東京は概念化する

 ※学生時代に書いたものを転載。初出 2007/11/28


 東京ビッグサイトをご存じだろうか。
 ピラミッドを逆さにしたような構造を四本の四角い足で支えた構造物として知られているが、じつはそれは会議棟であって、それを愛称とする国際展示場の本体が平べったいだだっ広いコンクリート打ちのただのスペースであることはあまり知られていない。
 さておき日本語というのは不思議な言語であって、音標文字と表意文字が同時に存在する。対してたとえば英語においては、経験則から知られるように、英単語の綴りと発音は必ずしも対応せず、この意味で英単語は表意単語であるといえる。さらに日本語の音標文字が必ず一音を示すのに対して、英語では必ずしも発音されるべき一音を示さない。

 しかしこのことが、かえって、日本に流入した外来語、あるいは和製語を日本語の音標文字によって平板化し、均一化することになる。すべての外国語は日本語に音が少ないことによって近づけられ、思いもしないような関連づけがなされる。そうしてそのように関連づけをすることによって、本来の意味は希釈される。
 試みに「ビッグサイト」という言葉から意味を抽出してみる。それは、「でかい場所」だ。どうやらそれは場所で、しかもでかいらしいが、それ以上のことはなにも分からないじゃないか。
 しかし東京ビッグサイトに限っていえば、そのもの正にでかい場所であって、それ以上の説明は結局必要としないのである。
「たしかに、でかい場所だな」
「ああ、でかい場所だよ、これは」
「東京だしな」
「都内だからな」
 誰もがそれがビッグサイトであることに納得し、東京であることにも納得する。

 ここに違和感を感じる人間がいることを、私は切に願っている。なぜ東京なのだろうか。有明でもいいじゃないか。そもそも日本には、「東京」と名のつくランドマークが多すぎるのである。「東京ディズニーランド」、「東京ドイツ村」、「東京タワー」、「東京ドーム」、「東京都庁」、「東京駅」。どれもこれも東京ばかりである。近年東京タワーに代わる大電波塔が墨田区隅田川沿いに建つ計画ができたが、残念ながら隅田川タワーでも墨田タワーでもない。それは「第二東京タワー」である。やはり、「東京」だ。東京でなければならない。いったいそれは何故だろうか。

 私はここに、パラダイムシフトを起こそうと思っている。

「東京とは、概念である」

 何を言っているのかと思われそうだが、そうなのだ。東京というものは実在しない概念である。それは曖昧な境界をもって関東近辺に蔓延している。しかし、それだけだ。実在しないのである。

 たとえばそれは、国内のどこかでの会話に表れる。

「兄貴が東京に住んでるんだよ」
「東京? 東京のどこ?」

 ごく当たり前のようだが、 東京のどこ? とはどういうことだろうか。別段違和感を感じない方もおられるだろうが、しかし、この、東京のどこ? は、実は非常な危うさを孕んでいる。そうしてそれは、次の発言でおもむろに姿を現すのだ。東京に住む兄をもつ者は言う。

「川崎」

 そんなはずがないじゃないかという向きもあるかも知れないが、あるのである。

「そうか、川崎か」
「そうそう」
「横浜に近いんだよな、川崎」
「東京からすぐそこだよ、横浜は」

 このほどかように、東京は概念として存在している。そもそも、「東京駅」がいけない。これほど決定的に東京を概念化したものはない。

「東京に行ってきたよ」
「東京のどこ?」
「東京駅」
「それは正に東京だけど、東京駅って、東京のどこだ?」

 よく分からないのである。しかし今から東京駅の駅名を変えるにも、どうすればいいのだ。
 たとえば、「八重洲駅」はどうだ。おそらく、海に近いのではないか。そんな駅がまさか東京駅だったとは、誰も思わないのではないか。
 だからといって「丸の内駅」では本末転倒だし、「皇居前駅」ではバス停だ。やはり、「東京駅」だ。「東京駅」でなければならない。

 このように、「東京駅」でなければならなかったものの存在によって、かえって東京は決定的に概念化した。

「なんでこれが東京なのか、よく分かんないけど、まあ、とりあえず、東京」

 さればこそ、東京は自由な都市なのである。