何もかも全部





頼りないワンセグ画像で雪の妖精が他馬を一蹴したのを見届けると、
あかね雲を切り裂いてジェットの爆音が耳をふさいだ。
急に冷え込んだ風がこちらに舞い戻る。
ため息にもならない脆弱な息をひとつ吐き、空をあおぎ見たら、
孤独が蓋を開けてオレを待っていた。


佐和子が予言したとおり、再び妖精は魔法の脚を見せた。
「そんな甘っちょろい名前の牝馬に、二度も煮え湯を飲まされてたまるものか!」
オレは語気を荒げたが、彼女は鼻で笑って見せた。
「バカね。天使のように羽ばたいて見せるわ」
そう言い放つと搭乗口の人ごみに消えた。
もう一度振り返って笑顔を見せると思ったが、
その期待はあっけなく葬り去られ、苦々しい思いだけがロビーに残った。
オレは手持ち無沙汰を隠すように、早く煙草が吸いたいと見送りデッキに昇った。


みうらじゅんが齢五十にして初めて料理にチャレンジする番組を観ていた。
料理も人生も、こまったときは中火だと彼は比喩した。
オレはおのれの怠慢を秤にかけつつ、その滑稽さに吹きだしていた。
五十にして解ることに価値なんてものはない。
生きるも博打も火中の栗を拾うに等しい。
常套文句では女も抱けないだろう。
「しばらくフランスで暮らそうと思うの」
剥げかけたペデュキュアが気になるのか、器用に脚を折り曲げた姿勢の佐和子が言った。
凱旋門賞は終わったしな・・・」
「本気で言っているの」
「そんな格好でかい?」
「そう。塗り直さないといけない」
「何を?」
「ペディキュアも、何もかも全部」


どちらの賭けにも敗れた男は見送りデッキに背を向ける。
そして、老人の歩みのような長い長いエスカレータを下りた。
ツキが落ちてしまったのはフェブラリーステークスからだ。
トランセンドフリオーソを軸に3連単を買ったが、
バーディバーディというふざけた名前の馬が抜けた。
佐和子との関係も、どうやらその時期を境に剥げかけていたのだろう。
言葉の端端に刺が目立つようになった。
いわゆる潮時だったのだ。
敏感に感じ取った女が鈍感な男を捨てる。
よくある話でオチはない。


酒場から出た。
鉛色の空にナイフのような月影が照っていた。
オレは見送りデッキを昇り、月の端に手を掛ける。
見下ろせば、まばゆいほどの町の灯が世界を包んでいる。
それでも勇気を振り絞り、馬にまたがるように腰かけた。
「さあ、走ってくれ!」とオレは声を上げた。
走って、佐和子のもとへ連れてってくれ。
今ならまだ間に合うかもしれない。
オレは酔っているのか。
天使の羽ばたく姿が夜空の向こうに消えた。