白澤社ブログ このページをアンテナに追加

2016-07-22

[]他人からどう見られるか気になりますか?──『人生論ノート』の言葉から3

自分を実力以上に見せようとすることはありませんか? 

人から軽んじられたくないし、ましてやバカにされたくはありませんから、ついつい、できる風を装ってみたり、知ったかぶりをしてしまったり。逆に、目の前の困難を乗りきるために、あえて虚勢をはったり、はったりを利かせることだってもちろんあるでしょう。

三木清『人生論ノート』に「虚栄について」という章があります。三木さんは、人が虚栄的であることは、当たり前だと言っています。

「虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。」

そうか、虚栄心を持つのは人間として当たり前なんだと、ホッとしませんか。で、なぜ三木さんはこう言い切るのか。

なぜなら、「人間の生活はフィクショナルなもの」「人生はフィクション(小説)」だから。

三木清「人生論ノート」を読む』の著者、岸見一郎さんは、次のように読み解いています。

 構想力、もしくは想像力が人間の生を形作っていくというのが、三木の基本的な考え方ですから、その視点から見れば「人生がフィクションである」ということは、人間が自らの人生を形作っていくということであって、むしろポジティブな意味を持っているわけです。

f:id:hakutakusha:20160623182409j:image:right

逆に、作り上げる前の自分とは、単なる可能性、つまり潜在的な存在だというわけです。

「人生はフィクショナルなものとして元来ただ可能的なものである。」

やればできる人でも、何もしなければ可能性にとどまることになります。“さんねんねたろう”みたいな人、いま風に言えば「やればできる子」ですね〜。

岸見さんは、三木さんの言葉を受けて次のように言っています。

「実体のないものが如何にして実在的であり得るか」が問題だというのは、私たちが自分の人生をいかにして手ごたえのある、内実のあるものにしていくかが課題だという意味に受け取ることもできます。

人がある虚栄を持ったとして、それがいつまでもその人にとって虚栄であるのであれば、進歩がないということになります。そうならないために、人は向上心をもってさまざまな努力をする。つまり虚構に実体を近づけるということです。「虚栄」とは人生にとって意外に重要なものなのですね。

「虚栄」のさらなる展開は、『三木清「人生論ノート」を読む』をぜひご覧ください。

2016-07-14

[]どんなときに幸福だと感じますか?──『人生論ノート』の言葉から2

皆さんはどんなときに幸福だと感じますか?

私は、暑〜い夏になると無性にかき氷が食たくなるのですが、果物てんこ盛りのかき氷を食べたとき、幸せだな〜とつぶやいている自分がいます。でも、こんな幸せでいいのでしょうか。

三木清『人生論ノート』「幸福について」には、次のように書かれています。

幸福を単に感性的なものと考えることは間違っている。

とすると、どうも私のかき氷の幸せは、五臓六腑が冷やされる快感なのであって、三木さんの言う幸福ではありませんね。また私の凡人ぶりを発揮してしまったようです(汗)。

三木さんは、幸福は感性的ではなく「主知主義」と結びつくのだと言います。つまり知性的なのだと。そして次のようにも言っています。

幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。

今でこそ、自らが幸福であること、幸福になろうとすることは、あたりまえのように肯定されますが、三木さんがこのように言った時代は、お国のために命を献げてなんぼの時代でありました。そのなかで、三木さんはあえてこのように書き、そして次の言葉を続けます。

もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことをなし得るであろうか。

この言葉を受けて、『老いた親を愛せますか?』(幻冬舎)という本も書いておられる岸見一郎さんは、親の介護の例を挙げておられます(『三木清「人生論ノート」を読む』より)。

親が子どもの幸福を願って育てることと、子どもが老いた親をいたわることとは、まったく別のことです。この二つは交換したり、補償したりできるようなものではありません。

親が子どもの幸福を願う愛は親にとっての幸福です。もしその願いに答えようとするなら、子ども自身が幸福になることが最大の親孝行です。

f:id:hakutakusha:20160623182409j:image:right

親が幸福であることと、子が親を幸福にすることは、受けた恩を返す/返さねばならないという単純なことではないようです。老親の介護が、誰かの献身や自己犠牲に頼り過ぎていて、その人自身の生活が成り立たなくなるとしたら……。

