トランスヒューマニズムの生命倫理

Bioethics誌の最新号に、James Wilson, "Transhumanism and Moral Equality," Bioethics 21-8(2007)pp.419-425という論文が掲載されている。「エンハンスメントによってがんがん個人の能力を増強できるようになったら、非常に不正な社会がくる」というフランシス・フクヤマらの批判があるがそれは間違っている、という主張をしている。いくら誰かの能力が増強されるようになっても、非増強人間の基本的平等性は守られるようにできるのだから、その意味での道徳的な問題はないのである、という論調のようだ。

If the argument of this paper is correct, no enhancements we coild make to human beings could do anything to undermine the moral status of the unenhanced. Hence, if the project of human enhancement presents us with a moral problem, it cannot be that it will undermine our status as moral equals. (pp.419-420)

著者は、英国の倫理学者。斜め読みの感想だが、えらい浅い議論のように見える。権力とか支配とかの視点はこの種の生命倫理学には入ってこないんでしょうかねえ・・・・。

不毛なセックス

 先日、ある議論の場*1でセックスの話になった。ヘテロ女子同士の会話で、「セックスって、不毛じゃない?」という話になった。
 付き合い始めたときには、新鮮でセックスにのめりこむこともできる。しかし、長く同じ相手とセックスしていると、セックスの間中、意識を集中することができなくなる。そこで、想像力をめいいっぱい働かせて、「今、私はこういう状況にある」と妄想することによって欲情する。要するに、目の前の男のことは、見ないようにしながら、刺激だけを受け取ろうとする。そうすると、いちいち注文をつけないといけない生身の男よりは、自分で刺激を調整するほうが楽でいい。よって、オナニーのほうが楽でいい。でも、お付き合いがあるので、セックスするんだけど、「なんか、そのときのセックスって、不毛だよね」という話になった。
 でも、こういうことを言うと、「本当のセックスの良さを知らないからだ」「慣れてないからだ」「トラウマがあるんじゃないの?」…そして「女性として未成熟」「俺が教えてやる」*2とか書いてるだけで凹む言葉を、真顔で言われがちなので、普段は黙っている。だから、以下の記事には大きく頷いた。

 一般論としても「セックスしなくて何が悪いの?」って思うんです、わたしは。それは別段Aセクシュアルの人たちだけを想定しているわけではなくて(もちろん想定してはいるけれども)、より広く、「したくないときに/したくない相手とはしなくていい」っていうのは、性別や性的指向を問わず、すべての人にあてはまる、っていうことなんだけれども。まあこれが「純潔教育」とか言ってる人たちと共振してしまうのは違うと思うし*1、だからそこでは「したいときに/したい相手とセックスする自由」とセットなんだ*2ということは常に強調したほうがいいとは思うのだけれど、でもとにかく「してない」ことがことさらに異常みたいに語られるっていうのは絶対に違うだろうと思います。

mimi246「セックスしなくて何が悪い、という話 」『mimi246の人生七転び八起き』(http://d.hatena.ne.jp/mimi246/20070911#1189501599

以前にも書いたけれど、女子がセックスしたい、ということを貶める文言にはもちろん抵抗する。同時に、「しない/してない」ことを貶める文言にもやっぱり抵抗する。それは、何も言うな、というわけではなく、「あなたの知ってるセックスの範囲なんて、たいして広くないのよ」ということ。何人とセックスしようと、個別のセックスの経験から、セックス全体を直結することなんてできない。でも、セックスが(多くの場合)あまりにも少数の人間の、閉じられた場所で行われるから、そのほかの多数の人と共有することが難しい。
 では、セックスについて、私たちは何を語るべきなんだろうか。私は、とりあえずは、セックスと、セックス以外の行為のどこが違うのかを語ればいいのではないか、と思う。他者とのコミュニケーションについての議論の集積は山のようにある。それは、セックスを語るときに役に立つのだろうか。

 あまり大掛かりな議論はできないので、ちょっとした話を考えてみた。冒頭に書いた、「不毛なセックス」の話だ。mojimojiさんが「不毛さについて」とぴったりな記事を書いている。

 体験的に思うことはある。一つ。不毛なやり取りから学びうることは、建設的だといわれるようなやり取りの中では大抵発見できない。一つ。そのようなところから学びえたことからすれば、一体僕たちが何を建設的だと考えているのかは一層反省的に考え直されるべきことだと思えるようになる。

mojimoji「不毛さについて」『モジモジ君の日記。みたいな。』(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070910/p1#seemore)

これは、セックスにも当てはまるだろう。「不毛なセックス」だから、「もう、やめたい」と思う私や、話をしていた女子は、目の前の相手とセックスがしたいと思っている。想像の中の、妄想に欲情するのではなく、「この男」とセックスすることを望んでいる。「不毛なセックス」は、それらの「このセックスより、あのセックスがいい」という価値観がどこから来ているのかを吟味するきっかけにはなるだろう。そして、mojimojiさんが記事の中で論じている、「不毛/不毛でない」の境界線の引くことは、できないという結論に落ち着くかもしれない。しかし、問題はmojimojiさんが続けて述べていることである。

 言うまでもなく、人生は短く、時間は限られているから、すべての可能なやり取りを実際に行なうことはできない。取捨選択はする。できるだけ不毛ではないやり取りを、できるだけ建設的なやり取りを、できるだけ目標達成につながるやり取りを、ということを考えないではいられないし、考えるべきだ。しかし、それは基準のすべてではない。根源的なところで、そのやり取りは不毛ではありえないことは確認されていい。その人とやり取りを行なえば、不毛なやり取りにならざるをえない、そのような相手が存在している。そのことを知ることは、そこから考えはじめることは、決して不毛ではなく、むしろ大事な問いである。

(同上)

これは、不毛でないやりとりを経験したあとに、初めて言えることである。おそらく、多くの人々は、セックス以外のコミュニケーションでは、不毛でないやりとりを経験するだろう。ところが、セックスの場合、「不毛でないセックス」を経験できないことが、少なくない。特に、長く付き合う相手と「不毛でないセックス」を経験できない可能性は、(私が最初に見積もっていたより)断然多いようだ。
 なぜなら、(私からみて)「不毛でない」と思うセックスを、他人がしているところに立ち会うことが少ないからだ。セックスを学ぶ場はあまりにも少ない。だから、ポルノをみてセックスの規範を学ぶ。しかし、「ポルノ=良いセックス」だと思い込んだ男子による、性暴力が起きていることも確かである。また、ポルノ女優が「不毛でない」とセックスしながら感じている、と考える女子は少なくなってきているように思う。*3だから、私が「不毛でない」セックスを自力で経験しない限り、そんなものが存在するかどうかも判断できない。他人の「不毛でないやり取り」をみて、真似することで学習することが、難しいのだ。
 セックスが難しいのは、あまりにもそれが個人的な経験であり、そうやって個人的な経験として守りたい、と思う人が多いからである。そして、その個人的な経験にとどめたいと思う価値観も、尊重されなければならないからだ。セックスについて論じることは、考えれば考えるほど、いったい、どこから攻めればよいのか、わからなくなることが多い。

→関連して、「ショートバス」の感想を個人ブログ(http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070913/1189667653)に書きました。

*1:わりと、ルールがきっちりき決まった場でした。突っ込んだセックスの話は、自慢話や笑い話になりやすいので、ある程度場の設定が必要です。最低限、セクハラを防ぐための話し合いが大事。

*2:「そんなのお互いの努力が足りない」「そのうちなんとかなるよ」とか、まだまだ続く。

*3:「AVなんてファンタジー」というリテラシーは広まりつつある。