『物語 イタリアの歴史 解体から統一まで』と『物語 イタリアの歴史II 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで 』を読んだ

物語 イタリアの歴史 解体から統一まで / 藤沢道郎(著)

皇女ガラ・プラキディア、女伯マティルデ、聖者フランチェスコ、皇帝フェデリーコ、作家ボッカチオ、銀行家コジモ・デ・メディチ、彫刻家ミケランジェロ、国王ヴィットリオ・アメデーオ、司書カサノーヴァ、作曲家ヴェルディの十人を通して、ローマ帝国の軍隊が武装した西ゴート族の難民に圧倒される四世紀末から、イタリア統一が成就して王国創立宣言が国民議会で採択される十九世紀末までの千五百年の「歴史=物語」を描く。

以前『パスタでたどるイタリア史』という著作を大変面白く読んだのだが、パスタの歴史以上に、それまでよく知らなかったイタリアの歴史を知ることができた部分が実に有意義だった。フランスやドイツと違い、イタリアはローマ帝国崩壊後多数の都市国家が割拠した時代があり、それが”イタリア”という国家に統一されるまで様々な紆余曲折を経てきたのだが、こういった歴史性を今まで理解できていなかったのだ。そういったわけでイタリア史に興味が湧き、何冊かの本を読んでみようと思ったのである。

まず読んだのはイタリア史学者・藤沢道郎による『物語 イタリアの歴史 解体から統一まで』。とかく歴史書というと年代と人物名と事件を教科書的に羅列したものになりがちだが、この著作では章ごとに一人の歴史的人物を主人公とし、その時代をどう生き、どう関わり、そしてどう次の時代の懸け橋になった(あるいはならなかった)のかを、物語仕立てで生き生きと描いている部分が実に読み応えがあった。主役となる歴史的人物にしても、その時代を動かした最重要人物ではなく幾分傍流に近い人物をセレクトしており、彼らが巻き込まれる形で動いていくイタリアの歴史を体験させる形となっているのだ。

また、タイトルに「解体から統一まで」となっているように、この著作ではイタリア史の中心となるであろうローマの建国から描くのではなく、そのローマが東西ローマに分裂した時代から物語られ、様々な困難を経ながら現在のイタリアへ統一してゆくまでが描かれる部分にユニークさがある。具体的には4世紀末、東ローマ帝国テオドシウス帝の時代における皇女ガラ・プディキアが関わることとなった「カノッサの屈辱」から物語は始まり、そして終章では19世紀を代表する作曲家ヴェルディが主人公となり、彼の書いた歌劇『ナブッコ』の歌詞がイタリア統一の起爆剤となったことが描かれてゆくのである。

著者である藤沢道郎は「現在の歴史記述は民族=国民を単位として行われるのが通常の習慣で、近代の人間の共同性が国家という人工的な強制装置によってのみ維持されているという事実が、その習慣を正当化してきた」ことに否を唱え、こういった事実の連鎖を並べただけのイデオロギッシュな”歴史”ではなく、「ただ前面に人物を置き、それによって各時代のイタリア社会のパースペクティヴを確定したかった」とあとがきで述べている。この試みはまさに成功しており、本書をイタリア史を描く名著として完成させている。

物語 イタリアの歴史II 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで / 藤沢道郎(著)

ローマ、テーヴェレ河畔に威容を誇るカステル・サンタンジェロ(聖天使城)は、紀元2世紀に皇帝ハドリアヌス自らの陵墓として築かれて以来、数々の歴史的事件に立ち会ってきた。本書はハドリアヌス帝、大教皇グレゴリウス、ロレンツォ・デ・メディチ、画家カラヴァッジョら8人をとおして、古代ローマ帝国の最盛期からバロック文化が咲き誇った17世紀までの1500年を描く、もうひとつの「歴史=物語」である。

その藤沢道郎による『物語 イタリアの歴史II 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで 』は、前作の続編的な性格を持ちながらも全体的なコンセプトが別箇のものになっている部分がまたしても面白い。

まずここで取り上げられる歴史的人物は、大なり小なりローマのテヴェレ川右岸にある城塞、カステル・サンタンジェロ(聖天使城)にまつわる人物として登場するのである。カステル・サンタンジェロは135年、皇帝ハドリアヌスの霊廟として建立されたものだが、そのハドリアヌスから始まり、16世紀のイタリア人画家カラバッジオが活躍する時代までを描いている。すなわちカステル・サンタンジェロが長い年月の中で目撃してきたイタリアの歴史、という体裁なのだ。そして前作では”歴史の傍流的な人物”を中心として描いていた部分を、今作ではロレンツィオ・デ・メディチや航海者コロンボコロンブス)といった歴史に名だたる人物が中心として描かれることとなる。

