としていたのだ。同社の採用は、欲しいと思った人材を探し出し、徹底的に口説くというものだった。

 家族などに反対されることもある。特に88年を境に世間からは「リクルート事件を起こした会社」として認知されているわけだから。家族を説得するため、採用担当者は内定者の親と酒を酌み交わすことすらあったという。


(中略)


 採用担当者には、その夜、銀座で鮨をご馳走になった。実に感動的だった。別れ際に、こう言われた。「形式上必要だから、履歴書を書いてくれ」。そう、履歴書もないまま、面接が進んでいったのだった。


 また、入社式の日は、こんな感じだったそうです。

 しかし、最も驚いたのは、夜のキックオフだった。配属先の事業部のキックオフが行われたので、入社式、内定者研修が終わった後、お台場にあるイベントスペースに、私たち新人は移動した。到着した瞬間から、そのバブル臭のする雰囲気に圧倒された。会場も立派だったし、立食パーティーで美味しいものが食べ放題、飲み放題。社員たちは、いちいち良い服を着ていると感じた。女性社員たちは、化粧が派手目で喫煙者が多いと感じた。

 人が登場するたびに「イエイ」という声で大騒ぎになり、営業マン対抗のゲーム大会などが壇上で繰り広げられた。90年代後半で、パワーポイントなどが世にまだ普及する前だったろうが、それらを駆使した画像がパーティーを盛り上げていた。バニーガールまでいた。しかも、なんと普通の現役女性社員がそのコスプレをしており、驚いた。最後は事業部全体での掛け声だった。

 新橋に移動し、今度はマネジャー以上の人たちと、異動者・新人による二次会が開催された。密集した部屋での激しい飲みだった。異動者・新人が紹介されるたびに、「イエイ」という雄叫びが上がり、一気飲みの繰り返しだった。なぜに、ここまでハイテンションで飲まなければならないのか。新入社員で20代前半の私たちよりも、10〜20歳も上の人たちなのに、浴びるように酒を飲み、騒ぎ続ける様子には、エネルギーも感じたが、疑問も感じた。学生時代にも、こんなに激しい飲みは経験したことがなかった。飲み過ぎて、ヘロヘロになってしまった。


 1990年代後半、か……

 著者は僕より少し若いくらいで、ほぼ同世代なのですが、当時はまだ「一気飲み禁止!」などいう社会通念もできあがってはおらず、学生も「激しい飲み会」をしていたのです。

 にもかかわらず、学生時代にも経験したことがないような、激しい飲みを、繰り広げる大人たち……

 リクルートというのは、良くいえばエネルギッシュで、悪くいえば「学生サークルの延長にあるような」雰囲気だったのが伝わってきます。

 新入社員の勧誘も、学生サークルの勧誘みたいですしね。

 こういう「ノリ」は、入社式の日だけではなく、「リクルートでは、日常的にモチベーションが上がる場面があった」そうです。

 こういうのが好きな人にはたまらないだろうけど、僕にはちょっと、無理だなあ……と思いながら読みました。


 著者が実際に体験した、「リクルート伝説」を読んでいると、「ああ、日本が元気な時代だったんだなあ……」と、ちょっと懐かしく思うのと同時に、そういったポジティブな熱病みたいなものが、時期的にも、オウム真理教事件などとも重なっているということについても考えさせられます。


 リクルートとオウムというのは、ある意味「当時の、バブル晩年の日本の満たされない若者の行き先の両極」みたいなものだったのかもしれません。

 

 

 この本を読んでいると、日本社会に与えたリクルートという会社の影響についても、考えさせられます。

 僕もいま普通に使っている「朝一」という言葉が、「リクルート用語」だったとは。

 その他にも、社内でのモチベーションを上げるためのさまざまな方策などは、ひとつ間違えれば、ブラック企業なのでは……というようなものもあります。

 著者も「いわゆるブラック企業のなかには、リクルートのやり方を参考にしているところもある」と述べています。

 

 また、リクルートが実際に行っている事業についての分析もなされていて、「リクナビはなぜ批判されるのか?」という項は、就職活動に縁がなく、今の就職情勢の知識もほとんどない僕にも、わかりやすく書かれていました。

 就職ナビによって、学生の就職活動は「便利」になったと思われています。

 その一方で、いくつかの弊害も生じてきているのです。

 同じフォーマットで同じような情報が並んでいる。最近では、学生はスマホなどで閲覧する。彼らはこのツールに慣れているが、一方で情報の理解が浅くなることが心配されている。

 一括エントリーなどの仕組みにより、明らかに志望度や理解度が低い学生が集まることも構造的な課題である。

 そもそも、閲覧やエントリー自体が簡単にできてしまうこと自体が、学生を甘やかしていないかという批判の声もある。

 結果として、たくさんの応募が集まるものの、求める人材と出会えない状態になってしまった。このようにたくさんの応募の中から選ぼうとする行為が「母集団神話」と呼ばれるものだ。分母を増やすよりも分子の命中率を上げることが現在の日本の採用の課題である。これにリクナビは応えきれていない。いや、その問題をつくり出した元凶とも言える。

