前書きが長い。

 院時代の友人某S井君に「新婚生活ブログにあてられましたw」とコメントを頂戴した。死ぬほど面白い人なのでいつか紹介したいが、個人的には自分の日記を読み直すと『定年退職後にどーしていいかわからなくなったワーカホリックの日記』であるような気がしてならなくなるのだがどうだろう。
 着眼点といい、内容といい、溌剌とした感じがない。
 1日の関心事が激変し、とりあえず社会に関心を持ち続けるために日記を書いてみた……的イメージがあるのだ。我が父は真っ当な方で退職後も危険な方向に走らなかったのに、娘が暴走気味だ。
 実際のところ、去年までのべ100人以上と顔を合わせ、通りすがる300人位は顔見知りという環境で仕事をしてきたので、余りの人との会わなさにどうしていいかわからなくなる瞬間がある。今も後輩*1などはそこで苦心惨憺している頃であり、終わったから言えることかもしれない。しかし、幾分生気がなくなっていることは事実らしい。先日、それを立証しそうな出来事が起きたのでこのまま話を続けたい。
 前述の通り、ある日CentaralParkですずめとおじいさんとぼんやりしていたところ、歩行中の鳩に足の上を横切られた。
 重要なことなのでもう1回言っておこう。
 ……鳩に、足の上を横切られた。
 一応、人間のつもりだったが、鳩には通り道の一環として認識されたようである。さすがに人としてどうかと思い「私、人間オーラが足りないかね?」と思わず自分の手をにぎにぎとしてみた。
 ニューヨークの鳩が強いのか、それとも私が人ではなかったのか。……うむ、何故かものがなしい。
 この私の状況と心境、どこかで読んだことがある。
 何だったっけ…と思っていたら、ふと歩いている途中に気づいた。ちょうど、梶井基次郎檸檬』だ。あの「えたいの知れない不吉な塊」に押しつぶされる前後に似ているのだ。以下、抜粋。

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。(略)何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。*2

 このまま放置しておくと、私も紀伊国屋(ニューヨークには紀伊国屋ならあります)に檸檬を置くことになるかもしれない。
 よって、先に『檸檬ごっこ

 …………や、やりたかったのよ……って、レモン買うとやっちゃうよね!?私だけじゃないよね??
 サーモンのソテーのためのレモンだが、買った瞬間からこれがやりたかった。というよりも、このために買ったのかもしれないという勢いで迷わず机の上を片付け始めた私がいた。
 ああ、まさに主客転倒。

*1:この方もそのうち話題に出てくるだろう。元マクドナルド勤務、趣味が神社仏閣めぐりという、年下だが最高にいかしたお嬢さんだ。8月にニューヨーク来訪予定。

*2:梶井基次郎檸檬』底本:「檸檬ある心の風景旺文社文庫1972(昭和47)年12月10日初版発行