リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『クリーピー 偽りの隣人』を見た。

あったかホームが待っている。

黒沢清監督最新作。原作は日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した前川裕の『クリーピー』。主演は西島秀俊香川照之、竹内裕子、川口春奈東出昌大藤野涼子ら。


取り調べをしていた連続殺人犯に逃走を許し、自らも重傷を負った高倉(西島秀俊)は刑事を辞職し、妻の康子(竹内裕子)と愛犬のマックスと共に新居へ引っ越した。犯罪心理学を教える大学の教授として新しい生活を送る高倉であったが、ある日6年前に起こった一家失踪事件に興味を持ち始める。長女の早紀(川口春奈)だけが取り残されたその事件の真相を知るため、高倉はかつての同僚である野上(東出昌大)と共に調査を開始する。一方、高倉が越してきた家の隣には西野(香川照之)という、奇妙な一家が住んでいた。不気味で不規則な言動を繰り返す西野に対し高倉夫妻は違和感を覚えるが・・・

※ネタバレ



黒沢清監督の前作『岸辺の旅』の感想を書いた際に、夫婦の旅行と、忘却、忘却が許されないこと、そして忘却ということについて暴力的に露見させる装置としての廃墟について書いた。『クリーピー』にも、当然のごとく廃墟は登場する。そのものズバリ廃墟として登場するのはかつて一家3人が失踪しそのまま廃屋となった家である。この失踪のうち、一人だけ生存者がいた。それが一人娘の早紀という女性であるが、彼女はその事件について、刑事や週刊誌にしつこく尋問され、もう忘れてしまいたいと思っているにも関わらず、何故かその家を1人眺めていた。そして早紀は高倉の要望により、事件前の家族について思い出していくこととなる。高倉の尋問により少しずつ事件のことを思い出すも結局失踪したと思われていた一家が死体で見つかり、しかしそれでもしつこく尋問を続ける高倉に迫られた早紀は、「何も思い出さなければよかった」という。廃墟が忘却を許さなかった一つの姿である。
しかし『クリーピー』の主な舞台は、今も人が住んでいる家である。ただしより正確にいうと舞台はこれから廃墟になるであろう家であり、その家が主題である、と言い換えることが出来る。もちろん家とは高倉の家であり、奇妙な隣人・西野の家である。ここには『カリスマ』で暴力的存在感を放っていた植物が生い茂っており、今まさに廃墟になろうとしている家で生活する、家族がある。



今まさに廃墟になろうとしている、とはどういうことか。西野の家については言うまでもなく、彼の素性からすれば、この家は間もなく廃墟になるであろうことが想像できる。しかし高倉の家がなぜ廃墟になるというのか。それは物語の展開から結論付けられるというよりは、ここに住んでいる夫婦がすでに廃墟を生み出す予感を湛えているからだ。妻・康子は西野に誘惑され恐るべき真実を目の当たりにする。しかしなぜ康子が誘惑されたかといえば、もともと彼女が夫に疲れを抱いていたからだ。言葉によって示されるものだけではなく、彼らの生活の端々にある振る舞い、例えば近所へのあいさつにいく際に呼び鈴を鳴らさないこと、飲み物を注がないこと、植物の管理から部屋の掃除まで夫は何もしないのであろうこと、セックスレスだと思われることなどから、康子の疲れは見て取れるであろう。西野は確かに康子に近づいたが、それは康子自身が引き寄せていた結果でもある。
しかしこの疲れの下には、実は既に忘却の試みがあった。それは高倉が刑事という職を辞め、心機一転のためこの家に越してきたという事である。このことで妻は何か変わるかと思っていたのであり、つまり黒沢清作品において夫婦間で旅行が提案されていたのと同じような心境を秘めていた。しかし、夫はそんなことを思ってはいなかった。それどころか彼は未だに刑事時代と同じことを繰り返している。妻はそのことを忘れ、かつての自分と夫を忘れ、新しい生活を始めたいと願うにもかかわらず、彼はそれを許さないかのように、同じことを繰り返すのだ。早紀にしたのと、同じように。
ところで高倉について、彼自身の心は実際のところ空っぽであるということが徐々に判明していく。空っぽでありながら、しかし他人に対し暴力的に過去を引きずり出させるという点において、彼自身がすでに廃墟的であるともいえる。自身は空虚でありながら忘却することを簡単には許さず、むしろ暴力的に過去を露呈させる装置として他人に働きかけるというのは、まさに廃墟そのものだ。もちろんそんな当て嵌めをせずとも、研究対象だった「サイコパス」とは「心がない」と罵られた自らのことでもあり、そして当然西野という存在もそれに当てはまるため、高倉もまた、康子同様自ら西野という存在に誘惑され、その誘惑を止めることもできぬまま、自ら引き寄せたのだと単純に語ることもできる。ちなみに先に康子は夫との生活に疲れていると書いたが、それは夫の鈍感さからくるのではなく、むしろ夫のサイコパス的素質に気付いており、人生の共有を諦めてしまったことに疲れているのだと思う。だからこそ、二人が同じ時点まで落ちてきたときに彼女ははじめて情感的振る舞いを見せる。