 これは難しい問題で、「閲覧やエントリーが簡単にできること」が悪いのか?とも思うのですよね。

 就活を行う側からすれば、ひとつでも多く、可能性がありそうなところにエントリーしておきたい、という気持ちはあるでしょうし。

 しかしながら、それによって、あまりその会社を積極的に志望していない人もエントリーしてくるために応募者が膨大になってしまい、採用におけるマッチングが難しくなってしまう、という面もあるのです。

 また、リクナビは「紹介文機能」という、エントリー者に、第三者からの「推薦文」をつけられる機能によって、多くの批判を集めることにもなりました。

 たしかに、これからは「応募者数よりも、マッチングの精度」が求められる時代になるのでしょうね。

 

 そして、現在の上場企業となったリクルートは、昔ほど「やんちゃ」ではないし、そんなふるまいを見せることもできなくなっている、と著者は指摘しているのです。

 そういう実態を知っている(あるいは、リクルートには、ほんの少し関わっていただけ)にもかかわらず、「リクルートに関わっていたことをアピールし、経歴ロンダリングを行っているOB」への失望もこめて。

 

 リクルートOBとしての著者の思い入れと「熱さ」が伝わってくるのだけれど、それが露わであればあるほど、リクルートに特別な思い入れがない僕としては、引いてしまうのも事実です。

 読みながら、著者は「『世間の人々は、リクルートに幻想を抱いている』という幻想」に取り憑かれてしまっているのではないか?という気がしてくるところもありました。

 僕自身が、とくに就職活動を経験しないまま、出身大学の医局に所属してしまったから、なのかもしれないけれども。

 

 それでも、いまだからこそ、「リクルートという会社の功罪」について、あらためて考えてみるというのは、たしかに興味深いことだよなあ、とは思うんですよね。

 それは、「バブルの時代を侮蔑しているようにみせかけて、実は、あの頃はよかった、と美化してしまいがちな人々(僕もそうかもしれない)」への、「本当に、あの頃は良い時代でしたか?」という問いかけでもあるのです。

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2014-10-29 【読書感想】浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち

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浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち

浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち

内容紹介

終戦直後、焼け跡に取り残された多くの戦災孤児たちは、どこへ消えのか? 1945年の終戦直後、焼け跡となった東京は、身寄りのない子供たちで溢れていた――全国では、12万人以上。復興と共に街が浄化され、居場所を失い歴史から狆辰┻遒辰〞彼らを、残された資料と当事者の証言から上野を中心に現在まで追う。戦後裏面史に切り込む問題作にして、戦争が生み出したものを見つめなおす必読の書。


 ここに、もうひとつの「忘れられようとしている戦争体験」がある。

 この本で紹介されている「元浮浪児」たちの証言を読んで、僕は「戦争によって傷つけられるもの」のことを、あらためて考えさせられました。

 「歴史」として戦争について学ぶのは、戦闘での勝利や敗北、残酷な略奪や虐殺、飢えや民間人の犠牲、そして、英雄たちの逸話などがほとんどです。

 それらは、ひとつの「点」として語られるのだけれど、生き残った人たちは、その後も生き続けていかなければなりません。


 東京大空襲の直後に地下道に身を寄せた罹災者は、千人に及んだといわれている。このうち浮浪児は全体の1割から2割を占めていたというから、百人から二百人にもなったはずだ。地下道が占拠される日が長くなるにつれ、衛生環境は劣悪になっていった。人々が腐って食べられなくなった残飯を投げ捨てたり、排泄物や吐瀉物が放置されてそこに虫がわいたり、ネズミやノミ、寄生虫が繁殖するようになったりしたのである。

 石原伸司(終戦時7歳)は、地下道の状態について語る。

「地下道は入り切らないほど大勢の人が集まっていて、寝るために横になることもできない状態だった。今で言やぁ混雑している電車みたいな感じで、眠ろうとしたら膝を抱えてすわるか、立ったまま人によりかかるしかなかった。

 地べたは、ゴミ箱をひっくり返したように汚かったな。とにかく臭いがすごいんだ。夜中にトイレに行きたくなっても、何十人もの人たちをまたいで行くのが面倒だし、一度外に出てしまったら寝場所を奪われかねない。だから地下道の壁に小便を引っかけてまた眠るんだけど、数十人、数百人が毎晩そんなことをするもんだからものすごい臭いになる。

 女もいたけど同じことをしてたよ。便意を催せばパンツをずり下ろして、隅っこにおいてあるバケツにまたがって用を足す。それが当たり前だった。俺もそんなもんだと割り切っていたから『臭せえな』と思いつつそっくり真似していた」

