ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

一昨日、友人たちと丸太ストーブを作った。

スウェーデン トーチ」と呼ばれ北欧の国では昔から山中で使っていたらしい。

幾つか作ってみたが、製作者によって好みの形は違うようだ。

チエーンソーは、二人では危険だ!!   そうそう、離れて、離れて・・・

チエーンソーの刃を研ぐ、道具の手入れがいいと疲れない。 疲れたらこれが一番いい。

湯を沸かすのに焚火では大きすぎる。    これが無駄なくいい感じだ、暖かい季節になればなおさらだ。



八木山峠の今と昔                   中村克博


 八木山峠を登りつめると国道は平坦になり、まっすぐな道が四キロほど続く、それに並行して流れる八木山川のふちには千四百本のシダレザクラが植えられ春には、桃色の並木が緑に映える。近くに山がせまっているので広大な山間風景とはいえないが、川をはさむように広がる田んぼや畑は近年の圃場整備で大きく区画され、農道が直線にのびている。八木山川はコンクリートの石垣でおおわれ、川の所どころに水位を調節する油圧式の水門がある。巨大な農業用水路のようだがイギリスの田園を流れる運河のようでもある。
山にかこまれた村の朝は南東の山影から寝すぎた太陽が顔を出す。そして夕方には早々と南西の山に駆け込むように姿を消す。  

 子供のころは飯塚の市内に住んでいた。そのころ筑豊は日本有数の炭鉱地帯で、町は賑わっていた。しかし小学生が八木山峠を越えて福岡に出かけるなど一年のうちに一、二度だった。狭い峠の道は折りたたむように曲がりくねった砂利道でバスの運転士は腕まくりした大きな腕でハンドルに体重をかけて回していた。バスが道をせり出すように曲がると窓から崖下に谷底が見えていた。春になって遠くの山にいろんな緑が重なるころ道の両脇の桜並木が花を咲かせ、バスは白い花のトンネルを幾つも幾つも、くぐったのを思い出す。

 中学生のころ同級生三、四人と自転車で八木山峠を上った記憶がある。市内からどれくらい時間がかかったのか、お昼はとっくに過ぎていた。腹が減っていたが弁当の用意はなかった。水筒もなくて畑の横から湧き出ている水を手ですくって飲んでいた。すると、野良着に草臥れた麦わら帽をかぶった三〇歳前後の若い農夫が竹笊に入ったイチゴを湧き水で濯ぎにやって来た。場所を開けるとそこにしゃがみ込んでイチゴを一つずつ水で洗って笊に入れていた。小さなイチゴはドングリのような円錐形で、赤く熟れているのや、ヘタに近いところがまだ青いのもあった。小柄な若い農夫は洗い終わると立ち上がる前に、囲んで見ている中学生たちに軽く一掴みずつイチゴを渡してくれた。二つか三つ、小さなイチゴは歯ごたえがあって甘くて少し酸味があって、なんとも幸せな味がした。夏の空が果てしなく青かった。そのころの八木山の畑は斜面のあちこちに、どれも小さくて形もまばらだった。どんな野菜が育てられていたかは思い出せないが、ビニールハウスはまだなかった。 

 そういえば、やはり中学校のころ八木山には遠足で何度か登ったことがある。砂利道は凸凹して車が通ると砂ぼこりで目は開けていれなかった。川も好きなように曲がりくねって川原には葦が広がって川面には至る所に大きな岩が出ていた。田んぼは直線でなく、いろんな形をしていた。秋になると田や畑の畔に彼岸花が赤く咲いて、ハゼの古木に干からびたブドウ房のような実が下がっていた。農家の屋根はどこも藁ぶきで、柿の木には実がたくさんで、中庭にはニワトリが数羽、歩きながら地面と突っついて、放し飼いの犬は日なたにまどろんで、おばあさんが孫の子守をしている。
昔から八木山の米や野菜はおいしいと言われる。一日の寒暖の差が大きく、豊富な湧き水があちこちに出ている自然条件と農家の丹精のおかげだ。林道を散歩すればツクシやワラビは刈り取るほど、冬は寒くて大きなツララが軒下に三メートルにもなるが、そのかわり南国には珍しいリンゴの生産地でもある。ところが、ここ数年、イノシシやシカが山から出て来て田畑を荒らす。そのため村中に害獣避けの金網が張りめぐらされているが、こればかりは風物詩にはなりにくい。   

