[交通流通][事件事故] 海難(3)−6 大型貨物船遭難ボリバア丸31名遭難とヒューマンエラー

福島原発事故原因が国会事故調の発表で人為的過失と断定され、大きな問題を示唆しておりますが、今日の急激な技術革新に潜むヒューマンエラーは常に潜在しており、今回の話も福島原発事故原因と共有部分が在るかも知れません。 冬季の日本列島東方海上季節風により時化模様になりますが、昭和44年、45年と二隻の5万6千屯(D/W)級の鉱石運搬船(バルクキャリヤー)が千葉県野島崎の東方洋上で船体破断断沈没事故が起きております。 ボリバア丸は船長以下30名死亡、カリフォルニア丸は船長以下5名死亡の惨事となりました。……
     
上)コンテナ船:photo kawasaki kisen  下)懐旧の前世代モデル北米航路高性能貨物船:photo O.S.K
           
……横浜観光の目玉、横浜港は大桟橋から港内を一望できますが、貨物船など何処へ行ってしまったのか?、大桟橋には時々入港する観光船、旧新港埠頭(センターピア)は港みらいのオフィス、商業施設の外に海上保安庁の巡視船群が碇泊するだけです。 ノースピア(米軍専用埠頭)も碇泊船は余り見かけず、記念船N.Y.Kの氷川丸の先には山下埠頭があり多数の係船バース数を誇っておりましたが、今では寂しく上屋の建物が佇むばかり、船の陰が見えないのです。 ……横浜の街が只の臨海都市になった原因とは!、海運合理化の一環、積荷別の専用船化があり、直接臨海工場岸壁の高性能揚荷装置を利用しているのです、工業製品はコンテナーを利用しストックヤードを備えたコンテナ専用埠頭で高速ガントリークレーンで荷役し、その他コンテナに入る貿易品も総てコンテナ埠頭で扱われます。
自動車は自動車運搬船で広大なストックヤード設備の専用埠頭で、LNG,石油も専用タンカーでシーバース揚荷です。 旧港湾の倉庫上屋のある埠頭は事実上ロジスティツク進化の歴史記念物でしかありません。……
…戻りまして、今回のボリバア丸もバルクキャリヤーと称するバラ積鉱石運搬船で、積出港と製鉄所の高性能荷役装置に依拠する鉱石を運ぶ海に浮かべた巨大な鉄の箱です。…が、それは先端造船技術が開発したもので、船型、構造の設計上の問題点、積荷の船倉積付け配分など職掌とする船舶職員チョフサー(一等航海士)には、船体強度は未知の船舶が荒天時に起こした海難だったのです。 今回の海難の記載は事故に関する客観的正確性上、海難審判の調査申渡書から適宜引用致しますが、貴方ならば人為的過失が何処に潜むか解明出来ますか?。……
    
上)鉱石運搬船と積載パース:photo Capt.jan.Meichers   下)これでも船です!、自動車運搬船: photo Garitzko


主文
『本件遭難は、ぼりばあ丸が鉄鉱石を貨物倉ひとつおきに積載した場合、船側構造及び二重底の各強度が不足していたところ、バラストタンク内が予想外に腐食し、船体主要鋼材の腐食衰耗箇所に応力集中をきたした結果、第2番貨物倉付近において折損するにいたったものと考えられるが、船体の折損状況を確認できず、他方では、その他の原因が単一または重畳して船体、折損にいたった可能性も考えられ、結局、本件の発生の原因を断定することができない。』

