機動戦士ガンダム00第18話「悪意の矛先」とルイス・ハレヴィ、その転換点(2)

前回はルイス、沙慈はその存在において、またトリニティはその行為において、「越境者」であるという話だったはずです(トリニティは戦争と「平和」の境界線を容易く破ります)。
今回は少しタイトルに反しますが、沙慈はこれからどうなるのか、ということを、過去のガンダムシリーズと比較しながら考えていきたいと思います。
皆さんご承知かと思われますが、ガンダム00は過去のガンダム(あるいはそれに対するアンチテーゼ)を意識しながら作られているようです。グラハムは過去のガンダム的な台詞を踏襲していますし(なかなか評判がよろしいようで、私もグラハムは大好きです)、17話のアバンタイトルF91のパロディに見えてしまいます。
F91の話が出てきたところで、F91と00を並べて考えてみたいと思います。F91はセシリーが攫われる→シーブックガンダムに乗る、という順番でストーリーが進んでいきます(両者に単純な因果関係を認めるつもりはありませんが、順番は揺るぎないでしょう。また、ここで短絡的に「ルイスが襲撃されたから沙慈はガンダムに乗る」と言いたいのではありません)。F91では、攫われたセシリーがコロニーを歩くシーンで雪が降り、主題歌である「ETERNAL WIND」が流れます。歌詞では「ガラス色の雪」を「悲しみのかけら」と形容しており、いささか悲劇的な予兆が見えます。この「ガラス色の雪」は、ガンダム00第2クールの主題歌である「Ash Like Snow」(雪のような灰・・・逆になりますが)に対応しているように思えます。ガンダム00の今期OPにおいてルイスが出てくるシーンには雪(Snow)が降っていますし、スローネ襲撃の場面ではルイスは灰(Ash)を被っていたはずです。「Ash」と「Snow」、「悲しみのかけら」を二重に被ってしまったルイスは、そこで悲劇的なヒロインになることを要請されてしまうわけです。F91との親近性はまた、「CB」という略称が、ソレスタルビーイング(Celestial Being)と、コスモ・バビロニア(Cosmo Babylonia)の両方に適応出来ることからも見て取れるはずです。
さて、F91以上に00との親近性を感じるガンダムが私にはあります。それは「原点回帰」をうたっておきながら、「こんなのガンダムじゃない」と否定された(一部のガンダム原理主義者に)、「機動戦士ガンダムSEED」シリーズです(私はSEEDに対して昔は嫌悪感がありましたが、今思うと「やめてよね」「あいや待った」「やったぁー!」などの名台詞メーカーとして高く評価出来ると思います・・・すみません、冗談です)。と言うのも、ロリコンファルさんが言うように、トリニティのガンダムスローネには特にサイコガンダム的なものを感じますが(同時にエクシアの青と白のカラーが、サイコガンダムに立ち向かう、ZやZZを彷彿とさせますね。サイコガンダムじみたもの、巨大な黒い「悪」に立ち向かう「正義」のガンダムは、大体が白く塗られています)、さらにここで私が言及したいのは、SEED DESTINYのシン(インパルス)VS3体のガンダム、という構図との類似です。特にガンダムスローネドライとネーナには、ガイアガンダム(→デストロイガンダムサイコガンダム)とステラ、という黒いガンダムと女性パイロット(サイコガンダムもそうですね)という類似が見えると思います。
特にシンと沙慈は、置かれている状況がまた非常に似通っています。彼らはそれぞれ、大切な人をガンダムによって傷つけられて(あるいは殺されて)います。シンの家族を殺したのはガンダムだったはずです(フリーダムだったのか連合の3体だったのか、それはともかく)。そして彼らをつなぐアイテムは「携帯電話」です。シンは妹の落とした携帯電話を拾いに行くことによって死を免れ、ザフト兵としてガンダムに乗り込みますね。沙慈とルイスも携帯電話が繋がらなくなったこと(この「携帯電話が繋がらない」というテーマは次回扱うかもしれません)から、悲劇が訪れます。
もう一つ重要な決定打が、沙慈が流した涙でしょう。ガンダムSEED DESTINYにおいて、最終話はシンがアスランに負けて泣いて終わるという、おおよそ主人公らしくない終わり方をしてしまいました。この泣きじゃくるシンの姿と、涙を流す沙慈の姿をダブらせることはおそらく可能でしょう。
となると、沙慈はMSに乗るのか・・・と言いたいところですが、そこはわかりません。沙慈はシンと違い、血の気がそれほど多くないキャラクターとして設定されているように思われるからです。彼が最後に涙を流す場面で、睨みを利かせる描写があれば、おそらく大多数の視聴者が「沙慈は復讐のためにMSに乗る」と思うはずですが。
とにかく、沙慈が越境者であり、また彼の苗字「クロスロード」が、戦争と「平和」(作品にとっての日常=戦争ではなく、彼らにとっての日常・・・だったもの)の道がクロスすることを意味しているのであれば、沙慈はそれを踏み越えてしまう可能性があります。同時にそれは、生死の境界線を越えることを可能にしてしまいます。また、沙慈が戦争に参加(介入)するのであれば、怒りの矛先は有無を言わさず「ガンダム」に向きます。ここで言う「ガンダム」は、作中内では三大勢力の誰もがそうであるように、刹那たちとトリニティは同一のガンダムとして見なされていますので、沙慈VS刹那という展開が当然予想されます。

さて、ここまで書いたところで、結論は先延ばしです。沙慈がこれからどう動くのか、それは作中ですぐにでもわかってしまうからです。

もう少しだけお付き合い下さい。次回はルイスの肢体の喪失について語るつもりです。