偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part20 LAST RACE

 戦争が始まると、スイスに居住していた Caracciolaの生活も耐乏生活に突入していった。中立国ではあったが、食物は野菜、果物、鶏肉以外は皆配給制となった。ガソリンもチケット制となり、クルマで移動することは極力戒められた。足の不自由な彼も庭を耕して菜園を作り、鶏を飼うこととなった。彼らの預金の大半はドイツ国内にあったが 1933年に制定された法により、ドイツ国外へ持ち出すことが出来なくなっていたのだ。その為、MERCEDES-BENZの Kissel取締役が年金という形で Caracciola達に重役待遇の給料を支払っていた。そして取締役は Caracciolaの元へトリポリGPにのみ使用された W165を2台とも送る手配を探っていた。戦争で焼失するよりも彼の元へ送っておいた方が安心と考えたのだった。ところが取締役は1942年6月に心臓発作で急死、そして4月からNSKK(国家社会主義ドイツ労働者党自動車隊)の命令により Caracciolaの年金は凍結されてしまった。なぜなら Caracciolaがドイツへの帰還命令を無視したからであった。足の不自由な彼には兵役は無理であったため、部隊慰問を要請されていたのである。しかし彼には出来なかった。自分が信じられないドイツの勝利を若者たちに信じ込ませるために部隊慰問するなど、とうていできることではなかった。彼らは預金を取り崩しながら生活することになった。
 1945年の春、生涯独身だったヒトラーが愛人と共にベルリンの地下壕で自決すると、ようやく戦争が終わった。Kissel取締役が生前に手配した W165はチューリッヒMERCEDES-BENZに極秘裏に運び込まれていた。Caracciolaは実車の状態を確かめ、我が家に持ち込むことができると喜んだ。ところが W165はナチス・ドイツの資産を管理する連合国当局により没収されてしまった。



 翌、1946年5月、Caracciolaは同月末に開催されるインディアナポリス500マイル・レースへの招待を電報で受け取った。彼の妻ベビーは接収されていた W165をレースで使えるように奔走、スイス駐在の連合軍当局に2ヶ月だけ貸し出すことを同意させた。そして、ドイツ人が合衆国へ旅行するのに必要な書類を手に入れるために走り回り、出発の8日前に書類のすべてを整えたのである。ところが連合軍司令部から横やりが入り、W165の持ち出しは凍結されることになってしまった。
 Caracciolaは諦めようとしたが、彼の妻はへこたれなかった。
「とりあえずアメリカに行きましょう。向こうでクルマを貸してくれる人がいるかもしれない」と彼女は彼を口説いた。それは結果的に不幸なものとなったが勇気ある決断だった。
 現地で1人のアメリカ人が W165と比べると不格好で扱いにくい“Thorne Special”というクルマを Caracciolaに提供した。ところが翌日の練習走行の3周目でスピン。彼は吹き飛ばされ、数m離れた場所へ頭から地面に叩きつけられた。頭蓋骨底部骨折だった。Caracciolaは生まれてから1度もヘルメットを被ったことはなかったが、規定によるヘルメットを装着していた。でなければ即死だった。妻の献身的な看病もあり、彼は数か月で回復した。



 1952年5月2日、MERCEDES-BENZチームが復活した。ミッレ・ミリアに参戦したのだ。戦後初めてモーター・スポーツに復帰したのである。新型のスーパー・スポーツである 300SLに乗り Caracciolaは参戦、4位でフィニッシュした。とはいえ、このレースは彼の勝利といってもよいものだった。41歳という年齢で、しかもレースの進行と痛みが激しくなる麻痺した足をもって、途絶えることなき雨と嵐の中を平均 120km/hで13時間近くも走ったのである。彼は嬉しかった。1931年のミッレ・ミリアで足の裏を火傷させながら悪戦苦闘し優勝したことが走馬灯のように思い出されたのである。

 ミッレ・ミリアから2週間後、スイスで GP Bernが行われた。これはノンタイトルのレースで、スプリントのスポーツカー・レースであった。彼はこの時やっとスイス国籍を取得して 300SLでレースに参加した。
 Caracciolaはスタートでトップに飛び出した。途中、チームメイトの Karl Klingに抜かれた彼は 13ラップ目にコーナーで Klingを抜きにかかかった。160km/hで飛び込んだ彼は次のコーナーで静かにブレーキをかけたのだが、後輪のライニングが貼りついてロックしてしまった。Caracciolaは態勢を立て直そうとしたが、300SLは立ち木に向かって突っ込んでいった。コースから飛び出し立ち木に正面衝突して停まった。

 救急車から運び出された時の Caracciolaは顔面は血にまみれ、頭の負傷の他に無情にも唯一健康だった右足がぐしゃりと潰されていた。5ヶ月もの長期間ギブスがはめられた。その間に2度の大手術を受け、再び歩けるまでに2年間も車椅子の生活を余儀なくされた。彼のモーター・レースの時代は残酷にも終わりを告げた。

 1956年、Caracciolaは会社の要請により、欧州に駐屯しているNATOアメリカ軍およびイギリス軍の100万の兵士を対象とした特別販売計画の指導的役割を受け持つことになった。偉大なチャンピオンは、どこの基地でも大歓迎された。4年間ものプロモーションで彼は欧州大陸を精力的に動き回り、この間の MERCEDES-BENZの記録破りの販売に大いに貢献したのである。1959年には極東まで活動を広げる計画であった。ところが運命は異なった決定を下した。
 年の初めから、偉大なドライバーの健康状態はすぐれなかった。6月に西ドイツの病院に入院した彼は重い肝硬変と診断された。臨終はすぐであった。偉大なレースは終わった。100以上のレースで優勝し、筆舌に絶する栄誉を保持していた彼に、1959年9月28日、ついに最後のチェッカード・フラッグが振り下ろされたのだ。享年58歳。Daimler-Benz AGの本社では彼の追悼式が行われた。そこには生前彼が操った往年のシルバー・アローが並べられた。

 「振り返ってみると、わたしはルディ・カラツィオラを開拓時代の最も偉大なドライバーと思い、多分いつの時代でもそうだろうと考えていた。彼には極度に高い、ひた向きな心と、精神の集中力と、肉体の忍耐力と、知性が結集していた。私の見るところでは、カラツィオラほどどん底の無力感から立ち上がれたドライバーを彼の他に知らない」
Alfred Neubauer