当時の造船事情……造船界においても技術革新の波が押し寄せ、船舶の巨大化、専用船化、高速化、自動化等の要望が一時にわき上がり、ばら積貨物船については、従来船倉部がトップサイドタンク、船側肋骨、ビルジホッパー二重底及び前後の隔壁によって囲まれる船型で、比較的小型のものは建造されたが、船の長さが200メートルを超える大型船は、国内船としてはまだ建造されておらず、昭和39年第20次計画造船において建造トン数が飛躍的に増大した際、大型ばら積貨物船に鉄鉱石など比重の大きい鉱石をも積載できる、いわゆる多目的ばら積貨物船が建造されるようになり、ぼりばあ丸はこの種貨物船の第一船として、指定海難関係人船舶所有者の発注により、指定海難関係人造船所東京第二工場(IHI)において建造された。
海難審判庁の審理経……横浜地方海難審判庁では、早速参審員の参加を決定すると、第1回審判期日を昭和44年12月17日開廷された。
本件は、造船大国日本で建造された大型船舶の海難審判だけに、世間の関心が高く、横浜地方海難審判庁の審判廷には、報道関係者約20名、一般傍聴者約70名が詰めかけた。
本件は、荒天化における不可抗力なのか、運航上のミスなのか、船体構造上の問題なのか、ということで審理内容も多方面にわたり、従って審理期間も2年9か月の長きを要し、その間の審判開廷回数は39回の多くを要することとなり、審理開始から実に3年余を経過した昭和47年11月28日裁決言渡の運びとなった。
遭難沈没に至る経過……本船は、空倉のままサンニコラス(ペルー国)に向け第26次航の途につき、出港後船倉内に荷役による損傷を発見したので、機関部員の手により溶接修理を施工し、甲板部員の手により倉底の掃除を行ない、平穏な航海を続けたのち、翌12月9日サンニコラスに到着した。同地で積載の鉄鉱石は、径1ないし2センチのほぼ球状のAPPJペレットで、荷くずれのおそれはなく、その積付方法は、第2、4番倉を空倉とし、第1番倉に11,604ロングトン、第3番倉に24,185ロングトン、第5番倉に17,111ロングトンのオルト積みとし、計52,900ロングトン(53,746キロトン)を積載した。
こうして本船は、船長ほか32名が乗り組み翌10日サンニコラスを発して京浜港川崎区に向かった。
発航後順調な航海が続いたが、翌44年1月3日正午(本船時刻、以下同じ。)ごろ本船は、大陸から南西諸島を経て日本の南海上に張り出した高気圧の圏内にはいったため、同日午後から風力5ないし6に増勢した季節風のなかを航行するようになり、本船は、船舶所有者あてに電報で、「5日朝川崎着予定」、ついで「5日午後3時着予定」、更に「6日正午着予定強風のため遅れる」との連絡をし、4日夕刻ころから風力8の西ないし西北西風を左舷船首に受け、ローリングはほとんどなく、ピッチングはあったけれども、平均速力8.7ノットで航海を続け、5日午前10時30分ごろ北緯33度0分東経144度36分ばかりの地点において、突然船体が第2番倉付近から折損し、本船は航行不能となった。
直ちに機関を停止し、同時に「遭難、遭難、本船位置北緯33度0分東経144度36分、フォックスル二つに折れた、前部沈没航行不可能、まもなく短艇に乗り移る、直ぐ救助頼む」との発信をし、同時36分ごろ再び同様の発信をし、同時58分ごろ健島丸に対し、「2番ハッチより折損、1、2番ハッチ浸水現在浮上しているが海没のうれいあり、総員非常配置退避準備した」と、同11時11分ごろ健島丸に対し、「船舶所有者本社に至急連絡頼む、2番ハッチより折損、1、2番ハッチ浸水現在浮上しているが海没のうれいあり、総員非常配置準備した」と重ねて打電し、これに対し健島丸は、「今の電報承知した、すぐ本社に連絡する」との返電を打ち、「貴船の煙突の色は何ですか」と尋ねたところ、「赤です」との応答があり、その後「本船は貴船の風下に回るからそちらのほうにボートを回して下さい」と発信したが、ぼりばあ丸からは応答がなかった。
 これよりさき二等機関士は、同日午前10時15分ごろ起床し、ボートデッキの娯楽室通路に掲示してあるテレファックスニュースを読んでいたとき、突然船橋あたりで一等機関士が「おもてが折れた、あれ見い」と大声で叫ぶ声が聞こえたので、娯楽室前面の左舷寄りの丸窓から前方をのぞいたところ、いつも見えるフォアマスト、ウインドラス、船首楼の後壁、階段などが見えず、前部上甲板の断面から波が打ち上がっていたので、前部が落ちてしまったと思い、急いで自室に帰って上着を着用し、身じたくしたうえ救命胴衣を手に持って室外に出た。そうしているうちに「何々浸水何々短艇部署につけ」との声を聞き、救命艇のところまで行ったが、そのときには甲板部員たちが救命艇降下作業を開始していた。
 二等機関士は、とりあえず機関室に降り日誌類を持って上がり、自室に帰ってズボン下をはくなど耐寒の用意をしたのち、1号救命艇に日誌類を運び込んだ。そのころほとんどの乗組員が救命胴衣を着装して救命艇の近くに集まっており、相前後して2号、1号救命艇が振り出され、乗組員は救命艇内に用具の積込にかかった。同11時ごろには来援中の健島丸の煙が左舷正横付近に見え、次第に近づいてくるのがわかり、そのころ2隻の救命艇は、まだキャビンデッキより上にあって、すぐ乗艇できる位置までは降下されていなかった。
 こうしている間に船体が徐々に沈みつつあったが、乗組員たちは本船が沈没するなどとは思わず、キャビンデッキの後部に集まり救助船の近づくのを待っていたところ、同時27分少し前突然ぎしぎしと異音がしはじめ、2号救命艇付近の乗組員のなかから「沈むんではないか」との声が上がり、そのとき船橋から「ボートをおろせ」との指令が発せられた。直ちにめいめいの救命艇にかけ寄ったところ、その瞬間ギューッという音がして船体は急速に沈みはじめ、1号救命艇のそばに集まっていた乗組員らは、前方への傾斜が大きいため救命艇を降下することができず、キャビンデッキの階段から上甲板後部のほうにかけ降り、二等機関士は、船体の大傾斜のため前に進むことができず、そのままハンドレール越しに海中に飛び込み、同時27分ごろ本船は、前示船体折損地点付近において、船首を下にして逆立ちの状態で沈没した。
 二等機関士は、海中で渦に巻き込まれたが、やがて浮上して付近にあった救命浮環にすがり、それから転覆している救命艇に泳ぎつき、ローリングチョックにつかまって漂流中健島丸に救助された。二等機関士と司ちゅう員の2人は健島丸に救助されたが、船長ほか30名の乗組員はついに行方不明となり、のち死亡と認定された。

……次回は船長が退船を拒否しブリッチから手を振り船と運命を共にしたカリフォルニア丸沈没の迫真の経緯。 …… 先へつづく…   ……前へ戻る

《海難》
(6) 京浜運河の第一宗像丸海難事故 或るヒューマンエラー
(5) 史上最大洞爺丸沈没事故と船長
(4) 大型貨物船カリフォルニア丸沈没と船長退船拒否
(3) 大型貨物船遭難ボリバア丸31名遭難とヒューマンエラー
(2) MOL COMFORT(コンフォート)沈没
(1) 商船三井コンテナ船 船体破断