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[日記]
三ヶ月近く何も書いてなかった。
どうして書かなかったのか…。確かに、書くような大したことがなかった、というのも理由の一つだけれど、多分何より文章が問題だったろう。誰も見ていない(まぁ所詮ネットの日記に過ぎないし、何より別に読まれるほどのことなんて書いていない)、下らないことにしたって、一応自分はこの日記を読み返す(少なくとも、そういう気分になることはある)ので、自分の書いたものを見て嫌悪はしたくない。それで、出来ることなら最善の、最高の文章・日記を書こうとするのだ。
当たり前だけれど、そうすれば毎日、どころか一週間に一回(実際、三ヶ月放りっ放しだったわけだけれど)書くなんておぼつかなくなる。文才がよっぽどあったとしても、自分(時には、誰より厳しい批評家である)が満足できるほどの素晴らしい日記なんて書けるわけがない。当然、日記を書かなくなるわけだ。
それでも書くにはどうすればいいか。答えは一つである(勿論、高く無いレベルで我慢するよう自分に言い聞かせるという手もあるが、それは三ヶ月やってみた結果無理だと分った。やっぱり自分の理性を理性で持って説き伏せるのは相当無理がある)。その『最高』のレベルなり、その関門となっている感覚をマヒさせることである。
というわけで、私は今酔っ払いながらこの日記を書いている。
…酔っ払うっていうこと、また、もっと言うなら感覚をマヒさせること、っていうのは、結構大事なことだと思う…同時に危ないことだとも。
感覚(或いは、私がココで言っているのは思考と言ったほうがしっくり来るのかもしれない)をマヒさせなければ、何も出来ない。所詮隅っこでグチグチ思っているだけだ(言っている、でないところがポイント)。答えは出ない、どうすべきなのか。
感覚・思考をマヒさせれば、何かしら動くことは出来る。その代わり、人間は腐ってくる。感覚・思考をマヒさせていないときに比べ、何かしらのアクションを起こすことは出来る(そのアクションは、またそれぞれだろう…。世界に関わる、大きいものであったり、こんな日記を書くようなささやかなものであったり)。その代わり、確実に考えの及ばないところは出てくる。アクションを起こす、という選択をしたばっかりに、考慮するべきパート(それこそ、無限にあるからこそ思考がとめどなくなる。感覚・思考をマヒさせなかった時に動けなくなるのはこのせいである)に考え場及ばなくなって(意図的にそっちへの思考を切るときもあるだろう)、あるときは尊大になり、卑屈になり、享楽的になり、非人間的なほどヒューマニズムを否定して露悪的になってみたり…。そんな風に、綺麗さを亡くして、ただ存在する、力を得るために人は腐っていくのかな…と思うのです。
[映画]
TSUTAYAで四本1000円なので、時折(時々よりは頻度が低い感じがしますね)借りて見ています。
「見た映画とその感想など」
・マトリックスレボリューションズ
遅まきながら、やっとのことで見ました。有名作って、出てからスグに見たりすると、ミーハーに思われたりしないかって邪推して見るのを遠慮してしまう傾向にあります。
感想:APU…だったっけ、ヒト型の機械がヴァンツァーみたいで格好よかったです。
テーマとしては、少し風呂敷を広すぎたかな、って感じです。最後で収拾付かなかった、付けるには描写が足りなかったように思います。SF好きとしては、機械の方の説明が盛りだくさんだった二作目のが楽しかった。
・惑星ソラリス
感想:リメイクの方でしたが、名作といわれるだけの良さはあるなぁ、というのが感想です。テーマ、映像、共になかなかでしょう。何より音楽がよかったなぁ、という感じです。
ただ、主人公(クリス)がなんだかヘタレで情けなくて見ていてイヤだった。
・ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ
感想:借りた中で一番よかった!!(意外性も含めて)。ミュージカルッ気のある映画だからかもしれないけれど、)
・夢
感想:この映画は、上の三つに比べて別格です。もぅ何回も見て、映画を楽しむというより、その思想を使い見取る、っていうくらいの段階になってるくらいです。
短いエピソードが『こんな夢を見た』という名目で述べられるこの映画、一番好きなエピソードはゴッホのエピソードです…綺麗だし、ゴッホそれ自体私が好きだというのもあるけれど…。そうは言っても、何より別格なのは、最後のエピソードでしょう。私がユーとぴえあというものを悟った最初のものだとっても過言は無いくらい…。
[ダイモン]
とまあ、こんな卑小な私ですが、一応頭にダイモンが住み憑いています。まぁ、そのダイモンも正体をたどれば私なのだろうけれど…。ここに、今まで書いていなかったけれど、繰り広げられていた私のダイモンとの会話を書いてみようかと思います。
ちなみに、地の分=私、カッコ内=(ダイモン)という感じです。
(上に書いていた映画のリストだけど、妙に玄人好みじゃない?『夢』とか『ヘドウィグ・アンド・案グリーインチ』とか。。。それに、『キューブ』とか、『時計じかけのオレンジ』だって好きなんじゃ?ああー、全く、自分がちょっと高級なとこに居るって見せたいのに、必死だねw)
だって、本当に好きなんだからしょうがない。好きなものは好きだって、言って、何が悪い?
(あーあ、ヤダね、そこに自分の言い分を正当化しようって意思がミエミエ。そんな他人に認めてもらいたい?それに、私がこうやってアナタの考えている汚さ、誰でもちょっと考えればわかるようなことを指摘して見せるのも、自分が其処にもちゃーんと気づいてますよー、独りよがりじゃありませんよー、って見せたいだけなんじゃないのかな?)