そして最も大きな違いは、前作がイタリアの表舞台の歴史にまつわる事柄を描いていたのと比べ、今作ではイタリアの裏歴史、宗教の腐敗と政治の暴虐、社会の荒廃と市民の怠惰さを中心に描く部分である。ここで目の当たりにするイタリアの姿は、歴史の教科書に書かれることなどなく、また進学受験のテスト問題に取り上げられることなどまず考えられない、歪で醜く、暗黒の情念で彩られた地獄の裏イタリア史なのである。だがしかしそれもまたもうひとつのイタリアの顔であったことは間違いなく、歴史というものがその時代の覇者によってのみ作られたものではないことが否応なく伝わってくるのだ。そういった部分も含め、前作と併せて読むことでさらにイタリアの歴史が生々しく迫ってくる秀作であることは間違いない。

最近配信・DVDで観た映画 / 『ヘッド・オブ・ステイト』『グランド・イリュージョン』『グランド・イリュージョン 見破られたトリック』『ザ・キラー ジョン・ウー/暗殺者の挽歌』

『ヘッド・オブ・ステイト』

ヘッド・オブ・ステイト(Amazon Prime Video) (監督:イルヤ・ナイシュラー 2025年アメリカ映画)

『ヘッド・オブ・ステイト』はイギリス首相とアメリカ大統領が手を取り合って凶悪なテロリストと戦う、型破りなアクションコメディだ。しかも、彼らが振るうのは政治的手腕ではなく、銃撃戦と肉弾戦!二つの大国のトップがまさかの脳筋バディを組むという、この設定自体がとてつもなくおバカで、それをイドリス・エルバジョン・シナが演じると聞けば、もう笑わずにはいられないだろう。

とはいえ、このイドリス・エルバ演じる英首相も、ジョン・シナ演じる米大統領も、なぜか妙に板について見えるから不思議である。彼らの存在は徹頭徹尾漫画的だが、むしろ現実の世界政治状況はもっとグロテスクであり、おまけに全く笑えない。そしてこういった現実があまりに陰惨で救いようがないからこそ、この荒唐無稽な設定が最高のエンターテイメントとして楽しめるのではないか。

このありえない設定を軽やかに成立させているのが、二人の大国首脳の助っ人となるMI6の有能なエージェント、ノエルの存在だ。彼女が相当に有能だからこそ、このハチャメチャな展開が破綻せずに進んでいく。演じるのは、インドのトップスターでありながら近年ハリウッドでの活躍が目覚ましいプリヤンカー・チョープラー・ジョナス。もともと演技派として知られていた彼女だが、本作でも派手なアクションを涼しい顔でこなし、その貫禄を存分に見せつけている。彼女の今後のさらなる活躍に、ますます期待が高まるばかりだ。

グランド・イリュージョン (監督:ルイ・レテリエ 2013年フランス・アメリカ映画)

映画『グランド・イリュージョン』は、4人のスーパーイリュージョニスト集団「フォー・ホースメン」が、華麗なマジックと同時に大規模な犯罪を実行していく犯罪サスペンスだ。2013年公開作品だが今まで観ておらず、つい最近視聴してその面白さにぶっとんでしまった。そもそもマジックは種も仕掛けもあるものだが、物語の中でどれほど荒唐無稽な犯罪が行われようと、それはマジックの手腕で種も仕掛けもあるんだから実行可能です、と開き直られているのでなんだか納得してしまうのである。こういったマジックの胡散臭さインチキ臭さを逆手に取った演出と物語展開が、映画それ自体をマジックそのもののように「見世物」として成立させているのだ。そこが面白い。

グランド・イリュージョン 見破られたトリック(監督:ジョン・M・チュウ 2016年アメリカ映画)

その続編となる『グランド・イリュージョン 見破られたトリック』は「フォー・ホースメン」の連中が強大な敵と対峙してしまうといった物語だ。見どころは中盤における「厳重監視施設内でのコンピューターチップ強奪作戦」で、観ていて「そうはならんだろ」と思いつつ、まあ天才マジシャン集団のやることだからアリなのかなあ、とついつい納得させられるのだ。1作目同様、この「なんとなく騙されている感覚」が楽しくて、やはり見事なエンタメ作品として完成していた。3作目も製作されるというからこれも楽しみである。

ザ・キラー ジョン・ウー/暗殺者の挽歌 (監督:ジョン・ウー 2024年アメリカ映画)