 それでも、多くの人々がこの上野駅にいたのは、こんな状況でも、他のところにいるよりもマシだったから、なんですよね。


 この本は、空襲などで親や身寄りを失ったり、戦後の混乱期に「不良少年」として、上野駅などで自活していた「浮浪児」たちの証言を集めたものです。

 太平洋戦争末期から、戦後にかけては、そんな「身寄りのない子供」が、12万人以上もいたのです。

 なかには、「自分の名前さえわからない子供」もいました。

 愛児の家に集まってきた子供の中には、素性がまったくわからない子供も混じっていた。さたよが引き取るにあたって確認をしようと思っても、自分が何者かを答えられなかったり、答えようとしなかったりするのだ。

「幼い子だと、自分の名前が言えないことは珍しくはありませんでしたよ。空襲で焼けだされて親と離ればなれになってしまったら、小さな子供は何も手がかりがなくなってしまいますから。単に親の名前もわからないような年齢だったり、記憶が飛んでしまったりしているんです。

 このような場合、母がその子の戸籍をつくっていました。名前を適当につけ、外見から何歳ぐらいだろうと判断して年齢を決める。いい加減なものですよ、たとえば坂の下にいたから、坂下君にしようとかね。戸籍に乗っている彼らの情報は何一つ本当ではありませんが、戦争というのはそういう子供を生み出してしまうものなのです。

 また、子供たちの中には、自分の名前をわかっているのに名乗らなかったり、わざと別の名前や年齢を言ったりする子もいました。路上で悪いことをくり返しているので、罪悪感から決して本当の名前を明かそうとしないのです。

 いま、2014年の、とりあえず平和な時代を生きている僕にとっては「記憶喪失でもないのに、自分の名前がわからない子供がいるのか?」というのが実感なんですよ。

 現在なら、記憶喪失であっても、「誰か」が自分の名前を覚えてくれているはず。

 ところが、戦時下では、そういう「ありえないこと」が現実に起こってしまうのです。


 この本のなかには、飢えと周囲からの蔑視のなか、生き延びようとする子どもたちの姿が活写されています。

 そして、「浮浪児」たちに対する世間の目も描かれているのです。

 戦時中は、みんながつらい状況だからと優しくしてくれていた周囲の人も、戦争が終わると、浮浪児たちを「犯罪予備軍」として白眼視するようになっていきました。

 浮浪児のなかには、戦争で身寄りを失い、そうやって生きていくしかなくなってしまった子どもが大勢いたにもかかわらず、「自分が生き延びられる可能性が高くなった」とたんに、「同情心」を失ってしまう人が多かったそうです。

 ああ、でも、戦争というのは、国家というのをひとつの「災害ユートピア」にしてしまうものなのかもしれないなあ、とも。


 戦後、闇市に「協力」することによって、浮浪児たちは自活の道をえて、あるものはテキヤやヤクザに「就職」し、またある者たちは施設に「収容」されていきます。

 この施設も千差万別で、良心的なところがあった一方で、子どもたちを奴隷のように働かせたり、虐待が常態化していた施設もあったそうです。

 

 この本には、浮浪児たちに愛情を注ぎ、私財を投げ打って育てようとした「愛児の家」の創設者、石綿さたよさんの話も出てきます。

 ああ、こういう人が、いてくれたのか……


 この本を読んで打ちのめされたのは、施設の前に捨てられていた混血児の赤ん坊(おそらく、進駐軍と日本人女性のあいだの)を、アメリカの里親に養子として引き取ってもらうことを決めたときの話でした。

 さたよはメリーちゃんをどう扱うかについて悩んだ。彼女は一目で外国人とわかるような顔立ちだった。成長するにつれ、周りからは「パンパン(売春婦)の捨て子」として激しい差別を受けて生きていかなくてはならなくなる。そこでさたよは悩んだ末に、日本で差別を受けて生きるより、アメリカ人の里親を見つけてアメリカ人としてのびのび生きてもらった方がいいと判断した。

 このことを進駐軍の知人に相談してみた。すると、サリバンという夫婦が養子にできる子供を捜しているということを教えてもらい、翌年の春にメリーちゃんを引き取ってもらうことになった。メリーちゃんは海を渡ってアメリカで育てられることになったのである。

 まだこうした赤ん坊が「混血児」と呼ばれて激しい差別を受けていた時代だった。

 また、ある施設の職員は、子供たちを積極的にカナダに移民として送り出していたそうです。

 日本にいたら、「元浮浪児」というだけで仕事はなく、差別され続けるけれど、外国に行けば「日本人ということでは平等に扱ってもらえる」から、と。

 

 日本の戦争で犠牲になった、日本で生まれた子どもを最も差別していたのは「日本人」たちだった。


 これは、本当に重い事実です。


 そんななかで、こんな「善意の人々」もいたのです。

 裕は、戦後の困難な時代を子供たちをともにやっていけたのは周りの人々の協力があったからこそだという。

「母は本当に必死だったと思います。ただ、母一人の力では、あれだけ多くの子供を抱えて戦後の時代を乗り切ることはできなかった。周りの助けがあったからこそなのです。

 この話をして思い出すのは、愛児の家の向かいで開業していた「渡辺耳鼻科」の渡辺健三先生のことです。うちに住んでいた子供たちの多くは、路上での生活が長かったため、疥癬というひどい皮膚病に侵されて苦しんでいました。ダニが寄生して血を吸って皮疹が起きて、昼夜の区別なくいてもたってもいられないほどの猛烈なかゆみに襲われるんです。