岸見先生が言われるように、介護の問題を考えるとき、この三木さんの言葉を思い起こす必要がありそうです。

さて、幸福とは何か。三木さんは、「幸福は人格である」と断言しています。人格だからこそ、幸福は徳であり困難に立ち向かう力にもなり得るのだと。

この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。

なるほど〜。幸福という力を得れば百人力。

でもそこに至るには、まだまだ人生修行が必要なようです。

2016-07-12

[]ひとの幸福に嫉妬をおぼえたことはありますか?――『人生論ノート』の言葉から1

幸せそうにしている人たちを見ると、なんだか「ムッ」とする、というようなことはありませんか。

かく言う私など小心者の凡人ですから、いけないと思いながらも「人の不幸は蜜の味」の方に軍配を上げてしまいそうで、内心おたおたしてしまいます。

他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。

これは、三木清『人生論ノート』の「幸福について」に書かれている文章です。

三木さんは、成功と幸福は別ものなのに、同じように考えているから、「今どきの人間」は幸せというものが何かわからなくなったのだと言います。

そして、成功を嫉妬しているのに、幸福を嫉妬するのだと言います。

三木さんのいう「今どき」とは戦中のことですが、今でも通用する話です。

三木清「人生論ノート」を読む』の著者・岸見一郎さんは、皆さんよくご存知のアドラー心理学の第一人者ですが、上の三木の言葉を受けて、次のように言っています(「2 幸福と成功」『三木清『人生論ノート』を読む』より)。

幸福とは、何かを達成したから、あるいは何かを達成する過程にあるのではなくて、人が人として存在することがそのまま幸福なのです。現代の成功論とは本来の幸福論とはずいぶん違うのです。

さて、成功が幸福と比較されてすっかり分が悪いのですが、三木さんは、成功をいちがいに悪いと言っているのではありません。

成功も人生に本質的な冒険に属する。

こう捉えるのであれば成功も捨てたものではないと言います。

う〜む。成功は冒険であり、人生は冒険なのであります。

では幸福とは何か。この話はまだ続きます。

f:id:hakutakusha:20160623182409j:image:right

-------------

岸見一郎三木清『人生論ノート』を読む』の目次から】

2 幸福と成功──「幸福について」「成功について」を読む

近ごろ幸福について論じられていない

今日の良心とは幸福の要求である

人間の行動の動機は善である

成功と幸福とは同じものではない

幸福は各人においてオリジナルなものである

一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である

成功主義者は容易にコントロールされる

幸福を単に感性的なものと考えることは間違っている

幸福そのものが徳である

幸福は力である

幸福は人格である

-------------

2016-07-11

[]出典はどこ?――岸見一郎三木清『人生論ノート』を読む』編集こぼれ話

岸見一郎さんと小社の編集作業はさながら読書会のようになりました。

学生時代にかえって『人生論ノート』を一段落ずつ読んでは、この文章の意図はなにか?文脈は?背景は?と議論し、三木の文章に感心したり閉口したりしながら、たいへん楽しい時間を過ごしました。

感心したのは、三木の西欧思想への精通ぶりです。ギリシアローマの古典から、当時の最先端の思想まで、実に幅広く取り上げて、自由自在に引用・参照しています。

閉口したのは、その出典を書いていないこと。

f:id:hakutakusha:20160623182409j:image:right

たとえば、「死について」の次の文章をご覧ください。新潮文庫(百七刷)で9頁です。

ゲーテが定義したように、浪漫主義といふうのは一切の病的なもののことであり、古典主義というのは一切の健康なもののことであるとすれば、死の恐怖は浪漫的であり、死の平和は古典的であるということもできるであろう。死の平和が感じられるに至って初めて生のリアリズムに達するともいわれるであろう。

ゲーテが定義したように」とありますが、ゲーテはどこで書いているのか、せめて本の題名だけでも書いておいてくれたら…。ぼやきながらも調べました。

三木がゲーテについて書いた他の文章も参考にしながら、おそらくこれだろうと見当をつけたのは、エッカーマンゲーテとの対話』、でも岩波文庫で三分冊です。片っ端から頁をめくり、おそらくこれだろうというところを見つけました。

