メモ - ハルヒは何を思い、大阪の街を壊したのだろう

 兵庫県生まれで、阪神大震災で被災した経験を持つ。

「その時痛感したのは、人は他人の痛みに鈍感だということ。でも、僕だってそれまで他地域の災害は人ごとだった」。



大人気「涼宮ハルヒの憂鬱」の谷川流さん 「楽しませ、楽しみたい」 - 読売新聞(2006/7/12)

列車が走り出すと、阪急の車庫の向う側に北口町の凄惨な町並みが見えました。
列車は武庫川を越えるまでは、まるですぐにでも壊れそうなものの上を走るかのように、そろそろと徐行しながら走りました。
列車が武庫之荘につく直前、マンションが一階の駐車場を押しつぶすように倒壊した現場を通過したことには、私はこの時まったく気がつきませんでした。
列車が武庫之荘につくと沢山の人が列車に乗ってきました。
そのほとんどが動きやすい普段着なのですが、私の目の前に立った人は違っていました。
その人は背広を着ていて、ネクタイをしめ、さらになんと新聞をひろげて読みはじめました。私はその男の人を見て、非常に混乱してしまいました。
また車窓から見える風景は一変していました。そこには北口周辺のような悲惨な風景は、まったく見当たりません。
倒壊したビルなどは見当たりませんし、木造モルタル作りの古そうな家も普通に立っています。
まるできつねに包まれたような気分でした。
「なんか風景がちゃうんやけど...」
と無意識のうちに声に出ていました。
十三の駅に列車が着くと、更に明暗がはっきりと分かれました。
神戸線のホームにはリュックなどを背負った重装備の人たちで埋め尽くされていましたが、京都線のホームはまったく違いました。人の姿が普通におしゃれをして、普通に買い物に出かけたり、学校に通ったり、通勤に出かけたり、というような格好なのです。
私は狐つ包まれたような感覚にとらわれたまま、河原町行きの普通電車に乗り込みました。
車中、中年の女性が私の方をちらちらと見ながら、なにやらひそひそと話していました。
私は総持寺で降りると妻が通院している病院に向かいました。
総持寺の駅から病院まで行く途中で、商店街の店という店が普通に営業していて、パチンコ屋に行列すらできていることに驚きました。
『西宮以西はあんな状態なのに、大阪はなんともないんや』


西宮から〜 阪神淡路大震災・私的記録 〜(7) 武庫川を越える

思ったより遠く感じず、街の被害の様子を眺めながら、2時間ほどかけて西宮北口の駅に着きました。
ここから電車に乗って、阪急梅田駅を目指しました。
車窓からは、だんだんと震災の街から、普通の街へと変化していく様子がよく分かりました。


そして、梅田に着きました。
そこにはありふれた日常がありました。
大きな紙袋を持って、ショッピングを楽しむ人がいます。
映画館も開いていて、チケット売り場に人が並んでいます。
紀伊国屋前には相変わらず、待ち合わせをする人であふれています。
ゲームセンターでは昼間からUFOキャッチャーをする若者がいます。
パチンコ屋さんにも多く人があふれています。


彼と私は正直、言葉を失いました。
すぐ隣の街、大阪では、あまりにも普通の生活が営まれている。。。
ボロボロになった神戸との、あまりにも大きなこのギャップに、ショックを隠せませんでした。
ゲーセンで楽しんでいるこの若者たちは、恐らくテレビでしか神戸を知らない・・・
何も彼らは悪いことをしてるわけでもない、普通の生活をしてるだけなのに、この時の私の感情は正直イラ立っていました。
「神戸の人はみんな生きるか死ぬかの中で、必死で生活しているのに、お前らゲーセンかよ??」


今思うと人間って、勝手なものです。
これまで日本のあちこちで地震や、大きな災害、事故、事件があったとき、私はテレビを見て「ふ〜ん、大変そうやな。」と感じるだけでした。
もちろん、そんな日も飲みに行ったり、合コンしたり、カラオケで楽しんだりしていました。
そう、彼らと同じです。
いざ、自分にその災害が降り落ちてくると、あたかも自分が最大の被害者かのように思ってしまう。
このブログのタイトルのとおり、誰も自分の身に災難が降り注ぐまでは、他人事なのです。


私だけは大丈夫、そう思ってました 〜震災手記〜 いつまでこんな生活を・・・被災10日目

僕らは16時間かけて何とか大阪市内にたどり着いた。予想以上に大阪市内の損害は少ない。そして大阪はまるで他人事としか思ってない連中が多すぎた。救援物資を運ぶ県外ナンバーのトラックに混じって大阪ナンバーの乗用車がいる、4WDにスキー板を乗せた若いアベックが楽しそうに。それも一台や二台じゃない。こいつらはニュースを見てないのか? 大阪市内ではパチンコをしている者までいた。まるでいつもと変わらなかった。あのさっきまでの瓦礫や、焼け野原は何だったのだろう。今も神戸では何百人もの人が瓦礫の中に埋もれ助けを求めている。なのに、となり街、大阪ではパチンコ、ゲーセンに興じている。何なんだ、この国は。そう思った。さっきまで、震災後始めて動いている信号機、自販機を見て、感激し、生き延びれたって、、そう思った僕らは、何なの。あまりのギャップに浦島太郎状態でいた。もちろん大阪でも地域によって全く被害状況が違い、大変な苦労をされた方を多く知っている。だが、そうでない人もまた沢山いたのも事実だった。(僕もそうだが、自分が体験しなければ人の痛みは分からないものなんだよね。


1995.1.17 阪神淡路大震災 Gデザイナーの震災体験記