 渡辺先生はそうしたことを知って、毎日病院の診察が終わると薬を持ってうちにやってきてくれて、一人一人の症状を無料で診て薬をくれた。疥癬ばかりでなく、病気や怪我の治療もしてくれました。まだ20代の新婚ホヤホヤのお医者さんだったんですけどね。そういう人たちが大勢いたから、うちはやっていけたんですよ」

 愛児の家は、近所の鷺宮に暮らす多くの人々に支えられて歩んでいった。だからこそ、子供たちはそこに愛着を抱き、住みつづけたにちがいない。


 漫画家・こうの史代さんは「好きな言葉」として、ジッドの「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」を挙げておられます。

 石綿さたよさんや、この渡辺先生のような、愛児の家を支えた人々が「偉人」としてきらびやかな場に立つことは無いのでしょう。

 でも、こういう人こそ、「真の栄誉をかくし持つ人間」であり、きっと、そういう人たちが、いつの時代にも存在していたのです。


 著者は、浮浪児たちの生き様を、「戦争の被害者で、かわいそうな存在」だという哀れみの視線では描きませんでした。

 もちろん、そういう「悲惨さ」が伝わってくる描写もあるのですが、むしろ、「厳しい時代を、がむしゃらに生き抜いた人々」として、いきいきと書いているのです。

 だからこそ、僕も、「いま、この時代を生きている自分、そして、自分の子供のこと」を考えずにはいられなかったのです。

 これを読んで、興味を持たれた方は、ぜひ一度、読んでみてください。

 

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2014-10-28 【読書感想】「ニッポン社会」入門―英国人記者の抱腹レポート

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内容(「BOOK」データベースより)

日本社会について手っ取り早く学びたければ、近くのプールに行ってみることだ。規則と清潔さを愛し、我慢強く、大きな集団の悪事に寛容な国民性が理解できるはずだから。過剰なまでに礼儀正しく親切な人々、思ったより簡単で奥深い日本語、ガイドブックには載っていない名所の数々…。14年間日本に暮らす英紙記者が無類のユーモアを交えて綴る、意外な発見に満ちた日本案内。


 2006年、いまから8年前に出た新書です。

 イギリスの『デイリー・テレグラフ』紙の記者であり、1992年に来日し、日本語を学んだのがきっかけで、14年間日本に住んでいる著者がみた「ニッポン社会」。


 これを読んでいると、日本でずっと暮らしている僕にとっての「あたりまえ」は、イギリスから来た著者にとっては、必ずしもそうではない、ということがよくわかります。

 というか、あらためて指摘されてみると、「これはやっぱり、おかしいよな」と思うんですよね。

 プールでは日本人の信じられないような我慢強さを目にすることもある。たとえば、とても泳ぎの遅い人が中級者向けのレーンで泳いでいるようなときだ。そんな場合、そのレーンで泳いでいる人たちはみな平泳ぎになって、辛抱強く列を作り、問題となっている人が出ていってくれるのをひたすら待っていたりする。そのうち、別のレーンに移る人もちらほらと出始める。つまり、ひとりの人に丁寧な口調で「初級者向けのレーンで泳いではいかがですか」とお願いするよりも、あえて不便な思いをするのもやむをえないと考える人が6、7人いるわけだ。追い越しは禁止なので(これも規則のひとつ)、行く手を塞ぐ人に出くわしたら、くるっと方向転換をして逆向きに泳がねばならないこともある。そして、これをプールを何往復かする間、くり返さなければならないのだ。

 多くの人にとって明らかに迷惑であるにもかかわらず、このように個人を大切にすることは美徳と言ってよいだろう。そして、おそらく、この我慢強さこそが人口が多すぎる日本列島を曲がりなりにも暮らしてゆける場所にしている要因にちがいない。

 しかし、日本人は大きな集団に対して法外な敬意を払っているということも指摘しなければならない。居酒屋で二十人くらいのグループが、隣りのテーブルで会話をしているカップルに少しの配慮もなく、大声を出して騒ぎたてたりするのはその好例だ。

