電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ダメ人間日記

なんか最近、昼間の最高気温が20度近くまで上がったり、暖かくなってきた。
春が近づくとなんか気分が重くなる――いや、ひとつには花粉症持ちだからというのがあるんだが……
ここしばらく、また一時的に仕事にあぶれてしまったのを良いことに、無気力な生活を送っている。一日12時間以上寝てることもある。
相変わらずネットで、悪徳商法マニアックスとこれに圧力を掛ける京都のしょーもな商法の情報を追ったり、ビデオに録った仮面ライダー剣特捜戦隊デカレンジャーを観て、食事は、安くつくからと挽肉のカレーなど作り、深夜にガンダムSEEDを観て、なんかが致命的にイマイチだなあ、とか思ってる内に一日が過ぎる。
冬は世間一般の普通の人間でも外に出るのが億劫になる時期なので、引きこもってても正当化できるような気がするが、春になって暖かくなると「引きこもりは恥ずかしいことである」という世間のプレッシャーが、言われもしないのに迫ってくる(だめだこりゃ)
で、ずっと自宅にいると、何もしないことに罪悪感を覚えるので、無意味に、中野区の自宅から、わざわざ新宿や渋谷や池袋に自転車で出掛けてみたりする。
といっても、行く場所は、ヨドバシカメラTSUTAYAブックオフ東急ハンズK-BOOKSとらのあなさくらやホビー館、あとせいぜい西武パルコの書店とかである、うーむ見事な廃人。
それでも、自転車で遠出すると一応体も動かすので、少しは何かやった気にもなる自己満足。
――と、実はこれは中高生頃からの行動パタンで、学校帰り、わざわざ学校のある炭鉱跡地から、自転車で大幅な遠回りをして、福岡市中心街近くのデパートや地下街や書店やレコード屋や家電オーディオ機器店をぶらぶらする(結局何も買わない)のが好きだった。東京生活が10年以上になり、30歳過ぎになっても、いまだそういうことにワクワクする感覚がどこか残っている。

しかし唐突だが、

上記のような廃人ライフをしてると、シロウトくさくも、ハレとケの区分の喪失、とかいう民俗学用語が頭をよぎる。
かつての、地域社会の眼というものがまっとうに生きてる時代には、いい歳して平日昼間から働かん男には、居場所は無かった筈だろう。んが、上記のような店に行けば簡単に群集に紛れることができる。日常と生産の空間というものがなくなり、世がおしなべて消費の空間であることに今さら誰も違和感持たなくなった、というのか……。
そう、昔は百貨店とか行くのって、休日の「イベント」だったんですよね。上流夫人が『今日は帝劇 明日は三越』とか言ってるのが庶民の憧れでさ。普段は地元の商店街の個人経営のお店で買い物して、たまーにちょっと都会のデパートとか量販店みたいな店に行くと、ちょっと非日常空間だったりする――
――とか、そんなことを書いてると、ただの田舎モノ丸出しのようだが、確か、荒俣宏『20世紀の妖怪の正体』でも、デパートという形態自体、フランス革命後、多様な商品の集積された非日常空間、一種の産業社会ユートピアの像という意味をもってたとかなんとか(ベンヤミンみてーな話だな)書いてあったから、あながち本質的に誤りではなかろう(てきとう)。
こんな生活送ってて良いのかと時々思うわけだが、自己正当化するわけではないけれど、わたしと同様の人間は少なくないだろうと感じる。
膨大な商品とその周りの群集に紛れていると、本質的な孤独も将来の不安も紛れてしまう(が、紛れるだけで解決はしない、先送りになるだけだ)
自転車の上で、意味なく「俺も『大地から切り離された民』だな」とか呟いてみる。