不良馬場のダービー






不良馬場のダービー、切れ間のない雨が降り続く。
焦燥と化した不安、世を嘆き、時を知り、
それでも満艦飾の傘の花が咲くスタンドに響き渡る歓声。
ぬかるんだ芝生にもめげず勇ましく駆け抜けた、
オルフェーヴルの強さに脱帽でした。


さて、こんなご時世に心を癒すのはやっぱり音楽という訳で。
ずっと日本のポップスを牽引してきたユーミン
桑田佳祐のニューアルバムを聴いている。
もちろん2人とも声の質が悪くなっているのは知っている。
ユーミンの声は太く繊細さがなくなっているし、
桑田も声量声域共に細くなった。
過去の作品ならともかくなぜ現在といわれそうだが、
このところのヒット曲の歌詞の幼稚さには辟易する。
大人には大人の歌詞が必要だ。


たとえば、ユーミンの「ひとつの恋が終わるとき」は、
これから別れる女が男を車で駅まで送っていく場面を描いた歌だ。


♪前も見えない雨が それぞれの道 照らしてた
 駅へ送ってゆくよ 最終電車 去ってしまう前に


 ハンドルの向こうに続く
 きみのいない人生へと急ぐよ このまま


 きみは傘の雫と みじかいため息 ふっと残し
 ふりかえりもしないで すぐ階段に 消えてゆくのだろう


平凡なシチュエーションを切々とした時間の流れとともに
抑制された言葉でなぞる。
ここでは彼女が得意だったお飾りは用意されていない。
ぐっとこらえているような歌詞だ。
誰でもある恋の終わりは決して劇的ではなく、
ほんのささいな日常のヒトコマである。
終電が近づけば帰らなければならないし、明日には会社も待っている。
私たちは感情を押し殺して社会に立っている。
だから、そんな等身大な場面にこそ共感するのだ。
もう私たちに輝かしい未来は待ってはいない。
自分が強くなるしかないのだと。


桑田佳祐の「月光の聖者たち(ミスター・ムーンライト)」は、
ビートルズとの邂逅を歌っている。
病で倒れた時、ベットで夢見るのは、
やはり自分に影響を与えた存在へのリスペクトなのだろう。
彼が過ごした青春の日々に思いを重ねて。


「夜明けの首都高走りゆく 車列は異様なムードで」で出合いを。
「ビルの屋上のステージで 巨大な火が燃え尽きるのを見た」で別れを。
そして訪れた黄昏の季節。
彼は歌う。


♪今はこうして大人同士になって失くした夢もある
 時代は移ろう
 この日本(くに)も変わったよ
 知らぬ間に


私自身とシンクロする晩年。
ここでも私たちは輝かしい未来などないことに気づく。
あの日、夢見たことなど、もうかないやしないのだ。
たまたま開いてしまったページのように、
それは歴然と目の前にある。