 このプールの話も、居酒屋の話も、「あるある」という感じです。

 前者に対しては、「個人を尊重する」というよりは、「自分がその遅い人に直接『移ってください』と言う貧乏くじを引くのがイヤ」というのが実際のところです。

 こういう場合、えてして、その遅い人も、「初心者用のレーンが別にある」というのを知らなかったりもするのですけど。

 そして、後者の場合は、カップルのほうも、うるさいな、と思いつつも、「まあ、団体さんだから、騒がしくてもしょうがないよね」と、なんとなく納得しているのです。

 言われてみれば、「団体だからといって、他の客の迷惑になるレベルまで騒いでもいい」ということはないはずなのに。

 こういう「大きな集団への法外な敬意」っていうのは、言われてみれば、たしかにそうだな、と。


 著者は、日本の文化や社会、そして言語に対して、「日本大好き!」と手放しで絶賛するわけでもなく、さりとて、「こんなにヘン!」と茶化すだけでもなく、「良いところは称賛し、問題点は指摘する」という姿勢で、英国的なユーモアもまじえつつ、この新書を綴っているのです。

 さて、もう何年も日本語を勉強してきたのだから、ぼくのお気に入りの日本語表現ベストスリーなるものを挙げても許してもらえることだろう、

 まず第三位は「勝負パンツ」。この言い回しを聞いて、感心しなかったイギリス人の友人はひとりもいない。大事なデートの前に着ける下着を指す言葉に関して、日本語ほど正直な言語はほかにあるだろうか? 『ブリジット・ジョーンズの日記』があれほどのヒット作になったのは、何百万人もの独身女性が「こんなふうに思っているのは自分だけかしら」と思っていることを率直に表に出したからである。重要な局面を前にしてブリジットが下着を穿き替える場面もそのひとつだ。この場面を見て、多くの女性は(そして、少なからぬ男性も)心の中で「ほかの人もやってるんだ!」と思ったことだろう。もし、日本語を知っていたなら、彼らはこれが社会に広く行き渡った慣習だともっと早く理解できていただろうが。


「勝負パンツ」というような表現って、英語にはないんですね。

 というか、日本語としても、比較的新しい言葉だとは思うのですが。

 ちなみに、著者の「ベストスリー」の第二位は『上目遣い』、第一位は『おニュー』だそうです。


 そして、これこそが東京の魅力だろう。この街に住む人々だ。ふだん他人からこれほど礼儀正しく接してもらえる都市をぼくは知らない。東京の人は余計なことにまで口を突っ込んでこないし、一方、こちらから話しかければ気さくに受け答えをしてくれる。うれしいことに、そこから喧嘩になってしまうことはめったにない。

 ガソリン・スタンドの従業員がお辞儀をしてくれると心が和む。歩道で工事をしているとき、工事現場をすでに円錐形の標識ではっきり示してあるのに、棒状の誘導灯を振って歩行者に回り道をするよう指示する人がはたして必要なのか、ぼくにはわからない。しかし、その人がまるで航空管制官のように注意深く熱心に、与えられた仕事を遂行しているさまには心から敬服してしまう。また、ぼくは東京のスーパーの女性店員に特別な敬意を抱いている。もしレジ打ちの速さや技量についての世界ランキングがあるとしたら、間違いなく日本が第一位だろう。こうした日常の光景を目にするたびに、ぼくは東京では人は自分の仕事に誇りを持ち、自分が住むコミュニティーやそこで出会う他の人々のことを大切に思っているのだとあらためて痛感させられるのである。


 こうして、外国人の目から語られると、やはり、日本の「おもてなし」というのは、特異的なものなのだという気がしてきます。

 ふだんからこの国で生活していると、「あたりまえのこと」で、ちょっと店員さんの態度が悪かったりすると、不快になりがちなんですけどね。

 自分の「良さ」って、なかなか、自分ではわからない。


 著者は、ジャーナリストとして、日本の大新聞の圧倒的な購読者数への羨望とともに、こんな「日本の新聞への問題提起」も行っています。

 しかし、日本の新聞がイギリスの新聞から学ぶべき点もあると思う。レベルの低い報道にとどまることも多いとはいえ、『テレグラフ』は少なくとも海外のニュースを伝えようと努力している。それに対し、日本の新聞は巨額の予算がありながら、国際面に割くスペースがあまりに小さい。日本人の知り合いに『テレグラフ』を見せると、みんな記事のバラエティーの豊かさに目を引かれるようだ。硬い記事もあれば、軽い記事もあり、長い特集記事や別立てのスポーツ面もある。記事によって文体も違うし、写真やレイアウトもよく工夫されている(日本の人には、紙面に女性をテーマにした記事が多く掲載されていて、しかもそれが女性記者によって女性読者に向けて書かれていることが多いのも新鮮なようだ)。


 8年前に書かれたものなので、日本の新聞も変わってきているところはあります。

 とはいえ、たしかに日本の新聞というのは、ひとつの新聞のなかの、あるいは、新聞どうしを比較しての「バラエティーの乏しさ」は感じます。

 まあ、僕はそれほど海外の新聞のことを知っているわけでは、ないのですけど。


 入れ込みすぎず、突き放しすぎずに日本という異国について書かれた、なかなか興味深い新書だと思います。

 ちなみに、この本のなかで著者が語る、イギリスの話も、けっこう面白いんですよ。

「イギリス人と日本人は似ている」なんて言うイギリス人は誰もいない、とかね。

 