さてでは西野という男はどうなのか。しかしどうなのかと言っても彼の思考は劇中の台詞にもあるように分類不可能であって、香川照之という肉体、その顔つきから発声、歩き方にのみ、この存在があるとしか言いようがないのである。しかしそんな男も一つだけ明確なルールを持っており、それが家を取り巻く空間に対してのルールである。コの字型に家が連なる空間、その空間にのみ、この男の考えを見ることが出来る。コの字型というのを見せるためにドローン撮影までしてその空間を見せることを選択した『クリーピー』はだから、まさしく家の映画である。家の映画であり、そこに住む家族の映画であり、そして家を取り巻く空間の映画なのだ。空間を見つめる西野の異様な顔は一体どういうことだ。しかしこの顔こそ、西野なのだ。



空間、といえば当然黒沢清の演出は本作でも冴えわたっており、例えば境界線の演出は鉄格子から家の柵や、予感を誘い込む風にあわせぎこちなく揺れるビニールカーテン、対照的にふわりと風を誘い込む布のカーテン。そしてもちろん鉄の扉など、いたるところで境界は登場するし、お馴染みの、室内に存在する謎の柱も健在である。基本的に室内では縦の柱や横の柵を利用した縦の構図に目を引くものがあり、部屋のみならず各舞台にある廊下のそれも不気味な伸びを見せている。そして縦と横の組み合わせによる西野の隠し部屋。この辺は美術の安宅紀史の仕事が素晴らしい。
そこへさらに穴、隠し部屋などを利用し上下の差を画面に生み出すことで、画面は非常に豊かな世界を見せる。隠し部屋の死体の処理を任された康子と澪から、階段を上がって後方にある部屋で食事を取り始めたと思われる西野の頭が見える構図などはまさにそれだ。階段といえば、本作には階段の途中で止まる人物が2名登場する。それは高倉が刑事を辞めるきっかけとなった連続殺人犯と、康子である。この2人に共通する事柄として、2人ともある瞬間忽然とその場から姿を消すということがある。特に康子がナッツ剥きの作業の途中、カットが変わると急に姿を消しているシーンは不気味だ。またかつて一家失踪事件があった家を取り囲む空間も、上後方には高架線があり下には鉄道が斜めに走っている。そして高倉と西野の家はゆるい傾斜の道中にある。『クリーピー』は縦横斜めの線が入り乱れた空間において展開する。
境界からの風を誘い込むカーテンの揺れは見慣れた装置だが、今回高倉が康子に刑事のような仕事を続けていると告白した時、その時カメラは正面から二人の顔を切り返し、その後ろではカーテンがひらりと揺れている。これは『岸辺の旅』で深津絵里蒼井優が会話したシーンを思い出させる。二人の間に断絶が起こっており、その隙間に風が、すうと入り込んできているのだ。他にも風は、高倉の元部下である野上が西野に捕まり、隣家が焼ける直線に風車が回ることや、すっかりおかしくなってしまった康子が扇風機の前にたたずむなど、至るところで吹いている。それは西野が死してなお、である。
さて、次に特筆すべきこととして照明がある。見所は早紀との1回目の面談だ。このシーンでは早紀が事件前の記憶をおぼろげながら語るにつれて、長回しの中、昼間とは思えないほど、いや時間帯に依らず異常なほど光が沈んでゆく。事件に囚われていることを示しつつ大胆な照明の実験をおこなっているのだが、そこへ更に早紀と高倉を縦横無尽に動かすという動線の設計、カメラの動き、そして彼らの背後、窓ガラス越しに見える大学生の異様な集合と離散の様相も相まって、本作でも屈指の名シーンとなっている。黒沢清と撮影・芦沢明子、照明・永田英則の力である。ちなみにこの大学生たちは『リアル〜完全なる首長竜の日〜』の警察署で見られたような動きにも近いが、しかし何故か1人がちらりとカメラ方向を見たりするし、思考のない機械的動作というにはダチョウ倶楽部の真似をしていたりもするものだから全く意図がわからない。
2回目の面談においても学生の集合と動線は炸裂しているが、他に照明で気になったことといえば高倉の家に西野家が招待され食事を取る場面でのことである。柱を起点に西野が高倉に自らの仕事について話すとき、高倉の背後にある壁には不思議な、緑っぽい光が当たっていたように思うのだが、あの怪談映画の照明のような光は一体なんだ?そしてそのもやりとした光は終盤、相も変わらずスクリーンプロセスで撮影された車の景色の中、高倉のみを捉えたショットの窓奥にも、同じようにもやりとした光が見えていることと重なる。
最後に動線の設計であるが、これは既に書いたように、縦横斜めの構図の中、人物を横に、斜めに、縦に動かし流石の設計ではあると思う。隠し部屋の四角さを使って人物を動かすのも楽しいが、中でも最高だったのは早紀が西野の顔を知っているかどうか詰め寄る場面である。何故ならここは水平の移動に加え、心配して出てきた早紀のおばあちゃんを部屋へと無理矢理押し戻すという暴力的なギャグが炸裂しているからで、ここで僕は思わず笑ってしまった。『勝手にしやがれ』シリーズのような無茶苦茶な行動である。早紀の出ているシーンはこの照明の実験や動線の設計に横移動の快感が詰まっていてどれも素晴らしいものになっている。



