日記継続宣言

パソコンを修理に出して更新が滞っているうちにすっかり秋めいてきた。相変わらず本番のみ、それも夜の部のみ参加の秋まつりも終わった。たった二晩のどんちゃん騒ぎだったがめっちゃ疲れた。他の会員はプラス前夜祭に本祭は昼夜×2日に後片付の後打ち上げ、さらにひと月も前から毎晩会所につめて飲んでるんだからすごい。感心する。役員になるのは一種の通過儀礼か、さもなきゃある種の拷問だ。
▼昨日は心底家路がうれしかった。行かないにしろ、会合にみんな集まっていると思うと後ろめたい気持ちがないわけじゃない。ウチゴハンがずいぶん久しぶりな気がする。ペンネのミートグラタンにごった煮、写真がなくて申し訳ないが、里芋とコンニャクがうまい。ホッとする。変哲のない日常がこんなにも愛おしいものだとは。それにしても自分のペースで飲めない酒ほどマズイものはないな。ああ秋の夜長はどこぞのしっとりした居酒屋でひとりゆっくり飲みたいものだ。
▼ある日の日経夕刊に作家の川上弘美さんが震災について書いていた。川上さんも、他の多くの人と同じように、最初のうちはただ未曾有の災害に茫然とするばかりで考えがうまくまとまらなかったという。「現実を直視するのが怖くて小説ばかり読んでます」という被災者からの手紙を受け取って、川上さんは初めて「この震災で失われたものは「日常」だったんだ」と気づく。そして「自分はその時までこの震災がなんだったのか、はっきりとは言語化できていなかった」と続ける。
▼川上さんは作家という仕事の意味を、この言語化する作業に見出す。誰が読んでくれているかわからない僕のブログもそういうものでありたい。簡単に言えばブログを書くことで自分の頭を整理するということだが、人間わかっているようでわかっていないことは多いものだ。敢えて言葉にすることで見えてくる景色もあるだろう。
▼ちょっと前に、就職氷河期世代の評論家赤木智弘氏の「ガラガラポン待望論」が物議を醸した。平等社会を実現した日本にも貧困層が存在し、それはもはや戦争でも起きない限り覆りようのないほど強固なものだという。確かに現実は赤木氏の言う通りかもしれない。個人の努力ではどうにもならない格差がこの世には確実に存在する。しかしだからと言って戦争を待ち望むような貧しいメンタリティーはどこからやってくるのだろう。
▼僕だってワーキングプアみたいなもんだが、戦争を望みはしない。それは突然家族や日常を奪われ、ただ茫然とするしかない多くの被災者も同じだろう。たいして意味はないかもしれないが、これからも淡々と日常を綴っていくことにする。まあ単なる日記のことだな。今後ともどうぞよろしく。