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2014-10-27 【読書感想】現代アート経済学

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現代アート経済学 (光文社新書)

現代アート経済学 (光文社新書)


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現代アート経済学 (光文社新書)

現代アート経済学 (光文社新書)

内容(「BOOK」データベースより)

アートは経済や政治と密接に関係している―。そしていま、世界の国々は文化政策に多額の予算を割き、芸術分野の対外発信事業に力を入れている―。それはなぜか。「経済的な都市おこし」を目的としたヴエネツィア・ビエンナーレに代表される大規模国際展、経済動向を色濃く映し出す「アートフェア」やアジアのオークション事情、さらにはギャラリストやキュレーターといった「時代を動かすキー・プレイヤー」の動きから、美学や美術史の観点では語られることのない、「現在進行形・アートの見方」を包括的に示すとともに、日本の文化的プレゼンス向上に向けたヒントを探る。


 現代アートが世界各国におよぼしている「経済的な影響」の話。

 僕は現代アートの作品に対する観賞眼はまったく無いのですけど、「中国では経済成長に伴って、『投資先としての現代アート』が盛り上がっている」というのをテレビ番組で観て、ちょっと気になっていたのです。

 とはいえ、アートの「作品」について紹介した書籍はあっても、「お金の話」となると、なかなか「ちょうどいい入門書」というのは無いんですよね(まあ、僕も積極的に専門書を探していたわけじゃないんですが)。

 そんな中、書店でこの新書を見つけ、読んでみました。


 なぜ、多くの国々は文化政策に多額の予算を割き、芸術分野の対外発信事業に力を入れているのでしょうか。

「文化の国」と自他ともに認めるフランスの文化予算は年間5163億円です。この額は、我が国の5倍以上にも上ります。

 アジア地域に目を転じれば、韓国は1659億円と、およそ日本の1.5倍ですが、中国は700億円と、今や世界第2位の経済大国にしては控え目な数字となています。しかし、各国の前国家予算に占める割合で見れば、中国は0.25%と、日本や米国を上回り、韓国に至っては0.87%と、唯一、1%を超えるフランスを猛追しています。また、韓国の人口がおよそ5000万人に過ぎないことを考えれば、国民1人あたりの予算額がいかに多額であるか、ご理解いただけると思います。


 アート、とくに現代アートというのは「金持ちのパトロンの道楽」みたいなものなんじゃないの?と僕は思っていたのです。

 お金が余っている人が、採算度外視で支援するものなんだろう、と。


 ところが、この新書を読んでみると、「アートへの支援」というのは、もはや、「個人の道楽」レベルのものではなくなっているのです。

 国際社会の中で文化的価値を活用して広く世界に働きかけることは、自らに有利な国際環境を形成し、外交政策や対外交渉を有利に進めるだけでなく、企業の対外経済活動にも大きな影響を与えます。特に、「パブリック・ディプロマシー」といわれる、直接的な世論形成においてその傾向は顕著です。歴史認識や領土を巡る情勢で激しく火花を散らしながらも、日本における根強い韓流ブームや、中国における日本アニメーションの高い人気はその好例といえるでしょう。

 また、地域における活発な文化・芸術活動や美術館を始めとする文化施設の充実は、世界中から多くの観光客を集め、時に莫大な経済効果を生み出します。加えて、新しい住民の流入や、企業・産業の誘致にもその効力を発揮します。

 前者は、およそ半年間の会期中に、世界中から44万人以上の入場者を集めるヴェネツィアビエンナーレや、年間1000万人近くの入館者が訪れるパリのルーブル美術館がその代表です。後者は、グッデンハイム・ビルバオ(スペイン・バスク自治州)による都市の再生が好例といえるでしょう。同館はオープンから5年で、開館投資額の約10倍にあたる7億7500万ユーロ(約945億円)以上の直接的経済効果を地域にもたらしています。

 さらには、こうした国家や地方自治体予算による文化事業以外にも、芸術は経済と密接に関わっています。

 一節によれば、米国における文化、芸術、教育関連の寄付金総計は年間20兆円を超え、英国ですらその額は1.6兆円に達するといわれています。

 また、世界の美術品オークション市場を見れば、トップの米国が65億ユーロ(約7540億円)、次いで中国が59億ユーロ(約6800億円)と、それぞれ約30%のシェアを占め、マーケットを二分しています。もっとも、これらは2010年の数値なので、現在では中国の落札額、市場占有率は大幅に増加しているはずです。


 日本では、予算を削減する際に、芸術・文化関連のものが槍玉に挙げられがちなのですが、「アートを支援することは、経済的にも大きなメリットがある」というのが、世界の認識になりつつあるのです。

