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2016-09-21

[] 関口すみ子著『近代日本公娼制の政治過程』刊行

このたび白澤社では関口すみ子著『近代日本公娼制の政治過程――「新しい男」をめぐる攻防・佐々城豊寿・岸田俊子山川菊栄』を刊行いたしました。

まもなく主要書店で発売となる予定です。

新刊 『近代日本公娼制の政治過程』 概要

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[書 名]近代日本公娼制の政治過程

[副書名]「新しい男」をめぐる攻防・佐々城豊寿・岸田俊子山川菊栄

[著 者]関口すみ子

[体 裁]四六判並製、240頁

[定 価]2,400円+税

ISBN:978-4-7684-7963-6

井上輝子先生からの推薦文(帯掲載)

近代日本ではなぜ「公娼」が容認されてきたのか?

佐々城豊寿、岸田俊子山川菊栄らは公娼制とどう闘ったのか?

公娼制をめぐる政治的攻防を追跡し、近代日本政治史の書き換えを迫る挑戦の書。

井上輝子(山川菊栄記念会代表、和光大学名誉教授)

内容

近代日本において公娼制は一貫して問題だった。これまで埋れてきたその政治過程に光をあて、公娼制の変遷を明らかにすると同時に、当時の社会と格闘した三人の女性の実像を、これまでとは異なる視点から浮き彫りにする。

明治期の公娼制は、文明国にあってはならない「人身売買」だとして列強率いる国際社会で問題となった。国内の政局も絡んだ公娼制は、日本政治末端の問題ではなかったのだ。

本書前半の第一章では、国際情勢・政局との関係、国内の廃娼運動、帝国議会での公娼制度廃止法案審議での大論争など、公娼制の政治過程を明らかにする。

後半の第二章から第四章は、「娼妾の全廃」を掲げ活動したクリスチャンの佐々城豊寿、自ら壇上に上がり女子の教育を訴えた岸田(中島)俊子、廃娼を訴え同時に女性の労働問題を重視した山川菊栄をとり上げ、彼女らの公娼制問題をめぐる活動が、歴史のなかでどのように重なり展開していったのかを浮き彫りにする。

著者紹介

関口すみ子(せきぐち すみこ)

東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。法政大学元教授、専攻、ジェンダー史・思想史。

著書に、『御一新とジェンダー──荻生徂徠から教育勅語まで』(東京大学出版会サントリー学芸賞〔2005年〕受賞)、『大江戸の姫さま──ペットからお輿入れまで』(角川選書)、『国民道徳とジェンダー──福沢諭吉井上哲次郎和辻哲郎』(東京大学出版会)、『管野スガ再考──婦人矯風会から大逆事件へ』(白澤社)、『良妻賢母主義から外れた人々──湘煙・らいてう・漱石』(みすず書房)など。

目次

第一章 近代日本における公娼制の政治過程──「新しい男」をめぐる攻防

第二章 雌鳥よ、夜明けを告げるな──佐々城豊寿と初期廃娼運動が直面した困難

第三章 湘煙とその時代──岸田俊子の実像を探る

第四章 山川菊栄と「公娼全廃」──『おんな二代の記』を中心に

2016-09-15

[]哲学者公娼制

西日本新聞で『三木清『人生論ノート』を読む』が取り上げられました

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2016/08/30付 西日本新聞夕刊の新刊紹介欄で、岸見一郎三木清『人生論ノート』を読む』が取り上げられました。

http://www.nishinippon.co.jp/nlp/book_new/article/270923

 1941年の刊行以来、今も読み継がれている哲学者三木清の著書『人生論ノート』。「死について」〈前半〉、「幸福について」「成功について」など、38年から40年までに執筆された章の中から、人間学・人間関係論として興味深い断章を読み解く。

西日本新聞さん、ありがとうございました。

公娼制哲学者

さて、三木清のコラム集『現代の記録』に「世界の鏡」と題した短文があります(1937年3月)。

このコラムで三木は、日本の遊郭吉原を外国に紹介する映画に、日本側が抗議していることをとりあげています。

 西洋人が日本を訪ねて来ると、歌舞伎や能へ案内すると共に吉原へ案内する。それが殆ど公式になっているとすれば、映画「吉原」に抗議するのは矛盾でないかとも云えるであろう。オリンピック東京大会を控えて改善すべきことはここにもある。(『三木清全集第十六巻』岩波書店、引用にあたり仮名遣いを改めた。以下同)

