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本当は週末にはなにか書く予定だったのですが、あまりの豪快な負けっぷり(ベガルタ仙台vsFC東京:4−0)で、何も書く気力がおきませんでした。
仙台戦は思い出すのも辛いのでw、幸せだったACLの話からはじめることにします。
(東北ネタはまた今度)


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先週ACLアジアチャンピオンズリーグ)、FC東京vs北京国安戦が「東京スタジアム」で行われました。


東京スタジアム」とは、いつもの「味の素スタジアム」のことですが、要するに「ネーミングライツ」ってやつで、本当の名前は「東京スタジアム」なんだけど、味の素KKが(株)東京スタジアムに金を払って、「味の素スタジアム」と呼ぶ/呼ばせる権利を得るっていうアレです。
その影響は、スタジアムの看板を「味の素スタジアム」に架け替えるってだけにとどまらず、たとえば京王線飛田給駅の案内表示も「味の素スタジアム前」。
地図もそう、テレビ中継での呼称もそう、どんな場面だってだいたいそう。
さすがに、ある個人が味スタのことを「キングアマラオスタジアム」って呼ぶのを止めさせることはできないものの、それ以外では、公の場面であれを「東京スタジアム」って呼んだら法律違反なの?ってくらいに徹底しています。


それほどまでに強力な「ネーミングライツ」ですが、先日のACLでは「無効」でした。
サッカー専門誌でも「東京スタジアム」、テレビの予約画面も「東京スタジアム」、現地についてみると「味の素スタジアム」と書いてある看板にはなんと「布」がかぶされて見えないようになっておりました(そういえば京王線の車内放送はどうだったのかなあ。これは意識してなかったから覚えてないなあ。)。
どうやらACLにはACLのスポンサーがあって、そのスポンサーにはACLのスポンサー以外を排除する「権利」があるようなんです。
だから、「味の素」というものが一切目に触れないよう、スタジアム側(チーム側?)には隠す「義務」がある、と。


これは「味の素」に限ったことではありません。
スタジアムの固定ブース売店の「ケンタッキー・フライド・チキン」。
ロゴが見えないようにパネルに紙をかぶせていますが、あれでは何をいくらで売ってるのかさっぱりわかりません。
なもんで、女性の店員が普段は見られない「呼び込み」をやっておりました。
(○○がいくら、○○がいくらで販売中ですー、ってね。)
簡易売店での飲料は、いつもはお目にかかれない「ポカリスエット」一色。
そしてだいたいが、売っている種類が少ない。
人によっては「いつもの」ゲン担ぎのものがない、なんて思ったことでしょう。


 
いつもと違うから、それも一日限りなのにあんなに必死だから、なんとなく「滑稽な感じ」がするのですが、それが日常となると、いつもと同じ風景だと、同じことであってもなにか当然のことのように思えてしまうものです。
 


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ネーミングライツ」に限らず、スポンサー、特に企業スポンサーというものに対して違和感を持つ人は、今の日本にはほとんどいないものと思われます。
例えばサッカーにおいても、スポンサーを集めることが経営の大きな柱の一つですし、政治にしても、企業献金なくしてはほとんどの政党が立ち行かなくなるでしょう。
サッカーのサポーターの間では、よくこういう話がされます。
「この不景気で、集客も伸び悩む中、優良スポンサーを数多く集められるのが有能なフロントの一つの条件だ」
↑の「フロントの話」に異議があるわけじゃないんです。
そうじゃなくて、そもそもどうして「不景気」なんでしょうね?
っていうか、どうして「スポンサー」なんでしょうね?って話なんです。


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「不景気」なんだったら、もし景気を良くしようとするならば、各企業は少しでも給料を上げた方がいいと思うし、私なんかは「スポンサー」なんてのをやめてでも従業員の給料は上げた方がいいと思う口なんですが、むしろ企業側の発想は、従業員の給料はギリギリまで削ってでもスポンサー料という名の広告費を確保しようとする、っていうのがまあ実態でしょう。


もし、スポンサー料なるものがなくなってその分給料が上がったら・・・
そのお金でそれぞれが好きなチームの観戦に行く、かもしれませんし、サッカーじゃなくて野球、映画、カラオケ、などなど他の所に行く、かもしれませんし、どこかに行くのではなく家族でおいしいものを食べる、かもしれませんし、何にも使わずに貯金してしまうかもしれません。
しかしそうなれば、いずれにせよその使い道を決めるのは個人です。
ところが「企業スポンサー」であれば、使い道を決めるのはもちろんその企業となります。
この点を踏まえれば、個人側から見た企業のスポンサー料なんてものは、ぶっちゃけ「個人が本来決められるもののいくばくかが企業に合法的に奪われて勝手に使われているもの」と言っていいのかもしれません。
(もっとも企業側はそうは考えないでしょう。たとえば自社に「その企業の推薦しない政治家に個人献金している従業員」がいたら、どうにかしてその分給料を下げて「献金できないようにしよう」と考えるでしょう。企業がそう考えること自体を私は「悪いこと」とは考えません。むしろ「自然なこと」だと考えます。問題は個人がそれを「悪いこと」と考えない事です。)