 自分の国の文化が他国で受け入れられれば、国のイメージアップにもつながりますし。


 また、僕にとってはよくわからない「現代アート」の作品にも、高い評価額がつくようになり、その展示・売買方法も大きく変わってきていることが紹介されています。

 美術館以外で、しかも美術館では取り上げられないような最先端のアートを見る場所といえば、これまでそれはギャラリーであり、アート作品を買う所といえば、ギャラリーかオークション・ハウスでした。しかし、ここ数年、その役割がアートフェアに取って代わられつつあり、それにともなってその影響力も非常に大きくなっています。

 アートフェアとは、一言で言えばアートの展示即売会です。3〜4年間の会期中、コンベンション・センターや見本市会場に設えられた、数百のギャラリー・ブースを目指し、世界中からコレクターが集まってきます。

 今や毎月、いや毎週のように世界のどこかでフェアが開催され、しかもここ数年、その数は著しい増加傾向にあります。こうした飽和状態の中、各フェアの主催者は、ブース出展者であるギャラリーと、来場、作品購入者であるコレクター双方の誘致を図るため、熾烈な競争を繰り広げています。


 これらのアートフェアのなかで、現時点で世界最高峰とされているのが、毎年6月にスイスで開催されている「アートバーゼル」なのだそうです。

 開催期間中、近隣の空港は、世界中から集まるお金持ちのコレクターのプライベート・ジェットで満杯になるのだとか。

 お金っていうのは、いつの時代でも、あるところにはあるのだなあ、と。

 それまで、ギャラリーとの個人的なつきあいで売買されることが多かったアートなのですが、この「アートバーゼル」では、「早い者勝ち」が徹底されています。

 それまでの実績や知名度にかかわらず、いちばんに「買います!」と言った人に購入権がある。

 こうした合理性が、人気を高めているのです。

 もっとも、VIPに対しては、一般公開の前日に入場して商談ができるという「特典」もあるようです。

 それはそれで「合理的」ではありますね。


 ちなみに、これらのフェアは、急速な経済発展をとげているインドネシアや中国、そして、国策のひとつとしてアートフェアにも力を入れているシンガポールなど、アジアがひとつの中心地となってきているのです。

 日本も、横浜など各地でアートイベントが開かれているものの、一般の人たちへの浸透度や盛り上がりは、これらの国々と比較すると、まだまだ、という感じです。


 とくに、中国のアート関連の市場規模は、すごい勢いで膨張しているのです。

 かつて戦乱や内戦、文化大革命などの混乱期に海外に流出した文物が、中国の経済的成長にともない、現在では猛烈な勢いで同国に戻りつつあります。このような現象は「海外回流」と呼ばれ、今やこの分野を中心に、同国のオークション市場は驚異的なスピードで成長し続けています。

 他の新興産業同様に、1990年代以降開放政策によって誕生したオークション市場(総落札額)は、2000年には12億5000元(175億円)に過ぎませんでしたが、およそ10年で約45倍の553億元(7740億円)にまで拡大しています。

 いまや、世界のオークション会社トップ10の内、5社が中国のオークション会社なのだそうです。

 1位がクリスティーズ、2位サザビーズという両巨頭が並んだあとの3位が、中国のポーリー・インターナショナル・オークション。

 

 そして、アートの評価額についても、近年、大きな変化がみられてきているのです。

 サザビーズ・ジャパンの石坂泰章社長は同社のニュース・レターの中で「現在の美術品相場を大雑把に申し上げると、印象派〜現代のマスター・ピースだと20億円以上、ピカソ、モネの代表作で50億円以上、1世紀を代表する作家の希少性の高い作品は100億以上、セザンヌとかジャスパー・ジョーンズクラスの最高の紙作品で25億円といったところだ。当時と大きく違うのは、トップ作品の相場に印象派と現代、絵画と彫刻という区別がなくなった点だ。以前は彫刻の価格というのは、絵画に比べると著しく低かった。だから、日本の実業家が1990年にサザビーズルノワールの『ムーラン・ド・ギャレット』を8250万ドル、当時の円貨で119億円で落札したのが、いかに凄かったかお分かりいただけると思う。ちなみに、その後、あの作品に匹敵するルノワールは市場に登場してきていない。現代美術でも、日本の画商が抽象表現主義のデ・クーニングの作品を2068万ドル(約30億円)で落札して、周囲の度肝を抜いた。現在この作品はこの数倍するだろう。いかに買われた方に先見の明があったかが分かる」と書いておられます。


 ルノワールはともかく、デ・クーニング、ご存知でしょうか?

