VILLAGE ON THE VILLAGE

 「どうして生まれてきたの?」 
 「一度死んだからに決まっているじゃないの?」
 ノヴァーリスだったかな、こんなやりとりがあった。過去に死んだものがいなければ、我々は誰も生きていないことになる。当たり前の話である。ではあるが、この「連続性」が如何にあるかを捉えることが宗教の本質なのではないか、と私はよく思う。
 しかし、こうも思う。我々は生きていると思っているが、本当に生きているのか、死んでいるのか、それはわかりっこないのではないかと。生きていようが、死んでいようが、とりあえずは「生きる」以外にはやることがないからそうしているだけ、というのもまた本当なのではないか?
 先日、黒川幸則監督の映画、『VILLAGE ON VILLAGE』(www.villageon.ooo)の試写を観にいった。山ちゃん(コア・オブ・ベルズの山形育弘)が脚本で、淳君(のっぽのグーニー、ju seiの田中淳一郎)が主演、というように、よく知った人達――大人の言葉で言えば、「一緒に仕事をした」間柄であるが、自分の言葉に翻訳すると、その「仕事」とは「悪ふざけ」以外の何物でもないのですけどね――が深く関わっている映画なので、これは観ないわけにいかない。とは言うものの、私は貧乏なのでどうやってその費用を捻出しようと思っていたところに、「試写会」のお知らせが届いたのであった。
 私は(映画)評論家ではないので、小難しいことは一切言わない。一言で言うと、この映画は「フォークロワ」であった。それがきどった言い回しだと思うなら、『まんが日本昔ばなし』でも『アパッチ野球軍』なんかをその例として挙げよう。諸星大二郎いましろたかし水木しげるの諸作品でもよい。そういうものに近い。しかし、その中に『機動戦士ガンダム』は含まれないし、『千と千尋の神隠し』にいたっては論外である、ということはわかっていただきたい。
 私が子供の頃、仲間内で「黒男」と呼ばれ、恐れられた人物がいた。ただの新聞配達員だったのであるが、なんとも怪しい見た目のオッサンで、その行動も尋常でないところがあった。子供はこういうことに敏感で、ついに「黒男」追跡隊が結成され、その正体を暴いてやろうということになった。今でも憶えているのは、この「黒男」は竹やぶがお気に入りだっただったらしく、配達の途中に竹やぶに入り、じっとうずくまっていることが多々あり、この光景がえもいわれぬ不気味さに満ちていたことである。その姿は魔道士かと思うほど実に様になっていたのだ。
 いつも黒い服を着ている、というのもポイントを上げる重要な要素であるが、しかしお金がなくて服が買えなかっただけかもしれないし、竹やぶにうずくまっていたのも、便意をこらえていただけかもしれない。真実は恐らくその当人も知らない。こういう人達というのは自分が果たして本当は何をやっているのか知らないものだからである。
 この「黒男」はほんの一例で、我々の子供時代にはこういう得体の知れない怪人物が近所を徘徊しており、畏怖の対象となっていた。つまり、ただいるだけで「怪」をおびき寄せてしまう人と、それをキャッチする感受性の出会いが頻繁にあったのである。だから、こういう出会いを経験し、今でもそのことを覚えている人達にとって、映画に出てくる古賀さんや近藤さんなんかはまさに「その筋の人」としか思えないのではないだろうか。また、映画の中盤で瀬木君が初めて登場するシーン、あのほんのわずかの瞬間に、何かとんでもないものを見てしまったぞ、と感じる人が少なからずいると私は思う。※
 ところで、こうした怪人物――もはや妖怪と言ってもいいかもしれないが――は絶えることがない。おのずと彼らの志を受け継ぐ者が現われてくるからである。かくいう私がそうであるし(カミングアウトするまでもないが)、気がついたら周りにもお仲間が沢山いるではないですか。あの時に畏怖の対象になったものは自分がすでに持っていたもの(あるいはこれから受け継ぐのであろう何か)と同じ種類のものであった、というようなことはなんとなくわかる。しかしそのあたりの消息をいかに語ればよいのか。これが難しい。
 いつだったか、立飲み屋で飲んでいるときに、一緒にいた友人に「死んだらどうなるんだろうね?」と何気なくきいたことがある。彼の答えは「こうやって酒を飲んでいるんではないですかね?」であった。その時はその友人の言わんとしていることにいまひとつ見当がつかなかったが、この映画を観て「ああ、そういうことか!」と了解してしまった。『VILLAGE ON VILLAGE』はその言うに言われぬ、「我々」の在りようを実に飄々と映し出しているであった。つまり、そこに写っていたのは、なんのことはない、「自分」だった、ということ。
 もっと言うと、死者たちの生息するところも、我々妖怪たちと同じく、この娑婆であり、そこで酒を飲んだり、立ち食いそばを食べたり、自動販売機の下に小銭を探したり、拾ったエロ本を神社の裏で読んだりしているのである。もうどっちがどっちなのか、妖怪なのか幽霊なのか、生きているのか死んでいるのか、そういうことを問うこともバカらしくなってくる。本当のところは誰も決して知りえないからだ。そう思うのなら、どうでもよいことに頭を悩ませることなく、自らの精神的欲望に忠実に、エピキュリアンとして娑婆での毎日を味わいつくして生きるしかないのではないか。この映画のメッセージ――というほど大げさなものではないと思うが――はこれにつきると思う。
 試写の後、私は飲み会に参加したが、これがまさに映画で展開されている風景を彷彿させるものであった。というか、どこが違うんだよと。完全にアンチ・スペクタクルなのである。もちろん日常をそのまま撮ったからといって、それは映画にはならないし――それ以前に、何であれ「ありのまま」を撮ることは不可能なのであるが――、そういう風に撮れたとしても、映画として面白くするのは至難の業である。ところが、この「何もおこらない」、日常的風景に満ちた映画は実に面白いのである。あれのどこが日常なんだ、という意見もきっとあるだろうけど、要は見方の問題で、妖怪(や幽霊/死者)の目線からだとあれはあたりまえの景色になってしまうのだ(なので人間の方には異世界への旅が楽しめると思います)。この映画は、黒川監督自らが妖怪に変化して、妖怪の目線でその世界をフィールド・ワークしたところの結果として生まれたものである、と私は思うのだが、もし違っていたらごめんなさい、監督。
 

 
 ※ フランスの詩人、ジュール・シュペルヴィエルに「動作」という詩があり、瀬木君初登場の場面を思い出そうとすると何故かこの詩が浮かんでくるのである。それは(飯島耕一訳)このように始まる。


 うしろをふり向いたその馬は
 誰も見たことないものを見た
 それから彼はユーカリの木のこかげで
 また草を食べ続けた


 ここから先は書かない。この冒頭部分だけで、私は引き込まれたが、そういう人は他にもいるはずだ。各自調べて辿りついてもらいたい(もっとも、それは今日では容易なことであるが…)。