ここで


「たとえ企業がスポンサー先を選んでも、消費者はその企業の選択を支持するかどうかを消費行動によって選ぶことができる。つまり消費者の選択による競争原理が働くから、結局は個人が決めているのと同じ」


という反論をする人がいますが、私は少なくとも2つの点で間違っていると考えます。
一つは、一人一人の嗜好に合わせたきめ細やかなスポンサードは不可能なこと、つまり選挙における「死に票」の効果が出るので、少数の愛好者には常に不利に働くという事。
もう一つは、現代のマーケットリサーチは、往々にして「何が流行っているか」から始まるのではなく「何を流行らせるか」から始まるのものであって、その結果、現状は「個人が選択している」ことを偽装した、しかし実態は「企業が選択している」のに過ぎない、という事です。
これから流行する色ってのが、なぜか来年まで既に「決まって」いたりとか、「クロスオーナーシップ」の話題をTV新聞で一切見ないとか、「何を流行らせようか/流行らせまいか」なんてのはたいていが企業次第、もっと言えば人の心でさえも、ある程度広告によって操作可能とくれば、まあ私からしたら現状がすでに「やりたい放題」としか言いようがありません。
その最たるものが、企業献金に加えて政党助成金もいただいちゃうことにした多くの「政党」でしょう。
よーするに上記の反論は「現状は存在しているがゆえに正しい」と言ってるだけのものでしかありません。


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一方、大阪で橋下徹文楽に対して補助金カットの意向を示したことに対して、


文楽などの一部の芸術だけが『伝統がある』という理由だけで特別扱いされているのはアンフェア。そもそも不景気なのだから、補助金分は減税すべきであり、文楽側は独立採算の努力をすべき。もし減税によって市民の可処分所得が増えて、それでも文楽に客が入らず経営が立ち行かなくなるのなら、それは市民が『文楽は不要』との選択をしたということ。」


という意見を目にしました。
これについては、なるほど、「2600年以上続いている伝統(その真偽はさておき)」というだけで、それがなにか素晴らしいものだとは露とも思わない私ですので、確かに一理ある、とは思います。
しかし、この方向で話をするのであれば、これだけでは「アンフェア」なのです。


先にも書いたように、そもそも不景気なのであれば、民間企業であっても補助金=スポンサー料を抑え、その分を従業員の給料または商品の価格に反映させるべきであり、そうしないのは企業のエゴ、日本全体が不景気でも自社さえよければそれでいいから、かもしれません。
そして、実質可処分所得が増加するという意味では、上記は公費の補助金カットと同じ効果があります(もちろん企業が内部留保に回さなければですが)。
しかも、そのようにして「選択する力」(=所得)を企業から市民に移さなければ、とても「市民が選択した」などということは言えません。
・・・結局、「企業に選択される」ものだけが生き残るのです。


なぜ、民間企業に対しては「スポンサー料を減らしてでも給料を上げろ(商品価格を下げろ)」と言わないのか。
他社に対して(商品価格〜)は、そりゃまあ言う権利がないから、なのでしょうが、自社に対して(給料〜)は、いったいどうしてなんでしょう。
(そもそも「給料を上げろ」なんてのは、スポンサー料=広告費とバーターにして言わなきゃならないってもんでもないですが。)
自社には言いづらい、リストラされちゃう、ってんであれば「全体として」言えばよさそうなもんですが(その方が「社会正義」にも適ってますし)、「法定最低賃金」からもわかるように、他人の収入はむしろ低い方がよい(その方が商品の価格が抑えられるから)、と考えるのが日本の市民です。
ようするに、自らの幸せのためには他人の「選択する力」など小さくなっても構わない、ということでしょう。
・・・その結果、企業の「選択する力」がますます大きくなったことは言うまでもありません。


つまり、先の一文は


「・・・と短絡的に考える人もいるかもしれないが、しかし実際は、「企業スポンサーという『私的補助金』」の力の方が圧倒的に大きいため(公的補助金なんかよりもはるかに)、社会全体で「選択をする力」を持つ者は、あいかわらず「個人」ではなく「企業」であり続けることになる。この不均衡を解消せずに「市民が選択する」というのは幻想に過ぎない。」