ジョン・ウー監督の『ザ・キラー ジョン・ウー/暗殺者の挽歌』は、1989年に公開された香港映画『狼/男たちの挽歌・最終章』のハリウッド版セルフリメイク作品となる。舞台をパリに変え、主人公を女性に変えているのがオリジナルとの違いだ。まあなにしろジョン・ウー印満開の作品で、鳩はこれでもかと飛び交い、スローモーションと二丁拳銃と血飛沫の躍るアクションが大盤振る舞いされ、そこに義理と人情、信頼と裏切りの物語がアラベスクとなって展開するのである。もはや様式美ここに極めりである。舞台と主人公の性別を変えることで物語はさらに冷徹で哀感を帯びたものとなり、実はジョン・ウー監督の中でもかなり面白く観ることができた。また主人公の女殺し屋ジーを演じていたのが『ゲーム・オブ・スローンズ』のナタリー・エマニュエルだったのも得点が高かった。

原点回帰を成し遂げたダークでクールなヘルボーイ・ストーリー/映画『ヘルボーイ/ザ・クルキッドマン』

ヘルボーイ/ザ・クルキッドマン (監督:ブライアン・テイラー 2024年アメリカ映画)

ヘルボーイ/ザ・クルキッドマン』は根強い人気を持つアメコミ・キャラクター、ヘルボーイを主人公としたオカルトアクション映画だ。

ヘルボーイはその名の通り地獄の子である。ナチスによって地獄から召喚されアメリカ軍に保護された彼は、後に「超常現象捜査局(B.P.R.D.)」に所属し、人類のために闇に潜む魑魅魍魎と戦う魔人としての使命を担う。アメコミライター、マイク・ミニョーラによって創造され、華麗なグラフィックと豊富なオカルト知識を駆使したストーリーが人気を集めた。かくいうオレも大ファンで、翻訳版コミックを一通り揃えているほどである。

ヘルボーイはこれまで3度映画化されている。まずはギレルモ・デル・トロ監督による『ヘルボーイ』(2004)と続編『ヘルボーイ ゴールデン・アーミー』(2008)。そしてニール・マーシャル監督によるリブート版『ヘルボーイ』(2019)。4度目の映画化となるこの『ヘルボーイ/ザ・クルキッドマン』は監督にブライアン・テイラーヘルボーイ役にジャック・ケシーを新たに配し、脚本には原作者マイク・ミニョーラが参加、これまでの映画化作品とは一味違う作品となっている。原作は『ヘルボーイ:捻じくれた男』。

【STORY】ヘルボーイと新人エージェントのジョーが訪れたのは、アパラチア山脈の寒村だった。この閉ざされた土地で怯える村人たちと奇怪な事件が続発。その原因は「歪んだ男」と呼ばれる悪魔の仕業だという。そこに戻ってきた男トム・フェレルは、自身が20年前に悪魔と契約し、魂を奪われたことを告白する。この村で繰り広げられる呪いの契約、魔女たち、魂を喰らう悪魔との対峙の中、ヘルボーイは滅びの右腕を武器に闇を打ち砕いてゆく。 

今回の『ヘルボーイ/ザ・クルキッドマン』、原作版ヘルボーイへの原点回帰を謳っているだけあって、ファンであるオレとしても十分に楽しめ留飲の下がる作品として完成していた。

その原点回帰とは徹底的なオカルトホラー趣向であり、暗くおぞましく陰惨な物語展開にある。これまでも十分オカルトホラーの要素を兼ね備えていたが、今作ではアメリカのフォークロアを重点的に取り込むことで、よりダークな作品として仕上がっている。アメリカ・アパラチア山脈の、人里離れた寒村で展開する魔女と悪魔に関する伝承を基にした物語は、呪術と背教に満ち溢れ、ここでヘルボーイは「異形の使者」として邪悪なる者どもを倒してゆくのだ。

もうひとつは主人公ヘルボーイの性格設定とビジュアルの見直しだ。例えばデル・トロ監督版ヘルボーイは「愛すべきゴリラ野郎」だったし、ニール・マーシャル監督版ヘルボーイは「とことんタフなゴリラ野郎」だったが、今回のブライアン・テイラー監督版ヘルボーイは「クールでハードボイルドなゴリラ野郎」なのである。どの作品も原作版ヘルボーイの一面を表しているが、原作版に一番近いのはこのブライアン・テイラー監督版に思えるのだ。

そういった部分で、エンタメ寄りでスケールの大きかった前3作よりも、もっとマニアックでインディペンデントな匂いのする作品となっている。外連味に乏しく小品であるが、味わい深いのだ。