現代でも、米軍に日本の風俗産業の利用を奨めた政治家がいましたが、こうした感覚は戦前から変わっていないのかもしれませんね。

ちなみに三木清が言っている「オリンピック東京大会」とは、1940年に開催されるはずだった、幻の東京オリンピックのことです。

国際社会から多くの客を日本に招こうとしているのに、こんなことでよいのかと三木は嘆いているわけです。

さらに三木は「日本主義者のうちには吉原讚美論者がなかなか多いこと」に読者の注意を促します。

 例えばこの方面で有名な紀平正美博士は、日本精神の本質は「つとめ」にあるとしているが、その際博士は、私娼は西洋模倣個人主義であり、公娼は日本固有の家族主義であると見ると共に、「つとめ」の論理の立場から郭を支持している。博士によると、公娼は単なる犠牲として社会の暗黒面を現わすのでなく、郭内における「つとめの身」として一定の積極性を現わすものである。「今日此の精神によって更に改造せらるるならば、社会制度としてこれほどよきものはないであろう」と博士は云う。「つとめ」のこの積極性こそ、実にまたあの爆弾三勇士の精神であると博士は附け加えて論じている。これが他ならぬ文部省国民精神文化研究所の所員として思想善導の任に当たっている紀平博士の「哲学的」見解なのである。

ここで三木清がやり玉に挙げている紀平正美博士とは、学習院大学教授などを歴任した戦前の代表的なヘーゲル学者ですが、この当時は日本主義の旗振り役をつとめていた人物です。それにしても、「私娼は西洋模倣個人主義」だからけしからんが、「公娼は日本固有の家族主義」であるからよろしい、「郭内における「つとめの身」として一定の積極性」がある、とは、なんとも呆れた話です。三木は「映画「吉原」に抗議する官憲はかような「侮日的」思想の国内における宣伝に対して矛盾を感じないのであろうか」と皮肉っています。

公娼制を「日本固有の家族主義」とし、「つとめ」すなわち自己犠牲の精神によって改造するなら「社会制度としてこれほどよきものはないであろう」というのが日本主義であるなら、なるほど三木のいうとおり、これほどの「侮日的」思想はないでしょう。

あるいは見方を変えるなら、国家の文化政策の宣伝マンをつとめる人物が、自己矛盾にも気づかずに「社会制度としてこれほどよきものはないであろう」と言ってしまうくらい、公娼制大日本帝国と深く結びついていたとも言えそうです。

最後に宣伝ですが、公娼制をめぐる政治的攻防を追った、関口すみ子『近代日本公娼制の政治過程 ―「新しい男」をめぐる攻防・佐々城豊寿・岸田俊子山川菊栄』が近日刊行予定です。ご期待ください。

2016-08-31

[]読者から――プラトンティマイオス/クリティアス』

残暑のなかにも少し秋めいた空気が感じられてホッと一息ついていた小社に、プラトンティマイオス/クリティアス』(岸見一郎訳)の読者からお便りをいただきました。

以前、『プラトン全集』版『ティマイオス』を所持していたのですが、処分してしまいました。

このたび新訳が出たので手に取りました。

読みやすい訳で内容がしっかり頭に入りました。

アリストテレスの『自然学』も訳していただければ幸いです。

装幀も鮮やかですばらしいです。

手頃なお値段で助かります。

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ありがとうございます!

「読みやすい訳で内容がしっかり頭に入りました」とのお言葉、必ず訳者の岸見一郎さんにもお伝えします。

装幀についても「鮮やかですばらしい」とおほめいただき、デザイナーも会心の笑みを浮かべております。

お値段も勉強させていただきましたあ(営業担当)。

なお、アリストテレス『自然学』をリクエストいただきましたが、岩波書店さんから『新版アリストテレス全集』が刊行中ですので、そちらをお待ちになった方がよろしいかと存じます。

『自然学』の巻はこれからの刊行のようです。詳しくは岩波書店さんにお問い合わせください。

岩波書店さんの紹介ページ↓

https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/092771+/top.html

2016-08-26

[]読者から――『よい教育とはなにか』

暑い日が続きますね。

強い日射しにめげそうな気分を吹き飛ばしてくれるようなおたよりをいただきました。

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小社刊『よい教育とはなにか』(G・ビースタ著/藤井啓之・玉木博章訳)を読んでくださった方からのお葉書です。

要旨をご紹介させていただきます。

「能力形成主義」の視点を批判し、市民社会形成を目指すために必要な「よい教育」を根っこから考え直すよい材料となりました。

日々の仕事では、つい忘れてしまう「何のために私は教えるのか」というところを、もう一度考えさせられたことで、今後の授業づくりも変わりそうです。

現代的課題として「教育」を問いかけるイメージがわいてとてもよかったです。

学校の教員をなさっている方なのですね。

本書、ビースタ『よい教育とはなにか』は、神代健彦さんによる『教育』(2016年9月号)掲載の書評の言葉を借りれば、「J・デューイの民主主義と教育の理論を正統的に引き継ぐものであり(5章)、また秩序としての民主主義がもつ排除原理を超えようと試みる、J・ランシエールの新たな民主主義論と呼応する(6章)」ような理論書なのですが、それが現場の先生方の授業づくりのお役に立ったとすれば、こんなにうれしいことはありません。

