「太陽」:監督 アレクサンドル・ソクーロフ @銀座シネパトス


 シネパトスにあんなに行列ができていたのは初めて見たかも。公開2日目だけど、例の騒ぎもあって、大勢押しかけているのかなあ。整理券配られて、立ち見だと脅されたけど、ちゃんと一番前は空いてて、何とか坐って見ることができた。あのウナギの寝床みたいな劇場で、後ろの方はつらいんだよな。土日に見るなら、ぴあシネマリザーブシート使った方がいいかも。あのリザーブシートだけは余裕ありそうだったし。銀座にありながら、あのうらぶれた3番館の雰囲気が突然異様な熱気に包まれている。何はともあれ、これを公開してくれた勇気ある劇場が報われるなら、これは素晴らしいことだ。そういうトリガーが外部から掛らないと、こういう盛り上がりにならないというのも寂しいけれど。
 さて、中身だけど、やられたっていう感じ。まず、イッセー尾形(この芸名って、”1世”のもじりなんだろうか?)。最初は、昭和天皇の物まねか?意味フメーwwwと思ったけど、見ているうちにだんだん違和感がなくなってくるし、あの口パクパクが演技のポイントになってくるのが凄い。マッカーサとのやりとりの中などで、あれが出ると、マッカーサが内心で『こいつは王族にありがちな近親婚の末に生まれた白痴か』と馬鹿にしているのがありありと表情に出る。その一方で、軍との会議では、あのパクパクがものすごい威圧感に感じられる。音のない言葉、聞くことのできない彼の本当の考えが、その聞けない言葉で語られているかのようにあれは感じられるのだ。そのパクパクの後に話されるのも、漠然として何を言わんとしているのか、わかるようなわからないような言葉なので、ますますパクパクが意味深に思えてくる。それが英語でマッカーサと話す段になると、その神秘性が剥ぎとられて、ただの白痴に見えてしまう。
 それがマッカーサが葉巻の火を移す場面や、カメラマンがどうせ英語はわからないと思って『チャップリンチャップリン』と馬鹿騒ぎする場面などでは、残酷にもなりえるのだが、これを漂々と受け流してみせるところとか、『あっ、そう。』で済ましてしまうあたりの演技は、ユーモアさえ感じさせる。イッセー尾形がこのあたり嫌らしい位、上手い。最後だけ出てくる桃井かおりも、二人で「あっ、そう」だけで会話してしまうところとか、こういうのはこの人やっぱり上手い。でも、皇后に桃井かおりを配役って誰が考えたのか?偏見がないから、外人は怖い。
 それにしても、今回も例によってソクーロフの映画はがら〜んとしていて(瓦礫が出てこないロシア映画は全てそうだが)、人気ないなあ、と思ったら、殆どロシアのスタジオで撮影したみたい。外に貼ってあった新聞の切抜き見てたら、山根貞夫が『こう言う映画を日本の監督が撮れなかったのか』みたいなこと言っていたけど、やっぱりむしろ距離がないと難しいのかもしれない。じゃあ、このテーマを誰が撮ったら面白かっただろうか?黒沢天皇だったら面白かったかも知れない。マクベスを翻案して『乱』を撮った巨匠は、エンペラーのことを考えただろうか?
 冒頭の場面は屋根裏部屋みたいなところで天皇が朝食を食べているシーンで、何でこんなところにいるのか、最初は訳がわからないが、それが地下豪であるということがだんだんとわかってくるのも、冒頭の入り方としては秀逸。周囲の召使があたふたするのに対し、『私の体もあなたがたと同じだ。』と言う人間天皇ではあっても、最後の録音技師の自決の報に対し、『止めたのですね?』と容量を得ないことを言って皇太子の元へ足早に去っていく姿が、最後に怪物的なものを示している。
 この映画を現在の天皇が見たらなんと思うだろうか?絶対見る機会はなさそうだけれど、召使の右往左往の場面に苦笑しつつも、肯定的に見られるのではないだろうか。意外にこっそり見ていそうな気もする。
 あの天皇の悪夢で、羽の生えた魚が魚の爆弾を落とし、日本を火の海にするところなんか、普通のCGなんかでは出来ないような感触がある。これもHDのデジタルカメラで撮っているみたいだ。でも、CGだからとか、デジタルシネマだ、なんてどうでも良いことで、要は才能なんだよなあ。「もう新しい映画なんてありはしないのだ」みたいなことは何十年言われ続けてきているけれど、これを見ていると、そんな繰り言が全く無意味に思える。この怪物的才能に改めて唖然とさせられた。

昭和天皇独白録 (文春文庫)

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昭和天皇(上) (講談社学術文庫)

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昭和天皇(下) (講談社学術文庫)

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