ただしもう一つ付け加えるなら「一見さんお断り」な内容となってるのも確かだ。なにより、「ヘルボーイとは何者で、なぜあのような姿をしているのか」といった説明が一切なされていない。もしこれまでヘルボーイに接したことがない方がこの作品を観られるのであれば、物語的な繋がりはないけれどもデル・トロ監督版の第1作を観てその来歴を知っておいたほうがいいだろう。

今作におけるヘルボーイは強力に敵を倒しまくるといったスーパーヒーローではない。むしろ狂言回し的な存在であり、物語における謎や呪いを紐解き、解決へと結びつけるのは、ヘルボーイと共闘する多くの人間たちなのである。それはまずヘルボーイの相棒、女性エージェントのジョーだろう。演じるアデライン・ルドルフは東洋の血を引く女優で、強く印象に残ることだろう。物語のキーマンとなるトム・フェレル(ジェファーソン・ホワイト)、ワッツ牧師(ジョセフ・マーセル)もまた、非力な人間であるにも関わらず闇の勢力に立ち向かってゆく。彼らをとりまく因縁や呪縛が、物語に大きなドラマを生んでゆくのだ。

監督のブライアン・テイラーはこれまで『アドレナリン』『アドレナリン:ハイボルテージ』『GAMER』『ゴーストライダー2』といった作品に関わってきたが、どれもこれも面白く、オレのお気に入りの作品ばかりだ。その彼による映画『ヘルボーイ/ザ・クルキッドマン』もまた、期待に違わぬ作品であった。

「大衆食文化史」本のまとめ

唐突に”大衆食文化史”に興味が湧き、それにまつわる何冊かの本を集中して読んだ。対象となった料理はカレー、フライ・とんかつ、お好み焼き、牛丼、焼き鳥、串かつ、ラーメン、焼きそば、スパゲティといった誰にも馴染みのあるものばかりである。学術的な知識にはあまり興味を持たない胡乱な人間ではあるが、人並み程度に食い意地は張っており、それによりこれらの大衆食文化史に興味が湧いた。

これらの本のほとんどは「近代食文化研究会」によって書かれたもので、Kindle Unlimitedで無料で読むことができた。「近代食文化研究会」によって書かれた本の面白さは、これまで正しいと思われていた食文化史の常識を疑い、徹底的な調査によってそれを検証してゆくという部分にある。これらの本を読むことでまさに目から鱗と呼ぶべき知見を大いに得ることができた。

またそれ以外でも、池上俊一氏による著作『パスタでたどるイタリア史』では、パスタの歴史以上にイタリアの歴史を知ることができた部分で非常に勉強となった。この本によりイタリアの歴史に興味が湧き、この後に数冊のイタリア史の本を読んだほどだ(それらについてはまたブログで上げていきます)。

というわけでこれまで読んでブログに感想を上げてきた大衆食文化史本をここにまとめておくことにする。もしも興味のあるタイトルがあったら参考にされてください。

カレー『新しいカレーの歴史 上 : 日本渡来以前の諸国のカレー』

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フライ・とんかつ 『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』

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お好み焼お好み焼きの戦前史』

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牛丼『牛丼の戦前史〈東京ワンニラ史 前編〉』

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焼き鳥『焼き鳥の戦前史〈東京ワンニラ史 中編〉』

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串かつ『串かつの戦前史〈東京ワンニラ史 後編〉』

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ラーメン・焼きそば『麺の歴史 ラーメンはどこから来たか』『ソース焼きそばの謎』

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スパゲティ・パスタ『パスタでたどるイタリア史』

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『パスタでたどるイタリア史』を読んだ

パスタでたどるイタリア史 / 池上 俊一 (著)

パスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書)

長い歴史と豊かな地域色をもつイタリアで、人々の心を結ぶ国民食パスタ。古代ローマのパスタの原型、アラブ人が伝えた乾燥パスタ、大航海時代がもたらしたトマト。パスタの母体となった中世農民のごった煮スープに、イタリア統一を陰で支えた料理書、そしてパスタをつくるマンマたち……。国民食の成立過程からイタリアをみつめます。

パスタ、とりわけスパゲッティは本当によく食べていた。好物というよりも手軽で安価に作ることのできる料理として重宝していたのである。特に”貧乏人のパスタ”と呼ばれるペペロンチーノは何千回食べたのか分からない。ペペロンチーノと書くと小洒落た響きだが、実態はニンニクと唐辛子だけの素朴な具無しスパゲッティである。安上がりなのもあるが簡単な軽食としても優れていて、夜食だったり休みの日の朝食や昼食によく作っては食べていた。