ありがとうございました。

2016-08-25

[]オリンピック三木清

リオ五輪も無事に終わって次のオリンピック東京大会ですね。

次の大会が東京で催されることに決定したのは、とりわけ愉快なことだ。我が国民の誰も喜んでこの愉快な義務を負うであろう。それは確かに日本の獲得した權利であると共に日本に課せられた義務でもある。(中略)次のオリンピック大会が不可能にならないように、世界平和の維持のために努力することが日本の第一の義務である。オリンピック競技こそ国際主義の真の精神を教えるものである。

これは1936年に執筆された三木清のコラム「愉快な義務」(1936.8)の一節です(『三木清全集第十六巻』岩波書店、151-152頁。引用にあたり仮名遣いをあらためた。以下同じ)。

三木はスポーツに好意的だったようで「スポーツと健康」と題したコラム(1935.11)では次のように書いています。

スポーツは明朗だ、秋の空のように。卓越せる者がなんの嫉妬も成心もまじえずに讚美され喝采されること、スポーツの如きは稀であろう。この陰慘な世界情勢のうちにおいて、スポーツは我々の心を明朗にしてくれる恐らく唯一のものであろう。(三木、前掲書、71-72頁)

ちなみに引用文中の「成心」とはこの場合、したごころといった意味合いです。

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『人生論ノート』に「一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である」(「成功について」)とあるのもなるほどなと感じられます。ついでですが、この言葉は岸見一郎三木清『人生論ノート』を読む』では51頁に出てきます。

ここまで手放しにスポーツを賛美されると、三木はいささかスポーツを美化しすぎているのではないかと不審に思われる方もいるかもしれません。

しかし、そうではありません。三木は「競技と政治」(1936.3)で、ナチス政権下での開催が進められていたベルリン大会について、スポーツが「政治的目的、言い換えれば戦争の目的に従属」させられていることを(婉曲に)指摘したうえで、次のように書いています。

 スポーツが政治的目的に従属させられるのは確かに好ましくないことである。スポーツは戦乱時代の武技が平和の時代に変質したものであるとすれば、今日それが戦争の目的に使用されることはスポーツの先祖返りとも云うべきものであって、このようなアタヴィズム(先祖返り)は今日の如き反動時代には他の方面においても多く見られる現象である。

 しかしたといドイツの政治的行動には非難さるべきものがあるにしても、その理由からオリンピック大会に參加しないということは、自分自身スポーツを政治化するものであって、賛成できない。寧ろ現在の如き世界の情勢においては、スポーツを通じてでも国際親善の行われることが望ましいと考えられる。政治と競技との混同は避けたいものである。

 ナチスの理論家カール・シュミットは、政治的なものを規定する根本概念は、敵・味方という範疇だと述べている。しかるにオリンピック競技の淵源をなした古代ギリシアにおいては、凡ての生活が競技的な根本性格を有し、ギリシア人とギリシア人との血腥い衝突にあっても戦いは「アゴーン」(競技、試合)であり、相手は試合の相手であって「敵」ではなかった。

 社会の統一が維持されている間は、政治も何等か競技的性格を備えている。自由主義の華かであった時代には、政治におけるスポーツマンシップについて屡々語られた。ところが社会における内部的対立が激しくなると、政治はあらゆる競技的性格を失い、全く敵・味方の関係で規定されるようになり、スポーツマンシップなどもはや問題にならない。そしてスポーツも、体操の如きも、政治的目的に従属させられることになる。これは独りドイツのみのことでなく、あらゆるものが政治化する必然性を有する現代の特徴的傾向である。(三木、前掲書、108-109頁)

「政治と競技との混同は避けたい」と言いながら、最後の段落では「政治も何等か競技的性格を備えている」というのは、スポーツの競技(アゴーン)的性格を強調することで、カール・シュミットの友・敵理論(シュミット『政治的なものの概念』未来社)に対抗しようとしてのことでしょう。

スポーツの競技(アゴーン)的性格とは、「試験の明朗化」(1936.2)というコラムでは「コンクールの精神」とも言い換えられています。

スポーツがそうであるように、政治も敵愾心、嫉妬心、憎悪などによる争いではなく、平和の時代の「アゴーン」(競技、試合)のようにできないものか、天皇機関説事件で議員辞職した美濃部達吉が暴漢に銃撃され、2.26事件が勃発して世情が騒然としたなかで、三木はあえて説いているように読めます。

ちなみに三木が期待した「次の大会」とは1940年に予定されていた東京大会のことですが、1938年に日本政府は戦争遂行の負担になるという理由で開催権を返上して、幻の東京オリンピックとなってしまいました。