ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

トルコにおける最古の神殿遺跡ギョベックリ・テペの謎

 2012年1月12日、米国創造研究所のブライアン・トーマス氏が「最古の神殿は進化論者たちの宗教史を覆す」といった題で、小論文を寄稿していました(http://www.icr.org/article/6582/)。問題の神殿遺跡はトルコに存在します。発音が難しいのですが、一応上記の「ギョベックリ・テペ」で話を進めたいと思います。

 この遺跡はトルコの東部アナトリア小アジア)の南東部ジャンル・ウルファ(*アブラハムの生家があると言われています)のすぐ東隣にあります。ドイツとトルコの共同チームが発掘調査を続けており、まだずっと続きそうです。
 参加している考古学者たちによると、この遺跡の年代はおよそ11600年前(後期旧石器時代の終わりから新石器時代にかけてで、日本では縄文時代の初期に相当するでしょう)とされています(勿論聖書を信じる学者たちはその古さを否定します。放射性炭素年代測定法の仮定に誤りがあるとするので)。途中経過報告はナショナル・ジオグラフィック誌に載っています(http://ngm.nationalgeographic.com/2011/06/gobekli-tepe/mann-text)。
 この遺跡の特徴は高さが5メートルを越える石柱群が円形に配置されているという事で、すぐに英国の環状列石群(ストーンヘンジ)を思い出させます。後者は遺跡から工具や土器片が見つかっていて、だいたい新石器時代後期のものと特定されていますが、前者はこれまでの発掘では石器などの道具が皆目見られないとの事です。ただこの石柱を観察しますと、飾り模様、鳥、蛇、さそり、牛、きつね、諸々の爬虫類、それにトーマス氏の推測では恐竜と見られるものが描かれています。当然彫刻の為の道具があったに違いありません。全く無いという事を、同じ創造論のCMIサイト(http://creation.com/gobekli-tepe)の筆者は、建物の完成後、全て片付けた為ではないかと推測しています。左下図に人の手と腰布が刻まれています。

 この時代は専ら狩猟採集民が活躍していたと見られています。新石器時代も進むと農耕が盛んになります。
 そこでこの遺跡を見学に来たエリフ・ベイツマン氏によると、この「宗教的記念物」が狩猟採集民によって作られたという説は、従来とは全く異なり矛盾すると述べています。だいたいこの大きな石柱がどのようにして切り出されて来たのかという事さえ定かではないそうです。
 そしてこの発掘の指導的考古学者であるクラウス・シュミット氏は、「おそらく宗教的礼拝がまず最初に発達し、その発展が農業の必要の契機となったのだろう」と言っています。
 一般に宗教の起源となると、狩猟採集民が定着して農民となり、社会が発達して巨大化すると、必然的に生じる緊張を和らげる為に組織的な宗教が始まったと人類学者たちは考えています。勿論ウイキペディアなどを見ても、この宗教起源論については様々な説が出されており、脳の進化が宗教信仰に不可欠であるとか、言語の発達、道具の発達が宗教を生み出したとか、いろいろあります。
 ですからこのギョベックリ・テペ遺跡発掘で、狩猟採集民が築いたとされる宗教的記念碑は、農耕が始まってから宗教が生まれたという定説を覆す事になり、重要な意義を持ちます。発掘の完了が待たれます。
 けれども創造論者たちは聖書の創世記を事実として受け入れています。神は最初の人アダムに対して既にエデンの園での被造物の管理を委ね、種で実を結ぶ木々を与えられましたから、既にその為の道具を持ち、そこに定着していた筈でした。しかしアダムは堕落して楽園を追われました。
 その後住んだエデンの東の土地では、その子孫たちが牧畜を発展させ、青銅や鉄の道具を使用し、楽器まで製作しています。しかし罪深い者たちのやる事ですから、争いは日常化し、「人々は主の御名によって祈ることを始めた」(創世4:26)のです。礼拝が始まっています。
 けれども罪人たちの争いは次第に激化し、皆神の御前に堕落し、暴虐が満ちるようになりました。そこでノアの洪水が生じ、彼らは一掃されたので、礼拝の記念碑は残るはずがありません。洪水後アララテの地で早くもノアは祭壇を築いて、主に動物のいけにえを捧げています。
 そのアララテと、ギョベックリ・テペ遺跡を地図で確認しますと、そう遠くありません。右図に記しておきました。

 それゆえトーマス氏もCMIサイトの著者も、この遺跡がノアの洪水後に建てられたものという点で一致しています。特に後者の著者はアブラハムも滞在したハランの地からもそう遠くない事から、おそらくその地の人々はこの遺跡を知っていたのではないかと、大胆に推測しています。