「私は新しい表現を思いついたのだが、」とゲーテはいった、「両者の関係を表わすものとしては悪くはあるまい。私は健全なものをクラシック、病的なものをロマンティックと呼びたい。そうすると、ニベルンゲンもホメロスクラシックということになる。なぜなら、二つとも健康で力強いからだ。近代のたいていのものがロマンティクであるというのは、それが新しいからではなく、弱々しくて病的で虚弱だからだ。古代のものがクラシックであるのは、それが古いからではなく、力強く、新鮮で、明るく、健康だからだよ。このような性質をもとにして、古典的なものと浪漫的なものとを区別すれば、すぐその実相が明らかにできるだろう。」(エッカーマンゲーテとの対話(中)』岩波文庫、85頁より)

涙ぐましい努力の結果見つけたのですが、紙幅の都合であえなくカット。

せっかくですので、ここに掲載しておきます。

2016-07-08

[]シティズンシップ三木清

参院選の投票日が近づいて街がにぎやかですね。

ましてや今回の選挙は、18歳19歳の青年層がはじめて投票に参加するとあって、その動向が注目され、小社刊『シティズンシップの教育思想』の著者・小玉重夫さんも「主権者教育の第一人者」として新聞にコメントを寄せているのを見かけます。

一般に我が国において最も欠けているのは政治的教養であると云い得るであろう。

これは、小玉さんのコメントからではありません。

1937年四月に『日本評論』に掲載された、三木清の「知識階級と政治」題した時事評論の書き出しの文章です。

この文章は次のように続きます。

知識人にしても、政治的教養もしくは政治的知性においては、何等知識人らしくない者が少なくない。かような事実の原因が我が国においては自由主義が十分に発達するに至らなかった、従ってまた政治教育の伝統が乏しいことに存するのは云うまでもないであろう。この頃官僚政治に対して政治の民主性とか政治の大衆性とかいうことが云われているが、それは固より民衆或いは大衆が政治的に啓蒙されることによって実現され得るものである。政治と云えば、治める側の者にのみ関係のあることであって、治められる側の者には関係のないことであるといった考え方が今なお我々のうちに知らず識らず働いている。かような考え方を覆すことが政治的教養の第一歩である。

(『三木清全集第十五巻』岩波書店、118頁。引用にあたり仮名遣いをあらためた)

いうまでもなく政治的教養とは単なる政治についての知識のことではありません。小玉重夫さん流に言えばシティズンシップであり、それを三木は別の文章で「愛市心」という言葉で呼んでいます。

「故郷なき市民」(『三木清全集第十六巻』岩波書店所収)は、東京市議会(現在の都議会)の議員の質が低下したという話からはじまります。議員の質が低下したのは、そういう人を議員にえらんでしまう側にも原因があるのではないか。

 知的に啓蒙された人間、政治的な感心を有する人間が最も多い筈の東京の如きにおいて、その市民の選出する議員の質が最も屡々問題になるということは、ちょっと解し難いことのようである。それには種々の原因があろうが、中にも、市民に愛市心が乏しく、愛市心が乏しいことは市民が自分の住む都市を故郷として感じないのに基くということが、その原因の一つとして挙げられている。市民の多数は地方から移って来た者であって、その住居も常なく、東京に対し故郷の愛を抱いていないと云われるのである。(『三木清全集第十六巻』岩波書店、173-174頁)

しかし、三木は「故郷を持たぬということは近代的市民に本質的な意識に基いている」のだから、愛市心というものは故郷に対する素朴な感情、郷土愛とは違うものだと議論します。

 従って近代的市民の愛市心は故郷に対する愛の如きものとは異る性質のものでなければならぬ。それ故にまたその選出する市会議員の質が良くないということは、都市生活者がこのような新しい社会意識を有せず、却って封建的なものを多く残存せしめているのを現わすことになるのである。(『三木清全集第十六巻』、174頁)

三木は「真の愛市心の基礎となるやうな新しい社会意識が作られるためには、公園、クラブ、会館、運動場、図書館、消費組合等々の公共設備の発達が緊要なことであろう」と述べていますが、公園もサークルも公民館も運動場も図書館消費者組合もある現在、なお議員の質が問題にされ続けているとは、泉下の三木も予想できなかったのかもしれません。

ちなみに、この文章の最後で三木は、「愛市心がもし「故郷」に対する愛の如きものであるとすれば、それは局限された、地方的利害を中心としたものとなる」のだから、郷土愛的意識を国政に持ち込むべきではないとも示唆しているので、三木のいう愛市心がパトリオティズムともナショナリズムとも違うものであることは明らかです。

現代の言葉でいえば、やはりシティズンシップでしょうか。