しかし、動線についてここでひとつ苦言を呈したい。それは最後に駐車場で西野が殺される場面についてなのだが、あそこはカットを割るべきではなかった。全て長回しの中で、犬、西野、高倉、康子、澪の動きを捉えるべきだった。というのもあのシーンには横に斜めに縦にと、いくらでも動きの興奮を作り出す要素が揃っているからだ。しかしそれは分節される。最後に澪が犬と共に走り去るところは良かったけれども、例えば『岸辺の旅』で深津絵里が斜めに道路を横切るような快感まではいかなかった。所々で個性はさく裂しているが、しかし作品全体としてはあくまで限定的な動きにとどめている。このラストを見てその印象はかなり強まってしまった。それはもしかしたら本作が、黒沢清にしては良心的な(内容ではなく、観客に対して)作品だからということも関係しているのかもしれない。
とはいえそれでも混乱をもたらすとしたら、本作は途中でジャンルの変換が行われるからだろうか。つまり途中までは事件を追うサスペンスであったものの、ある地点、その地点とはまさしく野上があの扉を開いた瞬間なのだが、その地点において『クリーピー』はホラー・ダークファンタジーへと転換する。その瞬間、理論や理屈は必要なくなる。登場人物が危険だとわかっているのにわざわざ一人でその扉の先へ向かうのはジャンルの要請だといえるし、そもそもおかしな誘惑に乗せられたり不自然なトンネルが登場するのもホラー的な誘惑なのである。さらにより具体的に言えば、明らかに『悪魔のいけにえ』なのである。扉にしてもそうだし、最後に叫び声のみが空間にこだまし続けるのだって『悪魔のいけにえ』なのだ。黒沢清は最近夫婦というものを通して女性について描いており、その一つとして暗黒譚ができあがったというのは面白いが、しかし僕としてはまだまだ、黒沢清の世界とはまだまだこんなものではないはず、という思いも確かに残ったのであった。

クリーピー (光文社文庫)

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