西洋中世・ルネサンス史を専門とする東京大学大学院総合文化研究科教授、池上俊一による『パスタでたどるイタリア史』は、イタリアにおけるパスタの歴史を振り返るのと同時に、それがイタリア史とどれほど密着に関わってきたのかを綴った食文化研究書である。それは2000年に及ぶ困難に満ちたイタリア半島史と、そこで生み出され次第に民衆に愛される料理となってゆくパスタの歴史を重ね合わせた魅力溢れる歴史書となっている。

一口にパスタの歴史と言っても、イタリアの歴史が一筋縄でいかないように、おそろしく錯綜した紆余曲折を経ている部分がなにしろ面白い。古代ローマ時代においてパスタの原料となる小麦(粉)は主にパンの材料として消費されていた。小麦粉の練り粉を伸ばし焼くか揚げるかしたパスタ状の料理もあったが、どちらかというなら練った小麦粉を団子にして煮込む料理が一般的だった。

その後9世紀の間にローマ帝国は現在のフランス・イタリア・ドイツに3分割され、その中でイタリアは国としての統一性が育まれないまま都市国家が割拠し、地域ごとにばらばらの歴史が展開することになる。この間イタリアに定着したゲルマン人の王侯貴族は肉食を好み、農業は軽蔑され荒廃し、11世紀には復活するものの小麦粉の精製、パスタの作成など手の込んだ料理は忘れ去られていた。その復活は12世紀文化復興における古典文化復権を待たねばならなかった。ローマ時代に揚げたり焼いたりされていたパスタは14世紀から茹でたものとなり、さらにチーズと結びついてパスタ発展の機縁ができた。

15世紀末の大航海時代、イタリアはオスマン帝国により地中海周辺の制海権を奪われ、大航海時代に乗り遅れることでヨーロッパ経済の落後者となる。イタリアの貴族は商業から手を引いて土地経営による利潤を追求するようになり商人から地主へと変貌する。ただしこの大航海時代はイタリアに唐辛子とトマトをもたらすことになる。また15世紀半ばに南イタリアはスペイン支配下となり、領主が農民を収奪する構造、外国人のために現地人が犠牲になるという構造が続くことで農民を困窮させた。しかしこの時代に偉大な建築や絵画、人文主義文化や音楽が生まれ、イタリア黄金時代と評する向きもある。

中世において登場したパスタが本格的に普及するのは近代に入ってからで、それまでは混合パンとミネストラが民衆の主食だった。南イタリアでは早くからパスタが食べられていたが16世紀半ばにおいても贅沢品だった。北イタリアは乾燥パスタが普及するのは近代になってからであり、それまでパン、ジャガイモやトウモロコシ、米が主食だった。とはいえパスタは日常食ではなく多くの民衆にとってハレの場において食す特別食だった。その特別性が地方ごとに特色を生み様々なパスタが生まれ「カンパニリズモ(お国自慢)」の代表となる。それは地方にとって”誇り”だったのだ。

こういった地方料理がイタリア料理として確立したのはイタリアという『国家』が生まれたからこそだった。それは1789年のフランス革命とナポレオンの出現に端を発する。フランス支配地のイタリアでは行政司法などの近代的諸制度が持ち込まれこれら制度改革がイタリアの近代化をバックアップした。1820年代にはイタリア各地に秘密結社が結成され1848年にはガリバルディによる千人隊(赤シャツ隊)が活躍を始め、その尽力もあり1861年イタリア王国が建国、統一は一応の完成をみる。

しかし国家統一は実際には北による南の”征服”であり、政治的社会的に北の論理で南を従属するという「南北問題」という難題を残した。こういった南北の分断を統合するのに「食文化」は大きな役割を果たした。「イタリア料理の父」アルトゥージによる料理書はその要因ともなった。イタリア人にとってイタリア料理がひとつのアイデンティティになることにより、”イタリア”という一つの国家の統一感を生んだのだ。

このように、今世界中でごく当たり前のように馴染まれているパスタには、多くの歴史と様々な紆余曲折が存在し、現在へと至っているというわけだ。そしてこの本のユニークで優れていてる点は、パスタを通してイタリアを語る事で、民衆史、農業史、ひいては産業史を語り、その産業を推進する政治を語り、さらには近現代イタリアの南北問題や女性蔑視問題にまで踏み込んでいる点にある。食には興味があるが歴史にはそれほど惹かれないオレのようなうつけ者でも、パスタへの興味から芋づる式にイタリア史が理解できるという大変旨味のある著作だった。これひょっとしてイタリア史の隠れた名著なんじゃないだろうか。