 三月のなかば、昼すぎ近所のラーメン屋に出かけた。看板メニューの八木山味噌ラーメンにしようと思ったが、「味噌チャンポンとギョウザ」と注文した。カウンター席に顔なじみの長い髭をはやしたおじいさんがいた。ラーメンを食べ終わったようで厨房に向かって料理人のお兄さんに笑顔の大声で話しかけている。お兄さんは僕の注文を聞いて麺を手に取ってほぐし始めた。おじいさんは、なおも話しを続けている。
 味噌チャンポンが出来て僕の前に置かれた。間もなく餃子も来た。まずギョウザにたっぷり酢醤油をつけて口に入れた。おじいさんの話し声が聞こえる。
「石坂明神が〇〇〇・・・」
天正八年、大友宗麟が〇〇〇・・・」
 なんと、不思議なことだ。さっきまで僕が部屋で調べようとしていたことを、長い髭のおじいさんがカウンター越しにしゃべっている。僕は食べ終わって、おじいさんの横に坐りなおした。
「大きな一本松があってな○○○・・・」
「そうですか、大友と秋月が戦った千人塚がありますね・・・」
「ああ、千人塚はむかしアチコチにあった塚を一つに集めたったい」
「そうですか、入れ忘れた武者が一人おって、ときどき畑に迷って出とったのを、数年前に畑の持ち主が小さな石の祠を作っていましたね」
「そうな、そりゃ知らん」
「そうですか、ここに長く住んでいるのですか」
「俺な、俺で八〇〇年になるかな」
「えっ、そうですか、平安末期か鎌倉の初めですね」
「家の古文書で確認できるのは四〇〇年くらいやな」
 二人はラーメンもチャンポンも食べ終わって、コップの水を注ぎ足して話していたが、いつまでも座っている訳にはいかない。
「そんなら、今から俺の山に来んな」
「いまから・・・、いいですよ。ほんなら、いちど家に帰って伺います」

 長い髭のおじいさんはまだ帰っていなかった。山の頂上は広くならされて見晴らしがよく飯塚の街が眼下に広がっていた。遠く田川の香春岳や、さらに英彦山の独特な稜線も小さく望めた。数頭の日本犬が檻の中にいて、猟犬だろう、うろうろする僕を見てしばらく威嚇の吠え声をあげていた。まもなく、おじいさんが軽トラックで帰ってきた。横に乗るように言われてドアをバタンと閉めると勢いよく走りだした。
 軽トラックは急勾配の坂を下り左右を確認して国道に出た。そして飯塚の方に曲がると、すぐ左に折れて狭い間道を潜り込むように下りて行った。こんなところに道があったのかと思うような小道は樹木でうっそうとして薄暗かった。二階建ての古い建物があった。軽トラックはそこで止まった。牛の石像と古めかしい石塔が二つあった。石塔に文字が刻んであるが風化して読めない。その近くに人がやっと入れるほどの小さな横穴があって水が湧き出ていた。このあたりは先ほどのラーメン屋で聞いた明神坂の遺跡のようだ。
「ここは昔の道ですか」
菅原道真もこの石坂を通って大宰府に行ったと・・・、それで牛が祀ってある。昔は銅で出来ちょったばってん、戦争で取られて鉄砲の弾になったと・・・」
「穴から水が湧いていますね」
「この水を柳原白蓮が飲んで、そこの二つの大岩を歌にしたと・・・」
長い髭のおじいさんは白蓮がここでよんだ歌を二首、声を出して二回ほど唱えてくれたがメモを取るのを忘れた。
「白蓮がですか、そら、顕彰して石碑でも建てんといかんですね」
「ここには茶屋があって黒田如水もここを通ったと・・・」 
「へぇ、そうですか・・・」

 あとで調べたのだが、郷土史家の文章に、
筑前国風土記には「石坂は八木山村の東にあり」とある。嘉摩、穂波郡の諸村は眼下にあって佳景、田河郡(田川)まで見通せることが書かれている。筑前国風土記の書かれた頃の「石坂」が今日と同じであれば、石坂明神の石だたみは黒田長政の入国後「黒田如水」によって開かれた路筋とかさなる。
  元の路は「北方の山さがしき所にありて」とあって、「人馬のわづらひおおく」とあり、このためこの難所を避け、如水が今の石坂を開いたのである。石坂の上には茶屋があり、如水の逗留した茶屋は、代々年貢が免除されたという、とあった。

 四月のはじめ、日の出前に窓の外を見ると梅の枝がピンクになっていた。雲ひとつない日差しが何日か続いて八木山にも春が来たようだ。いけばなの花材にと、枝を切りに脚立を持って出かけた。見上げるとメジロが数羽、枝を飛び跳ねていた。満開だった。花材には少し遅すぎた感がある。軽トラックの音がして誰かやって来た。早朝に誰だろうとおもったら、長い髭のおじいさんだった。いや、僕と同年輩なのでおやじさんと言いたい。
「おらっしゃったな」
「はい、梅の枝を切っとります」
「切り花には、少し遅かろう」
 白い髭が胸まで長く、朝日に光っていた。
「あんたに、おもしろい本を持ってきた」
 表紙に、「ふるさといいづか、歴史のさんぽみち」と見える。
「八木山の歴史がのっとる」

 長い髭のおじいさんが帰り、僕は部屋にもどって小冊子の目次を見ていた。明星寺跡の遺跡、山伏塚、高取焼初代八仙の墓跡、大隈言道と宝月楼跡、貝原益軒学習の碑、八木山千人塚、竜王神社、八木山峠の石だたみ、八木山峠石坂の牛像、伝説女郎の墓、建花寺の六地蔵、僕の知りたいことが次々と目につく。小冊子には柳原白蓮の歌がのっていた。

山清水流れて寒き八木山の
        峠を越えて福岡にゆく

この短歌は伊藤伝右衛門と再婚した白蓮が福岡市にいく途中に、八木山で詠んだものです。と書いてあった。長い髭のおじいさんが先日、唱えてくれた白蓮の歌の一つだろうか… もう一首はどんな歌だったのだろう。