と続くのが正しい=フェアということになります。


この「企業(vs市民)」の視点のない話は、それだけでアンフェアなのです。


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まあ私個人は、べつに「広告は指定掲示板(ネット限定という意味じゃない)だけ・スポンサー料は法律により定額制」って社会でもいいのよ。
「広告の力」じゃなくて「商品の実力」で勝負しましょう、ってね。
でも大抵の人は、そんなのイヤでしょ。
スポンサー広告のない世界なんて不便だし、だいたい活気がなさそうだし。
つまり「スポンサー」っつーものをなくすってのは、どだい現実的じゃないってわけ。
で、今までどおりにスポンサーってものを認める、すると、どうしても「選択する力」ってものも、今までどおり個人から企業に不当(?)に奪われ続けることになる。
であれば、どこかでそれを補正しなきゃならない、でしょ。


つまり、それが「公的補助金」っていうことなんです。


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「公的補助金」であれば、使い道は民主的に決めるもの。
文楽補助金は不要」ってのも一つの意見。
補助金は必要」ってのも一つの意見。
いずれにせよ、一人一人には「一票分の選択する力」がある(はずなのに実際はない、となれば、それこそ問題とすべきでしょう)。
留意すべきは、これが「選択する力の補正」である以上、少数派の意見を多数派が押しつぶして「補助金0」とする決定は「本質的に誤り」という事。
もちろん市民の意思に従った「完全な比例配分」など非現実的ですが、だからといって「本質」が変わるわけではありません。


そして、先の考察からもわかるように、この財源は「法人税」で賄うべき性質のものです。
市民の側からすれば、なされるべき「選択する力の補正」である「公的補助金」。
個人も企業も負担する「消費税」や、ましてや個人が負担する「所得税」で賄うべきものではありません。
また、不景気であれば、個人の可処分所得が減り、企業の「選択する力」が相対的に強くなるわけですから、当然補助金は増額されなければなりません。
企業の内部留保が過去最高であればなおさらのこと。
企業増税は景気刺激策にもなるはずです。


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ここで、お金の流れに着目してみましょう。
そうすると、使い道こそ市民が決めるものの、これは「企業が公的補助金のスポンサーになる」のと実質同じことなのがわかります。
ということはどういうことかというと、


「金を出しているということは、口を出す権利がある」


ということは、金を出すに至る背景にまで遡って考えなければ「一概には言えない」と言うことです。


ここまで長々と書いてきましたが、これが今日私の言いたかったこと。


つまり、


生活保護を受けてる母子家庭は男と同居しちゃいかん、とか
企業献金を受けてる政党はもっと経済界に配慮すべき、とか
何の「権利」があって言ってるんだ、勘違いもほどほどにしろ!


ってことです。
(もっとも「企業献金」については、たとえ最高裁が何と言ってようとそれ自体がアウト、なんですけどね。
こうやって「一つのこと」言ってるのにあちこちいろんなことに言及してブログが長文化する、それがfuna流ですw。)


 
また、これまで明確には示しませんでしたが、この判断(この件で企業には口を出す権利がない)は、


  「選択する力」は、企業ではなく個人が所有すべきである


という価値観に支えられています。
もちろん、


  「選択する力」は、個人ではなく企業が所有すべきである


という価値観に基づけば、結論は逆になります。


 
ところで、あなたは「人間」でしょうか、それとも「奴隷」でしょうか。
 


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ついでに。


このブログ、「愛国者」を自認する人は、まあほとんど見てないかもしれませんね。
でも、もしたまたま、もしくは間違って(笑)見ていたら聞いてほしいのですが、
企業にとって法人税って、つまりは日本国のスポンサーである、ってことですよね。
で、赤字国債が過去最高なんて言われているさなか、「法人税を下げないと競争力がなくなるから日本から出ていく」とか、いったいどんだけ「非愛国社」なんだと。
韓流をスポンサードする企業を叩くのであれば、むしろ日本をスポンサードしない企業、そして経団連をこそ叩くべきです。
なぜならやつら、自社がスポンサードしないというだけでなく、さらなる法人税減税をもくろみ、他社のスポンサードまで妨害しようとしているではないですか。
愛国者にとって、これは断じて許すべきではありません。
自らを「保守というよりも、右翼というよりも、愛国者である」と自負されるのであれば、取るべき行動はおのずと決まってくるかと思います。


私は、自分が愛国者だなどとは全然思いませんが、それでも、たとえば米倉弘昌などとは比べ物にならないほどの愛国者です。


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最後に(「愛国」ついでにw)。


ACL当日、東京スタジアムにはいつものシミオクの警備員だけじゃなくて、ほんものの警察官まで来てました。
前日に石原慎太郎尖閣諸島を購入するとかなんとか言っちゃったもんだから(対戦相手は北京国安)。
しかし、当然ながら何の騒動もなく、試合も無事に終わりました。
知らない人のために一応説明しておくと、ACLというのは「クラブチーム対抗戦」であって国の代表ではないので、「国歌」は歌わないんです。


私たちが歌うのは、もちろん"You'll Never Walk Alone."。