 僕はWikipediaで調べてしまいました。

 ジャクソン・ポロックと並ぶ「アクション・ペインティング」の代表的画家で、抽象表現主義の創始者のひとりと言われている。

 デ・クーニングは、1904年生まれ、1997年没。


 高い価格で落札される絵画といえば、ピカソやゴッホなどの教科書に出てくるような歴史的有名画家の作品、だと思い込んでいたのですが、そういう感覚はもう時代遅れで、「トップ作品は、現代アートでもすごい値がつく」のです。

 それには、いまの「アート」というのが、観賞するためのものだけではなく、富裕層にとっての「投機対象」になっている影響もあります。


 もはや「金持ちのパトロンの道楽」ではなく、「国策」や「地域再生の切り札」、そして「投機対象」となっている「アート」の現在。

 ゴッホフェルメールの生活ぶりを考えると、隔世の感がありますが(時代が違うのも事実なんですけど)、いろんな意味で、日本はまだまだ「アートをうまく利用できていない国」なのかな、という気がしてくるのです。

2014-10-26 【読書感想】神様の裏の顔

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神様の裏の顔

神様の裏の顔


Kindle版もあります。

神様の裏の顔 (角川書店単行本)

神様の裏の顔 (角川書店単行本)

内容(「BOOK」データベースより)

神様のような清廉潔白な教師、坪井誠造が逝去した。その通夜は悲しみに包まれ、誰もが涙した―と思いきや、年齢も職業も多様な参列者たちが彼を思い返すうち、とんでもない犯罪者であった疑惑が持ち上がり…。聖職者か、それとも稀代の犯罪者か―驚愕のラストを誰かと共有したくなる、読後感強烈ミステリ!!第34回横溝正史ミステリ大賞受賞作。


 第34回横溝正史ミステリ大賞受賞作。

 著者は、お笑いコンビ「セーフティ番頭」として6年間活動。4年前に限界を感じ解散し、作家に転身し、この伝統のある賞を受賞した元お笑い芸人というのが、けっこう話題になっています。

 現在28歳。芸人としてのキャリアには、けっこう早いうちに見切りをつけてしまったのだなあ、と。

 元芸人で、放送作家として活躍している人はけっこういるので、芸人と「書く」という仕事とはけっこう近いとは思うのですが、この若さで、これだけの作品を書ききったのはすごい。

 

 ストーリーに関しては、「ありきたり」だと最初は思っていたのです。

 世間から「神様のような善人」だと思われていた人間について、他者がさまざまな視点から語っていくことで、その「本性」が暴かれていく、という展開。

 読んでいて、「しかしこれ、こんなに早く、あからさまに『伏線』を明かしまくっていてもいいのか?」と思っていたんですよ。

「こんなベタな展開で、最後までもつのか?」

「なぜこれで、『横溝正史ミステリ大賞』を?」

 というような黒い疑問に突き動かされて、読み続けてしまったようなものです。

 競馬でいえば、すごいペースで飛び出していった逃げ馬をみるような感じ、といえばいいのか。

 このペースだと、最後までもたないはず。でも、いまはこんなに後続と差が開いているし、もしかしたら、これ、このまま、逃げ切ってしまう、のか?

 まあ、結果的には、そういう逃げ馬は、最後の直線で後続に捕まって、ずるずると後退していくんですけどね。

 でも、バテるだろうと思っていても、毎回、「もしかしたら……」とドキドキしてしまうのです。


 この作品は、ゴール前でバテそうになったかと思ったら、ゴールを無視して明後日の方向へ逸走したように見えました。

 えっ、そっちに行っちゃうの?


 会話のリズムも良く、ストレスなく読めます。

 人物描写も、やや類型的で深みはありませんが、これは「そういう小説」ではないのでしょう。

 途中のプロセスもなかなか面白くて、『十二人の怒れる男』みたいだなあ、と。

(あるいは『十二人の優しい日本人』)

 

 ただ、最後の「どんでん返し」は……

 うーむ、ネタバレになってしまうので詳述は避けますが、こういう「最後に驚くような結末が!と言いたいためだけに強引に作られたようなどんでん返し」って、僕は嫌いです。

 あまりに御都合主義というか、そんな偶然は、さすがにありえないのでは、と言いたくなります。

 「やられた!」「騙された!」っていうよりは、「えっ?何その結末」と唖然としてしまう、置き去りにされた感。

 でもなあ、このくらい強引に「意外などんでん返し」とか「叙述トリック的なもの」が無いと、いまのミステリって、話題にならないのかもしれませんよね。

 うまくて堅実な人間ドラマを描けるベテラン作家は少なからずいるのだし。

 それに、「社会派」とか「警察という企業小説」みたいなのじゃない、「パズルゲームのようなミステリ」も、貴重だと思うんですよ。

 ただ、この作品は、パズルとしても成り立っていない感じはしますけど。


 読んで何か心に残るとか、そういうミステリではありませんが、読んでいるあいだは、とりあえず「どこに着地するのか」が気になってしょうがない、そんな作品です。

「人の思い込みの怖さ」みたいなものは、描かれており、「芸能界」という場所に足を踏み込んでいた著者の「人間観」も反映されているのかな、と僕は思いました。

 

 ミステリマニア向けではありませんが、「いまちょっと話題になっている元お笑い芸人の小説を、ちょっと読んでみたい」という人は、「おお、なかなかやるじゃん」というくらいの満足感を得られるのではないかな。

 

 しかし、「トンデモであっても、どんでん返しって、やっぱりあったほうが良い」のかねえ……

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