そんなコト言われたら、何も言い返すことは出来ない…キミはいつでもそうやって、自分の逃げ道を用意して、自分の正しさを正当化しようとする…それが良いとか悪いとか考えもせずに…
(そういうキミだって、そうやって自分の弱さをさらけ出すようなマネをして、同情を誘っているんじゃないのかな?それにちょっとでも同情する日と探してるんじゃ?そうやって依存する相手探してるんじゃ?そうしてその相手が見つかったら依存しまくるんだ!汚いなぁ〜!!!!)
うーーー!!!!!もうやめ!
(そうやって逃げるのか?それだけならまだしも、そうやって逃げる、っていうことを私に指摘させて、「そのことで自分が独りよがりじゃない、それすら考えていることを正当化させているんだろう!)
というのが、私とダイモンの会話です。書く体力・気力はなくなりましたが、実際まだダイモンは騒いでいます…・どうにかしたい(ホラまた、自分の弱さをさらけ出して、正当化しようとしてる!!!!) あーあ。(オマエはそうやって、レスが付くのを期待してるんだろ!あー汚い汚い!腐臭がする!どうせ、こうやって私に言わせてるのだって、その腐臭を感じてないわけじゃないですよーって、ヒトに分らせるためでしょう!あー、もういやになった!もう寝る!アンタに付き合ってるほどの体力も無いし!)逃げるのかー!
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[読書]
『神戸在住』1〜5巻を読んだ。最初はタイトルが気になって買っただけ(神戸出身なので)で、内容はほとんど気にしていなかったのだけれど、以外に面白いと気がついた。
なんだかこの主人公、北村薫の『円紫さんと私』シリーズの主人公の『私』と凄く似ている。
文学的趣味がある、綺麗なモノローグ(言葉遣い)、性格なんかの割と部分的なところは言わずもがな、その感受性のようなところが特に似ていると言う印象を受ける。この『かつらっち』も、『私』も、何かに感情を揺さぶられるという描写が所々に出てくるけれど、その揺さぶられる対象も、それによって起きる感情も特に目新しいところは無いに等しい。その感情そのものもどこかで一度かそれ以上耳にしたことのあるであろう表現である。
けれど、そこでありきたりのつまらない作品とならないのには理由があるように思う。何というか、ド演歌的ではないように思う。彼女達は、それほどコテコテに周りの情景や、その影響を与える人たちとつながっていない。哀しみも、日々の楽しみも、どこか彼女達の立脚点から遊離している印象を与える。生々しさは余り無い。北村薫作品にあったように、『結晶のような』存在なのだ。
それを魅力的ととるか、ありえないとして切り捨てるかは、そのときの気分次第かな…。
池田晶子、若しくは中島義道病
- 病気の原因
- 症状
無気力。とりわけ、社会的行動力の欠如。他人との接触を厭うなど。
- 治療
いまのところ決定的なものはない。時間が過ぎるのを待つだけ。
というわけで、池田晶子の「41歳からの哲学」()
を読んだ。
いつものことだけれど、池田晶子の本を読んだ後は、猛烈に上記の症状が起こる。早く言うなら、ひきこもりのような。本を読んだ後、布団の上にゴロリと寝転んで、ぼうっとして天井を見上げ、考えるともなく考える。外に出たり人と喋ったりと言うことは言うまでもなく、テレビを見たりすることさえも非道く億劫になってしまう。
これはいかん、なんとかせねば、と思うのだけれど、どうにも何もかもがバカらしく見えてしまうのだ。これまで池田晶子や中島義道の本や言説に触れるたびこんな状態に何度も陥っている。やっぱりこの人たちは危険人物だなあ、と思った。
今回初めて、「ソクラテス」シリーズ以外の池田晶子の本を読んだのだが、この人、こういう書き方したら敵を作ってしょうがないだろうなぁ。「ソクラテス」シリーズと同じこといって、雰囲気も一緒なんだけど表に書いている人が出てきているのだからとんでもなく反発を覚えるわけだ。
中島義道と池田晶子の違いってなんだろう。きっと二人とも似たもの同士なんだ、ということはわかる。でも、本を読んでいるとどこか違うと思えてくる。
中島義道の本を読んでいてすぐに分るのは、「自己」ということ。何度も出てくる「自己愛」やらなんやらという言葉、彼自身は嫌でしょうがないもののようだ(あまり好きという人もいないだろうが)。その言葉が嫌いなくせに、昔の自分のことをさらしてみたりしている。これは不思議だ。
翻って、池田晶子は自己について書くにしてもとても淡白だ。ほんのちょっと顔を出せばいいほう、全く触れられないことがほとんどだ。しかし、只の勘に過ぎないが、池田晶子のような人が全く「自己」に興味が無いとは思えない。何といっても「哲学者」なのだから。達観しているならともかく、まだ流石にそこまで至ってないだろう、と思う。
となると、ワザとそう見せかけているのだろうか?なんとなくだけど、そのように思う。
ということは、池田晶子はシンプルそうに見えて、凄く計算高いのか?中島義道は、入り組んだ性格をしているように見えて、実はそこまで深くは無いのか?(これはなんだか違うように思う。彼はそこまで見越してスゴーク複雑なのではないか?買いかぶり過ぎかも)。
…なんだかわからなくなってきた。
ちゅうか、初めての日記で張り切りすぎ。